きみのポケットに入ってた恋

 一限目の前の休み時間、希美は呆けていた。由佳はパタパタと希美の机を挟んで向かいに立つ。

「びっくりしたね!」
「う、うん」
「ねえなんか見た?」
「い、いやいや! 見てないし今知ったよ!」
「そうなんだ」

 由佳がつまらなさそうに呟く。由佳とわちゃついていた希美の視界に紗耶香がフレームインした。

「二人ともおはよう」

 希美と由佳はそれぞれ挨拶を返す。紗耶香は憂いげに希美を見つめた。

「大変だね、聞き取り。授業中なの?」
「そういやそうだ……休み時間? かなあ?」

 希美はぼんやりと首を傾げる。由佳の表情が不満そうに歪んだ。

「えー、休み時間つぶすのおかしくない?」
「ああでも、人数いるから授業中かも」

 由佳の顔はパッと晴れる。

「ラッキーじゃん」
「ラッキーじゃない! そうだったら内容教えてね」
「寝ちゃうかも」
「ちょっと!」

 希美と由佳がコントを繰り広げている側で、紗耶香はくすくすと笑った。

「私でよければ教えるよ」
「ほ、ほんと? ありがとう」
「たすかるー」
「由佳ちゃんは寝ない!」

 希美は瞬間的に突っ込んだ後、教室の外に想いを巡らせた。

『先輩は何か知ってるのかな……?』

 風紀委員室で遠くを見つめていた礼司の姿が希美の脳裏に映し出される。

『先輩だって、何も知らない……きっと』

 希美は嫌な想像をした。礼司が窓を割るところを。そんな想像をする自分がもっと嫌で、希美は静かに唇を噛んだ。



 かくして聞き取りは行われた。授業中、空き教室へ風紀委員は一人ずつ呼ばれていった。順番が回ってきた希美は、橋村と向かい合って座っている。

「形式として一応風紀委員個別に話を聞いてるんだが、まあ何も知らないよな?」

 橋村が薄笑いで問いかけた。希美はこくりと頷く。

「だよなあ。まあ一応、一応な」
「はい」

 緊張に身をかがめる希美に、橋村は一つ目の質問を投げかけた。

「香坂はやってない?」
「や、やってません!」

 希美は勢いよく返答した。橋村は一貫して落ち着いている。

「まあまあ、一応一通り。割ってるところ見た?」
「見てません……知りませんでした」
「うん。割った奴に心当たりは?」

 希美の脳裏に、一瞬よぎる人影があった。それを強く打ち消し、希美は口を開く。

「ありません」

 意識して全ての語をはっきりと発音した。橋村は特に気にする様子なく、次の質問に移った。

「昨日は風紀委員室行ってないよな?」

 希美の心臓が跳ねる。動揺が顔に出ないよう、神経をとがらせた。

「い……い、ってません」
「はい、ありがとう。悪かったな授業中に」
「いえ……」

 俯いた希美の頬を汗がつたう。

『不可抗力……黙ってたのは不可抗力だから』

 嘘を付きなれない希美は、一人脳内で言い訳を重ねた。

「じゃあ外で待ってる奴呼んでくれ。そのまま帰っていいぞ」
「はい」

 橋村にお辞儀をし、希美は空き教室の外に出た。壁にもたれるように立って待っていた礼司と目が合った。

「よお」
「先輩。あ、入っていいそうです」
「了解」

 入室していく礼司を横目に、希美はなんとなくその場を動けなかった。

『はやく戻らなきゃ……でも』

 希美がうろうろしている間に、中では聞き取りが始まった。橋村と礼司の声が希美の耳に漏れ聞こえてくる。

「速水か」
「はい」
『ああ、始まっちゃった……思ったより聞こえちゃう……ごめんなさいだって心配なんだもん!』

 希美は教室の前にとどまることにした。二人が喧嘩を始めたら止められるようにだと自己弁護をし、耳をすませる。

「速水はやってない?」
「やってません」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」

 顔が見えないことが更に希美の不安を煽った。希美は片手でぎゅっと胸元をつかむ。

『私の時と違う……なんで聞き返すの……』

 橋村の声の調子が軽いことだけが救いだった。

「昨日……風紀室は行ってない?」
「……行ってない」
「ほんと?」

 声が途切れる。一瞬の沈黙だったが、希美にはひどく重たく感じられた。礼司の低い声が宙を通る。

「行ってない。本当に知らない」
『先輩……』

 希美は胸が締め付けられる心地がした。礼司が本当のことを言えないのは自分のせいかもしれないと思うと、足元がぐらつくようだった。

『先輩のはずない……」

 俯いた希美の瞳が潤む。次の風紀委員がやってきた気配を感じ、希美は慌ててその場から離れた。



 その後の授業の記憶は希美にほとんど残らなかった。やきもきしながら一日を終えた希美は、臨時委員会のため風紀委員室にいた。
 窓には一か所ガムテープが貼られている。希美はちらりと窓際の礼司を見た。礼司はどこか神妙な面持ちで橋村を眺めている。橋村が何事か話していたが、希美の頭は礼司のことでいっぱいでそれどころではなかった。

『先輩……』

 希美が唇を噛みしめる。頭の中はまとまらないが、それでも礼司本人と話をしたかった。



 定例のものより随分はやく委員会は終わった。
 委員たちが続々と退室し始める中、礼司は席を立たなかった。礼司の片手がポケットにつっこまれる。

『あ』

 希美はその行動の意味を知っている。考え事をしている時の癖……そうすると礼司はいつも落ち着くようだった。だが今の礼司はそれをしても心の安定を取り戻せないのか、小さく舌打ちをした。希美はそっと席を立ち、礼司に近寄っていく。礼司の目が希美に向いた。

「香坂」
「あの……お疲れ様です」
「ああ、香坂もお疲れ」

 礼司の頬に笑みが浮かぶ。希美は切なさに唇を噛んだ。謝らなくてはならないと強く感じた。

「あの、すみませんでした」
「? 何が?」
「少しだけ……先輩と先生が話してるの聞いてしまって……」

 礼司が顔をこわばらせる。希美は言葉を重ねた。

「心配で……ごめんなさい」
「いや……まああの部屋割と聞こえたからな」

 軽く言いつつ、礼司の声は震えていた。暗色の沈黙が風紀委員室に流れる。

「あの」
「香坂も」

 続けようとした希美の言葉を、礼司が遮った。

「香坂も俺のこと、疑ってる?」

 礼司はじっと希美の目を見つめた。その瞳は揺れている。思いがけない言葉に、希美は目を見開いた。ただ一瞬のことだったが、そこには永遠のような時間があった。