吐き出された二人の熱を帯びたままのリムジンは静かに停まり、高層マンションのエントランス前で止まった。
「え?ここって…」
「はい到着ー」
軽い調子で蓮が答え、先に車外へ降り立つ。
すぐに扉が開き、ゆりの顔を覗き込んだ。
「送ってくれるんじゃなかったんですか」
「送ってるじゃん。俺んちに」
「は!?なんで代表の家に送るんですか!」
「もーいいからそう言うの。いちいち反抗すんなよ」
そう言うが早いか、蓮はヒョイッとゆりを抱き上げた。
唐突なお姫様抱っこに、ゆりは真っ赤になって暴れる。
「ちょ…っ降ろしてください!!」
「お前軽くね?ちゃんと飯くってんの?」
「誘拐ですよ!!」
「ははっ、誘拐か。いいねその響き」
必死の抗議も軽く受け流しながら、蓮はそのままエントランスを抜け、エレベーターへ。
扉が閉まると、ゆりは観念したように息を吐いた。
「……わかりましたから!行きますから!自分で歩くので降ろしてください!」
「よろしい」
にこりと子どものように嬉しそうな笑みを浮かべ、蓮はようやくゆりを床に降ろした。
その笑顔は妙に無邪気で、だからこそゆりの胸に更なる不安を募らせるのだった。
高層マンション最上階。
ガラス張りの大きな窓からは夜景が広がり、ゆりはそのあまりの広さと豪奢さに思わず口をついた。
「代表…ここに一人で?」
「基本はパークのすぐ近くの本家だよ。ここは俺のプライベートマンション」
さらりと答えながら近寄り、片眉を上げる。
「住む?部屋余ってるよ」
「住むわけないじゃないですか」
ピシャリと言い放ち、蓮の作ろうとする甘い雰囲気を即座に遮る。
「冗談なのに冷たいなぁ」
肩をすくめつつ、蓮はキッチンへ。冷蔵庫を開けると振り返った。
「カクテルとか…甘いのも飲まない?」
「ビールがいいです」
「え」
(……飲むんかい)
内心で突っ込みを入れつつ、冷えたビールを二本手にして戻ってくる。
「まぁ適当に座ってよ」
ソファに腰を下ろし、プルタブを開けると、缶を軽く合わせて乾杯の仕草を見せる。
「これ飲んだら失礼しますから」
「え?なんでよ」
「明日も勤務なので」
「早番?送るよ?」
「……遅番ですけど」
自分で口にして、やば、と顔色を変える。
「じゃあゆっくりしていきなよ。遅番でも送るから一緒に出勤しよ」
「なんで代表と出勤しなきゃならないんですか」
「蓮でいいよ、ゆり」
「呼べるわけないじゃないですか」
返す言葉を無視するように、蓮はゆりを抱き寄せる。
「なんでそんなツンツンしてんの?怒ってんの?」
「怒ってますよ」
すぐに身を離すゆり。
「そんな怒んなよ。もう今日は何もしないからさ」
じとりと横目で睨むゆり。
「本当だって!だから安心して寛いで欲しいな。結構居心地いいでしょ?自慢のマンションなんだよ。ね?」
子犬のように「お願い」と言わんばかりの顔に、つい肩の力が抜ける。
「……わかりました」
「良かった!風呂もでかいからね。シャワーも快適だよ!一緒に入る?」
「いい加減にして下さい!!」
「もー冗談をいちいち本気にするんだからぁ…真面目がすぎるよ」
