王太子殿下の命により、辺境の地に赴いていた私の婚約者アレクシス・ヴァレンティヌが頭を打ち、記憶喪失になった、という報せを受けたのが一カ月前。
その彼が戻ってくる、と聞いたのが三日前。
そして今日。私は彼の帰りを出迎えるべく、ヴァレンティヌ伯爵家を訪れていた。
正門前には、私とアレクシスの弟カイン。そして、数名の使用人たちが小伯爵の帰りを今か今かと待っている。
「なあなあセレス~。もし、兄上がセレスのことも忘れてたらどうする?」
紫色の瞳を愉しそうに歪ませ、話しかけてくるカイン。
(こんな時でさえこの人は……)
呆れて物も言えないとはこのこと。
実の兄が怪我を負い、しかも記憶喪失。こうして帰ってこれるようになるまで一カ月もかかった。というのに、カインは心配するどころか喜んでいる。
不快感が込み上げて来る。
睨みつければ、カインはさらに楽しそうに笑った。調子に乗って肩に手を回そうとしてくる。
その手を容赦なく叩き落とした。
(本当にアレクシスと血が繋がっているのかと疑いたくなるくらい軽薄だわ)
アレクシスは生真面目を絵に描いたような男だ。いつも口角を上げうっすらと笑みを浮かべているが、その瞳は冷ややかで感情が読めない。そんな彼を『かっこいい』という人もいれば、『恐ろしい』という人もいる。けれど、私は彼のそんな理知的なところを好意的に捉えていた。カインのような何もかもがいい加減な男よりよほど信用できる。
性格は真逆な兄弟だが、見た目はわりと似ている。アレクシスもカインも一見すると黒髪にしか見えないほどの暗い茶髪で、瞳の色は紫。よく見れば、髪色はアレクシスの方がより濃く、瞳はカインの方が濃い。しかし、それも些細な違い。にもかかわらず、受ける印象は全く違うのだから不思議なものだ。
「お、きたぞ」
カインの声に反応し、顔を上げた。正門の前にベルジュラック辺境伯家の紋章が入った馬車が到着する。扉が開き中から人が降りてきた。
馬車から降りてきたのは紛れもなくアレクシスだ。少し髪は伸びているようだが、記憶に違いはない。続いて降りてきたのは小柄な女性。
(彼女がこの一カ月間記憶を失ったアレクシスを献身的に支えたというエルナ様)
今回のことを抜きにしても、私は辺境伯の一人娘であるエルナ様の名前を知っていた。というのも、彼女は王都でも耳にするくらいの有名人なのだ。辺境の地にいながらも、流行の最先端を行く女性。
(噂以上だわ……)
艶々の栗毛は見たこともない編み込みスタイルでまとめ上げられており、ドレスは今から王城に行くのかというほど華美なものだがそれが彼女にぴたりとあっている。
不意に彼女が口を開いた。
「ねえ、アレクシス様。私、ひとりでは降りれそうもないわ」
ああ、困ったと頬に手を当て、眉尻を下げるエルナ様。それに対し、アレクシスは彼女を一瞥すると、近くにいた騎士を呼び寄せた。
「彼女に手を貸してあげてください」
無感情に淡々と告げる。沈黙がその場に満ちた。
(え……?)
私は思わず、エルナ様とアレクシスを見比べる。
二人の噂は王都にいても聞こえてきたし、わざわざこうしてついてきたくらいだからてっきり記憶を失っている間に二人がそういう間柄になっている可能性は……まあなきにしもあらず?(アレクシスが女性に好意を抱くっていうのが想像できないけど、記憶を失ったのならありえるかも)くらいには思っていた。
しかし、想定していた雰囲気は二人の間にはない。いや、正確に言えば、エルナ様側にはアレクシスへの好意があるように見える。けれど、アレクシスからは……。
(どうなっているの?)
