四月の教室は、新しい匂いがする。
教科書のインク、上履きのゴム、誰かの制汗スプレー。全部混ざって「はじまり」の匂いになる。高校二年生の柊木詠にとって、それは五校目の「はじまり」だった。
「柊木詠(ひいらぎよむ)です。よろしくお願いします」
起立。礼。着席。三秒で終わる自己紹介。趣味も特技も言わなかった。言ったところで数か月後には関係なくなる。
父の転勤は突然やってくる。前の学校では文化祭の前日に転校が決まった。職員室に挨拶に行く詠の横を、クラスメートたちが教室の飾りつけの材料を手に笑いながら通り過ぎていった。準備していた模造紙は誰かが引き継いだらしい。らしい、というのは確認していないからだ。確認したところで何も変わらない。
あの模造紙に詠が描いたイラストは上から別の絵が貼られて、誰の記憶にも残らなかっただろう。転校を繰り返すうちに学んだことがある。人の記憶に残ろうとしないほうが、お互い楽なのだ。
席は窓際の後ろから三番目。悪くない。外が見えるし黒板も見える。何より、誰の視線の導線にも入りにくい。教室の中で一番透明でいられる席だった。
スマホが震えた。クラスのメッセンジャーアプリグループへの招待通知。承認ボタンを押してそのまま閉じた。既読はつけない。未読のまま放っておけば、誰も傷つかないと詠は思っている。本当は「自分が傷つかない」が正しいのだけれど、そのことには気づかないふりをしていた。
二時間目は国語だった。窓の外では桜が散っていた。花びらが風に乗って校庭を横切っていく。きれいだと思ったけれど、声には出さなかった。感想を共有する相手がいない。
担当の教師は丸眼鏡の年配の男性で、初回の授業だというのにやけに張り切っていた。
「せっかくだから、一人ずつ好きな本を紹介してもらおうかな。なんでもいいよ、漫画でも絵本でも」
教室がざわついた。「えー」「何にしよう」「本とか読まないんだけど」。出席番号順に当てられていく。ときどき笑いが起きる。詠の番が近づいてきた。
心の中で、言葉を組み立てていた。
『銀河鉄道の夜』。宮沢賢治。銀河を走る列車に乗った少年ジョバンニの話。友達がいなくて、夜の丘で一人きりで空を見上げていたジョバンニが、気がつくと銀河鉄道に乗っていて、隣には親友のカムパネルラがいる。二人は銀河を旅する。白鳥の停車場で降りたり、鳥を捕る人に出会ったり、十字架の輝く南十字を通り過ぎたり。でもあの物語には、
「次、柊木さん」
立ち上がった。口を開こうとした。教室の視線が集まる。転校生という肩書きは良くも悪くも注目を集める。
そのとき、前の席の男子が隣の友人に小声で囁いた。
「なんか暗そうな本好きそうじゃね」
聞こえた。
聞こえてしまった。
詠の口が閉じた。
三十分は語れる。ジョバンニの孤独のこと、カムパネルラの正体のこと、あの列車が本当はどこへ向かっていたのか。活版印刷所で働くジョバンニが級友にからかわれていたこと。父が帰ってこないこと。ジョバンニの寂しさは、この教室で語るにはあまりにも深くて繊細だ。
でも今はそんな言い訳で自分を守っている場合じゃなかった。違う。本当は、たった一言の陰口で膝が折れる自分が情けなかっただけだ。
「……特にありません」
「ないの? じゃあ次」
座った。膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込む。指先が白くなるのが見えた。好きな本を「好き」と言えなかった。たった一言が言えなかった。それが悔しいのか恥ずかしいのかもわからなくて、ただ手を握り続けた。
(言えばよかった)
そう思ったのは、次の人が話し始めてからだった。いつもそうだ。勇気が必要なのは一瞬だけなのに、その一瞬はいつも遅れてやってくる。口から出なかった言葉が喉の奥にたまって、飲み込むたびに苦い。
昼休み。購買に走った。この学校では廊下の掲示板に貼ってあった購買の人気ランキングでメロンパンが一位だった。しかし棚に並んでいたのはカレーパンとクリームパンだけ。メロンパンの札の前だけが、きれいに空っぽだった。
(どんだけ人気なの、メロンパン)
棚の前で二秒ほど立ち尽くしてから、しょうがないのでクリームパンを買った。レジのおばちゃんが「メロンパンは一限後に売り切れちゃうのよ。明日はお早めにね」と教えてくれた。一限後。早すぎる。
クリームパンを持って教室に戻ると、隣の席の女子が話しかけてきた。
木野瀬莉子。前髪をピンで留めた、ゆるふわ系女子。手首に小さなミサンガをつけている。
「転校生って大変だよね。私も小四のとき転校したからわかるよ」
「そうなんだ」
詠はそれだけ返した。それ以上の言葉を探そうとしなかった。仲良くなっても、どうせ。