おどけたように笑いながら、蓮は部屋の奥へと姿を消した。
しばらくして戻ってきた彼の手には、ふわりとした大きなバスタオルと、真新しいバスローブ、それから未開封の歯ブラシの箱。
「はい。俺のだからでかいけど、まぁいいでしょ。大は小を兼ねる」
「……ありがとうございます」
受け取りながらも、どこか落ち着かない気持ちで言葉を返すゆり。
蓮は手のひらをひょいと伸ばし、廊下の奥を指し示した。
「どうぞ。あちらの扉を出て、廊下突き当たり右側です」
わざとらしく恭しく片手を胸に添え、もう片手を廊下へと差し出す。
「姫、ごゆっくり入ってきてくださいませ」
「やめてくださいそれ」
思わず呆れ声を漏らすゆり。
「ははっ」
蓮はその反応を楽しむように、無邪気な笑みを浮かべた。
湯気の余韻を纏ったまま、ゆりはリビングへと戻ってきた。
濡れた髪をタオルで押さえながら、所在なさげに言葉を落とす。
「……お風呂、ありがとうございました」
「でかかったでしょ」
ソファに腰をかける蓮は、グラスを片手に笑う。
「そうですね…私、庶民なんで落ち着かなかったです」
「なんで?銭湯とか行かないの?」
「行きますけど…銭湯も別に落ち着かないですよ」
「あ、そ」
軽口を交わしながら、ゆりは自然と蓮の隣に腰を下ろす。
ソファのクッションが沈み、ふと自分をじっと見つめる視線を感じて顔を上げた。
「……なんですか」
「幼い顔してるなぁとは思ってたけど…化粧落とすと小学生みたいだね」
「よく言われます。それ…気にしてるんですけど」
頬をふくらませ、むっとした表情で蓮を見返す。
だがその拗ね顔すら、彼にはどこか愛嬌に映っていた。
「まぁ、でもあんま変わんないよ?メイクしててもしてなくても」
「嬉しくないです」
そっぽを向くゆり。
その横顔を見つめながら、蓮はまた唇の端をゆるめた。
やがて、時計の針は夜更けを指していた。
一日中パークで業務に追われていた疲れが、じわじわと全身にのしかかる。
ソファに座ったまま思わずあくびを噛み殺すゆりを見て、蓮が口を開いた。
「寝室、案内するよ」
立ち上がり、リビング直結の扉を開く。
「ここ…ですか」
「うん。一人で使っていいから、ゆっくり寝て」
ベッドルームの奥に広がるのは、ホテルスイートのような落ち着いた空間だった。
思わずゆりはぽつりと口にする。
「代表いつもこんな広いところで一人で寝てるんですか」
「まーそうだね。ゆりは庶民だから一人じゃ広すぎて落ち着かない?一緒に寝ようか」
挑発めいた口調に、ゆりは無言で鋭く睨みつける。
「ははっおやすみ」
小さく笑い、蓮はゆりの頭をポンと軽く撫でた。
不意打ちのようなその仕草に、意表をつかれる。
ゆりはふわふわのベッドに身を投げた。
その途端、瞼は重く沈んだ。
心も身体も疲弊しきっていたゆりは、あっという間に眠りに落ちていった。
翌朝──。
ふと目を覚ましたゆりは、まだ重たい瞼を閉じ直した。
静まり返った寝室に、スゥー…と背後から規則的な寝息が届く。
(……ん?)
