まだキスもしていない私達



何気なく出た言葉。
アパートの前で固まり、顔が赤くなっていく先輩。
かくいう私も。
先輩は夕焼け空を見上げ、腕を組みながら。

「お、俺は構わない。でもな、ばれたら面倒じゃないか」

言い訳する先輩に、いつもだったら笑顔で終わらせる。
でも。
先輩に勢いよく近寄り、耳元で囁く。

「大丈夫、変なことはしませんから」

「…まあいいか」

すぐに了承してくれた先輩。
一瞬体が固まり、先輩のことを凝視してしまう。
すると、不意に怪訝な表情になり。

「葵ってその…他人の家に泊まった経験は?」

「んーと、友達とお泊り会なんかは」

私の言葉に、むすっとし始める先輩。
目を細める先輩に、首をかしげてしまうが。
軽く咳をし、先輩は慌てた様子のまま。

「そ、そうか…別にいいんだ、うん」

そっぽを向く先輩。
もしかして、先輩。
呆れた目で見続けるが、当の本人はなかったことにしている。
すると、私に背を向け何かをぶつぶつと呟き始める。

「葵、大丈夫だよな。もし、夜襲われでもしたら…」

こういうところだけ、妙にスイッチが入ると言うか。
先輩の前に立ち、とにかく手を握る。
はっとして私を見てくる。
私だって、精一杯動いてるのに。

「お、落ち着きましょう。お母さんに伝えてきます、警戒します…ほ、ほら」

辛うじて出た言葉。
先輩も小さくうなずき、一旦落ち着いてくれる。
目をきょろきょろとしている先輩だが、きっと大丈夫。
先輩の手をそっと離し、一旦別れることに。

「よ、夜来ます」

すたすたと足を動かし、先輩から距離を取る。
夕食はどんなものか、先輩とはどんな一日を過ごせるのか。
少しずつ体が緩くなり、ほっと一息ついていると。

「葵」

背中から、先輩の優しい声が。
ゆっくりと後ろを振り向くと、小さくなった先輩の姿が見える。
熱が復活しかける中、先輩は再び口を開く。

「今日は離さないからな」

低い声で言う先輩。

「うっ…そ、そうですか」

そのまま背中を見せ、今度こそ先輩はアパートの中へ入る。
私も再び背を向け、先輩のアパートから距離を取る。
今日は離さないからな
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

(やっぱり私…)

帰らない方が、いいのかもしれない。