きみのポケットに入ってた恋

 夜も深くなり始める頃。希美は自室のベッドに寝転んで天井を見つめていた。希美の思考は何度も同じところを巡っている。

『大変なことを言ってしまったかもしれない……』

 呆然と瞬きを繰り返した。

『いや、大丈夫かな……よく分からない……いやでも……』

 答えの出ない問いを前に目を伏せ、うんうん唸る。だがしばらくして希美はパッと目を開けた。

『でも……嬉しかった』

 希美の顔に自然と微笑みが浮かぶ。噛みしめるようにごろごろと寝がえりをうった。またゆっくりと目を閉じ、部屋着のポケットに片手を入れる。



 目を開けた希美の前に、幻想の異空間が広がった。その日は一面の花畑が地平線まで続いていた。華やかな香りや鮮やかな色が希美の心を満たしていく。

『いつも私を落ち着かせてくれる場所』

 希美の頭の中で「救われてるよ、いつも」という礼司の声がリフレインした。ぎゅっと、大切なものを抱えるように希美は両手を重ねる。

『大好き。ここも、先輩も』

 空も草木も空気も、希美を優しく見守っていた。



 翌日は快晴だった。1年A組教室に差し込む日差しも鮮やかなコントラストを持っている。希美は相変わらず机で由佳と駄弁っていた。由佳がふと首を傾げる。

「最近なんかあった?」
「え?」
「楽しそう」

 由佳は嬉しそうに微笑んだ。

「そうかな」

 濁しつつ、希美もにっこりと笑い返す。友人が自分に元気があることを喜んでくれるのは、心から幸せなことだと感じた。

「なに? 教えて」

 顔を寄せ、由佳が希美に抱き着いた。

「なんでもないよ」

 希美は答えをごまかす。今は自分だけのものにしておきたかった。由佳は希美の耳元に口を寄せる。

「今日委員会あるから?」
「ふふ」

 くふくふ笑う希美に、由佳は尚もじゃれついていた。



 心待ちにしていても面倒くさがっていても、放課後は生徒に平等にやってくる。希美は風紀委員室で橋村の話を聞いていた。ちらりと窓際の礼司に目をやる。

『いざ本人を前にすると、やっぱりちょっと緊張する……この前のこと、気にしてないかな……』

 委員会会議とは全く別のことを考えながら、希美は黒板に視線を戻した。



 数刻後。定刻通りに委員会は終了した。橋村は早々に風紀委員室を退室する。机に置かれたプリントを眺めつつ、希美は委員たちが去っていくのを見送っていた。

『なんて話しかけたら……はやくしないと帰っちゃうかな……』

 逡巡する希美の目の端に、礼司の上靴が映りこむ。希美はパッと顔を上げた。

「よお」
「速水先輩」

 希美の表情は一瞬で明るくなる。礼司の雰囲気も朗らかだった。

「元気そうだな」
「はい!」

 ニコニコする希美に、礼司はおもむろに問いかけた。

「今ちょっといい?」
「はい」

 希美の返事には困惑と嬉しそうな色の両方がのっている。礼司は希美の隣の席にかけ、口を開いた。

「前親戚の話したじゃん」
「はい、聞きました」

 希美はこくりと頷く。

「行ってきた」

 端的に告げられ、希美はごくりと唾を飲みこんだ。わずかな情報しか渡されなかったが、それでも良い時間でなかっただろうことは想像に難くない。礼司は淡々と続けた。

「やっぱりどうやっても最悪なんだけどさ」
「ああ……」
「でも大丈夫だったよ。すぐ終わった」

 礼司の声音から刺々しさが抜ける。希美もつられるように穏やかな表情になった。

「良かった……」

 希美に体ごと顔を向け、礼司は微笑む。

「ありがとう」
「私は何も……」
「チョコくれたじゃん」
「そうだった……」

 希美は照れ笑いを浮かべ、それを隠すように少しだけ俯いた。礼司はそんな希美を優しく見つめる。

「香坂」

 静かに呼びかけられ、希美は顔を上げた。希美と礼司の視線が交じり合う。礼司の柔らかく低い声が希美の鼓膜を揺らした。

「俺も香坂が大切だよ」

 希美の目は皿のようにまんまるになる。文字通り、心臓を撃ち抜かれたような心地だった。大好きな人からの「大切」が、希美の頭の中でぐるぐると回る。礼司はすぐにいたずらっぽく笑った。

「だからこれからもよろしく、な?」
「あ、も、もちろん……」

 希美はほとんど無意識に返事をしていた。脳内はパンクし、目は盛大に泳いでいる。礼司は満足そうに目を細めた。時刻は夕暮れに差し掛かっていたが、夏を感じさせ始めた太陽は沈むことなく風紀委員室を照らしていた。