きみのポケットに入ってた恋

 羽瑞学園には生徒が昼食をとれる大食堂が設置されている。ランチタイムはとてもにぎやかな雰囲気が漂い、空席はほとんどなくなるのが常だった。隅の二人掛けの席。懸命にランチを食べている由佳がいた。向かいに座った希美は、定食を食べながらスマホを見ている。スマホ画面にはとあるネット記事が表示されていた。内容は、「ポケットに手を入れている人の心理三選。ポケットに手を入れている人は何を考えている?」というものである。希美は文字を目で追っていく。

『不安な気持ちが落ち着く、恥ずかしい、警戒心がある、など……』

 希美はぼんやりとスマホから目を上げた。

『警戒心……』

 希美の脳裏に礼司の冷たい表情が浮かぶ。ただの想像だったが、それは確かに希美の心を刺した。希美は微かに目を伏せる。

「希美?」
「え?」

 由佳は希美の顔をのぞき込んだ。

「どした? なんかあった?」

 心配そうな表情の由佳が希美の目に映る。希美が人と話しているときに空想で上の空になるのはよくあることだったが、思いがけず親友に心痛をあたえてしまったことを希美は反省した。パッと明るい表情をつくる。

「ううん! 午後もめんどうだなーと思ってただけ!」
「わかる! もう帰りたいよね!」

 由佳の調子はいつもの明るいものだった。希美もほっと笑顔になる。



 1年A組の教室は昼食を終えた者たちの活気で満ちていた。
 希美は午後の授業に備えて自分の机を整理していた。一枚のプリントが希美の手に触れる。

「あ」

 希美はそれを手に取り、顔の前へと持ってくる。風紀チェック表に付随する書類だった。

「渡し忘れちゃった……」

 ぽつりと呟いた希美の言葉は、誰に届くこともなく昼休みの喧騒に消えた。



 昼休みも終わりかけの風紀委員室。希美は扉からそっと中を覗き込んだ。男性が二人、ごく軽く言い争っているのが見える。一人は風紀委員担当教諭である橋村慎介先生、もう一人は礼司だった。
 礼司のちくちくした物言いをのらりくらりとかわして切り上げ、橋村が扉へと歩いてきた。
 橋村に逃げられる形になった礼司は、難しい顔をしつつポケットに片手を入れる。

『あ……』

 礼司が小さく息をつく。希美はその様子を静かに眺めていた。

『落ち着くため……なのかも』

 礼司の癖について思考を巡らせ、希美は胸元を片手でぎゅっと握る。丁度その時、礼司が扉の方を向いた。希美をみとめ、礼司は首を傾げる。

「香坂?」

 希美はハッと我に返った。焦りつつプリントを差し出す。

「あ、あの、渡し忘れたものがあって……」
「ああ、悪い。ありがとう」
「いえ……」

 礼司の目がプリントに移ったのを確認して、希美も礼司の顔から目線を外した。礼司のズボンに視線を下げる。片手は相変わらずポケットの中だった。なんだかおかしくなり、希美は人知れず目を細めた。



 午後の教室にはいつだって生徒のまどろみが漂っている。希美もまたぼんやりと授業を受けていた。希美の脳内にはポケットに入れられた礼司の片手の様子が残っていた。おもむろに希美は、そっと自分のポケットに手を入れた。同時に目を伏せる。
 静かに目を開けた希美の眼前には、ハネの幻想世界が広がっていた。

『落ち着くため……』

 希美は草原に座る礼司の姿を幻視する。ハネで作られているわけではないただの想像の礼司。

『わかるような気がする』

 礼司の幻覚は、ひっそりとその姿を消した。

『自分だけの、安心できる場所』

 希美の頬は親近感に緩む。小さな逃避から授業に戻るべく、希美は再び目を伏せた。



 数日後の風紀委員室。
 控えめに扉を開けて希美が入室した。中にはまだ礼司一人がいるのみである。

「あ、こんにちは」
「こんにちは。この前は悪かったな」
「いえ……! 全然大丈夫です」

 希美はぺこぺこと頭を下げる。礼司の表情は心なしか柔らかくなっていた。希美はふと礼司のポケットを見る。礼司はいつものようにポケットに片手を入れていた。

『あ』

 希美は自分のスカートのポケットを上から優しく触れる。

「あの、それ」

 希美は目線だけで礼司のポケットを指した。

「なに?」

 礼司に首をひねられた瞬間、希美は自分の言おうとしていることの唐突さに気が付いた。

「あ、すみません! あの、何でもない! 何でもないです!」

 ぶんぶんと首を横に振る。

「? そうか?」
「はい! へへ」

 希美はごまかすようにへらへらと笑う。一瞬怪訝な顔をしつつ、礼司はすぐにいつもの気だるげな表情に戻った。

「ちょっと早かったな。橋村もすぐ来るだろうけど」
「そうですね」

 担当教諭、そして他の風紀委員たちを待つべく、希美と礼司はぼんやりと風紀委員室の扉を見つめた。