西野は最近おかしかった。
前みたいにからかってくることもなければ、話しかけてくることもない。
羽村とは元の関係に戻れたはずなのに、今度は西野と距離ができてしまった。
――私、何してるんだろう。
「佐藤?移動教室だよ。早くしないと遅れるよ?」
ぼーっとしていた私に、羽村が声をかける。
「最近元気ないし、碧希と何かあったんでしょ」
「うん、まぁ」
曖昧に頷くと、羽村は少しだけ眉を寄せた。
「話聞くよ。ついてきて」
そう言って、私の腕を引く。
連れて行かれたのは、サッカー部の部室だった。
「掃除とかしてるから臭くないと思う。入って」
「えっ、でも授業が」
「今授業受けるの辛いでしょ」
まっすぐな言葉に、何も言い返せない。
「羽村の成績とか……」
「それより佐藤のほうが大事」
迷いのない声だった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私は小さく頷いて、中に入った。
部室の中は思っていたよりも整っていて、静かだった。
ドアが閉まる音がやけに大きく響く。
「で、何があったの」
羽村は壁に背を預けながら、私を見る。
逃げ場のない視線。
私は少しだけ目を逸らした。
「……西野と」
それだけで、羽村はなんとなく察したみたいだった。
「うまくいってないんだ」
「うん」
短く答える。
「私が悪いんだけど」
そう言うと、羽村は首を横に振った。
「佐藤が全部悪いみたいに言うなよ」
少しだけ強い口調。
私は驚いて顔を上げる。
羽村は一瞬だけ言葉を止めて、それから少しだけ優しく言い直した。
「ちゃんと理由あるんでしょ」
「……ある」
小さく答える。
羽村は静かに待ってくれる。
その空気が、逆に話しやすくて。
「私」
一度息を吸う。
「羽村のこと、好きなの」
言った瞬間、部室の空気が止まった気がした。
羽村は何も言わない。
ただ、じっと私を見ている。
その視線に耐えきれず、目を逸らす。
「だから、西野とちゃんと向き合えなくて」
「中途半端なことして」
「最低だよね」
自分で言って、胸が少し痛む。
少しの沈黙。
それから、羽村が小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
「え?」
顔を上げると、羽村は苦笑していた。
「なんとなくそうじゃないかなって思ってた」
「え、なんで」
「分かりやすすぎ」
そう言って、少しだけ笑う。
その笑顔に、少しだけ安心する。
でも次の瞬間。
羽村は真剣な顔になった。
「じゃあさ」
「なに」
「西野のことは?」
その質問に、言葉が詰まる。
「……分かんない」
正直に答える。
羽村は少しだけ目を細めた。
「分かんない、か」
小さく繰り返す。
その声に、少しだけ何かが混ざっていた。
そして――
「俺さ」
羽村が、ゆっくり口を開く。
「この前の続き、言っていい?」
「うん」
小さく頷くと、羽村は一瞬だけ視線を落とした。
そして、覚悟を決めたみたいに顔を上げる。
「俺も佐藤のこと好き」
その言葉が、まっすぐ胸に届く。
息が止まったみたいに、何も言えない。
「……ほんと?」
やっとのことで絞り出した声。
羽村は苦笑した。
「こんなとこで嘘言わないって」
少しだけ照れくさそうに頭をかく。
その仕草が、いつもと同じなのに。
今は全部、特別に見える。
「ずっと言おうと思ってたんだけどさ」
「タイミングなくて」
「気づいたら、碧希と付き合ってるって聞いて」
そこで言葉を切る。
「正直、結構きつかった」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……ごめん」
思わず謝ると、羽村はすぐに首を振った。
「謝るなよ」
「佐藤は悪くない」
優しい声だった。
でも、どこか切なさも混ざっている。
少しの沈黙。
重くなりかけた空気を、羽村の声がやわらかくほどいた。
「今は碧希のこと、はっきりしなくていい」
顔を上げると、羽村はまっすぐ私を見ていた。
責めるでもなく、急かすでもなく。
ただ、待つような目で。
「だけど、気持ちに整理ついたら教えて」
静かな声だった。
それなのに、その言葉はしっかり胸に残る。
「……うん」
小さく頷く。
