朝、教室に入った瞬間、私の視線はまっすぐ羽村の席へ向いていた。
昨日の放課後のことを思い出すだけで、胸の奥に小さな怒りが湧いてくる。
――全部、あいつのせいだ。
文句の一つでも言ってやろうと決めて、私は自分の席に行くより先に羽村の席へ向かった。
「佐藤、おはよう」
その声と同時に、目の前にすっと人影が立ちはだかった。
顔を上げると、西野。
まるで壁みたいに、羽村の席への通り道を塞いでいる。
「……はいはい」
適当に返すと、西野は眉をひそめた。
「挨拶は挨拶で返せよ」
「わかったから。どいて」
私は横にずれようとした。
けれど西野も、同じ方向にすっと動く。
完全に進路を塞ぐ形だ。
「まぁまぁ」
西野は楽しそうに笑った。
「かっこいい俺の顔でも見なよ」
次の瞬間。
ぐい、と顎を掴まれ、上を向かされる。
視界いっぱいに、西野の顔が映った。
しかも、にやにやと笑っている。
……まただ。
こういうことをして、私の反応を楽しんでいるに決まっている。
私はその手を乱暴に振り払い、西野の肩を押して無理やり横にどかした。
「邪魔」
短く言い捨てて、そのまま羽村の席の前に立つ。
羽村は机に肘をつきながら、面白そうにこちらを見ていた。
「ねぇ、羽村」
私は腕を組んで睨む。
「羽村のせいで昨日の放課後、地獄だったんだけど」
すると羽村は、一瞬きょとんとしてから笑った。
「え、ちゃんと残ったんだ」
「残らされたの!」
思わず声が大きくなる。
「しかもずっと絵描かされてさ!」
そう言うと、後ろから西野の声が聞こえた。
「“ずっと”って言っても一時間だけだけど」
振り返ると、西野が平然とした顔で私の後ろに立っている。
「一時間でも長いの!」
私が言い返すと、羽村は肩を震わせて笑った。
「でもさ、どうだった?」
「どうって?」
「西野の絵の教え方」
私は少しだけ言葉に詰まる。
昨日の放課後。
西野に向かい合って、何枚も描き直して。
何度も「ちゃんと見て」って言われて。
……その結果。
「……まぁ」
私は視線を逸らして、小さく言った。
「ちょっとはマシになったかも」
その瞬間。
後ろで西野が、くすっと笑った。
「“ちょっと”じゃないけどね」
「うるさい」
振り向いて睨むと、西野は楽しそうに肩をすくめた。
羽村はそんな私たちを見比べながら、にやっと笑う。
「なんか仲良くなってない?」
「なってない!」
即答だった。
すると西野も、同時に言った。
「なってない」
ぴったり同じタイミング。
一瞬、教室が静かになる。
そして次の瞬間。
羽村が吹き出した。
「息ぴったりじゃん」
……ほんと、最悪だ。
「佐藤、今日の放課後も時間あけといてな」
後ろから聞こえた声に、私はぴたりと動きを止めた。
ゆっくり振り返る。
そこには、相変わらず余裕そうな顔をした西野が立っていた。
「……今日もやるんですか」
思わず顔が引きつる。
昨日だけでも十分だったのに。
「お楽しみ」
西野はにやっと笑った。
その笑顔が、また腹立たしい。
「全然楽しみじゃないんだけど」
私がぼそっと言うと、横で羽村が吹き出した。
「ははっ、また絵の特訓?」
「特訓っていうか、地獄」
即答すると、羽村は面白そうに私と西野を見比べる。
「でも西野が人に教えるとか珍しいぞ」
「そうなの?」
思わず聞き返すと、羽村はうんうんと頷いた。
「こいつ基本一人で描いてるし。人に興味ないタイプだから」
その言葉に、西野が少し眉をひそめた。
「余計なこと言うな」
「事実じゃん」
羽村は肩をすくめる。
私は二人のやり取りを見ながら、ため息をついた。
「……なんで私なの」
ぽつりと漏れた言葉。
その瞬間。
西野が少しだけ目を細めた。
「さぁ」
わざとらしくとぼけた声。
「なんでだろうな」
そう言って、西野はくるりと背を向ける。
自分の席へ戻りながら、ふと立ち止まった。
そして肩越しにこちらを見る。
