きみのポケットに入ってた恋

 一日を終えた希美は自室のベッドで寝ころんでいた。

「最近はなんだか色んなことがあった……」

 思わず口に出して呟くと、希美はゆっくり瞬きした。スイッチを切るべく、希美は手をポケットに入れ、目を伏せる。



 自らの異空間……幻想世界で希美は目を開いた。力を抜き、微笑む。

『やっぱりここにいると、落ち着く』

 心に気力が戻るのを感じながら、希美は少しだけ目を伏せた。

『落ち着くけど、ここは現実を助けてはくれないんだな』

 希美は完全に目を閉じ、胸の前で両手を組む。

『現実とは違う、隔絶された世界。それが嬉しいけど、それが悲しい』

 その時、一匹の白ウサギが希美の足にすり寄ってきた。希美はウサギを見るとふっと頬をゆるめる。

「ごめん、ありがとう。ここでの癒しが私の元気だよ」

 しゃがみ込み、ウサギの背中をなでる。空間の主である希美の心の動きを察知したのか、他の動物や幻獣たちも集まってきた。ふわふわしたものに囲まれ、希美は困ったように笑った。



 翌日の1年A組教室。希美と由佳は向かい合っておしゃべりに花を咲かせている。とりとめのないことでいつまでも話していることが出来た。希美が首を傾げる。

「自首?」
「そ。自首があったんだって」
「自首って……なんの?」

 希美はキョトンとして聞き返した。由佳が勢いよく返答する。

「なんのって……窓割れ事件だよ!」
「あ、なるほど。って、自首? 誰か名乗り出たってこと?」
「そうそう。ことが大きくなって責任感じたんだって」
「ああ……たしかにそうなるかもね」

 希美は犯人の心情に想いを馳せ、ゆっくりと頷いた。

「そもそも故意じゃなかったから余計気持ちキツかったみたい」
「わざとじゃなかったんだ。結構割れてたけど」

 希美の言葉を待ち構えていたかのように由佳はビシッと人差し指を立てた。

「そ! まず犬が登場します」
「急すぎる。い、犬?」

 希美の顔には困惑が浮かんでいる。由佳は深く首を縦に振った。

「校舎まで迷い込んできた犬と遊んでいましたと」
「は、はあ」
「で、それをやってたのが硬質化のハネを持った生徒だったと」
「あ、ああー!」

 途端に希美は納得の表情になる。やっと事のあらましが理解できた。由佳は目を伏せて腕を組む。

「楽しそうだったからベランダに出してあげたんだけど、急に風紀室に入ろうとして窓破っちゃったんだって」
「そう……」
「私には分かるよ……」

 抑えたトーンで由佳が言った。希美はまた首を傾げる。

「ん?」
「お菓子のにおいがしたんでしょ!」
「ん、んー。どうかな」

 由佳による全力の指摘を受け流しつつ、希美は可能性は否定できないと考えていた。

『仮にそうでも笑ってごまかしそう、橋村先生』

 その状況は想像に難くなく、希美は苦笑する。

『でも良かった。解決して』

 由佳はまだ何事かをにぎやかに喋っていたが、希美の目は自分の鞄に向いた。中には礼司に渡しそびれたチョコレートが入っている。休み時間の喧騒をよそに、希美は自分の幻想空間でチョコレートを持って笑う礼司を想像した。空想に入り込んだ希美の耳には周りの音も聞こえなくなっている。

「希美?」
「あ、な、なに?」

 由佳に名前を呼ばれ、希美はハッと我に返った。由佳は慣れた様子で薄く笑う。

「別にいいけど。希美は昔から時々飛んでっちゃう」
「ごめん……」

 申し訳なさと照れを含んだ希美の笑みは複雑なものになった。希美には自覚があるし、由佳も知っている。礼司関係なく、希美がふいに夢想にふけるのは昔からよくあることだった。



 希美は昼食を早々に切り上げ、風紀委員室の前の廊下を目指していた。手にはシンプルな巾着を持っている。はやる気持ちのまま、パタパタと歩いていく。希美の瞳に、窓側の壁にもたれた礼司が映った。気配に気づいたのか礼司も希美の方を向く。

