教室棟にほど近い特別棟の空き教室。その空気は張り詰めていた。
希美と礼司は手を繋いだ状態で息をひそめている。希美はちらりと礼司を見た。礼司は外を注視している。深く息をつき、希美は自分に言い聞かせた。
『大丈夫、大丈夫……』
扉の外ではサンダルを擦るような足音がしている。次いでぼそぼそと話す声が聞こえた。
「なんだ……?」
礼司が首を傾げる。同じ言葉を繰り返しているようで、数回目にして希美はやっと聞き取ることができた。
「なければよかった……なければよかった……」
得体のしれない気味悪さに、希美の背筋には悪寒が走った。足音は徐々に遠ざかっていく。
『なければよかった……?』
希美は脳内で言葉を再生したが、やはり意味は分からなかった。丁度その時、ロッカーに収納されていた椅子が落ちてきた。バランス悪く適当に積まれていたようだった。ガシャンという大きな音が周囲に響く。希美と礼司は反射的に音の方を見た。礼司はすぐに扉の方に目を戻す。
「クソ……」
礼司の頬を汗がつたう。足音は一瞬止んだ後、方向を変えて空き教室に近づき始めた。
『戻ってくる……』
希美は無意識に唾を飲み込んでいた。繋がれた礼司の手に力がこもる。希美は礼司を見上げた。
『速水先輩……』
ぎゅっと手を握り返す。自分が隣にいることが礼司に伝わるようにと希美は願っていた。
「入られるより……外に出た方がいいか?」
「そうかも、しれないです」
希美と礼司は顔を見合わせる。
「走れそう?」
「い、いけます。多分」
希美は小さく頷く。自信はなかったが、時間的な猶予もなさそうだった。
「了解。じゃあ行こ。もうさっさと」
軽い調子で礼司が笑う。礼司の手はもう震えていなかった。
礼司が勢いよく扉を開ける。希美と礼司は空き教室から走り出た。希美の目の端に、虚ろな目の男が映る。詳細に確認は出来なかったが、予想通り学生でも教師でもなさそうだった。
「なければよかった……」
走りながら希美は振り向く。男は手をゆるく前に掲げていた。
「あつっ」
肩の辺り、一瞬だったが強い熱を希美は感じた。思わず力が抜け、希美の手は礼司の手から離れた。
「っ!」
礼司も足を止める。男は懐から出刃包丁を取り出した。礼司は間髪入れず希美の前に影を実体化させる。希美の目の前には黒い影の盾、だが礼司と男を隔てるものは何もない。希美は直感的に礼司が襲われるような気がした。思うよりも速く足が動く。
「先輩!」
「は?」
希美は勢いのまま礼司を押し倒して男から隠した。男の気配は近くまで来ている。
『大丈夫だから……!』
礼司が痛い思いをするくらいなら、自分が痛い方が良い。希美はぎゅっと目をつぶった。廊下には沈黙が流れている。数秒経っても状況が変わらないのを不審に思い、希美はおそるおそる目を開けた。男の足は止まっていた。男の足と手は、凍っていた。
「え?」
希美の口から間抜けな声がもれる。礼司は希美を押しのけて起き上がった。
「こ……! 危ねえだろ!」
「あ、す、すみません……」
強い口調で言われたが、希美の謝罪はどこかふわふわしていた。何が起きたのか希美の頭はついていっていない。聞き慣れた声が希美たちの鼓膜を揺らした。
「いや、無事で良かった」
希美と礼司は声のした方に顔を向ける。
「橋村先生……」
「橋村……」
立っていたのは風紀委員会担当教師、橋村だった。ゆっくりと空き教室の前へと歩いてくる。呆然としている希美に、橋村は声をかけた。
「たまたま近くで……良かった」
橋村が気まずそうに頬をかく。橋村が自身の氷のハネを使って不審者の男を制圧した……希美はやっと事実が理解出来た。
「災難だったなあ……怪我は?」
「えっと、今のところ……」
「他の先生呼んだから。少し待って一緒に保健室まで移動しなさい。僕はこの人連れていくから」
「はい……」
橋村はまるで普段通りの様子でゆるゆると去っていく。男はぶつぶつと独り言を言っていたが、橋村に対して抵抗はしなかった。嵐の去った廊下。希美と礼司の二人が残されていた。適当でやる気がなく見える橋村だが、自分たちよりもずっと大人なのだと、希美はしみじみ思い知った。
