狂気の魔法


蓮のマンションに到着すると、二人は広々としたダイニングに腰を下ろした。
二人でスマホを見ながら、あれこれと言い合って、候補を出しては、笑ったり渋い顔をしたり。
小さな駆け引きのようなやり取りを繰り返し、最終的に二人で選んだ料理を電話で注文した。

ほどなくして届いた料理をテーブルに並べ、食事が始まる。
パークの喧騒とはまるで違う静かな空間で、二人だけの食卓。
派手な会話はなくとも、互いの距離を測り合うような、どこか落ち着いた時間がゆったりと流れていった。

食事を終えると、自然な流れで「先に入ってきなよ」と蓮に促され、ゆりは浴室へ向かった。
洗面台の前で髪を解いていると、蓮が後ろから声をかける。

「ほら、前回の取っておいたから」

そう言ってミラーの扉を開けると、ガラス棚には蓮のハブラシのすぐ横に、以前一度だけ使ったゆりのハブラシがきちんと置かれていた。

「また連れ込む気満々だったやつじゃん」

「あたりまえじゃん」

ゆりが呆れたように視線を送ると、蓮はいつもの調子で肩をすくめる。
まるで悪びれる様子もなく返すその笑顔に、ゆりは思わず小さく息を吐いた。

「じゃあ、ごゆっくり〜」 

軽い調子で手をひらひらと振りながら、蓮は脱衣室を出て行く。

湯に身を沈めた瞬間、張りつめていた身体がじんわりと解けていく。
仕事で走り回った一日の疲れが、熱い湯と共に少しずつ洗い流されるようで、ゆりは目を閉じて小さく息をついた。

やがて蓮も順番に入浴を済ませ、二人は再びリビングに戻る。
ソファに並んで腰を下ろすと、テーブルの上には冷えたスパークリングワイン。
グラスに注がれた透明な液体は、パチパチと小さな泡を立てながら煌めく。
ソファにもたれかかりながらスパークリングワインを口にするゆりの横顔を、蓮は黙って盗み見る。
お風呂上がりのほんのり火照った頬。
緊張をほどいた素の表情。
そこに浮かぶのはスタッフとしての笑顔ではなく、ゆりという一人の女性の素顔だった。

二人だけの夜。
寝酒にしては少し贅沢な一杯が、密やかに甘い余韻をもたらしていた。

瓶が空になり、テーブルに小さく音を立てて置かれる。
ゆりはゆっくりと蓮を振り返った。

「蓮、どーする?まだ飲む?」

「んー…どうしよっかな」

答えを迷う蓮の様子を横目に、ゆりはふっと目を細める。

よし…ここらで仕掛けよう。

次の瞬間、蓮の腕に自分の両腕を絡ませ、その肩に頬をそっともたせかけた。
密着した距離感のまま、上目遣いで蓮を見上げる。

「じゃあ、もう寝ようよ……一緒に….」

「……もしかして酔ってる?」

思わぬ提案に、蓮は不意を突かれたように瞬きを繰り返す。
だが、見上げてくるゆりの瞳は、冗談の色はなく、ただしっとりと熱を帯びた色香で満ちていた。
胸の奥で、何かがとろけ落ちていくような感覚。
蓮は息を呑む。

しかし実際には、ゆりの内心は冷静で、酒には1ミリも酔っていなかった。

「…酔ってたら…だめ?…」

囁くような声とともに、ゆりは片腕を絡めたまま、もう片方の手をゆっくりと蓮の髪へ。
耳にかかる蓮の前髪をすくい上げ、優しく耳に掛けてあげるような仕草。
わずかに傾けられた顔が、さらに近づいて、その吐息が頬にかかる。

カーーン!と心の奥でリングコングが鳴り響くようかの如く、ゆりの甘い攻撃は開始した。

「………かわいすぎ……」

囁きが零れた瞬間、蓮はもう堪えきれなかった。
耳に伝わる指先の感触と、至近距離の視線に射抜かれ、理性の糸が切れる。

ふたりの距離は、自然と、吸い寄せられるように近づいた。

ゆりの片手が蓮の頬に添えられ、蓮の片手は、ゆりの後頭部へ滑るように伸び、さらさらとした髪をゆっくり撫でていた。

ただ触れただけなのに、呼吸が混ざるだけで、胸の奥が熱くなる。

ゆりはそっと目を閉じ、蓮の肩にさらに体を預けた。

その仕草に、蓮の理性は静かに、けれど確実に揺さぶられる。

蓮はゆりの身体をソファから抱き上げた。
その動作に揺れる髪、胸に触れる心臓の鼓動。
抱き上げられたまま、ゆりはほんの少し目を閉じて、安心するように蓮に身を委ねる。

