夕暮れの風紀委員室で、希美にははっきりと理解できた。礼司は窓の件に関係ない、そのことが理屈抜きで腑に落ちる感覚だった。心のもやが晴れ、希美の気持ちは澄んでいく。希美は真っ直ぐに礼司を見つめ返した。
「疑ってません」
それは今の希美の確かな真実だった。礼司の不安はそのまま礼司の無実の証明になる気がした。礼司は一瞬泣きそうな表情になり、そのまま希美から顔をそらした。
「ごめん、何でもない」
「あの」
「お疲れ。また今度」
礼司はおもむろに席を立つ。扉に向かう礼司とすれ違ったが、希美から礼司の表情は見えなかった。音の無くなった風紀委員室で、希美は一人唇を噛みしめる。空虚な風が希美の胸中に吹いていた。
いつまでも風紀委員室にいても仕方がないと、希美は帰路についていた。校舎から門へ続く道を由佳と歩いていく。由佳が心配そうに希美を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「え?」
「元気ないよ」
希美の瞳が揺らぐ。由佳の真心が嬉しかったし、気を揉ませているのは申し訳なかった。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「そう……」
由佳はそれ以上何も言わなかった。
『大丈夫……私は、大丈夫』
自分に言い聞かせながら、希美は「何でもない」という礼司の言葉を思い起こす。その時の泣きそうな表情も脳裏に浮かんできた。
『先輩、大丈夫かな……』
希美は少しだけ目を伏せる。
『先輩には、元気でいてほしい』
希美の鞄にはチョコレートが入ったままになっていた。
一個人の感情をよそに、日常は何事もなく回っていく。臨時風紀委員会から数日が経過した。昼休み、希美と由佳は移動教室から戻るために廊下を歩いていた。反対側から礼司が歩いてくる。それ自体はよくあることだった。だがいつもと違い、礼司は希美と目が合った瞬間、壁の方に目を背ける。
『あ……』
希美の顔には一瞬傷ついた気持ちがにじんだが、すぐにキリッと表情筋を引き締めた。柔らかい微笑みをつくり、明るく声を出す。
「おはようございます、先輩」
「お、はよ……」
礼司は目をそらしたまま、ぽそぽそと返事をした。希美と礼司はすれ違い、各々の進行方向へ進んでいく。希美は歩きながらギュッと胸元を握った。突然由佳が希美の腕を取り、自分の腕と組み合わせる。
「わ」
「やはりここは……」
「え?」
「名探偵の出番じゃない?」
「はい?」
目を輝かせた由佳と対照的に、希美はキョトンとしていた。そこまでの話を聞いていなかったこともあり、状況が飲み込めない。
「風紀室に行こうよ! 現場百回!」
「それ刑事じゃない?」
ツッコミつつも、希美は朗らかな笑みを浮かべる。自分と関係なく、どんなときも元気な由佳の様子は希美に活力を分けてくれた。
「とにかく行こうよ! 中見てみたい!」
「それが本音でしょ。まあいいや、案内するよ」
希美もにっこりと由佳に微笑みかけた。二人は風紀委員室に向かい始める。組まれた腕は解かなかった。
風紀委員室には心なし風が強く吹き抜けているようだった。希美と由佳はそっと中に入る。入室するやいなや、由佳が希美を制した。
「希美! どっかにお菓子がある!」
希美は首を傾げる。由佳は構わず辺りを見回した。
「ここに? 気のせいじゃないかな……」
希美の言葉をスルーし、由佳は棚やロッカーを開けていく。希美はぼんやりと由佳の背を見つめた。いくつかの棚を開けた後、由佳が大声を上げた。
「ほら!」
「えっ嘘」
由佳の側に歩み寄り、希美も棚の中を覗き込む。たしかにそれはお菓子だった。開封済みのせんべいやクッキーなどの大袋の口を閉じたものがまとめて置かれている。
「すごい……」
「ちょっと香るんだよね」