「おいおい兄上。女性に対してそれはないぜ」
アレクシスのフォローをするようにすかさずカインがエルナ様に手を差し出した。我に返ったエルナ様は取り繕い、彼の手を取って馬車から降りる。
カインがやれやれと首を振りながらアレクシスへと近づく。
「どうやら兄上は記憶とともにマナーも忘れてしまったみたいだな。それで次期当主としてやっていけるのか?」
紫色の瞳がぐっと濁り、挑発するようにアレクシスに向けられる。
しかし、当の本人はカインの顔を見て、首を傾げた。
「あなたは……どちら様でしょう?」
その言葉に周囲がざわつく。カインも頬をぴくつかせている。
「な、なに言ってんだよ。記憶を失ってるって言ってもここ数年間分だけだろ。俺が誰だかわからないなんてそんなわけ……」
(あら……だから、さっきカインは私にあんな質問をしてきたのね。数年分の記憶がないということは……きっと私のことも記憶にはない)
アレクシスはフッと笑う。
「嘘ですよ。さすがに弟のカインのことは覚えてますよ」
「……チッ。そういうところ変わってねえのかよ」
カインが忌々しそうに表情を歪め、視線を逸らした。その際、目があう。途端にニヤリと嫌な笑みを浮かべるカイン。
「じゃあ、彼女のことは覚えてるのか?」
そう言って私の両肩を後ろから押し、アレクシスの前に突き出した。いきなりだったので抵抗できず、かなり近づいてしまった。
彼の目が大きく見開き、固まる。彼の瞳に私が映っているのが見えるくらいに近い。
「あ、あの……」
(ここは自己紹介からすべきかしら……)
彼は震える声で尋ねてきた。
「あ……あ、あなたはどこのご令嬢でしょうか。今日ここにいるということは私の知り合い、ということでしょうか?」
「え、ええ。まあ……」
(あら……なにか様子が……)
「なんてことだ!」
ガバッと口を片手で覆う。
「え?」
「こんなっ私の理想を体現したかのようなご令嬢と知り合いだったにもかかわらず、私は彼女のことが思い出せないなんてっ!」
絶望感を滲ませ、嘆く彼に私は絶句せざるを得なかった。それは私だけではなくこの場にいる全員がそうだったようで、皆固まっている。
その彼が戻ってくる、と聞いたのが三日前。
そして今日。私は彼の帰りを出迎えるべく、ヴァレンティヌ伯爵家を訪れていた。
正門前には、私とアレクシスの弟カイン。そして、数名の使用人たちが小伯爵の帰りを今か今かと待っている。
「なあなあセレス~。もし、兄上がセレスのことも忘れてたらどうする?」
紫色の瞳を愉しそうに歪ませ、話しかけてくるカイン。
(こんな時でさえこの人は……)
呆れて物も言えないとはこのこと。
実の兄が怪我を負い、しかも記憶喪失。こうして帰ってこれるようになるまで一カ月もかかった。というのに、カインは心配するどころか喜んでいる。
不快感が込み上げて来る。
睨みつければ、カインはさらに楽しそうに笑った。調子に乗って肩に手を回そうとしてくる。
その手を容赦なく叩き落とした。
(本当にアレクシスと血が繋がっているのかと疑いたくなるくらい軽薄だわ)
アレクシスは生真面目を絵に描いたような男だ。いつも口角を上げうっすらと笑みを浮かべているが、その瞳は冷ややかで感情が読めない。そんな彼を『かっこいい』という人もいれば、『恐ろしい』という人もいる。けれど、私は彼のそんな理知的なところを好意的に捉えていた。カインのような何もかもがいい加減な男よりよほど信用できる。
性格は真逆な兄弟だが、見た目はわりと似ている。アレクシスもカインも一見すると黒髪にしか見えないほどの暗い茶髪で、瞳の色は紫。よく見れば、髪色はアレクシスの方がより濃く、瞳はカインの方が濃い。しかし、それも些細な違い。にもかかわらず、受ける印象は全く違うのだから不思議なものだ。
「お、きたぞ」
カインの声に反応し、顔を上げた。正門の前にベルジュラック辺境伯家の紋章が入った馬車が到着する。扉が開き中から人が降りてきた。
馬車から降りてきたのは紛れもなくアレクシスだ。少し髪は伸びているようだが、記憶に違いはない。続いて降りてきたのは小柄な女性。
(彼女がこの一カ月間記憶を失ったアレクシスを献身的に支えたというエルナ様)
今回のことを抜きにしても、私は辺境伯の一人娘であるエルナ様の名前を知っていた。というのも、彼女は王都でも耳にするくらいの有名人なのだ。辺境の地にいながらも、流行の最先端を行く女性。
(噂以上だわ……)
艶々の栗毛は見たこともない編み込みスタイルでまとめ上げられており、ドレスは今から王城に行くのかというほど華美なものだがそれが彼女にぴたりとあっている。
不意に彼女が口を開いた。
「ねえ、アレクシス様。私、ひとりでは降りれそうもないわ」
ああ、困ったと頬に手を当て、眉尻を下げるエルナ様。それに対し、アレクシスは彼女を一瞥すると、近くにいた騎士を呼び寄せた。
「彼女に手を貸してあげてください」
無感情に淡々と告げる。沈黙がその場に満ちた。
(え……?)