「すごい……」
「……でも俺アイツ嫌い」
礼司はむっと少しだけ唇を尖らせる。子供っぽい仕草がほほえましく、希美は顔をほころばせた。
間もなくやってきた別の教師と共に、希美と礼司は保健室まで移動していた。軽い診察を受け終わり、希美はお辞儀をして保健室を出る。先に診察を終えた礼司が部屋の前で待っていた。
「よお」
「先輩」
「大丈夫だった?」
「全然大丈夫です! 先輩が守ってくれたから」
希美はニコニコと笑う。礼司は複雑そうな顔をした。
「ああいうのは困る。本当に肝が冷えた」
「あ……すみません」
自分の無謀な行動を思い出し、希美は視線を下げる。
「でもありがとな」
一等和やかな声が希美の頭上で響く。希美はそっと顔を上げた。希美と礼司の視線が交わる。礼司はふっと穏やかに笑った。希美は懸念を口に出す。
「先輩は、大丈夫でしたか?」
「うん」
端的な肯定に、希美はほっと胸をなで下ろした。
「香坂がいたから、ずっと大丈夫だった」
礼司はニッと笑い、ひらひらと片手を掲げる。希美の顔はたちまち真っ赤になった。りんごのような頬で、希美は柔らかく口元をゆるめる。礼司が元気でいるだけで、希美の心は暖かく満たされた。ふいに希美は前の会ったばかりのつっけんどんな礼司を思い出した。
風紀室の窓際の席で、礼司がこちらを見ている記憶。
「なに?」
そう冷たく突き放すように聞かれた。
またある時は、話の途中でもどうでもよさそうに目を逸らされた。
希美の意識は保健室の前……現実に戻ってくる。目の前にいる礼司は、慈愛をいっぱいにたたえた眼差しで微笑んでいた。
『信頼、されてるかも……少しは』
希美はまたにっこり笑う。希美と礼司の関係は、ゆっくりと、しかし確かに育っていた。誰かと心が通じるのは嬉しい、それが好ましく思ってる人ならなおさら。希美の喜びに呼応するように、廊下の窓から差し込んだ木漏れ日は静かに揺れていた。
希美と礼司は手を繋いだ状態で息をひそめている。希美はちらりと礼司を見た。礼司は外を注視している。深く息をつき、希美は自分に言い聞かせた。
『大丈夫、大丈夫……』
扉の外ではサンダルを擦るような足音がしている。次いでぼそぼそと話す声が聞こえた。
「なんだ……?」
礼司が首を傾げる。同じ言葉を繰り返しているようで、数回目にして希美はやっと聞き取ることができた。
「なければよかった……なければよかった……」
得体のしれない気味悪さに、希美の背筋には悪寒が走った。足音は徐々に遠ざかっていく。
『なければよかった……?』
希美は脳内で言葉を再生したが、やはり意味は分からなかった。丁度その時、ロッカーに収納されていた椅子が落ちてきた。バランス悪く適当に積まれていたようだった。ガシャンという大きな音が周囲に響く。希美と礼司は反射的に音の方を見た。礼司はすぐに扉の方に目を戻す。
「クソ……」
礼司の頬を汗がつたう。足音は一瞬止んだ後、方向を変えて空き教室に近づき始めた。
『戻ってくる……』
希美は無意識に唾を飲み込んでいた。繋がれた礼司の手に力がこもる。希美は礼司を見上げた。
『速水先輩……』
ぎゅっと手を握り返す。自分が隣にいることが礼司に伝わるようにと希美は願っていた。
「入られるより……外に出た方がいいか?」
「そうかも、しれないです」
希美と礼司は顔を見合わせる。
「走れそう?」
「い、いけます。多分」
希美は小さく頷く。自信はなかったが、時間的な猶予もなさそうだった。
「了解。じゃあ行こ。もうさっさと」
軽い調子で礼司が笑う。礼司の手はもう震えていなかった。
礼司が勢いよく扉を開ける。希美と礼司は空き教室から走り出た。希美の目の端に、虚ろな目の男が映る。詳細に確認は出来なかったが、予想通り学生でも教師でもなさそうだった。
「なければよかった……」
走りながら希美は振り向く。男は手をゆるく前に掲げていた。
「あつっ」
