翌朝。
村はまだ薄い霧の中にあった。
畑の土は夜露で湿り、遠くの山は淡く霞んでいる。
悠真は早く家を出た。
肩に訓練用の鞄をかけ、村の道を歩く。
同じ年頃の少年たちも、同じ方向へ向かっていた。
村の外れ。
低い鉄の柵の向こうに、軍の訓練場がある。
この国では、十六になると男子は軍の訓練に参加する。
戦争が続いているからだ。
広い土の広場。
朝の空気はまだ冷たい。
兵士たちの声が響く。
「準備しろ!」
少年たちはそれぞれ装備を受け取り、訓練の支度を始める。
悠真が鞄を開けていると、後ろから声がした。
「おはよう」
振り向くと武だった。
背が高く、少し日に焼けた顔。
同じ村で育った仲間だ。
「早いな」
悠真が言う。
「まあな」
武は笑いながらスマホを取り出した。
「昨日、光戦やった?」
悠真は少し笑う。
「神社でな」
武は画面を見せる。
ランキング画面だった。
全国ランキング 二百二十三位。
かなり上の順位だ。
「昨日ちょっと上がった」
「すごいじゃん」
悠真が言うと、武は肩をすくめた。
「まだまだだよ。お前三十七位だろ」
悠真は答えなかった。
代わりに言う。
「昨日、負けた」
武が顔を上げる。
「は?」
「神社で」
武は少し笑った。
「子ども相手に?」
悠真は首を振る。
「凛」
武の顔が止まった。
一瞬、沈黙が落ちる。
「……凛?」
悠真はうなずく。
「光戦やった」
武は眉をひそめる。
「勝てなかった」
悠真は静かに言った。
武はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「いや、それはない」
はっきりした口調だった。
悠真は武を見る。
「なんで」
武はスマホをポケットにしまった。
「凛が光戦なんて、まともにやってるわけない」
「でもやった」
「たまたまだろ」
武は言い切る。
悠真は何も言わない。
武は少し考えてから言った。
「俺、あいつの幼馴染なんだ」
悠真は知っている。
小さい頃から一緒にいたと聞いたことがある。
武は土を軽く蹴った。
「凛の家、ちょっと変なんだ」
声は少し低かった。
「父親いないし、母親も体弱い」
悠真は黙って聞いている。
「家のこと、ほとんど凛がやってる」
武は続けた。
「畑も、買い出しも、全部」
朝も早い。
夜も遅い。
そんな生活だ。
武は言う。
「光戦なんてやってる暇ないよ」
悠真は思い出す。
昨日の指の動き。
迷いのない軌道。
「でも強かった」
悠真は小さく言った。
武は首を振る。
「いや、ない」
はっきり否定する。
「俺、あいつのこと昔から知ってる」
少し間を置く。
「ゲームとかやるタイプじゃない」
兵士の声が広場に響いた。
「整列!」
訓練が始まる。
少年たちが急いで並び始める。
武も歩きながら言う。
「たまたま勝ったんだよ」
軽く笑う。
「お前が油断しただけ」
悠真は何も答えなかった。
ただ、昨日の光を思い出していた。
赤。
青。
紫。
そして、凛の指。
光が来る前に、そこへ置かれていた指。
悠真は小さく息を吐いた。
「……そうかな」
武には聞こえないほどの声だった。
朝の霧が消えるころには、訓練場はもう砂埃に包まれていた。
「走れ!」
教官の声が響く。
悠真たちは装備を背負ったまま走らされていた。
重い軍靴が土を踏みしめる。
背中の荷物は想像以上に重い。
水筒、弾薬の模型、訓練用の装備。
ただ走るだけではない。
丘を越え、低い塹壕を飛び越え、
泥の斜面を這い上がる。
息が焼けるように熱い。
武が隣で小さく言う。
「きついな…」
悠真は返事ができない。
呼吸が荒く、胸が上下していた。
それでも止まれない。
「遅れるな!」
教官の声がまた飛ぶ。
走り終わるころには、
足が自分のものではないようだった。
太ももが震えている。
だが休みはほとんどない。
「次、射撃!」
兵士が銃を配る。
冷たい金属の感触。
訓練用とはいえ、本物の銃だった。
教官が言う。
「扱いを間違えれば、仲間を殺す」
静かな声だったが、重い。
「構え」
悠真は銃を肩に当てる。
頬に硬い木の感触。
「呼吸を止めろ」
遠くに置かれた鉄板の標的。
引き金を引く。
乾いた音。
反動が腕に伝わる。
「次!」
何度も撃つ。
腕がだんだん重くなる。
照準が少しずつ揺れる。
「安定させろ!」
教官が歩き回る。
「戦場で手が震える兵は死ぬ」
その言葉は冗談に聞こえなかった。
射撃が終わると、今度は格闘訓練だった。
「二人組!」
悠真は武と向かい合う。
兵士が言う。
「銃が使えない距離では、体で戦う」
木製の訓練銃を握る。
