図書室の本が夜になると人間になるので、司書やってます。

 廊下は薄暗かった。
 放課後の喧騒はとっくに消えていて、詠の上履きの音だけが硬い床に反響する。窓の外は茜色から紺色に変わりかけていた。四月の日暮れは早い。ついさっきまで明るかったはずの校舎が、もう影の中に沈んでいる。誰もいない廊下は昼間の三倍くらい長く感じた。
 図書室の前まで戻ると、扉の隙間から淡い光が漏れていた。

(電気、消し忘れ?)

 そっと扉を開ける。
 光は蛍光灯ではなかった。
 本棚だった。本棚そのものが内側から光っていた。背表紙の一冊一冊が心臓みたいに明滅して、棚全体がゆっくりと脈打っている。青白い光が天井にゆらゆらと映って、まるで図書室が水の底に沈んだみたいだった。詠は息を呑んだ。金縛りにあったように足が止まった。

 最初に見えたのは、泥のついた黒いコートだった。
 ボサボサの髪。やせた体。そして暗がりの中で、星みたいに光る目。本棚の前に立っていたその人は、人間の形をしていたけれど、人間ではなかった。輪郭がかすかに発光していて、足元に影がない。本棚の光を浴びて、全身がうっすらと透けている。
 目が合った。

「……君、人間?」

 低くて静かな声だった。責めているのでも驚いているのでもなく、ただ確認するように。暗い水面に小石を落としたような、静かな波紋だけを残す声。
 詠は答えられなかった。声が出なかった。上着を取りに来ただけだ。そう自分に言い聞かせようとしたけれど、上着のことはもう頭から吹き飛んでいた。

「人間が迷い込むなんて、珍しい」

 別の声がした。振り返ると、壁にもたれた男がいた。
 くたびれた白シャツに灰色のチノパン。前髪が目にかかっていて、唇の端がわずかに上がっている。笑っているのか嘲っているのか判別できない。腕を組んで、さも退屈そうにこちらを眺めている。
 その佇まいの全部が「興味ない」と言っているのに、目だけがこちらを見ている。その矛盾が、妙に引っかかった。よく見ると白シャツの袖口がほつれていて、本の登場人物がそのまま出てきたような生活感のなさがあった。

「わー! 人間だ!」

 今度は頭上から声が降ってきた。見上げると、本棚の上に女の子が座っていた。金髪のショートボブ。エプロンドレスみたいな服。靴下の色が左右で違う。両足をぶらぶらさせながら、満面の笑みでこちらを見下ろしている。
「なんで来たの? なんで今日? なんでここ? ねえお名前は? 好きな食べ物は? お茶会しない?」
 質問が機関銃みたいに飛んできた。答える隙がない。というより、質問の速度が人間の処理能力を明らかに超えていた。一つ目の質問を処理する前に六つ目が着弾している。

「アリア、紅茶がありません」

 奥の閲覧テーブルで、深い紫色の衣を纏った女性が扇を口元に当てて微笑んでいた。現代の服のはずなのに重ね着の層が多くて、どこか平安時代の十二単を思わせる。閉じた扇を指先で遊ばせながら、楚々とした所作で首をかしげている。存在そのものが絵巻物から抜け出したかのようだった。

「自販機の紅茶でいいよ!」
「……静かにして」

 最初に声をかけてきた黒いコートの人が、窓際に移動していた。窓枠に背を預けて、硝子の向こうの空をじっと見上げている。

「……星が、困っている」
「何が」と白シャツの男が即座に返した。
「……騒がしくて」
「星は困らねえよ」
「……困るよ」
「ポエマーすぎるだろ」
「……ポエムじゃない。聞こえるんだよ」
「聞こえない」
「……耳を澄ませていないから」
「澄ませても聞こえねえよ」

 白シャツの男のツッコミは容赦がなかったが、声に棘はなかった。日常の会話だった。毎晩こうやっているのだろう。決まったやりとりを決まった温度で繰り返す、彼らにとっての「普通」。