由佳は得意げな顔をする。希美は苦笑した。希美の鼻には無臭だったからだ。その時、風紀委員室の扉が開けられた。
「誰かいるのか?」
橋村が顔を出す。希美と由佳は驚いて振り向いた。
「せんせー! びっくりした」
「何してんだこんなとこで」
「捜査です!」
「あらぬ疑いかけられるぞ。よしなさい」
呆れたような忠告に、二人はそれぞれ返事をする。希美は報告に丁度いいと棚を指さした。
「先生、ここに……」
「そうそう! お菓子!」
由佳も勢いよく同調する。
「あ? あー……」
橋村は何故か腕を組んで考え込んだ。
「「?」」
「それ先生の私物。すまん」
「えー!」
「分けとくと便利なんだよ」
由佳の非難の声も橋村は軽くかわす。希美も少しだけ責めるような声を出した。
「よくないですよ」
「はい……反省。いいからとっとと帰りなさい」
橋村が本当に反省しているかは疑問が残ったが、せかされて希美と由佳は部屋を出た。橋村も希美たちとは反対方向に去っていく。空の風紀委員室にはお菓子が残されるだけになった。
教室に戻ろうと希美と由佳は廊下を歩いていた。二年生の教室近くを通りかかる。窓にもたれた礼司の姿が希美の目に映ったが、礼司はまた顔をそらした。希美は悲しみを隠して笑顔をつくる。
「こんにちは、先輩」
「ああ……」
希美は会釈をして礼司の前を通り過ぎた。数秒後、背後から手を取られ、希美は反射的に振り向く。礼司が希美の片手首をつかんでいた。
「ごめん、ちょっといいか」
「は、はい……えっと」
目をしばたたかせ、希美は由佳を見る。
「いいよ。先に戻るね」
由佳は元気よく微笑んだ。
「ありがとう」
由佳に微笑み返し、希美は礼司に目を戻す。礼司は気まずげな表情をしていた。
「悪い。急に声かけて」
「いえ。大丈夫ですよ」
希美はつとめて明るい表情で両手のひらを横に振る。
「風紀室……の前まで行っていいか? あそこはほとんど人通りがないから」
「わかりました」
礼司の提案を二つ返事で受ける。希美にとっては来た道を帰ることになるが、構わなかった。
先ほどまで由佳といた風紀委員室。その前の廊下に希美は戻ってきていた。礼司はまた窓に体をもたれさせる。希美は少し間を開けて隣に立った。礼司は大きく息をつくと、口を開いた。
「この間はごめん、香坂」
「えっと……」
希美は目を泳がせる。礼司は続けた。
「香坂にひどいことを言った」
真剣な表情の礼司に対して口を挟めなかったが、希美には心当たりがない。バレないように考え込んだ。
「俺を疑ってるのかって」
「あ、ああ。そんな。ひどくないし、気にしてないです!」
希美も他に検討がつかなかったのでそうかなとは感じていたが、ここまで真摯に謝られるとは考えていなかった。礼司に届くよう、優しく言葉を返す。
「先輩の方が、ずっと傷ついてた」
礼司は眉間にしわを寄せる。泣きそうな気持ちをこらえているように見えた。
「そんなはずないのに。香坂も、親戚たちみたいにって」
「不安になるの当然だと思います。先輩は、優しいし」
礼司は言葉を探しているのか唇を強く噛んだ。希美は少し目線をずらして窓を眺める。
「……一瞬頭をよぎったんです。すぐ違うってわかったけど、先輩には伝わったんだと思う……私がご親戚の方々と同じだったから……すみませんでした」
希美は苦しそうに、それでも真っ直ぐ礼司を見つめた。
「香坂はあの人たちとは違うよ」
礼司がはっきりと告げる。希美の瞳がこみ上げた涙に揺れた。
「疑ってないって言いきってくれて嬉しかったし、聞いた自分が情けなかった」
「先輩」
希美は言葉を詰まらせる。礼司は身体からも顔からも力を抜き、頬をゆるませた。
「避けたりしてごめん。喧嘩してないけど、仲直り、いいか」
「もちろんです!」
