感情の洪水を抱え、希美は1年A組近くの女子トイレに逃げ込んだ。鍵をかけた個室で、ぼんやりと天井を見上げる。そこまでどうやって戻ったかの記憶は朧げだった。
『先輩が助けてくれた……それに』
上の空な希美の唇は半開きになっている。
『ハネに助けられてるなんて初めて言われた……』
希美は夢ではなかったことを確かめるようにゆっくり瞬きした。
『それも、先輩に。好きな人に言われた……』
段々と実感が追いつき、希美の瞳にまたじわじわと涙がこみ上げる。
『嬉しい……』
希美は両手で顔を覆った。涙も、感情も、取りこぼさないようにしたかった。
希美にとって怒涛だった昼休みの後、午後の教室では眠そうな生徒たちに向けて現国の授業が行われている。時間経過によって希美は少しだけ冷静さを取り戻していた。
『先輩はああ言ってたけど』
黒板から窓に目を移し、空を見つめる。
『私のハネが、誰かを助けるなんてことあるのかな……』
希美は自分のポケットに上から触れた。その奥にある世界に想いを馳せる。タイミング悪く、授業を進めていた現国教師が音読に希美を指名した。
「香坂」
ポケットと自分の手を見たまま、希美は反応しない。
「香坂希美」
教師に繰り返されたところで、やっと希美の意識は授業に戻ってきた。
「は、はい!」
「続き読んで。42ページ1行目」
教師はページ数まで言い添える。ため息をつかれているような気がした。希美が話を聞いていなかったのは、誰の目にもバレている感じがあった。
「え、えっと。はい!」
希美は教科書を手にわたわたと席を立つ。由佳は口元を隠して小さく笑っていた。
授業を終えた希美は大きくため息をついた。向かいに立った由佳はケタケタと笑う。消え入りそうな声で希美は呟いた。
「やっちゃった……」
「やってたねー! いいじゃん! よくあるよくある!」
「よくない! よくないよくない!」
希美はぶんぶん首を横に振る。由佳は声を出して大笑いした。
「どうしたの? 考え事?」
問いかけに希美の心臓が跳ねる。
「まあ、そんな感じ……」
「あんまり考えなくていいんだよ。この世はフィーリングなんだから」
「な、なるほど……?」
由佳は自信満々に言い切る。分かるような分からないような気持ちを抱えつつ、希美はとりあえず頷いた。
余韻を引きずりつつ希美はいつも通りの日常を過ごした。数日が経った日の朝。1年A組の教室ではホームルームのために担任教師が黒板の前に立っていた。伝達事項が述べられていく。希美の気持ちはまたも別のところに飛んで行っていた。
『時々考えてるけど、やっぱり分からない……考えてる時点でだめなのかも……フィーリング……』
小さくあくびをし、希美は現実に思考を戻す。担任の話は一区切りついたところだったのか、一拍間が置かれた。その後担任は少し険しい顔になる。
「もう知ってるやつもいるかもしれないが、学校付近に不審者が出た。刃物を持っているとのことだ」
『刃物……?』
希美は膝の上のスマホですばやく情報を検索した。ローカルメディアの記事が数件ヒットし、表示される。
「部活等のない者は授業後すぐに下校すること。なるべく二人以上でな」
『刃物……いやだな……』
話を聞きながら希美はスマホの文字を追ったが、あまり詳細な情報は手に入らなかった。丁度その時、記事に重なる形で通知が入った。
『?』
人差し指で通知を開いた希美の表情がパッと明るくなる。新規メッセージの知らせだった。
昼休みの喧騒と無縁な風紀委員室。その前の廊下に礼司はいた。窓にもたれている。それを視認した希美はパタパタと近寄っていった。
「速水先輩!」
「香坂」
礼司が柔らかく微笑む。
「急に悪かったな。いつもながら」
「大丈夫ですよ」
希美も優しく笑い返した。
「この前はチョコありがとう。すげー美味かったよ」
「良かったです」
「早いうちに何か返そうと思って」
「いいのに……ありがとうございます」
穏やかな語調で告げられ、希美は頬を赤らめる。
「この間はクッキーだったから、大福。餡子平気なんだよな?」
「平気です。好きです」
「よかった。うちの近くに和菓子屋があってさ」
礼司は終始ニコニコしていた。背に隠していた小さな紙袋をあさる。楽しそうな礼司を見ている希美の頬も自然とゆるんだ。
「だからこれ」
礼司が大福を差し出そうとしたその時、突然チャイムが鳴った。
「え」
「? あれ、もう休み時間終わった?」
違和感に礼司は首をひねる。
「いえ、まだのはず……」
希美はスマホの時刻表示を、礼司は腕時計をそれぞれ確認した。希美の予想通り、まだ昼休み終了の定刻までは間がある。男性教師による校内放送が響いた。
「臨時ホームルームを行います。生徒は至急自分の教室に戻ってください」
『どうしたんだろう……』
希美はぼんやりとスピーカーからスマホに目を移す。
「あ」
スマホには由佳からのメッセージが入ったところだった。希美は脳内で文字を読み上げる。
「校内に不審者が入ったって!」