「逃げんなよ、今日も」
その言葉に、羽村がまた笑った。
「昨日も逃げようとしてたの?」
「……うるさい」
小さく答えると、二人の笑い声が教室に広がった。
私は机に肘をついて、深くため息をつく。
――また放課後。
またあの静かな教室で、絵を描く時間。
面倒だし、恥ずかしいし、正直あまり行きたくない。
帰りのHRが終わると同時に、教室が一気にざわつき始めた。
椅子を引く音、鞄を閉める音、友達同士の話し声。
その騒がしさの中で、私はそっと立ち上がる。
――今日こそ。
絶対に見つからないように帰る。
昨日みたいに捕まるのは、もうごめんだ。
私はできるだけ自然に、でも急ぎすぎないように教室を出た。
廊下に出ると、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
ここで見つかったら終わりだ。
西野に見つかったら、確実に連れ戻される。
靴箱までたどり着くと、急いで上履きを脱ぎ、外靴に履き替えた。
ちらっと周りを見渡す。
……いない。
西野の姿は見えない。
よし。
私はそのまま校舎を出て、裏門の方へ歩き出した。
裏門まで、あと少し。
近づくにつれて、自然と歩く速度が速くなる。
早く、早く。
誰にも見つからないうちに――
そして。
ついに裏門をくぐった。
「……よし」
思わず小さくつぶやく。
学校から、脱出成功。
その瞬間。
「はい、こっちきて」
横から声がした。
同時に、ぐいっと腕を掴まれる。
「えっ」
驚いて振り向くと――
そこに立っていたのは、西野だった。
校門の外の壁にもたれかかって、さも当たり前みたいな顔をしている。
「……なんでここにいるの」
思わず呆れた声が出る。
西野は軽く肩をすくめた。
「逃げると思ったから」
「張ってたの?」
「うん」
あっさりと頷く。
私は思わず天を仰いだ。
……最悪だ。
「離して」
腕を引くけれど、西野の手は離れない。
「だめ」
「なんで」
「いいから。ついてきて」
西野は私の腕を掴んだまま、どんどん歩いていく。
引っ張られるようにして歩きながら、私は周りを見回した。
……どこに行くんだろう。
少なくとも、教室へ戻る道ではない。
むしろ、学校からどんどん離れている。
「ねぇ、どこ行くの」
聞いてみると、西野は前を向いたまま短く答えた。
「秘密」
それきり、何も言わない。
本当に黙り込んでしまった。
私は半ば諦めながら、その背中についていく。
しばらく歩いて。
ようやく西野が足を止めた。
顔を上げると、そこにはカフェがあった。
大きなガラス窓に、木の看板。
中からはやわらかい明かりが漏れていて、いかにもおしゃれな雰囲気だ。
「……何ここ」
思わずそう言うと、西野はあっさり答えた。
「はい、行くよ」
「え?」
言い終わるより先に、ぐいっと腕を引かれる。
そのまま私は、西野に引きずられるようにしてカフェの中へ入った。
扉を開けると、小さなベルがちりんと鳴る。
コーヒーの香りがふわっと広がった。
落ち着いた音楽が流れていて、店内は思っていたより静かだった。
西野は迷うことなく、奥の席に向かう。
そして窓際のテーブルに座ると、向かいの席を軽く指差した。
「座って」
私は少し戸惑いながら、その席に腰を下ろす。
「……なんでカフェ?」
すると西野は、メニューを手に取りながら言った。
「腹減った」
「……は?」
あまりにも普通の理由で、思わず間の抜けた声が出た。
西野はちらっと私を見て、少し笑う。
「佐藤もなんか頼めば?」
「いや、私は……」
そう言いかけたところで、店員さんが水を持ってきた。
西野は慣れた様子でメニューを差し出す。
「ホットコーヒーと、これ2つ」
指差したのはケーキ。
注文が終わると、西野はメニューを閉じて私を見た。
「で」
「なに」
「逃げるの二日連続はさすがにひどくない?」
私は思わず目を逸らす。
「だって絵描くの嫌だし」