「始め!」
武が踏み込んでくる。
悠真は体をずらす。
だが武の肘が肩に当たる。
鈍い衝撃。
砂の上に転がりそうになる。
「遅い!」
教官の声。
「相手の重心を見ろ!」
今度は悠真が前に出る。
武の腕をつかみ、体をひねる。
二人とも砂に倒れた。
背中に土の冷たさが伝わる。
息が乱れる。
だがすぐに立たされる。
「終わりじゃない」
次は匍匐前進だった。
腹を地面につけ、
草の中を這う。
頭の上にロープが張られている。
少しでも体を上げると引っかかる。
肘と膝で進む。
砂と小石が服の中に入り込む。
遠くで教官が言う。
「敵に見つかるな」
声を落とす。
「音を立てるな」
草が顔に触れる。
土の匂い。
汗が目に入る。
腕が震える。
それでも進む。
やっと終わったころには、
悠真の腕は力が抜けていた。
だが午後は座学だった。
木造の小さな建物の中。
机に座る。
兵士が黒板に絵を描く。
銃の分解図。
敵の装備。
「この国の歩兵装備はこうだ」
帽子。
弾薬袋。
銃。
「夜間のステルス行動では――」
足音を消す歩き方。
影の使い方。
敵の背後に回る方法。
悠真はぼんやり黒板を見ていた。
朝からずっと体を動かしている。
足がまだ震えている。
武が横で小さくつぶやく。
「これ毎日かよ…」
悠真は小さく息を吐いた。
窓の外には、遠くの山が見える。
静かな景色だった。
だがこの訓練は、
その静けさとはまるで別の世界のもののようだった。
訓練が終わるころには、空はもう橙色に染まりはじめていた。
一日の終わりを告げる笛が鳴る。
少年たちはその場に座り込む者もいた。
砂と汗にまみれた服。
腕も足も、思うように動かない。
悠真も深く息を吐いた。
太ももがまだ震えている。
銃を握っていた手も、少し力が抜けていた。
武が隣で言う。
「今日はきつかったな」
「うん」
悠真は短く答えた。
教官の声が響く。
「解散!」
その言葉で、皆ゆっくり立ち上がる。
悠真は鞄を肩にかけた。
そして村の方へ歩き出す。
夕方の風が少し冷たい。
訓練場を離れると、音が急に静かになる。
さっきまでの怒号や銃声が嘘のようだった。
土の道を歩く。
遠くでカラスが鳴いている。
村が見えてくるころには、
空は赤から紫に変わり始めていた。
悠真は家の方へは向かわない。
村の中心を通り過ぎ、
細い坂道を上っていく。
その先にあるのが、村の神社だった。
古い石段。
苔の生えた鳥居。
大きな杉の木。
小さな神社だが、村の子どもたちがよく集まる場所だった。
悠真は石段を上る。
訓練の疲れで足が少し重い。
それでも、この時間が一日の楽しみだった。
雨の日以外、訓練のあとにはここに来る。
友達や子どもたちと、
光戦をするためだ。
境内に入ると、もう声が聞こえた。
「来た!」
子どもの声だった。
石の灯籠の近くに、数人の子どもが座っている。
皆スマホを持っていた。
武もそこにいた。
「遅いぞ」
武が笑う。
悠真も少し笑った。
「ごめん、ちょっと時間かかった」
子どもの一人が言う。
「悠真兄ちゃん、今日もやろう!」
別の子も言う。
「通信対戦で勝ったんだよ!」
境内には夕方の光が残っていた。
杉の葉の間から、細い光が落ちている。
遠くで虫が鳴きはじめていた。
悠真は石段の横に座る。
スマホを取り出す。
疲れていたはずなのに、
画面を見ると少しだけ気持ちが軽くなる。
光戦の画面を開く。
子どもが言う。
「対戦!」
悠真はうなずく。
「いいよ」
スマホを向け合う。
画面の中央に、光の輪が現れた。
紫。
攻撃の軌道。
悠真の指が静かに動く。
訓練で重かった腕が、
このときだけは少し軽く感じた。
夜の帳が、ゆっくりと村に降りはじめていた。
神社の境内はもう薄暗い。
杉の木の影が地面に長く伸びている。
子どもたちは一人、また一人と帰っていく。
「じゃあね!」
「また明日!」
石段を下りていく足音が遠ざかり、境内は静かになった。
武も立ち上がる。
「俺も帰るわ」
「うん」
悠真はうなずく。
武は肩を軽く回しながら石段へ向かった。
「明日も訓練だしな」
そう言って手を振り、暗い参道へ消えていく。
境内には悠真だけが残った。
杉の枝が風で揺れる。
虫の声が少し強くなっていた。
悠真も帰ろうと思い、スマホをしまう。
そのときだった。
――何か、変だった。
背後にわずかな気配。
音というほどでもない。
草がこすれるような、小さな動き。
悠真は振り向く。
境内の裏手。
社殿の後ろの暗がり。
「……?」
少しだけ歩いて回り込む。
月明かりが弱く差し込む場所だった。