この「どうせ」が詠の中に住みついたのは、三校目の転校のときだった。一番仲の良かった子に「また遊ぼうね」と言われて、最初の二か月はメッセージを送り合った。三か月目に間隔が空いた。半年後には既読がつかなくなった。
離れた場所にいる人間同士の友情には、とてつもない量の燃料がいる。子どもにはその補給方法がわからない。
「よかったら昼休み、一緒に食べない?」
莉子の声は押しつけがましくなかった。ただそこに差し出されていた。
「ごめん、図書室行くから」
莉子の表情が一瞬だけ曇ったことに、詠は気づかなかった。気づかないふりをしたのではない。本当に見ていなかった。詠はもう廊下の方を向いていた。
放課後。「今日カラオケ行くんだけど、柊木さんも来ない?」とクラスの女子グループに誘われた。全員の名前をまだ覚えていなかった。覚えようとしていなかった、というほうが正しい。
「ごめん、用事がある」
用事はなかった。
まっすぐ図書室へ向かった。二階の奥、突き当たりの左。階段を上がるたびに生徒の声が遠くなっていく。三階の音楽室からピアノの音が聞こえた。誰かが練習しているらしい。詠はその音を背中に聞きながら、古い木の扉を開けた。
本のにおいがした。紙とインクと、少しだけ埃の混じったあの匂い。どの学校にも図書室はある。棚の配置は違っても匂いだけは同じだ。それが詠にとっての唯一の安心だった。いつだって変わらないもの。裏切らないもの。
図書室には詠のほかに誰もいなかった。カウンターの上に「今月の新刊」と書かれたポップが立てかけてあるが、少し傾いている。棚と棚の間の通路を奥へ進むと、窓際に古びた木の机と椅子が並んでいた。窓から差す西日がオレンジ色の四角を床に描いている。
窓際の席に座って、鞄から文庫本を取り出した。『銀河鉄道の夜』。表紙はもう日に焼けて、背表紙にはひびが入っている。見返しのページに、父の字で「詠へ」と書いてある。幼い頃に読み聞かせをしてもらった本だ。この本を五回の転校のたびに鞄の底に入れて持ち歩いてきた。
(ここだけが、どの学校でも変わらない。本だけは、裏切らない)
チャイムが鳴った。五時半。詠は文庫本をしまって立ち上がり、鞄を肩にかけて図書室を出た。
上着を椅子の背にかけたままだと気づいたのは、昇降口の手前まで来てからだった。
教科書のインク、上履きのゴム、誰かの制汗スプレー。全部混ざって「はじまり」の匂いになる。高校二年生の柊木詠にとって、それは五校目の「はじまり」だった。
「柊木詠(ひいらぎよむ)です。よろしくお願いします」
起立。礼。着席。三秒で終わる自己紹介。趣味も特技も言わなかった。言ったところで数か月後には関係なくなる。
父の転勤は突然やってくる。前の学校では文化祭の前日に転校が決まった。職員室に挨拶に行く詠の横を、クラスメートたちが教室の飾りつけの材料を手に笑いながら通り過ぎていった。準備していた模造紙は誰かが引き継いだらしい。らしい、というのは確認していないからだ。確認したところで何も変わらない。
あの模造紙に詠が描いたイラストは上から別の絵が貼られて、誰の記憶にも残らなかっただろう。転校を繰り返すうちに学んだことがある。人の記憶に残ろうとしないほうが、お互い楽なのだ。
席は窓際の後ろから三番目。悪くない。外が見えるし黒板も見える。何より、誰の視線の導線にも入りにくい。教室の中で一番透明でいられる席だった。
スマホが震えた。クラスのメッセンジャーアプリグループへの招待通知。承認ボタンを押してそのまま閉じた。既読はつけない。未読のまま放っておけば、誰も傷つかないと詠は思っている。本当は「自分が傷つかない」が正しいのだけれど、そのことには気づかないふりをしていた。
二時間目は国語だった。窓の外では桜が散っていた。花びらが風に乗って校庭を横切っていく。きれいだと思ったけれど、声には出さなかった。感想を共有する相手がいない。
担当の教師は丸眼鏡の年配の男性で、初回の授業だというのにやけに張り切っていた。
「せっかくだから、一人ずつ好きな本を紹介してもらおうかな。なんでもいいよ、漫画でも絵本でも」
教室がざわついた。「えー」「何にしよう」「本とか読まないんだけど」。出席番号順に当てられていく。ときどき笑いが起きる。詠の番が近づいてきた。
心の中で、言葉を組み立てていた。
『銀河鉄道の夜』。宮沢賢治。銀河を走る列車に乗った少年ジョバンニの話。友達がいなくて、夜の丘で一人きりで空を見上げていたジョバンニが、気がつくと銀河鉄道に乗っていて、隣には親友のカムパネルラがいる。二人は銀河を旅する。白鳥の停車場で降りたり、鳥を捕る人に出会ったり、十字架の輝く南十字を通り過ぎたり。でもあの物語には、