羽村は少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ今はこれでいい」
そう言って、軽く伸びをする。
さっきまでの張り詰めた空気が、少しだけ緩む。
「てか普通にサボりじゃん俺ら」
「ほんとだよ」
思わず笑ってしまう。
羽村もつられて笑った。
「あとで怒られるかな」
「羽村のせいって言う」
「ひど」
そんな何気ない会話が、やけに心地いい。
しばらく話していると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
校舎中に響くその音に、現実へ引き戻される。
「じゃあ戻るか」
羽村がドアに手をかけながら言う。
「うん」
私は小さく頷いた。
部室を出ると、廊下にはすでに人が増えていて、ざわざわとした空気に包まれていた。
さっきまでの静かな時間が、遠く感じる。
教室に入ると、一番に西野と目が合った。
だけど、すぐに逸らされる。
それだけで、胸がぎゅっと苦しくなって、思わず下を向いた。
「二人で何してたの」
その声にハッとして顔を上げる。
気づけば、西野が目の前に立っていた。
「別に」
短く答える。
「教えてよ」
さっきまで距離を取っていたくせに、今は逃がさないみたいに視線を向けてくる。
どう答えればいいのか分からない。
その空気を切るように、羽村が口を開いた。
「ごめん、佐藤が元気なかったから俺が連れ出した」
一瞬、静かになる。
西野の視線が、ゆっくり羽村に向く。
「……ふーん」
感情の読めない声。
「聖は俺の彼女なんだけど」
はっきりとした言い方だった。
空気が一気に張り詰める。
西野はそのまま視線を逸らさず、続けた。
「聖が俺以外の人のこと好きでも」
一瞬だけ言葉を区切る。
「聖は俺の彼女だから、手出すな」
そう言って、西野は私を強く抱きしめた。
突然のことで、体が固まる。
彼の表情は見えない。
でも、耳元に落ちてくる声は低くて――少しだけ震えていた。
怒っている。
それが、はっきりと伝わってきて、
教室のざわめきが、一瞬遠くなる。
「うん、ごめん」
羽村の声が、静かに落ちた。
張り詰めていた空気を少しだけ和らげるように、続ける。
「じゃあ碧希、仲直りしよう。俺とも佐藤とも」
その言葉に、西野の腕がほんの少しだけ強くなる。
「別に喧嘩してない」
低く、そっけない返事。
「喧嘩してなくても、お互い気まずくて話せてないことに変わりはないでしょ」
羽村は引かない。
まっすぐに西野を見る。
西野はしばらく黙ったまま、何も言わない。
教室のざわめきが、やけに遠く感じる。
「西野」
抱きしめられたまま、私はそっと顔を上げた。
近すぎる距離に少しだけ息が詰まる。
「どうしたの?」
何も知らないみたいに、優しく聞いてくるその声に、胸が揺れる。
「……二人で話したい」
小さくそう言うと、西野の腕が一瞬だけ強くなる。
でもすぐに、その力はほどかれた。
「わかった」
短く答えて、西野は私を離す。
そのまま自分の席へ戻り、無言で鞄に荷物を詰め始めた。
教科書の擦れる音だけが、やけに大きく響く。
準備を終えると、また私の前に立った。
「聖も準備して」
有無を言わせない言い方。
私は何も言えず、席に戻って必要なものを鞄に詰めた。
手が少しだけ震えているのに、自分で気づく。
全部入れ終わって、西野のところへ戻る。
「……できた」
そう言うと、西野は小さく頷いた。
「じゃあ行こう」
そう言って、当たり前みたいに私の腕を掴む。
そのまま教室を出ようとして――
「えっ、まって」
思わず足を止めた。
西野は振り返らない。
「ここじゃ二人で話せないから」
一拍おいて、続ける。
「このあとの時間、全部俺にちょうだい」
その声は強引なのに、どこか必死で。
断れない。
「……わかった」
小さく頷くと、西野の指先が少しだけ緩んだ。
今度は引っ張るんじゃなくて、歩幅を合わせてくる。
教室を出る直前、ふと後ろを振り返った。
羽村と目が合う。
何か言いたそうな顔。
でも、何も言わずに軽く手を振られた。
それだけで、胸がきゅっと痛くなる。
廊下は静かで、さっきまでの空気が嘘みたいだった。
西野は何も話さない。
ただ前を見て歩いていく。
