きみのポケットに入ってた恋

 結局礼司のことばかり考えていた授業を終えた休み時間。由佳は特に約束が無くても希美の机へとやってくる。机を挟んでおしゃべりをするのがお決まりだった。寝起きのせいか、由佳のテンションは普段よりも低めだ。

「寝ちゃった……」
「見た」
「見られたー」

 由佳が希美の机にだらりと伸びる。希美は由佳の後頭部を見て微笑んだ。しばらくして由佳が顔を上げる。じっと希美を見つめた。

「な、なに?」
「希美さ、最近なんかあった?」

 希美の心臓が音を立てて跳ねる。

「な、なんかって、なに?」
「それはわかんないけどー、妙に楽しそうだったり……」

 由佳が指折り数える。聞きながら希美は唾を飲み込んだ。

「かと思えば上の空だったり! する!」

 由佳から目をそらし、希美はつとめて普段通りの声を出す。

「そうかな……」
「そうだよ」
「自分ではよくわかんない……」
「じゃあ気のせいかも」

 由佳はケロリと告げる。希美は思い切りズッコケた。

「ちょっと!」
「いやそんな気がしたんだけど、人のことなんてわかんないじゃん?」
「まあ、たしかに……」
「気のせいかあ」
「う、うん……」

 希美の目は四方に泳ぐ。

『ついごまかしてしまった』

 希美はちらりと由佳を確認した。由佳は特に気にしていないのかうにゃうにゃとつぶれている。

『初めてで、どうしたらいいか分からない……』

 唇を引き結び、希美は俯いた。由佳がまた顔を上げる。

「あ」
「な、なに」
「今日体育あるじゃん。最悪―」
「そ、そうだね……」

 希美はぎこちなく笑った。



 数刻後の第一体育館にて、1年A組の女子は体育の授業を受けていた。
 由佳はコートでバレーボールを追いかけている。数班に分かれてゲームをしていた。希美の振り分けられた班は先ほどプレイを終え、隅に座って休憩している。なんとなく由佳の動きを目で追っていた希美に、紗耶香が声をかけた。

