きみのポケットに入ってた恋

 教室棟とは別棟の一画、特別教室が集まっている中に生物室はある。授業を終えた希美と由佳はそこで一緒に授業の片付けをしていた。希美の手が止まる。クラスメイトの男子生徒が希美に話しかけたからだ。

「香坂、先輩が来てる」

 心当たりがなく、希美は首を傾げる。

「委員会の……何かだって。速水先輩って人」

 希美は少しだけ目を見開いた。そのまま理科室の扉の方を見る。きまり悪そうに立っている礼司が目に留まった。希美は男子生徒に目を戻し、軽く頭を下げる。

「あ、ありがとう。すぐ行く」
「うん。じゃ」

 去っていく男子生徒に重ねるように、由佳が口を開いた。

「なんだろね。ほら、荷物持っとく」
「あ、ありがとう。ごめんね」

 由佳は希美の荷物を取り上げるように受け取る。

「いーよそんな。はやく行きな。教室まで歩いてるから」
「うん。わかったありがと」

 由佳に見送られ、希美は礼司の方にパタパタと歩いていった。



 片手をポケットの中に入れ、礼司はスマホを見ていた。駆け寄った希美が声をかける。

「速水先輩!」

 呼びかけを聞いた礼司が顔を上げた。

「ああ。香坂」
「はい」

 希美はこくんと頷く。礼司は少し困ったような表情をしていた。

「急にごめん。風紀チェック担当表欲しくて。橋村が昼休みには出して欲しいって急に言いやがったから。メッセージ見たか?」
「あ、すみません。見てなかった……」

 希美はスカートのポケット越しにスマホを見る。

「そうかなと思った」
「教室にあります。えっと、取りに……」

 人差し指を口元に持っていき、希美は思考を巡らせた。かぶせるように礼司が発言する。

「一緒に行っていい?」
「あ、はい……こっちです」

 希美は面食らいつつ、なんとか言葉を絞り出した。おずおずと廊下を指さす。礼司は無言で同意した。



 希美と礼司は1年A組へ続く廊下を並んで歩いていく。だんまりの空気を破ったのは礼司だった。

「ほんとにごめん。友達と一緒だったろ」
「いえ。先輩のせいじゃないので……」

 突然現れた小さな非日常のせいで、希美はそわそわと落ち着かない。それでも気になっていたことを聞いてみることにした。

「あの、なんで生物室だって、その……」
「ああ、一年生がそっち行くのさっき見たから。いなかったらそのまま教室行けばいいし」
「ああ、なるほど」

 希美はどこか落胆していた。そのことに気付いてはいなかったけれど。自分のことを知っていてくれたわけではないことに無意識のうちに失意を感じていた。そっと礼司の横顔を見上げる。

『先輩は、違う学年の人と一緒でも緊張しないのかな……』

 希美は視線を下げ、そっと礼司のズボンを見た。片手は日頃のようにポケットの中に入れられている。

『いつも通り、かも……やっぱり緊張なんかしないのかな』

 もう一度希美は目線を上にあげた。反対に下げられた礼司の目線が希美をとらえる。

「なに?」

 礼司は首をひねって問いかける。威圧感はなく、純粋な疑問を抱いているようだった。

「あ、あ、すみません! なんでもない、です」

 希美は明確な答えを用意しておらず、小さく身をかがめた。総合して挙動不審な希美だったが、教室へは順調に近づいていた。



 1年A組教室。
 希美はプリントを手に扉に駆け寄った。礼司もせかさずにそれを待っている。

「お願いします!」
「はい」

 礼司は優しい手つきでプリントを受け取り、軽く目を通した。

「うん、香坂希美(のぞみ)、書いてある」
「あ……」

 思わず希美の口から声がもれる。その言葉にならない声を拾い、礼司は首を傾げた。

「ん?」
「あの……」
「え、なに?」

 言い淀む希美に、礼司は再度問いかける。ためらいつつ、希美はゆっくりと告げた。

「のぞみじゃなくて、きみ、です」

 礼司は一瞬ポカンとしたが、すぐにプリントと希美を交互に見つめる。

「あ、そうなんだ。ごめん」
「いえ、よく間違えられるので……」
「いや、悪い」

 礼司は気まずそうに微笑み、言葉を重ねた。

「希美《きみ》、な」

 希美の鼓膜が揺れる。少しだけ目を見開いたまま、希美の時間は停止してしまった。

「あれ、そうだよな?」
「あ、そうです! あってますあってます!」

 不安そうに確認され、希美はやっと再起動する。

「よかった。じゃあもらってく。ほんと悪かったな」
「いえ、こちらこそ。提出お願いします。」

 希美が頭を下げた。礼司は軽く手を振って去っていく。頭を上げ、希美はぼんやりと礼司の背を見送った。

『希美、な』

 先ほどの言葉が、ゆっくりと希美の脳内で反芻される。

『なんだろう、ふわふわする」

 希美の視線の先で、腕時計を見た礼司が駆け足気味になった。授業開始が迫ってきていたのだ。

『あ』

 礼司の両手はポケットから外に出されていた。

『出してることもあるんだ』

 走っているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。礼司の姿が見えなくなっても、希美はしばらくその場に立ったままでいた。