そこに、小さな影があった。
犬だった。
まだ若い、茶色い犬。
地面に横たわっている。
悠真は近づく。
犬の体が、かすかに上下している。
息はしている。
だが弱い。
「おい…」
悠真はしゃがみ込んだ。
体に触れる。
冷たい。
何かに噛まれたのか、
どこか痛めているのか、暗くてよく分からない。
ただ、息が浅い。
虫の息だった。
悠真は眉を寄せる。
「……放っておけないな」
小さく言う。
犬は動かない。
ただ、かすかに息をしている。
悠真はそっと抱き上げた。
体は軽い。
骨ばっている。
犬は弱く鳴いた。
「大丈夫」
悠真は静かに言う。
そのまま神社の石段へ向かう。
石段を急いで下りる。
夜の空気は少し冷たい。
犬の体温が腕に伝わってくる。
悠真は足を速めた。
家へ連れて帰ろう。
そう思ったときだった。
石段の下。
参道の途中に、人影が立っていた。
月明かりの中。
黒い髪が風に揺れている。
凛だった。
静かに立っている。
悠真は少し驚く。
「……凛?」
凛は悠真の腕の中を見る。
犬を見ている。
それから、短く言った。
「その犬」
短く言う。
「もう長くないよ」
悠真は思わず犬を見下ろした。
「え」
凛はもう一歩近づく。
そして、何もためらわず犬に手を伸ばした。
「ちょっと持って」
悠真は言われるまま、犬を少し抱え直す。
凛の指が犬の体に触れる。
腹。
首の下。
足の付け根。
静かな動きだった。
しばらく触ってから、凛は小さく言う。
「怪我はない」
悠真は少し驚く。
「じゃあ…」
凛は犬の耳の後ろを軽く触った。
「体が冷えてる」
犬の呼吸は浅い。
弱く、かすかだった。
凛は立ち上がる。
「体を温めて」
悠真を見る。
「毛布とかで包む」
それから少し考えて続ける。
「お湯でふやかして、冷ました柔らかいごはん」
「食べられそうなら、あげてみて」
悠真は黙って聞いている。
凛はポケットに手を入れた。
小さな丸い粒を取り出す。
白っぽい、丸い粒だった。
悠真の手に置く。
「これ」
「ごはんと一緒に飲ませてあげて」
それだけ言う。
説明はそれ以上なかった。
凛はもう振り返っている。
参道を静かに歩き出す。
悠真が慌てて言う。
「凛!」
凛は止まらない。
暗い道へ歩いていく。
悠真は少し大きな声で言った。
「ありがとう!」
凛の背中はそのままだった。
返事はない。
けれど歩く速さが、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
やがて凛の姿は闇に消える。
悠真は犬を抱え直した。
「よし」
小さく言う。
そのまま急ぎ足で家へ向かった。
村の道はもう暗い。
家々から灯りが漏れている。
悠真の家は村の端だった。
戸を開ける。
「ただいま」
台所から母の声がする。
「おかえり」
だが悠真の腕の中を見ると、少し驚いた。
「まあ…犬?」
「神社で倒れてた」
悠真は急いで言う。
「ちょっと助けたい」
母は少しだけ困った顔をしたが、すぐにうなずいた。
「毛布持ってくるね」
父も座敷から顔を出す。
「どうした」
「弱ってるみたい」
悠真はそう言いながら、犬を座敷の隅に寝かせた。
母が毛布を持ってくる。
悠真は犬をそっと包む。
体はまだ冷たい。
「待ってて」
悠真は台所へ行く。
鍋にお湯を入れる。
少しだけごはんを入れ、柔らかくなるまで待つ。
それから皿に移す。
少し冷ます。
凛の言葉を思い出す。
――お湯でふやかして、冷ました柔らかいごはん。
悠真はそのまま皿を持って戻った。
犬は毛布の中で横になっている。
呼吸はまだ弱い。
悠真はそっと皿を近づける。
「食べられるか」
犬の鼻が少し動いた。
ゆっくり顔を上げる。
弱々しい。
悠真は指で少しだけごはんをすくう。
口元へ持っていく。
犬は少しだけ舐めた。
ほんの少し。
それでも飲み込む。
悠真は安心したように息を吐く。
「よかった」
それから、凛にもらった粒を取り出す。
小さな丸い薬。
ごはんに混ぜる。
犬の口元へもう一度持っていく。
犬はゆっくり食べた。
ほんの少しずつ。
そのあと、力が抜けたように毛布の上に顔を置く。
「くぅ〜ん…」
小さく鳴いた。
とても弱い声だった。
悠真は犬の頭をそっとなでる。
「大丈夫」
静かに言う。
「もう少し頑張れ」
犬の体はまだ温かくはない。
けれど、さっきより呼吸が少しだけ深くなっている気がした。
悠真は毛布を整える。
ふと、凛の顔が頭に浮かぶ。
暗い参道。
短い言葉。
そして、迷いのない手つき。
悠真は小さくつぶやいた。
「……あいつ、なんで分かるんだろうな」