バッと振り返る。
そこには、同じ布団の中で眠る蓮の姿。
「……っ!!なんで代表がここで寝てるんですか!!!」
思わず大声を上げると、その声に蓮が目を開け、ゆりと目が合った。
「ちょ、ちょっと…代表!昨日ここで寝たんですか?」
「ん…?あーやべ、寝落ちした」
「は?」
「いや、ちゃんと寝れてるかなぁーと思って一瞬覗いたら、あまりにも爆睡してて、その顔がもはや小学生を通り越して赤ちゃんみたいだったから、面白くて暫く見てたら寝落ちしてたわ」
悪びれることなく、無邪気に笑う蓮。
「……もう!」
呆れながら掛け布団を勢いよくめくり、ベッドから降りようとするゆりの腕を、蓮の手が掴んだ。
「もう起きるの?まだ早くない?もう少し寝てようよ」
「目が冴えちゃったので、また寝るとか無理です」
「あっそう、じゃあさ……」
蓮はゆりの両腕を掴んでそのままベッドへと押し倒した。
「昨日の続き、どう?」
至近距離で響く低い声。
近すぎる顔、微かに残るシャンプーの香と体温。
そのキーワードが耳を突いた瞬間、ゆりの心拍数が跳ね上がる。
頭では拒絶の言葉を探すのに、身体は別の反応を示してしまう。
「昨日…っ何もしないって言いましたよね」
胸の高鳴りを隠すように、必死で言葉を吐き出す。
「昨日はね。もう今日だから」
意地悪く笑う蓮の口元。
「やめてください…本当に…っ」
逃げるように顔を背けるも、熱を帯びた視線に囚われて離れられない。
「ねぇ」
顎を掴まれ、正面へ向けられる。
蓮の瞳はゆりを射抜くように深く光っていた。
「俺たちもう2回。今更もう良くない?」
「…無理やり…じゃないですか…」
「無理やりかな?昨日、本当に嫌だった?」
その問いが脳裏を刺し、ゆりは呼吸を詰まらせる。
思い出したくない記憶と、思い出してしまう体温が胸でぶつかる。
「……嫌……で…す…」
そう口にしながらも、顔は赤く火照り、視線は泳ぎ、揺らいでいた。
その曖昧で矛盾した姿に、蓮の呼吸は次第に乱れていった。
「……嫌がるふりして……そそってんの……?」
鋭い視線から目を逸らせず、喉が詰まって声にならないゆりは小さく首を横に振るだけ。
いやいや、と真っ赤にして顔をしかめ、必死に首を振るその仕草が無性に心拍数を上げる。
「…はぁ…いいね……すげーそそるわ……」
心の奥に抑え込んでいた衝動が、ゆりの一挙一動に焚きつけられる。
拒絶が強ければ強いほど、なぜか血が沸き立ち、彼女を欲してやまない。
あまりにも可愛いその姿に、蓮の我慢の糸はぷつりと切れた。
蓮の仕草は、驚くほどに優しかった。
これまでの荒々しく強引なそれが嘘のように、勢い任せに踏み込むものではなく、相手の反応を確かめるように、静かに距離が縮まっていった。
息が続かなくなって、ようやく蓮はそっと離れる。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸が乱れ、胸の奥がざわついた。
その様子を、蓮はじっと見つめていた。
「………分かりにくいよ、お前。その顔は」
「………いや…」
口が、条件反射のように答える。
けれど、その言葉に自分の心が一拍遅れてついてくる感覚を、ゆりははっきりと自覚していた。
“全部が”嫌だと言い切るには、どこかで引っかかるものがある。
その事実が、何よりもゆりを混乱させた。
蓮の手は、ゆっくりと力を抜いた。
これまでのように押さえつけることもなく、ただ優しい。
──拒まない。
蓮はもうそれを確信していた。
その瞳には、すべてを見透かしているという余裕が宿っていた。
蓮は低く笑って、もう一度ゆりを抱き寄せた。
今度はさっきよりも、さらにゆっくりと。
「……やばいな」
誰に向けたのか分からない独り言が、ふっと漏れる。
その一方で、ゆりの胸の内でも、ゆっくりと何かがずれていった。
本当に全部が嫌だったら、振り払って、叫んで、飛び出していくことだって出来たはずだ。
なのに、そうしなかった。
しなかったのか、出来なかったのか。
そこが自分でも判別できない。
それが、いちばん厄介だった。
——本当に、私は全部が嫌だった?