 詠は逃げなかった。
 足が動かなかったのだ。怖いからではない。目の前の光景が、あまりにも面白かったからだ。
 本棚から出てきた人たちが、紅茶がないと嘆いたり、星の気持ちを代弁したり、毒舌でツッコミを入れたりしている。こんな光景は現実にはありえない。夢か幻覚か、何かの間違いだ。
 でも足の裏には床タイルの冷たさがあるし、自販機のモーター音が遠くから聞こえるし、四月の夜の湿った空気が首筋に触れている。五感が全部「これは本物だ」と告げていた。

「あの……あなたたち、何?」

 やっと声が出た。震えていたけれど、それは恐怖のせいだけではなかった。胸の奥で何かが騒いでいた。この世界をもっと知りたいという、押さえきれない衝動みたいなもの。本の中にしかないと思っていたものが目の前にあるとき、人はどうするのが正しいのだろう。逃げるのか、それとも。
 紫色の衣の女性、紫乃が、扇を閉じてゆっくりと立ち上がった。

「私たちは『書人』と申します。この図書室の本から生まれた存在です。夜になると人の形を取り、朝が来れば本に戻ります」
「書人……」

 聞いたことのない言葉だった。でも、字面は想像がつく。書の人。本から生まれた人。昼間の教室で言えなかった「好きな本」が、夜の図書室では人の形になっている。その事実が、詠の中で静かに波紋を広げていた。

「私は紫式部の『源氏物語』から生まれました。あちらの騒がしいのがルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』から生まれたアリア。壁際の皮肉屋が太宰治の『人間失格』から生まれた零。そして窓際で星を見ているのが」
「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』……」

 詠の声がかすれた。黒いコートの彼が振り返った。星を見ていた目が、今度は詠を見ていた。

「……知ってるの」
「ジョバンニ……でしょ」

 泥のついたコート。暗闇の中で光る目。銀河鉄道に乗った少年。さっきまで鞄の中で読んでいた物語が、今、目の前に立っている。ページの中にしかいなかったはずの人が、呼吸をして、声を持って、窓際の光の中に存在している。現実と物語の境界が溶けていくような、めまいに似た感覚が詠を包んだ。
 ジョバンニが少しだけ目を見開いた。そしてゆっくりと頷いた。

「……うん。僕はジョバンニ」

 声が空気を震わせた。低く、静かで、少しだけ寂しい声だった。
 詠の心臓が、本のページをめくるときとは違う速さで鳴った。毎日読んでいた物語。父からもらった本。その中の少年が、今、名前を持って目の前に立っている。
 紫乃が続ける。声色がわずかに変わった。低く、重く。

「書人には、ひとつだけ避けられない定めがあります」

 空気が変わった。アリアが口をつぐんだ。零が壁から背を離した。図書室全体が息を止めたみたいだった。

「借りられなくなると、私たちの体は薄れていきます。一度も借りられない年が続けば消えます」
「消える……?」
「文字通り、消滅します。本棚には本だけが残り、私たちは二度と目を覚ましません」

 沈黙が落ちた。蛍光灯のない図書室で、本棚の淡い光だけが四人の書人を照らしていた。零は目を伏せていた。アリアは膝を抱えていた。紫乃は扇を握りしめていた。ジョバンニだけが、まっすぐ詠を見ていた。星の光みたいな目で。
 消える。この人たちが。読まれなくなったら。
 昼間の教室で「特にありません」と言った自分を思い出した。好きな本を好きと言わなかった。言わなかっただけで誰かが消えるわけではないと思っていた。でも、もし誰も借りなかったら。誰も手に取らなかったら。本棚に並んでいるだけの本は、静かに忘れられていく。そしてこの人たちは消える。
 その言葉が、胸の奥のどこかに突き刺さって、抜けなくなった。