その夜。
犬はまだ毛布の中で横になっていた。
息はある。けれど弱い。
悠真は布団を敷いたあと、しばらく犬を見ていた。
「……どうするかな」
小さく言う。
座敷の灯りはもう落ちていて、家の中は静かだった。
台所から、母が片付けをする小さな音だけが聞こえる。
犬は動かない。
ただ、ときどき胸が小さく上下する。
悠真は犬の体を触った。
まだ体が冷たい。
凛の言葉を思い出す。
――体を温めて。
悠真は少し考え、それから犬をそっと抱き上げた。
軽い。
骨ばっている体だった。
「……仕方ない」
そう言って、布団の中に入る。
犬を自分の胸の横に寝かせ、毛布をかぶせる。
体温が伝わるように、腕を少し寄せた。
犬は弱く動く。
「くぅ…」
小さな声。
悠真は頭をなでた。
「怖くないから」
静かに言う。
「寝ていい」
犬は目を少し開けて、また閉じた。
外では風が杉の枝を揺らしている。
遠くで虫の声も聞こえる。
村の夜は静かだった。
悠真は天井を見ながら、ゆっくり息を吐く。
体はまだ訓練の疲れで重い。
足の筋肉が少し痛む。
腕もだるい。
それでも、さっきより気持ちは落ち着いていた。
腕の横の犬から、かすかな温もりが伝わってくる。
悠真は目を閉じる。
そのとき、ふと凛の顔を思い出した。
神社の石段の下。
暗い参道。
犬を触っていたときの、あの落ち着いた手。
「……不思議なやつだな」
小さくつぶやく。
昼間の光戦。
迷いのない指。
そしてさっきの犬。
悠真は少し笑った。
「武は、知らないんだろうな」
小さな声だった。
犬がまた、かすかに鳴く。
「くぅ…」
悠真は毛布を少し寄せた。
「大丈夫」
静かに言う。
「ここにいろ」
犬の呼吸は、ゆっくりだった。
悠真の体温に包まれるように、
その小さな体は少しずつ温かさを取り戻していった。
やがて、悠真も眠りに落ちる。
その夜、犬はずっと
悠真のそばで眠っていた。
犬は、少しずつ元気になっていった。
最初の数日は、まだ動きもゆっくりだった。
毛布の上で丸くなり、眠っている時間が長い。
悠真は毎日、ごはんを柔らかくして与えた。
水も少しずつ飲ませる。
三日目には、自分で立てるようになった。
五日目には、部屋の中をよろよろ歩き回る。
そして――
一週間もすると、すっかり様子が変わっていた。
朝。
悠真がごはんの皿を置くと、犬は尻尾を振りながら走ってくる。
「おいおい、元気じゃないか」
悠真は笑う。
犬は夢中で食べる。
小さな体なのに、食欲はなかなかのものだった。
体重は五キロくらいだろうか。
大きくはない。
茶色い毛。
丸い体。
目はくりくりしていて、やたら人懐っこい。
悠真が立つと、すぐ後ろについてくる。
廊下でも、庭でも。
「そんなに来なくていいって」
そう言っても、犬は嬉しそうに尻尾を振るだけだった。
元いた場所へ戻してみようと思い、神社にも連れていった。
石段を上り、境内へ行く。
「ここ、お前が倒れてたところだぞ」
悠真はしゃがみ、犬を地面に下ろした。
犬は少し辺りを見回す。
それから――
悠真の足元に戻ってきた。
「……帰らないのか」
もう一度、少し離してみる。
犬はまた戻ってくる。
尻尾をぶんぶん振りながら。
悠真は頭をかいた。
「仕方ないな」
小さく笑う。
「うち来るか」
それからというもの、犬は悠真の家で暮らすことになった。
母も最初は少し驚いたが、
「ちゃんと世話するならいいよ」
と言ってくれた。
父は犬を見て言った。
「小さいな」
犬は父の足元でも尻尾を振る。
「雄だな」
父がそう言う。
悠真は犬を抱き上げた。
「名前つけないとな」
犬は悠真の顔を見ている。
くりくりした目だった。
「うーん」
しばらく考える。
茶色いし。
小さいし。
元気だし。
「何がいいかな…」
そのときだった。
机の上のスマホが震える。
ぶー、と短い着信音。
悠真は少し驚いた。
スマホを見る。
画面に表示された名前を見て、目を瞬く。
凛
思わずつぶやく。
「……なんで?」
犬はその声に反応して、首をかしげた。
この村は小さい。
だから昔から、回覧という仕組みがあった。
村の連絡事項を回すための帳面だ。
その帳面には、ほとんどの家の名前と連絡先が書かれている。
何かあればすぐ連絡できるようにだ。
悠真も、凛の番号をそこから知っていた。
けれど自分からかけたことはない。
だから――
スマホに表示された名前を見たとき、
少し驚いた。
凛
悠真は通話を取る。
「もしもし」
少しの沈黙。
それから凛の声が聞こえた。
「犬」
短い。
悠真は少し笑う。
「ああ」
足元を見る。