その答えに触れてしまうのが怖くて、ゆりはぎゅっと目を閉じた。
視界を暗く閉ざしたまま、肩越しに聞こえてくる蓮の鼓動がやけに近い。
その瞬間──。
ゆりは、自覚してしまった。
気持ちでは拒んでいるはずなのに、無意識に漏れた言葉。
頭と心と身体。
すべてが噛み合わず、ちぐはぐで、もはや何が正しいのか分からない。
けれど。
蓮の問いかけに、戸惑いながらも頷いた一瞬が、全てを暴いてしまった。
もう、自分を誤魔化せない。
私は、嫌じゃない。
全身を駆け巡る想いに、理性の最後の灯がかき消されていく。
眼前の少女は、もう蓮にとって「ただ欲しい」では済まされない存在になり始めていた。
やがて力が抜け落ち、糸が切れたようにぐったりとするゆり。
その様子を見届けると、蓮は動きをようやく止め、近づいていた距離から、ようやく身を引いた。
ゆりは、もはや理性を手放していた。
頬を赤く染め、潤んだ瞳を揺らしながら、熱に浮かされたように言葉を紡ぐ。
「……はぁ……蓮……っ」
その一言に、蓮の胸に衝撃が走った。
(──呼べるわけないじゃないですか)
昨日、冷たくピシャリとそう言い放った彼女の声が脳裏に甦る。
凛とした拒絶の響き。
それが今、自分の名を呼んでいる。
蓮の中で、最後の歯止めが限界を越えた。
「……ぁぁ…ゆりっ…!」
蓮の中で何かが弾けた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
抑え込んできた感情が溢れ出し、熱となって暴走する。
逃がさないように、けれど壊さないように、それでもどこか切実に、蓮はゆりを抱きしめた。
ただひたすらに、求められるまま応えたい。
いや、それ以上に、自分が欲して仕方がない。
近すぎる距離の中で、お互いの名前が幾度も行き交った。
ただ呼び合う。
ただ求め合う。
溢れる想いをぶつけ合いながら、互いの存在だけが、胸の奥に強く焼き付いていく。
─────── 。
「なんでわざわざゲートの真正面なんですか」
リムジンの中でゆりは不満を漏らした。
彼女のロッカーは本部ではなく、制服を保管する別館のユニフォーム管理棟。
広大な敷地の中で、数ある関係者専用ゲートのうち、よりにもよって、ゆりがいつも出退勤しているゲートの真正面にリムジンは停まっていた。
「なんで?いいじゃん」
悪びれる様子もなく笑う蓮に、ゆりは眉をひそめる。
「鳳条さんは良いかもしれないですけど…私は普通に気まずいですよ!」
ゲート前の歩道には、スタッフ数人が行き交い、ちらりちらりとリムジンに視線を向けている。
その視線に背筋がむず痒くなる。
「出た、真面目っ子」
「……っ鳳条さん!」
むっとして頬を膨らませるゆりの顔が、蓮には余計にからかいたくなる。
距離を詰め、肩に腕を回し、唇が触れそうな距離で囁いた。
「それとも…また、抱っこして降ろして欲しいの?」
「ゲートの前ですよっ!やめて下さい!」
慌てて蓮を押しのけ、ドアノブに手をかける。
「もういいです、ここで降ります」
軽く笑った蓮が、運転手にロックを外すよう合図する。
扉を押し開け、歩道に降り立つゆり。
そして振り返り、ぴしりと背筋を伸ばして丁寧にお辞儀をした。
「送って頂き……ありがとうございました」
真面目さが滲み出るその仕草に、蓮は目を細める。
扉が閉まると同時に、後部座席の窓がスッと下がる。
肘をかけた蓮が、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「それじゃ、ゆりちゃん“また”ね?」
強調された「また」の一言。
その声音と笑みに、ゆりの腹の底が一瞬だけ、熱を帯びる。
「……っ」
その感覚を必死に振り払い、顔を背ける。
凛とした背中で颯爽とゲートへ歩いていく。
「……たまんねーな」
蓮の脳裏に甦るのは、数時間前──
自分の名を呼び捨てにし、必死にしがみついてきた、今とはまるで別人のようなゆりの姿だった。