礼司の差し出された手を握り、希美は心からの笑みを浮かべる。礼司にいつも元気でいてほしいという希美の願いは、人知れず風に乗って廊下を吹き抜けていった。
「疑ってません」
それは今の希美の確かな真実だった。礼司の不安はそのまま礼司の無実の証明になる気がした。礼司は一瞬泣きそうな表情になり、そのまま希美から顔をそらした。
「ごめん、何でもない」
「あの」
「お疲れ。また今度」
礼司はおもむろに席を立つ。扉に向かう礼司とすれ違ったが、希美から礼司の表情は見えなかった。音の無くなった風紀委員室で、希美は一人唇を噛みしめる。空虚な風が希美の胸中に吹いていた。
いつまでも風紀委員室にいても仕方がないと、希美は帰路についていた。校舎から門へ続く道を由佳と歩いていく。由佳が心配そうに希美を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「え?」
「元気ないよ」
希美の瞳が揺らぐ。由佳の真心が嬉しかったし、気を揉ませているのは申し訳なかった。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「そう……」
由佳はそれ以上何も言わなかった。
『大丈夫……私は、大丈夫』
自分に言い聞かせながら、希美は「何でもない」という礼司の言葉を思い起こす。その時の泣きそうな表情も脳裏に浮かんできた。
『先輩、大丈夫かな……』
希美は少しだけ目を伏せる。
『先輩には、元気でいてほしい』
希美の鞄にはチョコレートが入ったままになっていた。
一個人の感情をよそに、日常は何事もなく回っていく。臨時風紀委員会から数日が経過した。昼休み、希美と由佳は移動教室から戻るために廊下を歩いていた。反対側から礼司が歩いてくる。それ自体はよくあることだった。だがいつもと違い、礼司は希美と目が合った瞬間、壁の方に目を背ける。
『あ……』
希美の顔には一瞬傷ついた気持ちがにじんだが、すぐにキリッと表情筋を引き締めた。柔らかい微笑みをつくり、明るく声を出す。
「おはようございます、先輩」
「お、はよ……」
礼司は目をそらしたまま、ぽそぽそと返事をした。希美と礼司はすれ違い、各々の進行方向へ進んでいく。希美は歩きながらギュッと胸元を握った。突然由佳が希美の腕を取り、自分の腕と組み合わせる。
「わ」
「やはりここは……」
「え?」
「名探偵の出番じゃない?」
「はい?」
目を輝かせた由佳と対照的に、希美はキョトンとしていた。そこまでの話を聞いていなかったこともあり、状況が飲み込めない。
「風紀室に行こうよ! 現場百回!」
「それ刑事じゃない?」
ツッコミつつも、希美は朗らかな笑みを浮かべる。自分と関係なく、どんなときも元気な由佳の様子は希美に活力を分けてくれた。
「とにかく行こうよ! 中見てみたい!」
「それが本音でしょ。まあいいや、案内するよ」
希美もにっこりと由佳に微笑みかけた。二人は風紀委員室に向かい始める。組まれた腕は解かなかった。
風紀委員室には心なし風が強く吹き抜けているようだった。希美と由佳はそっと中に入る。入室するやいなや、由佳が希美を制した。
「希美! どっかにお菓子がある!」
希美は首を傾げる。由佳は構わず辺りを見回した。
「ここに? 気のせいじゃないかな……」
希美の言葉をスルーし、由佳は棚やロッカーを開けていく。希美はぼんやりと由佳の背を見つめた。いくつかの棚を開けた後、由佳が大声を上げた。
「ほら!」
「えっ嘘」
由佳の側に歩み寄り、希美も棚の中を覗き込む。たしかにそれはお菓子だった。開封済みのせんべいやクッキーなどの大袋の口を閉じたものがまとめて置かれている。
「すごい……」
「ちょっと香るんだよね」
由佳は得意げな顔をする。希美は苦笑した。希美の鼻には無臭だったからだ。その時、風紀委員室の扉が開けられた。