「嫌いなんだ?」
「苦手なの」
小さく言うと、西野は少しだけ考えるように黙った。
それから、ぽつりと言った。
「でもさ」
私は顔を上げる。
西野はテーブルに肘をつきながら、こっちを見ていた。
「俺、今日絵を描くなんて一言も言ってないんだけど」
その言葉に、私は一瞬固まった。
「それに佐藤の絵嫌いじゃないよ」
「……怪物って言ったの誰」
ぼそっと言うと、西野は少し笑った。
「湊に似てたから」
「フォローになってない」
そう言い返すと、西野はくすっと笑う。
ちょうどそのとき、店員さんがコーヒーとケーキを運んできた。
甘い香りがテーブルの上に広がる。
西野はフォークを手に取りながら、さらっと言った。
「食べ終わったら描こうか」
「……ここで?」
私が驚くと、西野は当たり前みたいに頷いた。
「うん」
そして少しだけ口角を上げる。
「今日はカフェで特訓」
「絵を描くなんて一言も言ってないって言ったじゃん」
「絵を描かないとも言ってないんだけど」
……やっぱり。
地獄は続くらしい。
私はため息をつきながらフォークを手に取り、ケーキを一口運ぶ。
「んっ」
思わず声が漏れた。
口の中に広がる甘さ。
ふわっと軽くて、思っていたよりずっと美味しい。
「美味しいっしょ?」
西野が楽しそうに聞いてくる。
「うん」
素直に頷くと、西野はくすっと笑った。
「すなおー。可愛いね」
「はっ」
思わず顔を上げる。
まただ。
またこうやって、からかう。
「……すぐそういうこと言う」
むっとして言うと、西野はコーヒーカップを持ち上げ、ゆっくりと一口飲んだ。
それから、こちらを見て小さく微笑む。
……その余裕そうな顔が、また腹立たしい。
「なに、その顔」
私が睨むと、西野は肩をすくめた。
「別に」
「絶対何か思ってるでしょ」
「思ってるよ」
さらっと返されて、言葉に詰まる。
「な、なに」
少し身構えて聞くと、西野は顎に手を当て、じっと私を眺めた。
「佐藤ってさ、可愛いよね」
「もうそれいいから」
私はため息をつきながら言う。
「何が目的なわけ?」
西野は一瞬だけ目を細めた。
「何が目的か言ったら、そのとおりにしてくれる?」
「内容による」
即答すると、西野は「そう」とだけ言って、コーヒーカップに視線を落とした。
それきり黙る。
……なにそれ。
言うのかと思ったのに。
私は落ち着かない気持ちで、フォークの先でケーキを少し崩した。
沈黙が続く。
「目的って何? 気になるんだけど」
沈黙に耐えきれなくなって、私は口を開いた。
西野は少しだけ視線を上げる。
そして、何でもないことのように言った。
「俺のこと好きになってほしい」
「……なんで?」
思わず聞き返す。
西野はほんの少しだけ笑って、あっさり言った。
「俺が佐藤のこと好きだから」
……まただ。
どうせからかってる。
完全に私の反応を見て楽しもうとしている顔だ。
だけど。
もう西野の思い通りに反応するのは悔しい。
私はフォークを置いて、西野を見た。
「もう西野のこと好きになってるよ」
からかい返してやろう。
そう思って、わざと軽い調子で言った。
どうせまた、
「ほんと?」とか「嘘だろ」とか、
余裕そうな顔で返してくるに決まってる。
そう思って、西野の顔を見た。
「……えっ、西野?」
彼は片手で顔を覆っていた。
さっきまでの余裕そうな顔はどこにもない。
指の隙間から見える肌が――
真っ赤だった。
「……ちょっと待って」
西野が小さく言う。
声まで、少し変だ。
「今の……やばい」
「は?」
意味が分からない。
私は呆然と西野を見つめた。
西野はまだ顔を覆ったまま、ゆっくり息を吐く。
それから少しだけ顔を上げた。
赤いままの顔で、私を見る。
「……からかったつもり?」
「え、うん」
正直に答えると、西野は一瞬黙った。
そして――
小さく笑った。
「じゃあさ」
西野はテーブルに肘をつき、少し身を乗り出す。
