きみのポケットに入ってた恋

 ほどなくして礼司は挨拶し、通話を切った。礼司の顔からはみるみる笑顔が消え、眉間にしわが寄っていく。

「クソッ!」

 吐き捨てるような礼司の声が響いた。希美の身体が驚きに強張る。思わず半歩後ずさった。床と希美の上靴が擦れ、音が鳴った。この場に不似合いな、間抜けな音だ。礼司が勢いよく顔を上げる。希美は気まずい心持ちのままおずおずと顔を出した。

「あ、あの……」
「香坂、なんで……」

 礼司が目をしばたたかせる。

「あの、えっと、話せば長くて……」

 希美は言葉が見つからずに口ごもった。礼司はバツが悪そうな顔で後頭部をかく。

「えっと、あー、今の聞いてた? つーかどっから、あー……」
「あの、ちょっとしか聞いてないです! いや! 聞くつもりで聞いていたわけではなくて! 聞こえてしまったというか!」
「あ、あー。いや、ちょっと落ち着こう。俺も香坂も。一回深呼吸しよう」
「は、はい」

 礼司と希美は数回息を大きく吸い、吐き出した。二人の間の混乱と困惑は少しだけ溶けたようだった。沈黙が辺りを包む。礼司は短く息をついた。

「あれだよな。風紀室に用だったんだよな?」
「あ、えーっと……」
「あれ、違う?」

 答えを濁した希美の様子に、礼司が首を傾げる。希美はぽそぽそと言葉を紡ぎ始めた。

「あの……図書室で先輩を見かけて……」
「うん。うん?」

 自分を指す「先輩」という言葉にまた首を傾げていたが、礼司は遮らずに続きを待っていた。希美はせわしなく両手を胸の前で組み替えている。

「なんかいつもと違ってて……その後廊下でもすれ違ったんですけど」
「ああ。そうだな」
「元気ないみたいだったから……どうしたのかなって」

 礼司はキョトンと目を丸くした。

「俺? に会いに?」
「あの、たまたま未開封のチョコ持ってたから……渡したら元気出るかなって……」

 予期せぬ返答を受け、礼司は小さく吹き出す。

「す、すみません……」
「いやごめん。ありがとう」

 言いながら礼司は笑っていた。希美は今になって恥ずかしさがこみ上げてきた。小さく身をかがめる。

「そっか。元気ないの、そんな露骨だった?」
「いえ……そんな気がしただけです」
「だよな。他の奴はそんなこと言わなかったし」

 礼司は慈しむような目で希美を見つめた。

「ほんとに人のことよく見てるんだな、香坂は」

 曖昧に微笑み、希美は言葉を飲み込む。先輩だけです、とは言えなかった。

「あの、だからこれ……」
「香坂」

 チョコレートを差し出そうとする希美を、礼司が制した。

「はい」

 希美の口からはどこか抜けた返事が出た。

「ここだとちょっとな……風紀室行かない?」
「へ?」
「先輩の元気ない話。ちょっと聞いてけよ」

 礼司がニヤリと笑う。今度は希美が目をしばたたかせる番だった。

「えっ。あの、なんか勝手に、聞いたら良くない話なのかなって」
「うん。内緒話」
「それは……私が聞いて良いんですか?」
「香坂が良いなら。やだ?」

 先ほどとは異なり、礼司はふっと透き通る笑い方をした。

「そんな……わ、私で良いなら」
「さっきからそう言ってるよ。ありがとう、時間貰って悪いな」
「い、いえ……! 先輩には、元気でいてほしいから」

 希美は思いのまま言葉を尽くす。礼司は少しだけ目を見開いた後、頬の赤みを隠すように口元を触った。

「あー、うん。ありがとう」
「はい!」

 ニコニコと笑い、希美は大きく頷いた。



 予定の入っていない風紀委員室は閑散としていた。希美と礼司が入室しても、空気は変わらず澄んでいる。室内は窓からの陽光で薄明るい。礼司は電灯のスイッチをスルーして窓際に向かった。いつも使っている机にかける。続いて希美が隣に座った。