私は思わず、エルナ様とアレクシスを見比べる。
二人の噂は王都にいても聞こえてきたし、わざわざこうしてついてきたくらいだからてっきり記憶を失っている間に二人がそういう間柄になっている可能性は……まあなきにしもあらず?(アレクシスが女性に好意を抱くっていうのが想像できないけど、記憶を失ったのならありえるかも)くらいには思っていた。
しかし、想定していた雰囲気は二人の間にはない。いや、正確に言えば、エルナ様側にはアレクシスへの好意があるように見える。けれど、アレクシスからは……。
(どうなっているの?)
「おいおい兄上。女性に対してそれはないぜ」
アレクシスのフォローをするようにすかさずカインがエルナ様に手を差し出した。我に返ったエルナ様は取り繕い、彼の手を取って馬車から降りる。
カインがやれやれと首を振りながらアレクシスへと近づく。
「どうやら兄上は記憶とともにマナーも忘れてしまったみたいだな。それで次期当主としてやっていけるのか?」
紫色の瞳がぐっと濁り、挑発するようにアレクシスに向けられる。
しかし、当の本人はカインの顔を見て、首を傾げた。
「あなたは……どちら様でしょう?」
その言葉に周囲がざわつく。カインも頬をぴくつかせている。
「な、なに言ってんだよ。記憶を失ってるって言ってもここ数年間分だけだろ。俺が誰だかわからないなんてそんなわけ……」
(あら……だから、さっきカインは私にあんな質問をしてきたのね。数年分の記憶がないということは……きっと私のことも記憶にはない)
アレクシスはフッと笑う。
「嘘ですよ。さすがに弟のカインのことは覚えてますよ」
「……チッ。そういうところ変わってねえのかよ」
カインが忌々しそうに表情を歪め、視線を逸らした。その際、目があう。途端にニヤリと嫌な笑みを浮かべるカイン。
「じゃあ、彼女のことは覚えてるのか?」
そう言って私の両肩を後ろから押し、アレクシスの前に突き出した。いきなりだったので抵抗できず、かなり近づいてしまった。
彼の目が大きく見開き、固まる。彼の瞳に私が映っているのが見えるくらいに近い。
「あ、あの……」
(ここは自己紹介からすべきかしら……)
彼は震える声で尋ねてきた。
「あ……あ、あなたはどこのご令嬢でしょうか。今日ここにいるということは私の知り合い、ということでしょうか?」
「え、ええ。まあ……」
(あら……なにか様子が……)
「なんてことだ!」
ガバッと口を片手で覆う。
「え?」
「こんなっ私の理想を体現したかのようなご令嬢と知り合いだったにもかかわらず、私は彼女のことが思い出せないなんてっ!」
絶望感を滲ませ、嘆く彼に私は絶句せざるを得なかった。それは私だけではなくこの場にいる全員がそうだったようで、皆固まっている。



