きみのポケットに入ってた恋

 数日後の早朝。門から校舎へ続く道を希美は歩いていた。始業には随分早く、人影はまばらだ。希美の後ろから声をかける者があった。

「香坂」

 振り向いた希美の目に片手を上げた礼司の姿が映る。

「速水先輩。おはようございます」
「おはよ」

 礼司は希美に並んで歩き始めた。

「随分はやいな」
「それは先輩もです」
「俺は朝風紀当番。香坂は違うよな? なんでこんな早いの?」

 礼司が首を傾げる。希美はニコニコと答えた。

「単元テストがあって、家より集中できるかなって」
「はー……真面目だな」
「それほどでもないです」

 希美の目が照れくさそうに細められる。それを見た礼司も同じように微笑んだ。

「じゃあまあ、応援してる」
「わ、ありがとうございます!」
「うん。良い点取れるといいな」
「はい!」

 はしゃいだ笑顔を見せる希美と、つられて笑う礼司。朝の冴えた、しかし優しい空気が二人を包んでいた。



 数刻後の1年A組教室には緊張感が漂っていた。教師の手から単元テストが配られていく。希美は裏になっているテスト用紙を見つめた。

『良い点取れるといいな、かあ』

 希美が思わず頬をゆるめたその時、教師が号令をかけた。

「では、はじめ」

 希美は慌ててテスト用紙を表にし、問題と戦い始める。



 授業時間いっぱいテストを行った後の廊下に、希美と由佳はいた。窓にもたれるように立っている。ぐったりした由佳が呟いた。

「あー、廊下の方がちょっと静かかも」
「そうかもね」

 希美の顔もやや疲れている。

「もうダメだったー! テストー!」
「難しかったね」

 同意を込めて希美は微笑んだ。

「へろへろだよ……希美……」

 由佳は腕を回して希美に縋りつく。

「よしよし」

 されるがまま受け入れ、希美は由佳の頭をなでた。

「あーもう今日は帰りたい。この癒された気持ちのまま」
「このあと体育もあるし授業終わっても委員会あるよ」
「あー!」

 由佳の悲鳴が響く。希美がけたけた笑う声が重なった。

「なんでそういうこと言うかなあ!」
「ほんとのことだもん」

 希美はまだ笑っている。由佳は子供のようにむくれた。



 放課後の風紀委員室。
 橋村が黒板の前に立っている。風紀委員たちは静かに橋村の話を聞いていた。

「えー、まずは発表会お疲れ様でした。特段大きな事故もなく無事終了ということで。報告書出してないやつは早急に出すこと。期限は守る! 基本!」

 言いながら橋村は手元でプリントをめくる。

「香坂」
「はい」

 唐突に名前を呼ばれたため、希美の返事の声は少しだけ揺れていた。橋村と希美の目が合う。

「報告書よく書けてたから。見本としてコピー配りたいんだが構わないか? 他の報告書にも参考になるし。来年は発表会報告書と一緒に書き方見本として配るよう残したい」
「あ、はい……大丈夫です」

