希美の脳内では様々な記憶が再生されていた。刃物に関する、マイナス感情の思い出たちだ。
幼少期の希美は自宅で家族と映画を見ている。テレビ画面には斧を持っているモンスターが映っていた。
「やだ、こわい……」
希美は隣に座った母にすがっておびえている。
小学生の希美は学校ではさみを使っている。希美ははさみについたのりの汚れを拭いていて指を切ってしまった。
「いっ!」
痛みに顔を歪める。希美の人差し指には切り傷ができ、血がにじんでいた。
中学生の希美は男子が彫刻刀を持ってふざけているのを遠巻きに見ている。美術の授業でのことだった。雷のような美術教師の怒鳴り声が響く。希美はビクッと体を強張らせ、彫刻刀を持っていた手を止めた。
『私じゃないけど、こわい』
俯き、希美は彫刻刀の刃を眺めた。
シームレスにたくさんの映像が流れていった。
現在の希美は倒れている礼司を呆然と見つめている。礼司の側にはゆっくりと血だまりができ始めた。
追憶に引きずられ、希美は最悪の想像に襲われる。意思とは関係なく脳裏に映り、止められなかった。
風紀委員室の前の廊下で、希美はすっかり青ざめていた。突然硬直した希美を不審に思ったのか、礼司が首を傾げる。
「香坂。大丈夫か?」
「あ……」
礼司に顔を向け、希美は唾を飲み込んだ。回想と想像を身体の内側に閉じ込める。心配そうな色を持った礼司の瞳がじっと希美を見ていた。希美はなんとか口を動かす。
「こ、校内に不審者が入ったって……」
礼司は驚きに目を見開いた。
「ほんとか?」
「多分……」
考え込んだ後、礼司は静かに切り出す。
「とにかく教室に戻らねーとだな」
希美はこくりと頷いた。
「1年生の教室まで一緒に行くから。心配しなくていい」
「えっ」
当然のことのようにそう告げられ、希美は目を丸くする。
「ん?」
「でも……先輩が行ったり来たりすることになるから……」
俯いた希美がもごもごと呟く。
「大丈夫だって」
「だけど……」
「普段だってそうするけど……香坂今顔真っ青だぞ。一人にできないよ」
希美は顔を上げた。眉をハの字にして笑う礼司が目に映る。胸元をぎゅっとつかみ、希美は言葉を紡いだ。
「すみません……ありがとうございます」
「いいえ」
柔らかく返事をした後、礼司がスピーカーを見る。
「風紀室だからな……ちょっと歩くけど、まあ大丈夫だろ」
希美と目を合わせ、礼司は再度微笑んだ。
希美と礼司は並んで廊下を歩いていく。希美は自分の顔色が良くないことをなんとなく感じつつ、どうにもできずにいた。
「香坂」
「へ……?」
「本当に大丈夫か。休んだ方がいいか?」
「いえ……大丈夫です」
希美はぎこちなく笑う。礼司は気づかわしげに眉根を寄せた。
「気持ち悪かったり、歩くのキツかったらすぐ言えよ」
「はい……ありがとうございます」
礼司は穏やかな笑みを希美に向ける。その表情を見た希美は、少しだけ気持ちが落ち着いたような気がした。ぎゅっとスカートを握る。希美は一瞬迷ったが、口に出してみることにした。
「あの」
「ん?」
「嫌な想像をしてしまって……ただの、想像なんですけど。こわくて……」
礼司は口を挟まず、黙って希美の話を聞いていた。
「情けないですよね……」
力なく希美が笑う。
「そんなことないだろ」
礼司ははっきりとそう言った。希美と目を合わせ、続ける。
「香坂の想像力は美点なんだから、気に病むことない。な」
言い終えると、礼司はニッと口角を上げた。希美は泣きそうになるのを唇を噛んでぐっとこらえる。その時だった。教室棟に向かう角に影が伸びている。やっと人がいるところまで戻ったと、希美は安堵の表情を浮かべた。
『誰かいる!』
ほっと緊張をゆるめた希美の腕を、礼司が引いた。
「え?」
礼司は強い力で希美を引き連れ、空き教室に入っていく。
扉を閉め、礼司は外の様子をうかがっていた。希美はパチパチと目をしばたたかせる。
「あの、せんぱ」
「しっ」
礼司が唇に人差し指を当てた。希美は思わず口をつぐむ。そっと声のトーンを落として聞きなおした。
「ど、どうしたんですか?」
「おかしいだろ」