足音がカーペットを沈ませ、寝室へ続く扉が開く。

そのまま2人のただひたすらに甘く長い時間が、静かに時を刻んでいった。


──── 。


「……や…だぁ……っ」

頬を赤らめながら、まるで子供のようにかわいらしく顔を横に背けるゆり。
その仕草に、蓮の胸はきゅっと締めつけられる。

「…恥ずかしい……?」

囁くように問えば、ゆりは顔を横に向けたまま、伏せ目がちで小さくコクンと頷いた。
たったそれだけの動作が、抗えない甘さを含んでいて、蓮の心を強烈にかき乱す。

「…そんなに可愛いと…もっと意地悪したくなんだけど…」

くすぐるように笑みを漏らすと、ゆりは背けていた顔をゆっくりと戻した。
眉間に寄せた皺、困ったように下がった目尻、そして潤んだ瞳で上目遣いに見上げながら

小さく首を左右に振る。

「……だからさ、そのお前の“いやいや”……破壊力やばいんだわ」

堪らず、胸の奥を締めつけられるような衝動に押されて、蓮は唇を重ねた。

あー……もう……ずるい……

心の奥で疼く衝動は、すでに歯止めがきかなくなっていた。

蓮の視線はもう逸らせない。
悪魔的に可愛すぎる表情を見せるゆりから、ゼロ距離で目を離すことなど到底できなかった。

「……だ……め……っ」

吐息混じりのその声に、蓮は一瞬、動きを止めた。

けれど視線が絡んだまま、互いの鼓動だけがやけに近く響く。

張りつめていた空気が、限界まで引き延ばされていく。

もう限界だ。
なんでこいつは
こうも理性を吹き飛ばす天才なんだ。

その瞬間、プツンと何かが切れた。

理性だとか距離感だとか、まともな判断は全部どこかへ吹き飛んでいく。
互いの鼓動だけがやけに大きく響いた。

震える声が喉から漏れる。
その切羽詰まった響きに、蓮の瞳がギラリと光った。

「……っ恥ずかしいとか言ってたくせに…っお前は…っ」

張りつめていた何かが一気に弾け、ゆりの呼吸が止まり、全身の筋肉が硬直した。

「……ゆり」

名前を呼ぶ声は、いつもの軽口とは違う、どこか掠れた響きを帯びている。
ゆりは答えの代わりに、そっと蓮の腕を引いた。

「………蓮……きて…」

甘く囁きながら、ゆりはそっと蓮の腕を引き、自ら後ろに背を沈める。
そして羞恥も恐れも見せず、そのあまりに挑発的で、同時に魅惑的すぎる仕草に、蓮の頭は一瞬でくらくらと眩む。

「……待って……準備するから……」

辛うじて残っていた理性が、声となって漏れる。
震える息を整えながら、蓮は手に取るべく一度身体を離そうとするも、ゆりの細い腕は、決して彼を離さなかった。

「…いいから蓮……そのまま来て…お願い……」

上目遣いで見上げるその顔。
唇は少し開いて、吐息が熱を帯びて漏れている。
潤んだ瞳の奥に宿る甘さと色気が、無防備さと誘惑を同時に放っていた。

お願い──

その言葉は、理性を吹き飛ばすほどの色香。
同時に無垢で可愛い。
そのギャップに胸を掴まれた蓮は到底こんな誘惑に勝てるわけが無かった。

「…ゆり…いいの?」

問いかける蓮の声は、すでに熱に震えていた。
わずかな理性を繋ぎ止めようとした最後の確認。

「…………病院…行ってて平気だから」

ドクンッ──。

心臓が大きく跳ねた。

まさか、俺のために…?
いや、違うかもしれない。
体調管理とか、別の理由かもしれない。

……でも。

その一言の重みは、理性の枷を根こそぎ壊していくには十分すぎた。
思考が停止する。
血が一気に熱くなり、身体の芯にまで火がついた感覚。

その事実は俺の中でかなりやばい。

ふりゅっ……と潤んだ瞳。
幼さすら残した無垢な表情のまま、口からこぼれ落ちたのは、あまりに背徳的な破壊ワード。
恥じらいを滲ませながらも、確かに告げられた言葉。
その仕草と声と表情が、蓮の全身に襲いかかる。
まるで胸を撃ち抜かれたかのように呼吸は乱れ、心臓は耳の奥で爆音のように響き、急上昇する心拍は気絶しそうなほど。

腹を括ったゆりの恐ろしいまでの、女を振り翳した容赦ない攻撃。

無垢な顔に潜むあざとすぎる誘惑。
そのギャップに、蓮の理性は完全に粉砕され、KO負けを喫した。

「………そんな…子供みたいな顔で………お前……言ってること…やばすぎだろ……」

途切れ途切れの声をこぼしながら、蓮はゆりの身体を強く抱き寄せた。

あの昼間スナックワゴン横で冷たくあしらった彼女の姿が、頭の片隅で一瞬よぎる。
だが今、目の前の女は、同じ人物とは思えなかった。

やばすぎる。
勘弁してくれ。

限界を超えた蓮は、夢中でゆりの唇に激しく重ねる。
そして蓮は、胸の奥に積もっていた想いを、抑えきれないままゆりへとぶつけた。

その夜、部屋の中には、二人の呼吸と名前を呼ぶかすかな声だけが、いつまでもいつまでも、途切れることなく揺れていた。