「責任とってよ」
「は?」
「好きって言ったんだから」
さっきまで余裕だったはずなのに、
今は少しだけ照れたままの顔で言う。
「取り消し不可ね」
……しまった。
これ、
からかったつもりだったのに。
完全に――
やり返されてる。
「佐藤は、今日から俺の彼女ね」
「なんでそうなるの」
「だって好きって言ったじゃん」
「からかっただけ!」
「俺は本気」
即答だった。
言葉に詰まる。
西野は頬杖をついたまま、まっすぐ私を見る。
「だから彼女ね」
西野は当たり前みたいな顔で言った。
「ならない」
私は即答する。
「じゃあ仮でいいよ」
「なにそれ」
「お試し彼女」
「そんなのないから」
「今作った」
あまりにも平然と言うから、思わず呆れてしまう。
「もう必死すぎ」
私がそう言うと、西野の口がぴたりと止まった。
さっきまで余裕そうだった表情が、ふっと消える。
しばらく黙ったあと、西野は小さく息を吐いた。
「……そうだよ。必死だよ」
ぽつりと落ちた声は、思っていたよりずっと弱かった。
西野は視線をテーブルに落としたまま続ける。
「やっと好きって言ってもらえて、付き合えると思ったのに」
その言葉に、胸の奥が少しだけ引っかかる。
私は何も言えず、西野を見た。
西野は困ったように笑う。
「まあ、冗談だって分かってるけど」
軽く言ったつもりなんだろう。
でも、その笑い方はどこかぎこちない。
「……期待くらいしてもいいじゃん」
そう言って、西野はコーヒーカップに手を伸ばした。
けれど口をつける前に止まる。
「俺、佐藤のこと好きだし」
さらっと言われて、心臓が変に跳ねた。
私は慌てて言い返す。
「それもからかってるんでしょ」
西野は少しだけ眉を上げる。
「なんでそうなるの」
「だっていつもそうじゃん」
「いつもはそうかもね」
西野は苦笑した。
「でも今は違う」
そう言って、ゆっくり顔を上げる。
その視線が、まっすぐこっちに向く。
「本気で言ってる」
カフェの中は静かなままだ。
コーヒーの香りと、小さな音楽だけが流れている。
黙ったままケーキを一口食べる。
甘い味が口の中に広がる。
しばらくして、西野が静かに言った。
「だからさ」
「なに」
「お試しでいいよ」
顔を上げると、西野がこちらを見ていた。
「俺のこと、好きになるかもしれないし」
少しだけ笑う。
「ならないかもしれないけど」
その言い方が、妙にずるい。
私はため息をついた。
「……期間」
「え?」
「お試しって言うなら」
西野の目が少しだけ大きくなる。
私は視線を逸らしながら言った。
「期間決める」
一瞬の沈黙。
それから西野が、ゆっくり笑った。
「いいよ」
その笑顔は、さっきより少しだけ嬉しそうだった。
「二週間ね」
私が言うと、西野はすぐに顔をしかめた。
「短っ」
「十分でしょ」
「せめて一ヶ月」
「だめ。二週間」
きっぱり言い切ると、西野は納得いかない顔でこちらを見る。
「一ヶ月」
「二週間」
「一ヶ月」
しつこい。
私はため息をついた。
「……分かったよ」
西野の顔がぱっと明るくなる。
「一ヶ月ね」
そう言うと、西野は満足そうに頷いた。
「交渉成立」
まるで最初からそれを狙っていたみたいな顔だ。
私は思わず睨む。
「なんか最初から一ヶ月にするつもりだったでしょ」
「そんなことないよ」
西野は笑いながら言う。
「ちゃんと必死だった」
「嘘くさい」
「本当」
軽く返されて、私は小さく息を吐いた。
「……でも」
西野が少しだけ真面目な声になる。
「一ヶ月で終わる気ないけどね」
「終わるよ」
私はすぐに言い返す。
すると西野は楽しそうに笑った。
「俺の彼女かぁ」
「仮」
「仮彼女」
「それも変」
西野は楽しそうに笑った。
「じゃあこうしよ」
「なに」
「俺の好きな人」
そう言われて、私は一瞬言葉を失う。
西野は何でもない顔でコーヒーを飲んだ。