繋がれたままの腕を、振りほどくことはできなかった。
学校を出てしばらく歩いて公園についた。
「ここなら誰も来ない」
そう言って、西野が振り返る。
その顔は、さっきまでと違っていた。
余裕なんてどこにもない。
「さっきの、何」
低い声。
責めているようで、でもどこか怖がっているみたいで。
「湊と、何話してたの」
逃がさないように、まっすぐ見つめてくる。
私は一度、息を吸った。
逃げたくない。
「……告白、された」
言葉にした瞬間、空気が止まる。
西野の表情が固まる。
「……え」
かすれた声が落ちた。
「それで?」
短く、続きを促す。
その目が、痛いくらいまっすぐで。
「私も気持ち伝えた」
ちゃんと答える。
沈黙が落ちる。
長い、長い沈黙。
西野は何も言わないまま、視線を落とした。
拳がぎゅっと握られている。
「……そっか」
やっと出た声は、驚くほど弱かった。
「じゃあ、俺は?」
ゆっくりと顔を上げる。
その目は、少しだけ揺れていた。
「聖の中で、俺はどこ?」
胸が、強く締めつけられる。
答えられない。
答えたくない。
どっちも本音だった。
「……わかんない」
やっと絞り出した声は、小さく震えていた。
その瞬間、西野は少しだけ笑った。
どこか諦めたみたいな、弱い笑い。
「だけどさ」
小さく息を吐いて、続ける。
「羽村と付き合うって考えたら、ちょっと違う気がした」
「えっ」
西野は顔を上げる。
自分でも何を言っているのか、はっきり分かっていないのに。
それでも、言葉は止まらなかった。
「前までは、羽村の彼女になれたらって思ってた」
胸の奥にあった気持ちを、一つずつ確かめるみたいに。
「でも――」
視線を西野に向ける。
「西野と付き合ってみて、思ったの」
ほんの少しだけ、言葉に迷う。
けど、ちゃんと伝えたくて。
「西野と一緒にいるほうが、楽しいなって」
空気が止まる。
西野は何も言わない。
ただ、まっすぐ私を見ている。
「からかわれてムカつくし、強引だし、最悪なときもあるけど」
少しだけ笑ってしまう。
「でも気づいたら、そういうのも嫌じゃなくて」
むしろ――
「……楽しいなって思ってた」
言い終わったあと、急に恥ずかしくなる。
こんなこと、ちゃんと口にしたの初めてで。
「だから」
少しだけ目を逸らして、でも続ける。
「わかんないって言ったけど」
もう一度、西野を見る。
「羽村より西野と一緒にいたいって思った」
沈黙。
西野は、しばらく何も言わなかった。
けれど次の瞬間、ぐっと距離を詰めてくる。
「……それ、期待していいやつ?」
低い声。
さっきまでとは違う、少しだけ震えた声。
私は小さく頷いた。
その瞬間――
「……やば」
西野は片手で顔を覆った。
耳まで真っ赤にして。
「そんなこと言われたら、もう無理なんだけど」
そう言って、小さく笑う。
今度は、ちゃんと嬉しそうに。
何も言わなくても分かるみたいに、
西野が一歩踏み出してきて――そのまま強く抱きしめられた。
私はゆっくり腕を伸ばして、西野を抱きしめ返す。
シャツ越しに伝わる体温が、やけにあたたかい。
「……ねぇ」
耳元で、小さく声が落ちる。
「心臓もたないって」
苦笑混じりの声。
「聖」
名前を呼ばれた瞬間、空気が変わった。
さっきまでの柔らかさが消えて、真っ直ぐな緊張が走る。
そっと体を離される。
背中に回っていた手が、今度は肩に置かれた。
逃げられない距離。
でも、優しくて。
「仮の付き合いは解消します」
はっきりとした声。
その表情は、今まで見たことないくらい真剣で。
「そして、西野碧希は佐藤聖が好きです」
「これからも、大好きです」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「だから」
一瞬だけ、言葉を止める。
「俺と付き合ってください」
まっすぐな告白。
ごまかしも、ふざけもない。
ただ、本気の言葉。
気づけば、視界が少しだけ滲んでいた。
「……お願いします」
震えていて、やっと出た小さな声。
それでも、西野にはちゃんと届いていた。
ふっと、西野が笑った。
安心したみたいな、やわらかい笑顔。
次の瞬間また抱きしめられる。
「聖、大好き」
その言葉がどんな言葉よりも嬉しかった。