礼司は端的に言う。希美はおかしさにピンとこず、キョトンとした。礼司が静かに続ける。
「みんな教室に戻らされてるのに……特別棟に向かってきてた」
希美の息を飲む音が空き教室に響いた。
「見回りの教師ならいいけど……ハネを使ってる感じがするんだよな」
「なんで今……」
ハネの使用を感知できる者はそれなりにいる。希美も由佳もそうではないが、礼司は二人とは違うようだった。
「だから教師じゃねえかも……ってこと。風……いや熱のハネか?」
かたまったまま、希美は礼司の言葉をただ耳に入れている。扉から希美に視線をよこし、礼司が微笑んだ。
「大丈夫だから。そんな顔すんなよ」
「せんぱい……」
先ほどと同じように希美はまた少しだけ落ち着きを取り戻した。礼司の言葉、表情、存在の全てが希美を安心させてくれた。希美は何ともなしに視線を下げて礼司の手を見る。礼司の手は、微かに震えていた。ハッとして希美は礼司の顔を見上げる。
『先輩だって、不安じゃないわけないのに……私のために……』
浅慮への悔恨や心遣いへの感謝……色々な感情で希美は胸がいっぱいになった。礼司は震える手をポケットに入れようとする。希美は、そっと礼司の手に触れた。礼司の驚いた瞳が希美をとらえる。希美は礼司の手と自分の手をしっかりと繋げた。
「こう、さか?」
混乱しているのか、礼司が目をしばたたかせる。
「私、ちゃんとここにいますから。ポケットだって……繋がってるし」
希美は真っ直ぐに礼司を見つめた。礼司は目をいっぱいに見開くと、ふっと表情をゆるめる。
「やっぱり香坂はすごいな」
礼司の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
「ありがとう。見抜かれててカッコ悪いけど、心強い」
ハリのある声で告げ、礼司は繋がれた片手を握り返す。希美の手のひらには圧力と暖かさが伝わってきた。
「カッコ悪くないです」
希美はにっこりと礼司に笑いかける。
『先輩はいつだって優しくてカッコいい』
自分でも驚くほど自然に手を取れたのに、何故かそれを口に出すことはできなかった。
幼少期の希美は自宅で家族と映画を見ている。テレビ画面には斧を持っているモンスターが映っていた。
「やだ、こわい……」
希美は隣に座った母にすがっておびえている。
小学生の希美は学校ではさみを使っている。希美ははさみについたのりの汚れを拭いていて指を切ってしまった。
「いっ!」
痛みに顔を歪める。希美の人差し指には切り傷ができ、血がにじんでいた。
中学生の希美は男子が彫刻刀を持ってふざけているのを遠巻きに見ている。美術の授業でのことだった。雷のような美術教師の怒鳴り声が響く。希美はビクッと体を強張らせ、彫刻刀を持っていた手を止めた。
『私じゃないけど、こわい』
俯き、希美は彫刻刀の刃を眺めた。
シームレスにたくさんの映像が流れていった。
現在の希美は倒れている礼司を呆然と見つめている。礼司の側にはゆっくりと血だまりができ始めた。
追憶に引きずられ、希美は最悪の想像に襲われる。意思とは関係なく脳裏に映り、止められなかった。
風紀委員室の前の廊下で、希美はすっかり青ざめていた。突然硬直した希美を不審に思ったのか、礼司が首を傾げる。
「香坂。大丈夫か?」
「あ……」
礼司に顔を向け、希美は唾を飲み込んだ。回想と想像を身体の内側に閉じ込める。心配そうな色を持った礼司の瞳がじっと希美を見ていた。希美はなんとか口を動かす。
「こ、校内に不審者が入ったって……」
礼司は驚きに目を見開いた。
「ほんとか?」
「多分……」
考え込んだ後、礼司は静かに切り出す。
「とにかく教室に戻らねーとだな」
希美はこくりと頷いた。
「1年生の教室まで一緒に行くから。心配しなくていい」
「えっ」
当然のことのようにそう告げられ、希美は目を丸くする。
「ん?」
「でも……先輩が行ったり来たりすることになるから……」
俯いた希美がもごもごと呟く。
「大丈夫だって」
「だけど……」
「普段だってそうするけど……香坂今顔真っ青だぞ。一人にできないよ」