犬は尻尾を振りながら、悠真を見上げていた。
「おかげで助かった」
悠真は言う。
「元気になったよ」
少し間を置く。
「うちで飼うことにした」
電話の向こうは静かだった。
悠真は続ける。
「でもさ」
犬の頭を軽くなでる。
「名前が決まらなくて」
犬は嬉しそうに尻尾を振る。
その様子を見ながら言った。
「何かいいのある?」
電話の向こうで、少し風の音がした。
凛が言う。
「今から」
悠真は聞き返す。
「ん?」
凛は続けた。
「神社」
少しの間。
「来て」
悠真は目を瞬いた。
「今?」
「うん」
凛の声はいつも通り静かだった。
「待ってる」
それだけ言うと、
通話はぷつりと切れた。
悠真はスマホを少し見つめる。
「……早いな」
小さく言う。
足元で犬が尻尾を振っている。
悠真はしゃがみこんで犬を見る。
「行くか」
犬の首を軽くなでる。
「神社」
犬は意味は分からないはずなのに、
嬉しそうに小さく鳴いた。
「わん」
悠真は立ち上がる。
上着をつかみ、外へ出る。
夕方の空気は少し冷たい。
村の道にはもう灯りがつき始めていた。
犬はすぐ後ろをついてくる。
小さな足音。
「急ぐぞ」
悠真は歩く速さを上げる。
犬も慌ててついてくる。
村の道を抜け、
坂を上る。
神社へ続く石段が見えてきた。
杉の木の影が揺れている。
悠真は石段を上りながら思う。
(なんだろう)
凛が自分から呼ぶなんて、
ほとんどない。
犬はその横で、小さく息を弾ませながら
必死に石段を上っていた。
神社に着くころには、空はもう藍色に変わりかけていた。
石段の上、境内の入り口のあたり。
凛が階段に腰を下ろしていた。
静かに座っている。
悠真は少し息を整えてから声をかけた。
「お待たせ」
凛が顔を上げる。
その瞬間だった。
犬が勢いよく走り出す。
「おい」
悠真が言うより早く、犬は凛のところへ駆け寄った。
小さな体で、尻尾を大きく振る。
凛の前でくるくる回る。
「わん!」
凛の表情がふっと変わった。
「元気になったね」
声が柔らかい。
凛はしゃがみ、犬の頭をなでる。
犬は嬉しそうに体を寄せる。
凛はそのまま犬の首のあたりをくすぐる。
「よかった」
そう言って、くすっと笑った。
満面の笑みだった。
悠真はその様子を見て、少し驚く。
(凛って…)
心の中で思う。
(こんなに笑うんだ)
普段の凛は、どちらかといえば無表情だ。
言葉も少ない。
だから、その笑顔が少し意外だった。
悠真はしばらく黙って見ていた。
気づけば、少し見惚れていた。
神社の灯篭に灯りが入る。
淡い橙色の光。
暗くなりかけた境内を静かに照らす。
その光が凛の横顔に落ちる。
白い肌が、やわらかく光っていた。
黒い髪が風で少し揺れる。
犬をなでる手。
その全部が、なぜか静かな絵のように見えた。
凛がふと顔を上げる。
悠真を見る。
「名前」
短く言う。
「決まったの」
急に視線が合って、悠真は少しだけ戸惑う。
胸の奥が妙に落ち着かない。
悠真は慌てて凛とは反対の方向を見る。
杉の木の方を見ながら、ぼそっと言う。
「まだなんだ」
自分でも少し照れくさい声だった。
しばらく沈黙が続く。
返事がない。
悠真は気になって凛の方を見る。
凛は悠真ではなく、犬の顔を見ていた。
犬も凛を見上げている。
そのまま少しの時間が流れる。
杉の葉が風で揺れる音。
遠くの虫の声。
やがて凛が口を開いた。
「光」
静かな声だった。
悠真は首をかしげる。
「光?」
凛はうなずく。
犬の頭を軽くなでながら言う。
「どうかな」
「お互い、知ってたけど」
少し間を置く。
「光戦で、初めて話した」
悠真は黙って聞く。
凛は犬のくりくりした目を見ながら続けた。
「だから」
短く言う。
「光」
それだけだった。
「単純だけど」
凛が付け加える。
悠真は少し考える。
夜の神社。
灯篭の橙色の光。
杉の影。
そして、足元の小さな犬。
悠真はふっと笑った。
「光か」
小さく言う。
それからうなずく。
「いいな」
凛は何も言わない。
ただ犬をなでている。
悠真はしゃがみこんだ。
犬の顔をのぞく。
丸い目でこちらを見ている。
「聞いたか」
悠真は言う。
犬は首をかしげた。
悠真は少し笑う。
「お前は今日から――」
犬の頭をぽんと軽く叩く。
「光だ」
尻尾が大きく振られる。
「相棒」
そう言うと、犬――光は嬉しそうに小さく鳴いた。
「わん」
凛がその様子を見て、また少し笑った。
その笑顔はさっきより静かだった。
神社の灯篭の光が二人と一匹を照らしている。
夜の風が杉の葉を揺らす。
悠真は立ち上がった。