前みたいにからかってくることもなければ、話しかけてくることもない。
羽村とは元の関係に戻れたはずなのに、今度は西野と距離ができてしまった。
――私、何してるんだろう。
「佐藤?移動教室だよ。早くしないと遅れるよ?」
ぼーっとしていた私に、羽村が声をかける。
「最近元気ないし、碧希と何かあったんでしょ」
「うん、まぁ」
曖昧に頷くと、羽村は少しだけ眉を寄せた。
「話聞くよ。ついてきて」
そう言って、私の腕を引く。
連れて行かれたのは、サッカー部の部室だった。
「掃除とかしてるから臭くないと思う。入って」
「えっ、でも授業が」
「今授業受けるの辛いでしょ」
まっすぐな言葉に、何も言い返せない。
「羽村の成績とか……」
「それより佐藤のほうが大事」
迷いのない声だった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私は小さく頷いて、中に入った。
部室の中は思っていたよりも整っていて、静かだった。
ドアが閉まる音がやけに大きく響く。
「で、何があったの」
羽村は壁に背を預けながら、私を見る。
逃げ場のない視線。
私は少しだけ目を逸らした。
「……西野と」
それだけで、羽村はなんとなく察したみたいだった。
「うまくいってないんだ」
「うん」
短く答える。
「私が悪いんだけど」
そう言うと、羽村は首を横に振った。
「佐藤が全部悪いみたいに言うなよ」
少しだけ強い口調。
私は驚いて顔を上げる。
羽村は一瞬だけ言葉を止めて、それから少しだけ優しく言い直した。
「ちゃんと理由あるんでしょ」
「……ある」
小さく答える。
羽村は静かに待ってくれる。
その空気が、逆に話しやすくて。
「私」
一度息を吸う。
「羽村のこと、好きなの」
言った瞬間、部室の空気が止まった気がした。
羽村は何も言わない。
ただ、じっと私を見ている。
その視線に耐えきれず、目を逸らす。
「だから、西野とちゃんと向き合えなくて」
「中途半端なことして」
「最低だよね」
自分で言って、胸が少し痛む。
少しの沈黙。
それから、羽村が小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
「え?」
顔を上げると、羽村は苦笑していた。
「なんとなくそうじゃないかなって思ってた」
「え、なんで」
「分かりやすすぎ」
そう言って、少しだけ笑う。
その笑顔に、少しだけ安心する。
でも次の瞬間。
羽村は真剣な顔になった。
「じゃあさ」
「なに」
「西野のことは?」
その質問に、言葉が詰まる。
「……分かんない」
正直に答える。
羽村は少しだけ目を細めた。
「分かんない、か」
小さく繰り返す。
その声に、少しだけ何かが混ざっていた。
そして――
「俺さ」
羽村が、ゆっくり口を開く。
「この前の続き、言っていい?」
「うん」
小さく頷くと、羽村は一瞬だけ視線を落とした。
そして、覚悟を決めたみたいに顔を上げる。
「俺も佐藤のこと好き」
その言葉が、まっすぐ胸に届く。
息が止まったみたいに、何も言えない。
「……ほんと?」
やっとのことで絞り出した声。
羽村は苦笑した。
「こんなとこで嘘言わないって」
少しだけ照れくさそうに頭をかく。
その仕草が、いつもと同じなのに。
今は全部、特別に見える。
「ずっと言おうと思ってたんだけどさ」
「タイミングなくて」
「気づいたら、碧希と付き合ってるって聞いて」
そこで言葉を切る。
「正直、結構きつかった」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……ごめん」
思わず謝ると、羽村はすぐに首を振った。
「謝るなよ」
「佐藤は悪くない」
優しい声だった。
でも、どこか切なさも混ざっている。
少しの沈黙。
重くなりかけた空気を、羽村の声がやわらかくほどいた。
「今は碧希のこと、はっきりしなくていい」
顔を上げると、羽村はまっすぐ私を見ていた。
責めるでもなく、急かすでもなく。
ただ、待つような目で。
「だけど、気持ちに整理ついたら教えて」
静かな声だった。
それなのに、その言葉はしっかり胸に残る。
「……うん」
小さく頷く。