「よお」
「こんにちは。お時間頂いてすみません」
「ううん」

 ぺこりと頭を下げた希美に、礼司は微笑んだ。

「なんかくれるんだって?」
「あ、はい。なんだかタイミング逃しちゃってて……」

 希美は照れくさそうに笑う。礼司は思い返すように天井の方を見上げた。

「ああ、急に色々あったからな」
「はい。あの、親戚の集まりとかそういう……嫌なことがあるときは高いお菓子だって友達が……」

 希美が懸命に説明する。礼司は軽く吹き出した。

「なるほど。たしかに」

 少しだけ緊張を顔ににじませつつ、希美は巾着からチョコレートを差し出した。

「だからこれ……」
「思ったより高そうな……大丈夫?」

 礼司が気づかわしげに首を傾げる。

「大丈夫です。先輩にはいつもお世話になってるし」

 はっきりと言い切り、希美は表情に力をこめた。

「そうでもねえけど……でもありがとう。嬉しい」
「良かったです」

 礼司の手がチョコレートを受け取る。希美の想像していた礼司の笑顔と現実の礼司の笑顔が重なった。

『本当に良かった』

 希美の胸を暖かさが満たす。自然と柔らかな微笑みがこぼれた。目的を果たすと急に気恥ずかしくなり、希美は縮こまる。

「あ、じゃあ……それだけなので」
「今度何か返すな」

 礼司がにっこりと笑う。希美は控えめに顔を横に振った。

「え、いいですそんな」
「まあ貰えるもんは貰っとけよ」
「あ、ありがとうございます……」

 希美は遠慮を飲み込み、胸元を両手で握る。礼司の優しい顔に食い下がる気にはなれなかった。



 チョコレートの贈答を終え、希美と礼司は廊下を並んで歩いていた。教室棟へ戻るため角を曲がろうとしたとき、希美の目の前にボールが飛んできた。ドッジボールのような見た目のものだ。視認こそ出来たが、一瞬のことで希美は驚きに硬直してしまった。

『あ』

 希美は何故か瞬間的に自分の幻想世界のことを思い出した。走馬灯のような感覚が希美の頭を巡る。希美の顔にボールがぶつかる直前、何かが希美を守った。遅れて希美は反射的に両腕を前に出し目をつぶる。数回床にボールの跳ねる音がした。おそるおそる目を開けた希美の目の前には、黒い盾のようなものがそびえていた。それがハネによる礼司の影だと、希美にはすぐに分かった。

「あ……」

 状況を飲み込もうと、希美は影の盾と礼司の顔を交互に見る。礼司もひどく焦った顔をしていた。

「あっぶねーな……!」

 影の向こう……おそらく少し離れた地点から男子生徒の呼びかける声が響く。

「ごめん! 大丈夫?」
「は? 室内で質量あるもん投げんな! あぶねーだろうが!」

 吠えつつ、礼司は影の実体化を解いた。一人の男子生徒が走り寄ってくる。数名の仲間も遠巻きだが頭を下げていた。

「ほんとにごめん。大丈夫?」
「あ、だ、大丈夫……です」

 ぼんやりと答えを返す。希美の頭はまだ混乱から回復しきっていなかった。

「全然大丈夫じゃねえ」

 礼司がイライラと呟く。希美は眉根を寄せて礼司を見た。

「え、先輩怪我したんですか!?」
「いや、俺は大丈夫。ごめん」

 気まずそうに礼司は手を横に振る。希美はホッと胸をなでおろした。

「ほんとにごめんね!」

 両手で謝罪のポーズをつくり、男子生徒は走り去っていった。礼司が大きく舌打ちをする。その後空になった手のひらに気付いたのか、慌てて床を見つめた。

「あ、落とした……クソ」

 礼司はそっと落ちているチョコレートを拾う。希美の思考はそこでやっと事象に追いつき始めた。

「あの、ありがとうございます……私全然動けなくて」
「いいよ。災難だったな。中身大丈夫かこれ……」

 しゃがみ込み、礼司はチョコレートの箱を様々な角度から眺めた。希美の心臓は驚きとときめきで早鐘を打っている。胸を押さえて礼司を見つめた。

『先輩が私を守ってくれた……私の現実を……』

 希美はきゅっと唇を噛みしめる。閉じ込めようとしたが、気持ちは声としてあふれてきた。

「私のハネは、私の現実を助けられないときもあって……」

 礼司はキョトンとして希美の顔を見た。

「先輩のハネが、私の現実を助けてくれた……」

 希美は心のままに告げる。礼司は少しだけ目を見開いた。

「きゅ、急にすみません。びっくりして……う、嬉しくて」

 我に返り、希美は言葉を重ねて照れを隠した。礼司の表情がふわりとほころぶ。

「香坂のハネ……幻想は、いつも俺を助けてくれるよ」

 そう言って礼司はチョコレートの箱を掲げた。希美の胸は愛しさでいっぱいになる。礼司への感情だけで体中が満たされたような感覚だった。涙が出そうな涙腺を叱咤し、希美は静かに微笑み返した。