きみのポケットに入ってた恋

 長かった日も落ちかけ、夕闇は下校する生徒の影を濃くし始めている。校舎から門へと続く道を希美は歩いていた。傍目には分からないが、希美の思考はふわふわと浮遊している。校舎から合流した由佳が希美の肩を叩いた。希美は抵抗なく力を受け、反対側に倒れそうになる。由佳が慌てて声をかけた。

「わあ! ごめん! 大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……」

 希美はゆっくりと体勢を整える。

「ほんと?」
「たぶん……」

 由佳が心配そうに希美を覗き込む。希美は笑顔を返そうとした。しかし、へらへらと締まりのないものにしかならなかった。



 翌日、1年A組教室。一夜明けても希美の頭の中はまだまだ現実感を取り戻せない。それこそ夢の中にいるような気持ちで、心ここにあらずな状態が続いていた。黒板の前に立った教師が何事か話している。

『大切……大切……?』

 机で授業を聞いていても、希美の脳内はその二文字が支配した。長い時間考えすぎて混乱し始めていた。希美は思案から逃げるようにふと窓を見る。グラウンドでは体育の授業が行われているようだった。

『あ……』

 たった今思い浮かべていた人間が、希美の瞳に映った。礼司は隣に立った三崎と笑いあっている。

『先輩』

 希美の顔がほころぶ。希美の心中には暖かいものが満ちていく。礼司が楽しそうならなんでもいいか、と希美は思考の堂々巡りに一人終止符を打った。



 午前の授業をなんとか無事に終えた昼休み、希美は職員室近くの廊下を通っていた。移動教室から戻るためである。由佳と並び、時折笑いあいながら歩いていく。

「あ」

 希美の口から小さく声が漏れた。目線の先……職員室の前では橋村と礼司が何やら話しこんでいた。

『なに話してるんだろう……』

 思いを馳せたその時、由佳によって希美の肩が叩かれた。

「仕方ないな……先に戻っててあげよう」
「えっ別にいい! いいよ!」

 希美の返答を無視し、由佳はウインクする。

「じゃ! 感謝してもいいよ!」
「しない!」

 問答無用で由佳が去っていく。希美は追いかけようか一瞬迷ったが、追い返されるのは目に見えていたのでその場にとどまることにした。もう一度礼司と橋村の様子を観察する。遠目だったが、礼司は眉間にしわを寄せて険しい顔をしているのが分かった。

『本当に嫌いなんだな……』

 希美の顔には無意識に苦笑いが浮かぶ。

「あ」

 希美はまた小さく声を漏らす。礼司がポケットに片手をつっこむのが目に入った。希美は思わずゆるむ口元を手で隠した。

『変わってない』

 そうこうしているうちに橋村は職員室に去っていく。やり取りは聞こえなかったが、礼司が橋村に上手くかわされたのは想像がついた。ため息をついた後、礼司が顔を上げた。そこで希美が見ていることに気が付いたようだった。希美の方へ軽く片手を掲げる。

『あ、あ。手、振ってくれた。嬉しい。じゃなくて』

 自分以外へしている可能性を考え、希美はキョロキョロと辺りを見回す。しかし周りに人影はない。希美への挨拶で間違いなさそうだった。希美は意を決して礼司に近づいていく。

「先輩」
「香坂、どうした」

 話しかけられるとは思っていなかったのか、礼司は少しキョトンとしていた。希美も希美で特に話題は用意していなかったため、言葉を詰まらせる。ただ声が聞きたくて近寄ってしまいました、とは言えなかった。

「あ、あ。用は、無いんですけど……あの」
「そっか。悪い、気つかわせた?」

 礼司が小首を傾げる。希美はぶんぶん両手を横に振った。

「いえ! こちらこそすみません」
「ううん」

 相槌を打つと、礼司は微笑んだ。

「俺は目合う前から香坂のこと考えてたから」

 希美の口はポカンと半開きになる。

「え」

 礼司は自分のポケットの中で手をパタパタと動かした。

「これ、一緒だもんな」

 子供のように無邪気な笑顔で礼司が言う。希美の胸はときめきでいっぱいになった。

「……はい!」

 あふれる気持ちのままに希美は優しく笑う。言葉は上手く出てこなかったが、それで良いような気がした。礼司との繋がりがあって、自分には礼司を大好きな気持ちがある。何か無理に話すことも行動することも必要ない。午後の和やかな空気の中、希美の心は羽のように軽やかだった。