羽村は少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ今はこれでいい」
そう言って、軽く伸びをする。
さっきまでの張り詰めた空気が、少しだけ緩む。
「てか普通にサボりじゃん俺ら」
「ほんとだよ」
思わず笑ってしまう。
羽村もつられて笑った。
「あとで怒られるかな」
「羽村のせいって言う」
「ひど」
そんな何気ない会話が、やけに心地いい。
しばらく話していると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
校舎中に響くその音に、現実へ引き戻される。
「じゃあ戻るか」
羽村がドアに手をかけながら言う。
「うん」
私は小さく頷いた。
部室を出ると、廊下にはすでに人が増えていて、ざわざわとした空気に包まれていた。
さっきまでの静かな時間が、遠く感じる。
教室に入ると、一番に西野と目が合った。
だけど、すぐに逸らされる。
それだけで、胸がぎゅっと苦しくなって、思わず下を向いた。
「二人で何してたの」
その声にハッとして顔を上げる。
気づけば、西野が目の前に立っていた。
「別に」
短く答える。
「教えてよ」
さっきまで距離を取っていたくせに、今は逃がさないみたいに視線を向けてくる。
どう答えればいいのか分からない。
その空気を切るように、羽村が口を開いた。
「ごめん、佐藤が元気なかったから俺が連れ出した」
一瞬、静かになる。
西野の視線が、ゆっくり羽村に向く。
「……ふーん」
感情の読めない声。
「聖は俺の彼女なんだけど」
はっきりとした言い方だった。
空気が一気に張り詰める。
西野はそのまま視線を逸らさず、続けた。
「聖が俺以外の人のこと好きでも」
一瞬だけ言葉を区切る。
「聖は俺の彼女だから、手出すな」
そう言って、西野は私を強く抱きしめた。
突然のことで、体が固まる。
彼の表情は見えない。
でも、耳元に落ちてくる声は低くて――少しだけ震えていた。
怒っている。
それが、はっきりと伝わってきて、
教室のざわめきが、一瞬遠くなる。
「うん、ごめん」
羽村の声が、静かに落ちた。
張り詰めていた空気を少しだけ和らげるように、続ける。
「じゃあ碧希、仲直りしよう。俺とも佐藤とも」
その言葉に、西野の腕がほんの少しだけ強くなる。
「別に喧嘩してない」
低く、そっけない返事。
「喧嘩してなくても、お互い気まずくて話せてないことに変わりはないでしょ」
羽村は引かない。
まっすぐに西野を見る。
西野はしばらく黙ったまま、何も言わない。
教室のざわめきが、やけに遠く感じる。
「西野」
抱きしめられたまま、私はそっと顔を上げた。
近すぎる距離に少しだけ息が詰まる。
「どうしたの?」
何も知らないみたいに、優しく聞いてくるその声に、胸が揺れる。
「……二人で話したい」
小さくそう言うと、西野の腕が一瞬だけ強くなる。
でもすぐに、その力はほどかれた。
「わかった」
短く答えて、西野は私を離す。
そのまま自分の席へ戻り、無言で鞄に荷物を詰め始めた。
教科書の擦れる音だけが、やけに大きく響く。
準備を終えると、また私の前に立った。
「聖も準備して」
有無を言わせない言い方。
私は何も言えず、席に戻って必要なものを鞄に詰めた。
手が少しだけ震えているのに、自分で気づく。
全部入れ終わって、西野のところへ戻る。
「……できた」
そう言うと、西野は小さく頷いた。
「じゃあ行こう」
そう言って、当たり前みたいに私の腕を掴む。
そのまま教室を出ようとして――
「えっ、まって」
思わず足を止めた。
西野は振り返らない。
「ここじゃ二人で話せないから」
一拍おいて、続ける。
「このあとの時間、全部俺にちょうだい」
その声は強引なのに、どこか必死で。
断れない。
「……わかった」
小さく頷くと、西野の指先が少しだけ緩んだ。
今度は引っ張るんじゃなくて、歩幅を合わせてくる。
教室を出る直前、ふと後ろを振り返った。
羽村と目が合う。
何か言いたそうな顔。
でも、何も言わずに軽く手を振られた。
それだけで、胸がきゅっと痛くなる。
廊下は静かで、さっきまでの空気が嘘みたいだった。
西野は何も話さない。
ただ前を見て歩いていく。