「それで……どっから聞こえてた?」
「本当に少しだけ……犯罪はしない、とかなんとか」

 礼司が軽く吹き出す。

「わけわかんないよな。そこだけだと」
「はい……」

 希美はゆっくりと頷いた。礼司は考えるそぶりをする。

「あー、事情が取っ散らかってるというか……元気なかったの、大した理由じゃなくて」

 再度頷き、希美は静かに話の続きを待った。

「親戚の集まりがあるんだ。嫌いでさ」
「そうなんですね」
「でもなんつーか立場? 出ないわけにもいかなくて」
「大変だ」

 希美は特筆して親戚と仲が悪いわけではなかったが、その気持ちはなんとなく想像できた。出ないわけにいかない、という時点だけでも礼司の嫌いな心に共感できる。

「あー、それでさっきの話なんだけど。俺、親戚筋に一人やらかした奴がいるんだよ」
「やらかした……?」
「強盗致傷」
「ごっ……」

 希美は絶句した。予想通りの反応だったのか、礼司は苦笑する。

「昔は随分懐いてたから……何かと同一視されんだよな」
「えっ、ひどい。関係ないじゃないですか」

 希美の表情に非難がにじむ。黒板の方を向いたまま、礼司は力無く笑った。その後すぐに無表情になる。

「まあそうなんだけど……同じなんだ」
「?」
「ハネ。そいつも影のハネだった」

 言葉の意味をうまくつかめず、希美はポカンとする。

「ハネで人を傷つけたんだよな」

 礼司は黒板よりも更に遠くを見ているようだった。

「俺もいつかハネで人を傷つけるんじゃないかって思われてる」

 礼司の声からは、怒りよりも諦めが濃く香っている。

「ひどい……!」

 希美の体内の怒りが言葉になってこぼれた。

「先輩は人を傷つけたりしない。ハネだって防御特化だって言ってたじゃないですか!」
「おお、よく覚えてんね」
「恐縮です!」

 希美は勢いよく答える。

「そうなんだよな……まああんまり聞いてねえっていうか、言いたいだけなんだろうな」
「ひどい。そんな集まりは出なくていいです!」
「だよなあ。まあそうもいかないんだけど」

 礼司は薄く微笑んだ。希美は口をつぐむ。なんとなく察せられた。礼司が口にしなかった様々な感情には、どんな言葉もふさわしくない気がした。

「変な話してごめん。聞いてくれて嬉しかった」

 柔らかい声で礼司が締めくくる。その声音は一層強く希美の胸を締め付けた。

「あの、えっと……えっと!」
「ん?」

 なんとかして、少しでも礼司の心を軽くしたい。そう希美は思ったが言葉が出ない。きょろきょろとヒントを探すうち、希美は礼司のポケットを見つけた。顔を上げ、真っ直ぐ礼司を見つめる。

「先輩はポケットが、私もポケット……えーっと! だから……」

 焦りが先立ち、希美の唇は上手く回らなかった。もどかしさだけが希美の心に募っていく。礼司は吹き出すように笑った。

「ありがとう。伝わってる」

 切なさや情けなさ……様々な感情が希美の胸を埋める。感情の波に耐えようと希美は唇を噛んだ。

「香坂に話して良かった」

 静かに告げ、礼司は一等優しく微笑んだ。希美は絞り出すように返事をする。

「はい……私は先輩の味方です。私だけじゃなくて、いろんな人が」

 礼司は子供のように笑った。その後じっと自分の手を見つめ、穏やかな表情でそれをポケットに入れた。希美も自分のポケットの上に軽く触れる。口にしない感情もポケットの中で繋がっている。そんな気がして、希美はそっと目を閉じた。
 風紀委員室に差し込んだ陽光は、確かな暖かさで揺蕩っている。