 希美がおずおずと首を縦に振る。橋村はにっこりと笑った。

「そう言うと思ってもうコピーしてある」

 橋村はひらひらと紙束を見せると、一番前の席から配り始めた。なんとなく視線が気になり、希美は身をかがめる。

『許可取るの忘れてたんだろうな……』

 橋村の適当さがいつものことなのを希美はもう知っていた。礼司が人知れず舌打ちする。気付いた者はいなかった。



 その日の委員会会議を終えた風紀委員たちは続々と退室していく。希美も机でプリントをまとめていた。礼司は希美の机の側にゆっくりと近づき、声をかけた。

「お疲れ」
「先輩。お疲れ様です」

 プリントから礼司に目を移し、希美は微笑む。

「うん。すごいな、報告書。見本なんて」
「そんな……ありがとうございます」

 希美の頬は心地よいくすぐったさに赤みがさしていた。礼司はおどけた口調で続ける。

「あのだるい発表会からよくちゃんとした物が作れるよ」
「だるいって……まあ強く否定はしないですけど」

 希美の答えが予想外だったのか、礼司は目をパチパチさせた。

「意外だな。諌められるかと思った」
「まあ、自分に関係ない催しの受付ですから……」

 希美は苦笑する。

「言うねえ。実際そうなんだけどな」
「はい」

 希美は机のプリントに視線を落とした。礼司も希美の視線を追った気配がある。

「一握りのハネ保持者だけの話、ってことよな」
「そうですね……私のハネは、今後も関係ないだろうからな……」
「そうなの?」

 礼司は首を傾げた。

「え、ええ。まあ」

 希美は答えをごまかすように笑う。小さな沈黙の後、礼司が口を開いた。

「あのさあ、もし嫌だったら答えなくていいんだけど、香坂のハネってなんなの? 前も似たようなこと言ってたよな?」
「あ、あー。あんまり派手なハネじゃなくて」

 希美は礼司の視線から逃げるようにして目をそらした。礼司の声にからかいの色はない。純粋な興味で聞いているようだった。

「へえ。悪い、やっぱり嫌だったか?」
「あ、全然。それは全然大丈夫なんですけど。知らない人には説明してもいまいち伝わらないこと多くて……」
「そうなんだ」

 礼司の返答は軽い。希美が引き留めなければ、話題は流れそうな雰囲気があった。希美はぎゅっと自分の胸元を両手で握る。

『どうしてかな、知ってほしいなんて』

 希美がパッと顔を上げた。希美と礼司の視線が交じり合う。

「あのだから、ちょっと見せてもいいですか。先輩の手、借りちゃうことになるんですけど……」

 礼司は一瞬虚をつかれたようだったが、すぐにニカッと笑った。

「まじ? 見てみたい。ありがとう」

 希美の顔に安心が広がる。礼司はポケットに入れていない方の手を見た。

「手……発動条件か。はい」

 そのまま礼司が片手を差し出す。希美は緊張からごくりと唾を飲み込んだ。

「じゃあ、失礼します!」

 礼司の手を取り、自分のポケットの前に持っていく。礼司はおとなしくされるがままになっていた。希美が思い出したように告げる。

「あ、目を閉じてください」
「ん。了解」

 希美はそっと、礼司の手を自分のポケットに入れた。



 そこは希美が望む限り、希美のポケットの中にいつもある。
 一足先に目を開けた希美は、幻想世界の草原に立っていた。手を繋いだ状態になっている礼司へと声をかける。

「先輩、目を開けて」

 礼司はそっと目を開けた。礼司の瞳は驚きに見開かれる。

「これは……」
「ポケットの中に幻想世界……異空間をつくれるっていうものなんです。私のハネ」
「へえ。すごいな」

 礼司はキョロキョロと辺りを見回した。希美は照れ笑いを浮かべて視線を下げる。

「全然すごくは、ないです。気に入ってはいますけどね」
「良いことだな」

 顔を上げた希美に、礼司が笑いかける。夢の中のような世界で、希美と礼司は笑いあった。

「ほんとに不思議だ。これ、現実はどうなって……?」
「動いてないんです。眠ってるのに近いみたい」

 希美が答える。礼司は更に疑問を重ねた。

「幻覚とは、違うんだよな?」
「そうみたいです。自分でもよく分かんないんですけど……ちゃんとここは「存在してる」って聞きました」
「へえ……すごいな」

 希美の口からは気の抜けたような照れ笑いが漏れ出た。礼司は微笑みつつも首を傾げる。

「これ、戻るには?」
「もう一度目を閉じて、ゆっくり開けてください」

 礼司は言われた通りに目を閉じた。



 静かに目を開けた礼司の瞳に、風紀委員室の机が映ったようだった。次いで恐縮した面持ちの希美と目が合う。希美は柔らかな動作で礼司の手を離した。

「こ、こんな感じで……すみません急に!」
「いやありがとう。なんだ、良いハネ持ってるんじゃん」
「へへ……」

 上手く言葉にならず、希美はただふんわりと笑った。礼司はまじまじと自分の手を見る。

「ポケットの中、か」
「はい」

 礼司の目が希美の目をとらえた。

「ポケットってなんか、勝手に親近感感じるよ」

 言いながら礼司は片手を自分のポケットに入れ、優しく目を細める。両の手がポケットに入れられた形になった。希美は言葉が飲み込めるまでポカンとした後、意味が理解できた瞬間花が咲くように笑った。

『先輩は知らないけど、私は前からそう思ってたんですよ。なんて』

 そのことがなんとなくおかしくて、希美はまた笑う。礼司のポケットが自分のポケットとどこかで繋がったような気がした。