繋がれたままの腕を、振りほどくことはできなかった。
学校を出てしばらく歩いて公園についた。
「ここなら誰も来ない」
そう言って、西野が振り返る。
その顔は、さっきまでと違っていた。
余裕なんてどこにもない。
「さっきの、何」
低い声。
責めているようで、でもどこか怖がっているみたいで。
「湊と、何話してたの」
逃がさないように、まっすぐ見つめてくる。
私は一度、息を吸った。
逃げたくない。
「……告白、された」
言葉にした瞬間、空気が止まる。
西野の表情が固まる。
「……え」
かすれた声が落ちた。
「それで?」
短く、続きを促す。
その目が、痛いくらいまっすぐで。
「私も気持ち伝えた」
ちゃんと答える。
沈黙が落ちる。
長い、長い沈黙。
西野は何も言わないまま、視線を落とした。
拳がぎゅっと握られている。
「……そっか」
やっと出た声は、驚くほど弱かった。
「じゃあ、俺は?」
ゆっくりと顔を上げる。
その目は、少しだけ揺れていた。
「聖の中で、俺はどこ?」
胸が、強く締めつけられる。
答えられない。
答えたくない。
どっちも本音だった。
「……わかんない」
やっと絞り出した声は、小さく震えていた。
その瞬間、西野は少しだけ笑った。
どこか諦めたみたいな、弱い笑い。
「だけどさ」
小さく息を吐いて、続ける。
「羽村と付き合うって考えたら、ちょっと違う気がした」
「えっ」
西野は顔を上げる。
自分でも何を言っているのか、はっきり分かっていないのに。
それでも、言葉は止まらなかった。
「前までは、羽村の彼女になれたらって思ってた」
胸の奥にあった気持ちを、一つずつ確かめるみたいに。
「でも――」
視線を西野に向ける。
「西野と付き合ってみて、思ったの」
ほんの少しだけ、言葉に迷う。
けど、ちゃんと伝えたくて。
「西野と一緒にいるほうが、楽しいなって」
空気が止まる。
西野は何も言わない。
ただ、まっすぐ私を見ている。
「からかわれてムカつくし、強引だし、最悪なときもあるけど」
少しだけ笑ってしまう。
「でも気づいたら、そういうのも嫌じゃなくて」
むしろ――
「……楽しいなって思ってた」
言い終わったあと、急に恥ずかしくなる。
こんなこと、ちゃんと口にしたの初めてで。
「だから」
少しだけ目を逸らして、でも続ける。
「わかんないって言ったけど」
もう一度、西野を見る。
「羽村より西野と一緒にいたいって思った」
沈黙。
西野は、しばらく何も言わなかった。
けれど次の瞬間、ぐっと距離を詰めてくる。
「……それ、期待していいやつ?」
低い声。
さっきまでとは違う、少しだけ震えた声。
私は小さく頷いた。
その瞬間――
「……やば」
西野は片手で顔を覆った。
耳まで真っ赤にして。
「そんなこと言われたら、もう無理なんだけど」
そう言って、小さく笑う。
今度は、ちゃんと嬉しそうに。
何も言わなくても分かるみたいに、
西野が一歩踏み出してきて――そのまま強く抱きしめられた。
私はゆっくり腕を伸ばして、西野を抱きしめ返す。
シャツ越しに伝わる体温が、やけにあたたかい。
「……ねぇ」
耳元で、小さく声が落ちる。
「心臓もたないって」
苦笑混じりの声。
「聖」
名前を呼ばれた瞬間、空気が変わった。
さっきまでの柔らかさが消えて、真っ直ぐな緊張が走る。
そっと体を離される。
背中に回っていた手が、今度は肩に置かれた。
逃げられない距離。
でも、優しくて。
「仮の付き合いは解消します」
はっきりとした声。
その表情は、今まで見たことないくらい真剣で。
「そして、西野碧希は佐藤聖が好きです」
「これからも、大好きです」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「だから」
一瞬だけ、言葉を止める。
「俺と付き合ってください」
まっすぐな告白。
ごまかしも、ふざけもない。
ただ、本気の言葉。
気づけば、視界が少しだけ滲んでいた。
「……お願いします」
震えていて、やっと出た小さな声。
それでも、西野にはちゃんと届いていた。
ふっと、西野が笑った。
安心したみたいな、やわらかい笑顔。
次の瞬間また抱きしめられる。
「聖、大好き」
その言葉がどんな言葉よりも嬉しかった。