「こんにちは」
「河嶋さん、こんにちは」

 紗耶香は希美の隣に小さくなって座る。二人の視線は自然と由佳に向かった。

「すごいね、桜井さん。バレー得意なんだ」
「球技は割と何でも好きみたいだよ」
「へえ。いいね」
「うん。かっこいい」

 自分が褒められたかのように、希美はニコニコと笑う。つられた紗耶香も優しく微笑んだ。連想ゲームで妖艶な笑みを向けられたときのことを思い出し、希美は思わず俯く。

『河嶋さんも、好きな人……いるんだっけ』

 希美はぎゅっと口元に力を入れた後、しばらくしてからそっと開いた。おずおずと言葉を紡ぐ。

「あ、あのさ」
「うん?」
「えっと、その……」
「なあに?」

 紗耶香が首を傾げた。希美は自分の膝を見たまま続ける。

「す、好きな人がいるって、どんな感じ?」
「へ?」
『へ、変な聞き方しちゃった!』

 わたわたと希美は挙動不審になる。

「いや、ちがくて、あの!」

 必死に言葉を探す希美の横で、紗耶香は静かに顔をほころばせた。

「きらきらした感じ」

 その時の紗耶香はまさしく絵画のようだった。希美が息を飲む。紗耶香は少しだけおどけた様子で首をひねった。

「で、あってる?」
「あ、う、うん! 変な聞き方してごめん……」
「ううん」

 紗耶香の受け答えは一貫して柔和だった。しかし飯田の話をするときは、声にも瞳にも燃えるような激しさがにじむ。希美にははっきりとそう感じられた。

『きらきらした感じ……』

 紗耶香の言葉を脳内で繰り返す。

「なんでそんなこと聞くの?」
「え!? えっと! なんか、そう! 気になって!」
「そうなんだ」
「う、うん。急にごめん」
「良いってば」

 謝りまくる希美に、紗耶香は困ったように笑った。希美は由佳に視線を向ける。由佳を見ながら、本当はもっと遠くを見つめていた。

『初めてだけど、河嶋さんみたいに全然積極的じゃないけど、でも』

 希美は記憶の大切な引出しにしまった、傘を持って微笑む礼司の様子を思い起こす。それはいつまでも褪せることなく希美の心にあった。

『きらきらした感じ、わかる』

 紗耶香に微笑み返すと、希美は体育館の天井を見た。

『やっぱり、好きなんだ』

 希美はどうしてかふいに泣きそうになった。唇を噛みしめて涙がこぼれそうになるのをこらえる。幸いにして紗耶香も、その他の人々も、希美の涙に気付くことはなかった。



 体育館から教室に戻る途中、希美と由佳は職員室の前を通りがかった。中から出てきた橋村が希美を呼び止める。

「香坂」
「はい」

 希美たちは歩みを止めて橋村を見た。橋村が紙束を掲げる。

「このプリント、風紀委員室に届けてくれないか?」
「えー、疲れてるんで無理でーす」

 間髪入れず、頼まれていない由佳が答えた。橋村は薄く笑う。

「頼む。そこをなんとか」

 突如始まったコントに笑いつつ、希美は頷いた。

「いいですよ」
「ありがとう。助かる」

 橋村が紙束を希美に渡す。由佳は呆れたように鼻を鳴らして続けた。

「感謝してくださいよね!」
「ありがとう。ほんとにありがとう!」

 橋村は大げさに由佳を拝む。

「なんで由佳ちゃんが答えるの! 先生も乗らないでください!」

 希美による抗議のツッコミが響く。由佳と橋村、そしてツッコミをした希美自身からも、状況の滑稽さに笑いが出ていた。



 由佳と別れた希美は、一人用事を済ませに風紀委員室に来ていた。プリントを指定の場所に届け終わると、部屋を後にする。風紀委員室の前の廊下で丁寧に扉を閉めた。扉が閉まる音と希美の背後からかけられた声が重なる。

「香坂」
「わっ」

 希美は驚いてのけぞった。

「っと、ごめん。急に声かけて」

 希美の前に、心配そうな表情の礼司が立っていた。

「い、いえ」

 希美はぎゅっと胸元を握る。

「歩いていくのが見えてさ」
「ああ、橋村先生に頼まれごとして」
「へえ」

 言葉には出さなかったが、礼司は明らかに苦そうな顔をしていた。橋村と礼司は折り合いが悪い。希美も気付いていたが、あまりにもあからさまな様子に思わず小さく笑みがこぼれた。礼司からは見えないように口元を隠す。礼司はすぐに柔らかい表情に戻った。

「昨日ありがとう。傘」
「いえ、気にしないでください」

 希美は両手をぶんぶん振った。その後少しだけ顔を伏せる。希美の胸には暖かいものが広がっていった。

『私のこと、気にしてくれた……』
「あー、それでさ」

 礼司が何事か言いかける。希美は顔を上げた。

「これお礼。大したものじゃないけど」

 差し出された礼司の手のひらに載っていたのは、手のひらサイズのクッキーだった。個包装されたものを数個まとめて包んだ市販品だ。希美は驚きに目を丸くした。

「え、そんな。悪いです!」
「別に悪くねーよ」

 礼司がおかしそうに笑う。

「あ、クッキー嫌い?」
「い、いえ! 大好きです!」
「じゃあはい」

 礼司は更に前にクッキーを差し出した。礼司が手を戻すことはなさそうだった。

「あ、ありがとうございます……すみません」

 希美はおずおずと両手を出す。

「いいえ」

 礼司の手から希美の手へ、クッキーが渡った。希美の瞳に小さなクッキーが大写しになる。

「大事に食べます……」
「普通に食べろって」

 礼司はまた笑った。

「そんだけ。またな」

 手を上げ、礼司が去っていく。

「はい、また。あの、ありがとうございました!」

 礼司の背に感謝を述べると、希美は手のひらの中のクッキーを見つめた。ゆっくりと目を閉じる。

『好き。大好き』

 そっと目を開け、希美は微笑みをたたえる。

「先輩にお菓子もらっちゃった……!」

 誰もいない廊下。希美は一人呟くと、抱えきれない気持ちをかみ砕くように小さく跳ねた。