「誰かいるのか?」
橋村が顔を出す。希美と由佳は驚いて振り向いた。
「せんせー! びっくりした」
「何してんだこんなとこで」
「捜査です!」
「あらぬ疑いかけられるぞ。よしなさい」
呆れたような忠告に、二人はそれぞれ返事をする。希美は報告に丁度いいと棚を指さした。
「先生、ここに……」
「そうそう! お菓子!」
由佳も勢いよく同調する。
「あ? あー……」
橋村は何故か腕を組んで考え込んだ。
「「?」」
「それ先生の私物。すまん」
「えー!」
「分けとくと便利なんだよ」
由佳の非難の声も橋村は軽くかわす。希美も少しだけ責めるような声を出した。
「よくないですよ」
「はい……反省。いいからとっとと帰りなさい」
橋村が本当に反省しているかは疑問が残ったが、せかされて希美と由佳は部屋を出た。橋村も希美たちとは反対方向に去っていく。空の風紀委員室にはお菓子が残されるだけになった。
教室に戻ろうと希美と由佳は廊下を歩いていた。二年生の教室近くを通りかかる。窓にもたれた礼司の姿が希美の目に映ったが、礼司はまた顔をそらした。希美は悲しみを隠して笑顔をつくる。
「こんにちは、先輩」
「ああ……」
希美は会釈をして礼司の前を通り過ぎた。数秒後、背後から手を取られ、希美は反射的に振り向く。礼司が希美の片手首をつかんでいた。
「ごめん、ちょっといいか」
「は、はい……えっと」
目をしばたたかせ、希美は由佳を見る。
「いいよ。先に戻るね」
由佳は元気よく微笑んだ。
「ありがとう」
由佳に微笑み返し、希美は礼司に目を戻す。礼司は気まずげな表情をしていた。
「悪い。急に声かけて」
「いえ。大丈夫ですよ」
希美はつとめて明るい表情で両手のひらを横に振る。
「風紀室……の前まで行っていいか? あそこはほとんど人通りがないから」
「わかりました」
礼司の提案を二つ返事で受ける。希美にとっては来た道を帰ることになるが、構わなかった。
先ほどまで由佳といた風紀委員室。その前の廊下に希美は戻ってきていた。礼司はまた窓に体をもたれさせる。希美は少し間を開けて隣に立った。礼司は大きく息をつくと、口を開いた。
「この間はごめん、香坂」
「えっと……」
希美は目を泳がせる。礼司は続けた。
「香坂にひどいことを言った」
真剣な表情の礼司に対して口を挟めなかったが、希美には心当たりがない。バレないように考え込んだ。
「俺を疑ってるのかって」
「あ、ああ。そんな。ひどくないし、気にしてないです!」
希美も他に検討がつかなかったのでそうかなとは感じていたが、ここまで真摯に謝られるとは考えていなかった。礼司に届くよう、優しく言葉を返す。
「先輩の方が、ずっと傷ついてた」
礼司は眉間にしわを寄せる。泣きそうな気持ちをこらえているように見えた。
「そんなはずないのに。香坂も、親戚たちみたいにって」
「不安になるの当然だと思います。先輩は、優しいし」
礼司は言葉を探しているのか唇を強く噛んだ。希美は少し目線をずらして窓を眺める。
「……一瞬頭をよぎったんです。すぐ違うってわかったけど、先輩には伝わったんだと思う……私がご親戚の方々と同じだったから……すみませんでした」
希美は苦しそうに、それでも真っ直ぐ礼司を見つめた。
「香坂はあの人たちとは違うよ」
礼司がはっきりと告げる。希美の瞳がこみ上げた涙に揺れた。
「疑ってないって言いきってくれて嬉しかったし、聞いた自分が情けなかった」
「先輩」
希美は言葉を詰まらせる。礼司は身体からも顔からも力を抜き、頬をゆるませた。
「避けたりしてごめん。喧嘩してないけど、仲直り、いいか」
「もちろんです!」
礼司の差し出された手を握り、希美は心からの笑みを浮かべる。礼司にいつも元気でいてほしいという希美の願いは、人知れず風に乗って廊下を吹き抜けていった。