「次、柊木さん」
立ち上がった。口を開こうとした。教室の視線が集まる。転校生という肩書きは良くも悪くも注目を集める。
そのとき、前の席の男子が隣の友人に小声で囁いた。
「なんか暗そうな本好きそうじゃね」
聞こえた。
聞こえてしまった。
詠の口が閉じた。
三十分は語れる。ジョバンニの孤独のこと、カムパネルラの正体のこと、あの列車が本当はどこへ向かっていたのか。活版印刷所で働くジョバンニが級友にからかわれていたこと。父が帰ってこないこと。ジョバンニの寂しさは、この教室で語るにはあまりにも深くて繊細だ。
でも今はそんな言い訳で自分を守っている場合じゃなかった。違う。本当は、たった一言の陰口で膝が折れる自分が情けなかっただけだ。
「……特にありません」
「ないの? じゃあ次」
座った。膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込む。指先が白くなるのが見えた。好きな本を「好き」と言えなかった。たった一言が言えなかった。それが悔しいのか恥ずかしいのかもわからなくて、ただ手を握り続けた。
(言えばよかった)
そう思ったのは、次の人が話し始めてからだった。いつもそうだ。勇気が必要なのは一瞬だけなのに、その一瞬はいつも遅れてやってくる。口から出なかった言葉が喉の奥にたまって、飲み込むたびに苦い。
昼休み。購買に走った。この学校では廊下の掲示板に貼ってあった購買の人気ランキングでメロンパンが一位だった。しかし棚に並んでいたのはカレーパンとクリームパンだけ。メロンパンの札の前だけが、きれいに空っぽだった。
(どんだけ人気なの、メロンパン)
棚の前で二秒ほど立ち尽くしてから、しょうがないのでクリームパンを買った。レジのおばちゃんが「メロンパンは一限後に売り切れちゃうのよ。明日はお早めにね」と教えてくれた。一限後。早すぎる。
クリームパンを持って教室に戻ると、隣の席の女子が話しかけてきた。
木野瀬莉子。前髪をピンで留めた、ゆるふわ系女子。手首に小さなミサンガをつけている。
「転校生って大変だよね。私も小四のとき転校したからわかるよ」
「そうなんだ」
詠はそれだけ返した。それ以上の言葉を探そうとしなかった。仲良くなっても、どうせ。
この「どうせ」が詠の中に住みついたのは、三校目の転校のときだった。一番仲の良かった子に「また遊ぼうね」と言われて、最初の二か月はメッセージを送り合った。三か月目に間隔が空いた。半年後には既読がつかなくなった。
離れた場所にいる人間同士の友情には、とてつもない量の燃料がいる。子どもにはその補給方法がわからない。
「よかったら昼休み、一緒に食べない?」
莉子の声は押しつけがましくなかった。ただそこに差し出されていた。
「ごめん、図書室行くから」
莉子の表情が一瞬だけ曇ったことに、詠は気づかなかった。気づかないふりをしたのではない。本当に見ていなかった。詠はもう廊下の方を向いていた。
放課後。「今日カラオケ行くんだけど、柊木さんも来ない?」とクラスの女子グループに誘われた。全員の名前をまだ覚えていなかった。覚えようとしていなかった、というほうが正しい。
「ごめん、用事がある」
用事はなかった。
まっすぐ図書室へ向かった。二階の奥、突き当たりの左。階段を上がるたびに生徒の声が遠くなっていく。三階の音楽室からピアノの音が聞こえた。誰かが練習しているらしい。詠はその音を背中に聞きながら、古い木の扉を開けた。
本のにおいがした。紙とインクと、少しだけ埃の混じったあの匂い。どの学校にも図書室はある。棚の配置は違っても匂いだけは同じだ。それが詠にとっての唯一の安心だった。いつだって変わらないもの。裏切らないもの。
図書室には詠のほかに誰もいなかった。カウンターの上に「今月の新刊」と書かれたポップが立てかけてあるが、少し傾いている。棚と棚の間の通路を奥へ進むと、窓際に古びた木の机と椅子が並んでいた。窓から差す西日がオレンジ色の四角を床に描いている。
窓際の席に座って、鞄から文庫本を取り出した。『銀河鉄道の夜』。表紙はもう日に焼けて、背表紙にはひびが入っている。見返しのページに、父の字で「詠へ」と書いてある。幼い頃に読み聞かせをしてもらった本だ。この本を五回の転校のたびに鞄の底に入れて持ち歩いてきた。
(ここだけが、どの学校でも変わらない。本だけは、裏切らない)
チャイムが鳴った。五時半。詠は文庫本をしまって立ち上がり、鞄を肩にかけて図書室を出た。
上着を椅子の背にかけたままだと気づいたのは、昇降口の手前まで来てからだった。