肩の辺り、一瞬だったが強い熱を希美は感じた。思わず力が抜け、希美の手は礼司の手から離れた。
「っ!」
礼司も足を止める。男は懐から出刃包丁を取り出した。礼司は間髪入れず希美の前に影を実体化させる。希美の目の前には黒い影の盾、だが礼司と男を隔てるものは何もない。希美は直感的に礼司が襲われるような気がした。思うよりも速く足が動く。
「先輩!」
「は?」
希美は勢いのまま礼司を押し倒して男から隠した。男の気配は近くまで来ている。
『大丈夫だから……!』
礼司が痛い思いをするくらいなら、自分が痛い方が良い。希美はぎゅっと目をつぶった。廊下には沈黙が流れている。数秒経っても状況が変わらないのを不審に思い、希美はおそるおそる目を開けた。男の足は止まっていた。男の足と手は、凍っていた。
「え?」
希美の口から間抜けな声がもれる。礼司は希美を押しのけて起き上がった。
「こ……! 危ねえだろ!」
「あ、す、すみません……」
強い口調で言われたが、希美の謝罪はどこかふわふわしていた。何が起きたのか希美の頭はついていっていない。聞き慣れた声が希美たちの鼓膜を揺らした。
「いや、無事で良かった」
希美と礼司は声のした方に顔を向ける。
「橋村先生……」
「橋村……」
立っていたのは風紀委員会担当教師、橋村だった。ゆっくりと空き教室の前へと歩いてくる。呆然としている希美に、橋村は声をかけた。
「たまたま近くで……良かった」
橋村が気まずそうに頬をかく。橋村が自身の氷のハネを使って不審者の男を制圧した……希美はやっと事実が理解出来た。
「災難だったなあ……怪我は?」
「えっと、今のところ……」
「他の先生呼んだから。少し待って一緒に保健室まで移動しなさい。僕はこの人連れていくから」
「はい……」
橋村はまるで普段通りの様子でゆるゆると去っていく。男はぶつぶつと独り言を言っていたが、橋村に対して抵抗はしなかった。嵐の去った廊下。希美と礼司の二人が残されていた。適当でやる気がなく見える橋村だが、自分たちよりもずっと大人なのだと、希美はしみじみ思い知った。
「すごい……」
「……でも俺アイツ嫌い」
礼司はむっと少しだけ唇を尖らせる。子供っぽい仕草がほほえましく、希美は顔をほころばせた。
間もなくやってきた別の教師と共に、希美と礼司は保健室まで移動していた。軽い診察を受け終わり、希美はお辞儀をして保健室を出る。先に診察を終えた礼司が部屋の前で待っていた。
「よお」
「先輩」
「大丈夫だった?」
「全然大丈夫です! 先輩が守ってくれたから」
希美はニコニコと笑う。礼司は複雑そうな顔をした。
「ああいうのは困る。本当に肝が冷えた」
「あ……すみません」
自分の無謀な行動を思い出し、希美は視線を下げる。
「でもありがとな」
一等和やかな声が希美の頭上で響く。希美はそっと顔を上げた。希美と礼司の視線が交わる。礼司はふっと穏やかに笑った。希美は懸念を口に出す。
「先輩は、大丈夫でしたか?」
「うん」
端的な肯定に、希美はほっと胸をなで下ろした。
「香坂がいたから、ずっと大丈夫だった」
礼司はニッと笑い、ひらひらと片手を掲げる。希美の顔はたちまち真っ赤になった。りんごのような頬で、希美は柔らかく口元をゆるめる。礼司が元気でいるだけで、希美の心は暖かく満たされた。ふいに希美は前の会ったばかりのつっけんどんな礼司を思い出した。
風紀室の窓際の席で、礼司がこちらを見ている記憶。
「なに?」
そう冷たく突き放すように聞かれた。
またある時は、話の途中でもどうでもよさそうに目を逸らされた。
希美の意識は保健室の前……現実に戻ってくる。目の前にいる礼司は、慈愛をいっぱいにたたえた眼差しで微笑んでいた。
『信頼、されてるかも……少しは』
希美はまたにっこり笑う。希美と礼司の関係は、ゆっくりと、しかし確かに育っていた。誰かと心が通じるのは嬉しい、それが好ましく思ってる人ならなおさら。希美の喜びに呼応するように、廊下の窓から差し込んだ木漏れ日は静かに揺れていた。