希美は顔を上げた。眉をハの字にして笑う礼司が目に映る。胸元をぎゅっとつかみ、希美は言葉を紡いだ。
「すみません……ありがとうございます」
「いいえ」
柔らかく返事をした後、礼司がスピーカーを見る。
「風紀室だからな……ちょっと歩くけど、まあ大丈夫だろ」
希美と目を合わせ、礼司は再度微笑んだ。
希美と礼司は並んで廊下を歩いていく。希美は自分の顔色が良くないことをなんとなく感じつつ、どうにもできずにいた。
「香坂」
「へ……?」
「本当に大丈夫か。休んだ方がいいか?」
「いえ……大丈夫です」
希美はぎこちなく笑う。礼司は気づかわしげに眉根を寄せた。
「気持ち悪かったり、歩くのキツかったらすぐ言えよ」
「はい……ありがとうございます」
礼司は穏やかな笑みを希美に向ける。その表情を見た希美は、少しだけ気持ちが落ち着いたような気がした。ぎゅっとスカートを握る。希美は一瞬迷ったが、口に出してみることにした。
「あの」
「ん?」
「嫌な想像をしてしまって……ただの、想像なんですけど。こわくて……」
礼司は口を挟まず、黙って希美の話を聞いていた。
「情けないですよね……」
力なく希美が笑う。
「そんなことないだろ」
礼司ははっきりとそう言った。希美と目を合わせ、続ける。
「香坂の想像力は美点なんだから、気に病むことない。な」
言い終えると、礼司はニッと口角を上げた。希美は泣きそうになるのを唇を噛んでぐっとこらえる。その時だった。教室棟に向かう角に影が伸びている。やっと人がいるところまで戻ったと、希美は安堵の表情を浮かべた。
『誰かいる!』
ほっと緊張をゆるめた希美の腕を、礼司が引いた。
「え?」
礼司は強い力で希美を引き連れ、空き教室に入っていく。
扉を閉め、礼司は外の様子をうかがっていた。希美はパチパチと目をしばたたかせる。
「あの、せんぱ」
「しっ」
礼司が唇に人差し指を当てた。希美は思わず口をつぐむ。そっと声のトーンを落として聞きなおした。
「ど、どうしたんですか?」
「おかしいだろ」
礼司は端的に言う。希美はおかしさにピンとこず、キョトンとした。礼司が静かに続ける。
「みんな教室に戻らされてるのに……特別棟に向かってきてた」
希美の息を飲む音が空き教室に響いた。
「見回りの教師ならいいけど……ハネを使ってる感じがするんだよな」
「なんで今……」
ハネの使用を感知できる者はそれなりにいる。希美も由佳もそうではないが、礼司は二人とは違うようだった。
「だから教師じゃねえかも……ってこと。風……いや熱のハネか?」
かたまったまま、希美は礼司の言葉をただ耳に入れている。扉から希美に視線をよこし、礼司が微笑んだ。
「大丈夫だから。そんな顔すんなよ」
「せんぱい……」
先ほどと同じように希美はまた少しだけ落ち着きを取り戻した。礼司の言葉、表情、存在の全てが希美を安心させてくれた。希美は何ともなしに視線を下げて礼司の手を見る。礼司の手は、微かに震えていた。ハッとして希美は礼司の顔を見上げる。
『先輩だって、不安じゃないわけないのに……私のために……』
浅慮への悔恨や心遣いへの感謝……色々な感情で希美は胸がいっぱいになった。礼司は震える手をポケットに入れようとする。希美は、そっと礼司の手に触れた。礼司の驚いた瞳が希美をとらえる。希美は礼司の手と自分の手をしっかりと繋げた。
「こう、さか?」
混乱しているのか、礼司が目をしばたたかせる。
「私、ちゃんとここにいますから。ポケットだって……繋がってるし」
希美は真っ直ぐに礼司を見つめた。礼司は目をいっぱいに見開くと、ふっと表情をゆるめる。
「やっぱり香坂はすごいな」
礼司の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
「ありがとう。見抜かれててカッコ悪いけど、心強い」
ハリのある声で告げ、礼司は繋がれた片手を握り返す。希美の手のひらには圧力と暖かさが伝わってきた。
「カッコ悪くないです」
希美はにっこりと礼司に笑いかける。
『先輩はいつだって優しくてカッコいい』
自分でも驚くほど自然に手を取れたのに、何故かそれを口に出すことはできなかった。
