西野と仮で付き合い始めてから、一週間が経った。
あの日から、羽村とはほとんど話せていない。
教室では会う。
同じクラスだから当たり前だ。
でも、前みたいに気軽に話しかけることができなくなっていた。
羽村も、前ほど私に絡んでこない。
目が合えば軽く手を振るくらいで、すぐに友達の方へ行ってしまう。
……やりにくい。
私は机に頬杖をつきながら、小さくため息をついた。
あんなこと、了承しなければよかった。
軽い気持ちで「一ヶ月」なんて言ったせいで、
変な空気になってしまった。
そのとき。
「またため息」
後ろから声がした。
振り向くと、西野が立っている。
「別に」
私は視線をノートに落とした。
「嘘」
西野は私の机の横に寄りかかる。
「聖、最近ずっとそんな顔」
「どんな顔」
「後悔してる顔」
図星すぎて、何も言えなかった。
西野は少しだけ黙ったあと、ぽつりと言う。
「……羽村のこと?」
私は反射的に顔を上げた。
西野は笑っていない。
ただ、静かに私を見ている。
「違う」
すぐに否定する。
けれど西野は少しだけ目を細めた。
「でも、あんまり話してないよね」
「それは……」
言い訳みたいな言葉しか出てこない。
西野は軽く息を吐いた。
「ごめん」
「え?」
思わず聞き返す。
西野は少しだけ困ったように笑った。
「俺のせいだろ」
その言い方が、思っていたよりずっと素直だった。
「……別に西野のせいじゃない」
私が言うと、西野は首を横に振る。
「いや、俺のせい」
そして少しだけ視線を逸らす。
「でもさ」
「なに」
西野はもう一度私を見る。
「後悔してるなら」
胸が一瞬止まる。
「今からでもやめる?」
教室の空気が、少しだけ静かになった気がした。
私は何も言えず、西野を見つめる。
西野は無理に笑った。
「まだ一週間だし」
「……」
「聖が嫌なら」
そう言いながらも、どこか言いたくなさそうだった。
私はゆっくり口を開く。
「……嫌ってわけじゃない」
西野の目が少しだけ動く。
「じゃあなに」
「ただ」
私は小さく息を吐いた。
「思ってたより大変」
そう言うと、西野は一瞬きょとんとして、
それから少しだけ笑った。
「なにそれ」
「だって」
私は小さく言う。
「西野、距離近いし」
「彼氏だから」
「仮」
「仮彼氏でも彼氏」
即答だった。
私は呆れてため息をつく。
西野はそんな私を見て、少しだけ楽しそうに笑う。
「でもさ」
「なに」
「あと三週間ある」
そう言って、少しだけ自信ありげに言った。
「早く俺のこと好きになれよ」
……ほんとに。
本当は今辞めたほうがよかったのかもしれない。
だけどそれは嫌で。
きっとそれは西野といるのも悪くないと思ったからだろう。
「そういえば今日、美術あるね」
西野が何気なく言った。
「えっ」
思わず顔を上げる。
「美術って」
「湊の隣でしょ」
西野はあっさり言う。
「湊と話せるチャンスじゃん」
「……別に話すことないし」
私がそう言うと、西野は少しだけ眉を上げた。
「ほんとに?」
「ほんと」
西野はしばらく私の顔を見ていた。
それから小さく笑う。
「嘘つくの下手だね」
「ついてない」
「ついてる」
即答だった。
私は視線を逸らす。
西野は机に肘をつきながら続けた。
「気まずいんでしょ」
「……」
「一週間話してないし」
図星すぎて言葉が出ない。
西野は少しだけため息をついた。
「普通に話せばいいじゃん」
「そんな簡単じゃない」
「簡単だよ」
西野は軽く言う。
「“おはよう”って言えば終わり」
「いやおはようじゃないし」
私が小さく言うと、西野は少しだけ黙った。
それから、ぽつりと言う。
「じゃあさ」
「なに」
「俺のせいってことにしていいよ」
「は?」
西野は肩をすくめる。
「聖が話しかけにくいなら」
そして少し笑った。
「全部俺のせいでいい」
「意味わかんない」
「わかるでしょ」
西野はまっすぐ私を見る。
「俺が聖の彼氏だから」
胸が少しだけざわつく。
私はすぐ言い返した。
「仮」
西野は笑った。
「仮でも」
そして少しだけ意地悪そうな顔をする。
「けど、嫉妬しちゃうかも」
「誰が?」
「俺」
さらっと言われて、言葉が止まる。
西野は立ち上がりながら言った。
「まぁ」
「なに」
「美術、頑張って」
「なにを」
西野はドアの方へ歩きながら振り返る。
そして少し笑った。
「湊と話すの」
「……なんで西野が応援してるの」
そう言うと、西野は少しだけ目を細めた。
「だって」
軽く肩をすくめる。
「聖、ずっと気にしてるじゃん」
その言葉に、何も言い返せなかった。
美術の時間がやってきた。
今日の課題も、前回と同じ。
隣の人の似顔絵を描くこと。
先生の指示で机を向かい合わせる。