……ほんとに。
この人、ずるい。
昨日の放課後のことを思い出すだけで、胸の奥に小さな怒りが湧いてくる。
――全部、あいつのせいだ。
文句の一つでも言ってやろうと決めて、私は自分の席に行くより先に羽村の席へ向かった。
「佐藤、おはよう」
その声と同時に、目の前にすっと人影が立ちはだかった。
顔を上げると、西野。
まるで壁みたいに、羽村の席への通り道を塞いでいる。
「……はいはい」
適当に返すと、西野は眉をひそめた。
「挨拶は挨拶で返せよ」
「わかったから。どいて」
私は横にずれようとした。
けれど西野も、同じ方向にすっと動く。
完全に進路を塞ぐ形だ。
「まぁまぁ」
西野は楽しそうに笑った。
「かっこいい俺の顔でも見なよ」
次の瞬間。
ぐい、と顎を掴まれ、上を向かされる。
視界いっぱいに、西野の顔が映った。
しかも、にやにやと笑っている。
……まただ。
こういうことをして、私の反応を楽しんでいるに決まっている。
私はその手を乱暴に振り払い、西野の肩を押して無理やり横にどかした。
「邪魔」
短く言い捨てて、そのまま羽村の席の前に立つ。
羽村は机に肘をつきながら、面白そうにこちらを見ていた。
「ねぇ、羽村」
私は腕を組んで睨む。
「羽村のせいで昨日の放課後、地獄だったんだけど」
すると羽村は、一瞬きょとんとしてから笑った。
「え、ちゃんと残ったんだ」
「残らされたの!」
思わず声が大きくなる。
「しかもずっと絵描かされてさ!」
そう言うと、後ろから西野の声が聞こえた。
「“ずっと”って言っても一時間だけだけど」
振り返ると、西野が平然とした顔で私の後ろに立っている。
「一時間でも長いの!」
私が言い返すと、羽村は肩を震わせて笑った。
「でもさ、どうだった?」
「どうって?」
「西野の絵の教え方」
私は少しだけ言葉に詰まる。
昨日の放課後。
西野に向かい合って、何枚も描き直して。
何度も「ちゃんと見て」って言われて。
……その結果。
「……まぁ」
私は視線を逸らして、小さく言った。
「ちょっとはマシになったかも」
その瞬間。
後ろで西野が、くすっと笑った。
「“ちょっと”じゃないけどね」
「うるさい」
振り向いて睨むと、西野は楽しそうに肩をすくめた。
羽村はそんな私たちを見比べながら、にやっと笑う。
「なんか仲良くなってない?」
「なってない!」
即答だった。
すると西野も、同時に言った。
「なってない」
ぴったり同じタイミング。
一瞬、教室が静かになる。
そして次の瞬間。
羽村が吹き出した。
「息ぴったりじゃん」
……ほんと、最悪だ。
「佐藤、今日の放課後も時間あけといてな」
後ろから聞こえた声に、私はぴたりと動きを止めた。
ゆっくり振り返る。
そこには、相変わらず余裕そうな顔をした西野が立っていた。
「……今日もやるんですか」
思わず顔が引きつる。
昨日だけでも十分だったのに。
「お楽しみ」
西野はにやっと笑った。
その笑顔が、また腹立たしい。
「全然楽しみじゃないんだけど」
私がぼそっと言うと、横で羽村が吹き出した。
「ははっ、また絵の特訓?」
「特訓っていうか、地獄」
即答すると、羽村は面白そうに私と西野を見比べる。
「でも西野が人に教えるとか珍しいぞ」
「そうなの?」
思わず聞き返すと、羽村はうんうんと頷いた。
「こいつ基本一人で描いてるし。人に興味ないタイプだから」
その言葉に、西野が少し眉をひそめた。
「余計なこと言うな」
「事実じゃん」
羽村は肩をすくめる。
私は二人のやり取りを見ながら、ため息をついた。
「……なんで私なの」
ぽつりと漏れた言葉。
その瞬間。
西野が少しだけ目を細めた。
「さぁ」
わざとらしくとぼけた声。
「なんでだろうな」
そう言って、西野はくるりと背を向ける。
自分の席へ戻りながら、ふと立ち止まった。
そして肩越しにこちらを見る。
「逃げんなよ、今日も」