意味を認識した瞬間、スマホを持った希美の指先は冷えていく。全身から血の気が引くのを、希美は感じていた。
『先輩が助けてくれた……それに』
上の空な希美の唇は半開きになっている。
『ハネに助けられてるなんて初めて言われた……』
希美は夢ではなかったことを確かめるようにゆっくり瞬きした。
『それも、先輩に。好きな人に言われた……』
段々と実感が追いつき、希美の瞳にまたじわじわと涙がこみ上げる。
『嬉しい……』
希美は両手で顔を覆った。涙も、感情も、取りこぼさないようにしたかった。
希美にとって怒涛だった昼休みの後、午後の教室では眠そうな生徒たちに向けて現国の授業が行われている。時間経過によって希美は少しだけ冷静さを取り戻していた。
『先輩はああ言ってたけど』
黒板から窓に目を移し、空を見つめる。
『私のハネが、誰かを助けるなんてことあるのかな……』
希美は自分のポケットに上から触れた。その奥にある世界に想いを馳せる。タイミング悪く、授業を進めていた現国教師が音読に希美を指名した。
「香坂」
ポケットと自分の手を見たまま、希美は反応しない。
「香坂希美」
教師に繰り返されたところで、やっと希美の意識は授業に戻ってきた。
「は、はい!」
「続き読んで。42ページ1行目」
教師はページ数まで言い添える。ため息をつかれているような気がした。希美が話を聞いていなかったのは、誰の目にもバレている感じがあった。
「え、えっと。はい!」
希美は教科書を手にわたわたと席を立つ。由佳は口元を隠して小さく笑っていた。
授業を終えた希美は大きくため息をついた。向かいに立った由佳はケタケタと笑う。消え入りそうな声で希美は呟いた。
「やっちゃった……」
「やってたねー! いいじゃん! よくあるよくある!」
「よくない! よくないよくない!」
希美はぶんぶん首を横に振る。由佳は声を出して大笑いした。
「どうしたの? 考え事?」
問いかけに希美の心臓が跳ねる。
「まあ、そんな感じ……」
「あんまり考えなくていいんだよ。この世はフィーリングなんだから」
「な、なるほど……?」
由佳は自信満々に言い切る。分かるような分からないような気持ちを抱えつつ、希美はとりあえず頷いた。
余韻を引きずりつつ希美はいつも通りの日常を過ごした。数日が経った日の朝。1年A組の教室ではホームルームのために担任教師が黒板の前に立っていた。伝達事項が述べられていく。希美の気持ちはまたも別のところに飛んで行っていた。
『時々考えてるけど、やっぱり分からない……考えてる時点でだめなのかも……フィーリング……』
小さくあくびをし、希美は現実に思考を戻す。担任の話は一区切りついたところだったのか、一拍間が置かれた。その後担任は少し険しい顔になる。
「もう知ってるやつもいるかもしれないが、学校付近に不審者が出た。刃物を持っているとのことだ」
『刃物……?』
希美は膝の上のスマホですばやく情報を検索した。ローカルメディアの記事が数件ヒットし、表示される。
「部活等のない者は授業後すぐに下校すること。なるべく二人以上でな」
『刃物……いやだな……』
話を聞きながら希美はスマホの文字を追ったが、あまり詳細な情報は手に入らなかった。丁度その時、記事に重なる形で通知が入った。
『?』
人差し指で通知を開いた希美の表情がパッと明るくなる。新規メッセージの知らせだった。
昼休みの喧騒と無縁な風紀委員室。その前の廊下に礼司はいた。窓にもたれている。それを視認した希美はパタパタと近寄っていった。
「速水先輩!」
「香坂」
礼司が柔らかく微笑む。
「急に悪かったな。いつもながら」
「大丈夫ですよ」
希美も優しく笑い返した。
「この前はチョコありがとう。すげー美味かったよ」
「良かったです」
「早いうちに何か返そうと思って」
「いいのに……ありがとうございます」
穏やかな語調で告げられ、希美は頬を赤らめる。
「この間はクッキーだったから、大福。餡子平気なんだよな?」
「平気です。好きです」
「よかった。うちの近くに和菓子屋があってさ」
礼司は終始ニコニコしていた。背に隠していた小さな紙袋をあさる。楽しそうな礼司を見ている希美の頬も自然とゆるんだ。
「だからこれ」
礼司が大福を差し出そうとしたその時、突然チャイムが鳴った。
「え」
「? あれ、もう休み時間終わった?」
違和感に礼司は首をひねる。
「いえ、まだのはず……」
希美はスマホの時刻表示を、礼司は腕時計をそれぞれ確認した。希美の予想通り、まだ昼休み終了の定刻までは間がある。男性教師による校内放送が響いた。
「臨時ホームルームを行います。生徒は至急自分の教室に戻ってください」
『どうしたんだろう……』
希美はぼんやりとスピーカーからスマホに目を移す。
「あ」
スマホには由佳からのメッセージが入ったところだった。希美は脳内で文字を読み上げる。
「校内に不審者が入ったって!」
意味を認識した瞬間、スマホを持った希美の指先は冷えていく。全身から血の気が引くのを、希美は感じていた。