目の前には、羽村。
お互い椅子を引いて座る。
けれど、どちらも何も言わない。
前なら「また俺かよ」とか「ちゃんと描けよ」とか、
羽村の方から何かしら言ってきたはずなのに。
今日は静かだった。
私はスケッチブックを開く。
鉛筆を持つ。
けれど、顔を上げられない。
似顔絵なんだから、見ないと描けないのに。
羽村も同じなのか、
お互いにタイミングをずらすように視線を動かしていた。
私が顔を上げると、羽村は下を見る。
羽村が顔を上げると、私は紙を見る。
……なんだこれ。
変に器用なすれ違いが続く。
教室のあちこちからは笑い声が聞こえてくるのに、
この席だけ空気が固かった。
私は思いきって、少しだけ顔を上げた。
その瞬間。
羽村も顔を上げた。
ばっちり目が合う。
「……」
「……」
一瞬だけ時間が止まったみたいだった。
羽村はすぐに視線を逸らす。
そして、小さく言った。
「描かないと終わんないぞ」
その声は、前より少しだけよそよそしい。
「……うん」
私は小さく返事をする。
また沈黙。
鉛筆の音だけが聞こえる。
しばらくして、羽村がぽつりと呟いた。
「碧希と、うまくやってんの?」
鉛筆を持つ手が止まった。
「上手くやってるもなにも、仮だし。そんなの関係ないよ」
私は鉛筆を動かしながら答えた。
羽村は少しだけ黙る。
「本当に佐藤は碧希のこと好きじゃないの?」
「当たり前じゃん」
即答すると、羽村はどこか安心したように息を吐いた。
「じゃあ何で仮でも付き合ってるの?」
「騙されたから?」
「何だそれ」
羽村はくすっと笑った。
久しぶりに見るその笑顔に、胸が少し軽くなる。
やっぱり、こういう風に話す方がいい。
教室の空気も、さっきまでより少しだけ柔らいだ気がした。
羽村は鉛筆をくるっと指で回しながら言う。
「じゃあさ」
「なに?」
「本当に好きな人いるの?」
「まあ、そりゃあ」
私がそう答えると、羽村は少しだけ目を細めた。
「羽村は?」
聞き返す。
羽村は少しだけ照れたように笑った。
「俺もいるよ」
そして静かに続ける。
「好きな人」
その瞬間、羽村と視線が絡む。
一瞬だけ、空気が止まったみたいだった。
私は思わず瞬きをする。
でも羽村は、視線を逸らさない。
真っ直ぐ、こっちを見ている。
胸の奥がざわっとする。
「……なに」
思わず聞くと、羽村は少しだけ笑った。
「いや」
それから視線をスケッチブックに落とす。
「似てないなって思って」
「は?」
「その絵」
羽村は私のスケッチブックを指さす。
「俺そんな真面目な顔してない」
私は慌てて紙を隠した。
「まだ途中!」
羽村は楽しそうに笑う。
その笑顔は、さっきまでより少しだけ優しかった。
そして小さく言う。
「でもよかった」
「なにが?」
「碧希のこと好きじゃなくて」
「それってどういう意味?」
私は思わず聞き返した。
羽村は一瞬だけ迷うように視線を落とす。
それから、少しだけ覚悟を決めたように顔を上げた。
「実は俺、佐藤が――」
「聖、絵見せて」
突然、横から声が割り込んだ。
驚いて振り向く。
いつの間にか、西野がすぐ隣に立っていた。
「え、なんでここにいるの」
「美術の見回り」
西野は平然と答える。
「そんな係あった?」
「今作った」
またそれだ。
呆れていると、西野は私のスケッチブックをひょいっと覗き込んだ。
「うわ」
「なにその反応」
「似てない」
「まだ途中!」
私が抗議すると、西野は笑った。
「怪物じゃん」
「前と同じ事言わないで」
私が睨むと、西野は楽しそうに笑った。
でも、その目だけは少し鋭い。
「何話してたの?」
さらっと聞いてくる。
「別に」
すぐに答える。
西野は今度は羽村を見る。
「湊は?」
羽村は一瞬だけ黙った。
それから、いつもの軽い笑顔を作る。
「佐藤の恋バナ聞いてた」
「へえ」
西野は少しだけ眉を上げた。
「恋バナ?」
「そう」
羽村は肩をすくめる。
「好きな人いるのかって」
西野の視線が、ゆっくり私に向く。
「で?」
「いるって」
羽村が答えた。
西野の目が少しだけ細くなる。
「誰?」
「聞いてない」
羽村は笑いながら言う。
私達の周りの空気が、少しだけ張りつめた。
西野は少しだけ黙る。
それから、ふっと笑った。
「じゃあ俺じゃないね」
その言い方が、妙に軽い。
私は思わず西野を見る。
西野は何でもない顔をしていた。
でも、その手が私のスケッチブックを閉じる。
「ほら」
そして鉛筆を私に返す。
「授業中」
少しだけ低い声で言った。
「ちゃんと描いて」
そう言って、西野は自分の席へ戻っていく。
その背中を見ながら、私は鉛筆を握った。
さっき羽村が言おうとしていた言葉が、
頭の中でずっと引っかかっていた。