その言葉に、羽村がまた笑った。
「昨日も逃げようとしてたの?」
「……うるさい」
小さく答えると、二人の笑い声が教室に広がった。
私は机に肘をついて、深くため息をつく。
――また放課後。
またあの静かな教室で、絵を描く時間。
面倒だし、恥ずかしいし、正直あまり行きたくない。
帰りのHRが終わると同時に、教室が一気にざわつき始めた。
椅子を引く音、鞄を閉める音、友達同士の話し声。
その騒がしさの中で、私はそっと立ち上がる。
――今日こそ。
絶対に見つからないように帰る。
昨日みたいに捕まるのは、もうごめんだ。
私はできるだけ自然に、でも急ぎすぎないように教室を出た。
廊下に出ると、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
ここで見つかったら終わりだ。
西野に見つかったら、確実に連れ戻される。
靴箱までたどり着くと、急いで上履きを脱ぎ、外靴に履き替えた。
ちらっと周りを見渡す。
……いない。
西野の姿は見えない。
よし。
私はそのまま校舎を出て、裏門の方へ歩き出した。
裏門まで、あと少し。
近づくにつれて、自然と歩く速度が速くなる。
早く、早く。
誰にも見つからないうちに――
そして。
ついに裏門をくぐった。
「……よし」
思わず小さくつぶやく。
学校から、脱出成功。
その瞬間。
「はい、こっちきて」
横から声がした。
同時に、ぐいっと腕を掴まれる。
「えっ」
驚いて振り向くと――
そこに立っていたのは、西野だった。
校門の外の壁にもたれかかって、さも当たり前みたいな顔をしている。
「……なんでここにいるの」
思わず呆れた声が出る。
西野は軽く肩をすくめた。
「逃げると思ったから」
「張ってたの?」
「うん」
あっさりと頷く。
私は思わず天を仰いだ。
……最悪だ。
「離して」
腕を引くけれど、西野の手は離れない。
「だめ」
「なんで」
「いいから。ついてきて」
西野は私の腕を掴んだまま、どんどん歩いていく。
引っ張られるようにして歩きながら、私は周りを見回した。
……どこに行くんだろう。
少なくとも、教室へ戻る道ではない。
むしろ、学校からどんどん離れている。
「ねぇ、どこ行くの」
聞いてみると、西野は前を向いたまま短く答えた。
「秘密」
それきり、何も言わない。
本当に黙り込んでしまった。
私は半ば諦めながら、その背中についていく。
しばらく歩いて。
ようやく西野が足を止めた。
顔を上げると、そこにはカフェがあった。
大きなガラス窓に、木の看板。
中からはやわらかい明かりが漏れていて、いかにもおしゃれな雰囲気だ。
「……何ここ」
思わずそう言うと、西野はあっさり答えた。
「はい、行くよ」
「え?」
言い終わるより先に、ぐいっと腕を引かれる。
そのまま私は、西野に引きずられるようにしてカフェの中へ入った。
扉を開けると、小さなベルがちりんと鳴る。
コーヒーの香りがふわっと広がった。
落ち着いた音楽が流れていて、店内は思っていたより静かだった。
西野は迷うことなく、奥の席に向かう。
そして窓際のテーブルに座ると、向かいの席を軽く指差した。
「座って」
私は少し戸惑いながら、その席に腰を下ろす。
「……なんでカフェ?」
すると西野は、メニューを手に取りながら言った。
「腹減った」
「……は?」
あまりにも普通の理由で、思わず間の抜けた声が出た。
西野はちらっと私を見て、少し笑う。
「佐藤もなんか頼めば?」
「いや、私は……」
そう言いかけたところで、店員さんが水を持ってきた。
西野は慣れた様子でメニューを差し出す。
「ホットコーヒーと、これ2つ」
指差したのはケーキ。
注文が終わると、西野はメニューを閉じて私を見た。
「で」
「なに」
「逃げるの二日連続はさすがにひどくない?」
私は思わず目を逸らす。
「だって絵描くの嫌だし」
「嫌いなんだ?」
「苦手なの」