「ありがとな」
凛を見る。
「犬も」
少し間を置く。
「名前も」
凛は少しだけ肩をすくめた。
「別に」
いつもの調子だった。
それから光の頭を最後にもう一度なでる。
光は嬉しそうに目を細めた。
境内には、静かな夜の空気が流れていた。
光と名前をつけてから、凛はよく光をかわいがるようになった。
最初は、たまたま神社で会うくらいだった。
けれど、いつの間にかそれが当たり前になっていった。
訓練が終わる。
体は相変わらず重い。
砂と汗にまみれた一日。
それでも悠真は、村へ帰る足を少し早める。
神社へ向かうためだった。
石段を上ると、子どもたちがもう集まっている。
「悠真兄ちゃん!」
「光戦やろう!」
スマホを向け合い、光の軌跡を追う。
紫。
白。
赤。
夕方の境内に、子どもたちの声が響く。
その時間が終わりに近づくころ、
空はゆっくり色を変えていく。
橙から、深い青へ。
子どもたちはそれぞれ帰っていく。
境内が静かになるころ――
石段の下か、杉の木のそばに、
凛が立っていることが多かった。
「来たよ」
凛はそれだけ言う。
光はすぐに凛のところへ走る。
尻尾を振りながら飛びつく。
「光」
凛の声は少し柔らかい。
しゃがんで頭をなでる。
「今日も元気だね」
光は嬉しそうに鳴く。
それから三人で歩く。
神社の裏の道。
畑の横の細い道。
川の近くの土手。
特に決まった道はない。
ただ、ゆっくり歩く。
凛はあまり話さない。
悠真も、無理に話そうとはしない。
言葉は少ない。
「今日は訓練きつかった」
「そう」
「光、また泥だらけだな」
「うん」
それくらい。
それでも不思議と、気まずくはなかった。
光は二人の間を行ったり来たりする。
草むらに顔を突っ込んだり、
急に走ったり。
そのたびに凛が笑う。
声を立てて笑うわけじゃない。
でも、口元がやわらかくなる。
目が少し細くなる。
悠真は時々それを見る。
(増えたな)
心の中で思う。
凛の笑顔。
光に出会ってから、
確実に増えた気がする。
夕暮れの村。
田んぼの水が空を映している。
遠くでカラスが鳴く。
三人はゆっくり歩く。
凛。
悠真。
そして光。
ただ歩いているだけ。
それだけなのに、
不思議と胸の奥が静かに満たされていた。
悠真はふと光を見る。
小さな体で一生懸命走っている。
それを見て、少し笑う。
(悪くないな)
夕暮れの風が、三人の横を静かに通り抜けていった。
村はまだ薄い霧の中にあった。
畑の土は夜露で湿り、遠くの山は淡く霞んでいる。
悠真は早く家を出た。
肩に訓練用の鞄をかけ、村の道を歩く。
同じ年頃の少年たちも、同じ方向へ向かっていた。
村の外れ。
低い鉄の柵の向こうに、軍の訓練場がある。
この国では、十六になると男子は軍の訓練に参加する。
戦争が続いているからだ。
広い土の広場。
朝の空気はまだ冷たい。
兵士たちの声が響く。
「準備しろ!」
少年たちはそれぞれ装備を受け取り、訓練の支度を始める。
悠真が鞄を開けていると、後ろから声がした。
「おはよう」
振り向くと武だった。
背が高く、少し日に焼けた顔。
同じ村で育った仲間だ。
「早いな」
悠真が言う。
「まあな」
武は笑いながらスマホを取り出した。
「昨日、光戦やった?」
悠真は少し笑う。
「神社でな」
武は画面を見せる。
ランキング画面だった。
全国ランキング 二百二十三位。
かなり上の順位だ。
「昨日ちょっと上がった」
「すごいじゃん」
悠真が言うと、武は肩をすくめた。
「まだまだだよ。お前三十七位だろ」
悠真は答えなかった。
代わりに言う。
「昨日、負けた」
武が顔を上げる。
「は?」
「神社で」
武は少し笑った。
「子ども相手に?」
悠真は首を振る。
「凛」
武の顔が止まった。
一瞬、沈黙が落ちる。
「……凛?」
悠真はうなずく。
「光戦やった」
武は眉をひそめる。
「勝てなかった」
悠真は静かに言った。
武はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「いや、それはない」
はっきりした口調だった。
悠真は武を見る。
「なんで」
武はスマホをポケットにしまった。
「凛が光戦なんて、まともにやってるわけない」
「でもやった」
「たまたまだろ」
武は言い切る。
悠真は何も言わない。
武は少し考えてから言った。
「俺、あいつの幼馴染なんだ」
悠真は知っている。
小さい頃から一緒にいたと聞いたことがある。
武は土を軽く蹴った。
「凛の家、ちょっと変なんだ」
声は少し低かった。
「父親いないし、母親も体弱い」
