きみのポケットに入ってた恋

 午後の授業取りやめやその後数日の臨時休校も終わり、希美と由佳は普段のように教室で話をしていた。由佳は希美の机を挟んだ向かいに立っている。ふいに由佳が心配そうな表情を浮かべた。

「ほんとに大変だったね……」
「ありがとう。全然大丈夫だよ」

 希美は遠慮がちに微笑む。腕組みをし、由佳は何度も頷いた。

「うんうん。何事もなくて何より……」
「へへ……」

 希美はくすぐったいような気持ちに頭をかく。由佳は思い出したように息をひそめた。

「聞いちゃったんだけどさ」
「うん?」
「薬物使ってたんだって。侵入者さん」
「え。あ、ああー」

 男の虚ろな瞳が希美の脳裏によみがえった。言われれば得心がいく。

「まだ諸々調査中らしいけど……自分のハネ、嫌だったんだって」
「え、そうなんだ」

 希美はキョトンとしたが、すぐに思い至ることがあった。

『なければよかったって、そういう……』
「ハネの威力を落とすあやしい薬があるらしいよ」
「へ、へえ」

 一瞬の熱を受けた時のことを、希美は回想する。

『でもハネ、使ってた……悩んでたのかな……』

 瞬間的に、希美は風紀委員室で礼司が親戚の話をしていた時のことも思い出した。同じくハネを持つものとして、形容しようのない寂しさが希美の胸に広がっていく。

「気持ちも行動も、めちゃくちゃになっちゃったのかな……」
「かもねー」

 由佳は希美の沈んだ雰囲気に気付いたのか、手を大きく左右に振った。

「ごめんごめん。どうでもいい話しちゃった」
「別にいいよ。ていうかどこで聞いたの?」

 希美が首を傾げる。由佳はケロッとした調子で答えた。

「職員室の前に行ったら聞こえてきた」
「それは聞きに行ったのでは……」
「似たようなもんだよね!」

 希美の顔には苦笑いが浮かんだ。由佳はニヤリと口角を上げる。

「でも希美がいて、先輩はほんとに良かったんじゃない?」
「え」

 先輩、という単語に反応して希美の心臓は大きく跳ねた。由佳は得意げに続ける。

「一人じゃしんどかったと思うよ」
「そうでもないと思うけど……」

 やんわりと告げつつ、希美はぎゅっと胸元をつかんだ。

「今日も先輩と話聞かれるんだって?」
「うん。軽くで良いから教えてほしいって」

 さらりと返され、由佳は感心したように目を見開いた。

「大変だねー」
「まあ、仕方ないよ」

 希美は控えめに笑う。巻き込まれただけとはいえ、居合わせた以上必要なことなのだろうと理解していた。



 職員室にほど近い応接室。希美と礼司はそこで淡々と形式的な質問を受けた。十五分程度の時間で聞き取りはつつがなく終了した。希美と礼司は共に応接室を後にする。礼司が扉を閉め、二人は並んで廊下を歩き始めた。礼司がため息交じりに口を開く。

「めんどくせえよな」
「仕方ないですよ」

 由佳にしたのと同じ返事をしていることに気付き、希美は一人小さく笑った。

「香坂が一緒で良かった。一人じゃサボりそうだ」

 礼司があくび交じりに言う。希美の胸はドキリと音を立てた。思わず言葉にならない声がもれる。

「あ」
「ん?」
「あ、あの。友達にも似たようなことを言われて……」

 希美は焦りをごまかすように微笑んだ。礼司が首をひねる。

「香坂が一緒で良かったとこ?」
「はい……」
「本当にそう思ってるよ。心から」

 さも当然のように言いきられ、希美は幸福で泣きそうになった。顔に力を込めて涙をこらえる。礼司は静かに言葉を継いだ。

「そもそも俺は香坂のこと、心底すごい人だと思ってるから」
「私が?」
「うん」

 キョトンとした希美に、礼司は深く頷いてみせる。

「性格も行動も、もちろんハネも」

 涙がこぼれないよう、希美はきゅっと唇を噛んだ。礼司は遠くを見るように目を細める。

「優しいって得難いことだと思う。ずっと優しい、香坂の世界は」

 そこまで言ってから、礼司は希美の目を見つめた。

「救われてるよ、いつも」

 礼司の声音は穏やかだったが、はっきりと言い切る強さもあった。希美は言葉を飲み込むようにゆっくりと瞬きする。

『私も、私のハネも、誰かの役に立つものじゃないって……』

 自分の上靴に視線を移し、目を伏せる。

『でも先輩に言われると、ほんとにそんな気がしてくる。とても誇らしいものを持っているような気持ち……』

 希美はゆっくりと瞼を開けた。

『私は私を認められる』

 希美の中で何かが変わった瞬間だった。顔を上げ、礼司の目をしっかりと見つめ返す。どこにも引っかかることなく、希美は口から言葉が出せた。

「私、先輩が大切なんです」
「ん、ん?」
「だから、先輩にそう言ってもらえて本当に嬉しい。自分のこともっと好きになれました。ありがとうございます」

 希美は屈託なく笑う。この世のどこにも憂いがないかのような笑顔だった。

「えっと、それなら……良かった」

 突然のことに礼司は少し挙動不審になっていたが、間もなくつられるように微笑んだ。放課後の廊下に安らかな時間が流れていく。二人を包む暖かな空気は、人知れず陽光に溶けていった。