小さく言うと、西野は少しだけ考えるように黙った。
それから、ぽつりと言った。
「でもさ」
私は顔を上げる。
西野はテーブルに肘をつきながら、こっちを見ていた。
「俺、今日絵を描くなんて一言も言ってないんだけど」
その言葉に、私は一瞬固まった。
「それに佐藤の絵嫌いじゃないよ」
「……怪物って言ったの誰」
ぼそっと言うと、西野は少し笑った。
「湊に似てたから」
「フォローになってない」
そう言い返すと、西野はくすっと笑う。
ちょうどそのとき、店員さんがコーヒーとケーキを運んできた。
甘い香りがテーブルの上に広がる。
西野はフォークを手に取りながら、さらっと言った。
「食べ終わったら描こうか」
「……ここで?」
私が驚くと、西野は当たり前みたいに頷いた。
「うん」
そして少しだけ口角を上げる。
「今日はカフェで特訓」
「絵を描くなんて一言も言ってないって言ったじゃん」
「絵を描かないとも言ってないんだけど」
……やっぱり。
地獄は続くらしい。
私はため息をつきながらフォークを手に取り、ケーキを一口運ぶ。
「んっ」
思わず声が漏れた。
口の中に広がる甘さ。
ふわっと軽くて、思っていたよりずっと美味しい。
「美味しいっしょ?」
西野が楽しそうに聞いてくる。
「うん」
素直に頷くと、西野はくすっと笑った。
「すなおー。可愛いね」
「はっ」
思わず顔を上げる。
まただ。
またこうやって、からかう。
「……すぐそういうこと言う」
むっとして言うと、西野はコーヒーカップを持ち上げ、ゆっくりと一口飲んだ。
それから、こちらを見て小さく微笑む。
……その余裕そうな顔が、また腹立たしい。
「なに、その顔」
私が睨むと、西野は肩をすくめた。
「別に」
「絶対何か思ってるでしょ」
「思ってるよ」
さらっと返されて、言葉に詰まる。
「な、なに」
少し身構えて聞くと、西野は顎に手を当て、じっと私を眺めた。
「佐藤ってさ、可愛いよね」
「もうそれいいから」
私はため息をつきながら言う。
「何が目的なわけ?」
西野は一瞬だけ目を細めた。
「何が目的か言ったら、そのとおりにしてくれる?」
「内容による」
即答すると、西野は「そう」とだけ言って、コーヒーカップに視線を落とした。
それきり黙る。
……なにそれ。
言うのかと思ったのに。
私は落ち着かない気持ちで、フォークの先でケーキを少し崩した。
沈黙が続く。
「目的って何? 気になるんだけど」
沈黙に耐えきれなくなって、私は口を開いた。
西野は少しだけ視線を上げる。
そして、何でもないことのように言った。
「俺のこと好きになってほしい」
「……なんで?」
思わず聞き返す。
西野はほんの少しだけ笑って、あっさり言った。
「俺が佐藤のこと好きだから」
……まただ。
どうせからかってる。
完全に私の反応を見て楽しもうとしている顔だ。
だけど。
もう西野の思い通りに反応するのは悔しい。
私はフォークを置いて、西野を見た。
「もう西野のこと好きになってるよ」
からかい返してやろう。
そう思って、わざと軽い調子で言った。
どうせまた、
「ほんと?」とか「嘘だろ」とか、
余裕そうな顔で返してくるに決まってる。
そう思って、西野の顔を見た。
「……えっ、西野?」
彼は片手で顔を覆っていた。
さっきまでの余裕そうな顔はどこにもない。
指の隙間から見える肌が――
真っ赤だった。
「……ちょっと待って」
西野が小さく言う。
声まで、少し変だ。
「今の……やばい」
「は?」
意味が分からない。
私は呆然と西野を見つめた。
西野はまだ顔を覆ったまま、ゆっくり息を吐く。
それから少しだけ顔を上げた。
赤いままの顔で、私を見る。
「……からかったつもり?」
「え、うん」
正直に答えると、西野は一瞬黙った。
そして――
小さく笑った。
「じゃあさ」
西野はテーブルに肘をつき、少し身を乗り出す。
「責任とってよ」