悠真は黙って聞いている。
「家のこと、ほとんど凛がやってる」
武は続けた。
「畑も、買い出しも、全部」
朝も早い。
夜も遅い。
そんな生活だ。
武は言う。
「光戦なんてやってる暇ないよ」
悠真は思い出す。
昨日の指の動き。
迷いのない軌道。
「でも強かった」
悠真は小さく言った。
武は首を振る。
「いや、ない」
はっきり否定する。
「俺、あいつのこと昔から知ってる」
少し間を置く。
「ゲームとかやるタイプじゃない」
兵士の声が広場に響いた。
「整列!」
訓練が始まる。
少年たちが急いで並び始める。
武も歩きながら言う。
「たまたま勝ったんだよ」
軽く笑う。
「お前が油断しただけ」
悠真は何も答えなかった。
ただ、昨日の光を思い出していた。
赤。
青。
紫。
そして、凛の指。
光が来る前に、そこへ置かれていた指。
悠真は小さく息を吐いた。
「……そうかな」
武には聞こえないほどの声だった。
朝の霧が消えるころには、訓練場はもう砂埃に包まれていた。
「走れ!」
教官の声が響く。
悠真たちは装備を背負ったまま走らされていた。
重い軍靴が土を踏みしめる。
背中の荷物は想像以上に重い。
水筒、弾薬の模型、訓練用の装備。
ただ走るだけではない。
丘を越え、低い塹壕を飛び越え、
泥の斜面を這い上がる。
息が焼けるように熱い。
武が隣で小さく言う。
「きついな…」
悠真は返事ができない。
呼吸が荒く、胸が上下していた。
それでも止まれない。
「遅れるな!」
教官の声がまた飛ぶ。
走り終わるころには、
足が自分のものではないようだった。
太ももが震えている。
だが休みはほとんどない。
「次、射撃!」
兵士が銃を配る。
冷たい金属の感触。
訓練用とはいえ、本物の銃だった。
教官が言う。
「扱いを間違えれば、仲間を殺す」
静かな声だったが、重い。
「構え」
悠真は銃を肩に当てる。
頬に硬い木の感触。
「呼吸を止めろ」
遠くに置かれた鉄板の標的。
引き金を引く。
乾いた音。
反動が腕に伝わる。
「次!」
何度も撃つ。
腕がだんだん重くなる。
照準が少しずつ揺れる。
「安定させろ!」
教官が歩き回る。
「戦場で手が震える兵は死ぬ」
その言葉は冗談に聞こえなかった。
射撃が終わると、今度は格闘訓練だった。
「二人組!」
悠真は武と向かい合う。
兵士が言う。
「銃が使えない距離では、体で戦う」
木製の訓練銃を握る。
「始め!」
武が踏み込んでくる。
悠真は体をずらす。
だが武の肘が肩に当たる。
鈍い衝撃。
砂の上に転がりそうになる。
「遅い!」
教官の声。
「相手の重心を見ろ!」
今度は悠真が前に出る。
武の腕をつかみ、体をひねる。
二人とも砂に倒れた。
背中に土の冷たさが伝わる。
息が乱れる。
だがすぐに立たされる。
「終わりじゃない」
次は匍匐前進だった。
腹を地面につけ、
草の中を這う。
頭の上にロープが張られている。
少しでも体を上げると引っかかる。
肘と膝で進む。
砂と小石が服の中に入り込む。
遠くで教官が言う。
「敵に見つかるな」
声を落とす。
「音を立てるな」
草が顔に触れる。
土の匂い。
汗が目に入る。
腕が震える。
それでも進む。
やっと終わったころには、
悠真の腕は力が抜けていた。
だが午後は座学だった。
木造の小さな建物の中。
机に座る。
兵士が黒板に絵を描く。
銃の分解図。
敵の装備。
「この国の歩兵装備はこうだ」
帽子。
弾薬袋。
銃。
「夜間のステルス行動では――」
足音を消す歩き方。
影の使い方。
敵の背後に回る方法。
悠真はぼんやり黒板を見ていた。
朝からずっと体を動かしている。
足がまだ震えている。
武が横で小さくつぶやく。
「これ毎日かよ…」
悠真は小さく息を吐いた。
窓の外には、遠くの山が見える。
静かな景色だった。
だがこの訓練は、
その静けさとはまるで別の世界のもののようだった。
訓練が終わるころには、空はもう橙色に染まりはじめていた。
一日の終わりを告げる笛が鳴る。
少年たちはその場に座り込む者もいた。
砂と汗にまみれた服。
腕も足も、思うように動かない。
悠真も深く息を吐いた。
太ももがまだ震えている。
銃を握っていた手も、少し力が抜けていた。
武が隣で言う。
「今日はきつかったな」
「うん」
悠真は短く答えた。
教官の声が響く。
「解散!」
その言葉で、皆ゆっくり立ち上がる。
悠真は鞄を肩にかけた。
そして村の方へ歩き出す。
夕方の風が少し冷たい。
訓練場を離れると、音が急に静かになる。
さっきまでの怒号や銃声が嘘のようだった。