「は?」
「好きって言ったんだから」
さっきまで余裕だったはずなのに、
今は少しだけ照れたままの顔で言う。
「取り消し不可ね」
……しまった。
これ、
からかったつもりだったのに。
完全に――
やり返されてる。
「佐藤は、今日から俺の彼女ね」
「なんでそうなるの」
「だって好きって言ったじゃん」
「からかっただけ!」
「俺は本気」
即答だった。
言葉に詰まる。
西野は頬杖をついたまま、まっすぐ私を見る。
「だから彼女ね」
西野は当たり前みたいな顔で言った。
「ならない」
私は即答する。
「じゃあ仮でいいよ」
「なにそれ」
「お試し彼女」
「そんなのないから」
「今作った」
あまりにも平然と言うから、思わず呆れてしまう。
「もう必死すぎ」
私がそう言うと、西野の口がぴたりと止まった。
さっきまで余裕そうだった表情が、ふっと消える。
しばらく黙ったあと、西野は小さく息を吐いた。
「……そうだよ。必死だよ」
ぽつりと落ちた声は、思っていたよりずっと弱かった。
西野は視線をテーブルに落としたまま続ける。
「やっと好きって言ってもらえて、付き合えると思ったのに」
その言葉に、胸の奥が少しだけ引っかかる。
私は何も言えず、西野を見た。
西野は困ったように笑う。
「まあ、冗談だって分かってるけど」
軽く言ったつもりなんだろう。
でも、その笑い方はどこかぎこちない。
「……期待くらいしてもいいじゃん」
そう言って、西野はコーヒーカップに手を伸ばした。
けれど口をつける前に止まる。
「俺、佐藤のこと好きだし」
さらっと言われて、心臓が変に跳ねた。
私は慌てて言い返す。
「それもからかってるんでしょ」
西野は少しだけ眉を上げる。
「なんでそうなるの」
「だっていつもそうじゃん」
「いつもはそうかもね」
西野は苦笑した。
「でも今は違う」
そう言って、ゆっくり顔を上げる。
その視線が、まっすぐこっちに向く。
「本気で言ってる」
カフェの中は静かなままだ。
コーヒーの香りと、小さな音楽だけが流れている。
黙ったままケーキを一口食べる。
甘い味が口の中に広がる。
しばらくして、西野が静かに言った。
「だからさ」
「なに」
「お試しでいいよ」
顔を上げると、西野がこちらを見ていた。
「俺のこと、好きになるかもしれないし」
少しだけ笑う。
「ならないかもしれないけど」
その言い方が、妙にずるい。
私はため息をついた。
「……期間」
「え?」
「お試しって言うなら」
西野の目が少しだけ大きくなる。
私は視線を逸らしながら言った。
「期間決める」
一瞬の沈黙。
それから西野が、ゆっくり笑った。
「いいよ」
その笑顔は、さっきより少しだけ嬉しそうだった。
「二週間ね」
私が言うと、西野はすぐに顔をしかめた。
「短っ」
「十分でしょ」
「せめて一ヶ月」
「だめ。二週間」
きっぱり言い切ると、西野は納得いかない顔でこちらを見る。
「一ヶ月」
「二週間」
「一ヶ月」
しつこい。
私はため息をついた。
「……分かったよ」
西野の顔がぱっと明るくなる。
「一ヶ月ね」
そう言うと、西野は満足そうに頷いた。
「交渉成立」
まるで最初からそれを狙っていたみたいな顔だ。
私は思わず睨む。
「なんか最初から一ヶ月にするつもりだったでしょ」
「そんなことないよ」
西野は笑いながら言う。
「ちゃんと必死だった」
「嘘くさい」
「本当」
軽く返されて、私は小さく息を吐いた。
「……でも」
西野が少しだけ真面目な声になる。
「一ヶ月で終わる気ないけどね」
「終わるよ」
私はすぐに言い返す。
すると西野は楽しそうに笑った。
「俺の彼女かぁ」
「仮」
「仮彼女」
「それも変」
西野は楽しそうに笑った。
「じゃあこうしよ」
「なに」
「俺の好きな人」
そう言われて、私は一瞬言葉を失う。
西野は何でもない顔でコーヒーを飲んだ。
……ほんとに。
この人、ずるい。