土の道を歩く。
遠くでカラスが鳴いている。
村が見えてくるころには、
空は赤から紫に変わり始めていた。
悠真は家の方へは向かわない。
村の中心を通り過ぎ、
細い坂道を上っていく。
その先にあるのが、村の神社だった。
古い石段。
苔の生えた鳥居。
大きな杉の木。
小さな神社だが、村の子どもたちがよく集まる場所だった。
悠真は石段を上る。
訓練の疲れで足が少し重い。
それでも、この時間が一日の楽しみだった。
雨の日以外、訓練のあとにはここに来る。
友達や子どもたちと、
光戦をするためだ。
境内に入ると、もう声が聞こえた。
「来た!」
子どもの声だった。
石の灯籠の近くに、数人の子どもが座っている。
皆スマホを持っていた。
武もそこにいた。
「遅いぞ」
武が笑う。
悠真も少し笑った。
「ごめん、ちょっと時間かかった」
子どもの一人が言う。
「悠真兄ちゃん、今日もやろう!」
別の子も言う。
「通信対戦で勝ったんだよ!」
境内には夕方の光が残っていた。
杉の葉の間から、細い光が落ちている。
遠くで虫が鳴きはじめていた。
悠真は石段の横に座る。
スマホを取り出す。
疲れていたはずなのに、
画面を見ると少しだけ気持ちが軽くなる。
光戦の画面を開く。
子どもが言う。
「対戦!」
悠真はうなずく。
「いいよ」
スマホを向け合う。
画面の中央に、光の輪が現れた。
紫。
攻撃の軌道。
悠真の指が静かに動く。
訓練で重かった腕が、
このときだけは少し軽く感じた。
夜の帳が、ゆっくりと村に降りはじめていた。
神社の境内はもう薄暗い。
杉の木の影が地面に長く伸びている。
子どもたちは一人、また一人と帰っていく。
「じゃあね!」
「また明日!」
石段を下りていく足音が遠ざかり、境内は静かになった。
武も立ち上がる。
「俺も帰るわ」
「うん」
悠真はうなずく。
武は肩を軽く回しながら石段へ向かった。
「明日も訓練だしな」
そう言って手を振り、暗い参道へ消えていく。
境内には悠真だけが残った。
杉の枝が風で揺れる。
虫の声が少し強くなっていた。
悠真も帰ろうと思い、スマホをしまう。
そのときだった。
――何か、変だった。
背後にわずかな気配。
音というほどでもない。
草がこすれるような、小さな動き。
悠真は振り向く。
境内の裏手。
社殿の後ろの暗がり。
「……?」
少しだけ歩いて回り込む。
月明かりが弱く差し込む場所だった。
そこに、小さな影があった。
犬だった。
まだ若い、茶色い犬。
地面に横たわっている。
悠真は近づく。
犬の体が、かすかに上下している。
息はしている。
だが弱い。
「おい…」
悠真はしゃがみ込んだ。
体に触れる。
冷たい。
何かに噛まれたのか、
どこか痛めているのか、暗くてよく分からない。
ただ、息が浅い。
虫の息だった。
悠真は眉を寄せる。
「……放っておけないな」
小さく言う。
犬は動かない。
ただ、かすかに息をしている。
悠真はそっと抱き上げた。
体は軽い。
骨ばっている。
犬は弱く鳴いた。
「大丈夫」
悠真は静かに言う。
そのまま神社の石段へ向かう。
石段を急いで下りる。
夜の空気は少し冷たい。
犬の体温が腕に伝わってくる。
悠真は足を速めた。
家へ連れて帰ろう。
そう思ったときだった。
石段の下。
参道の途中に、人影が立っていた。
月明かりの中。
黒い髪が風に揺れている。
凛だった。
静かに立っている。
悠真は少し驚く。
「……凛?」
凛は悠真の腕の中を見る。
犬を見ている。
それから、短く言った。
「その犬」
短く言う。
「もう長くないよ」
悠真は思わず犬を見下ろした。
「え」
凛はもう一歩近づく。
そして、何もためらわず犬に手を伸ばした。
「ちょっと持って」
悠真は言われるまま、犬を少し抱え直す。
凛の指が犬の体に触れる。
腹。
首の下。
足の付け根。
静かな動きだった。
しばらく触ってから、凛は小さく言う。
「怪我はない」
悠真は少し驚く。
「じゃあ…」
凛は犬の耳の後ろを軽く触った。
「体が冷えてる」
犬の呼吸は浅い。
弱く、かすかだった。
凛は立ち上がる。
「体を温めて」
悠真を見る。
「毛布とかで包む」
それから少し考えて続ける。
「お湯でふやかして、冷ました柔らかいごはん」
「食べられそうなら、あげてみて」
悠真は黙って聞いている。
凛はポケットに手を入れた。
小さな丸い粒を取り出す。
白っぽい、丸い粒だった。
悠真の手に置く。
「これ」
「ごはんと一緒に飲ませてあげて」
それだけ言う。
説明はそれ以上なかった。
凛はもう振り返っている。
参道を静かに歩き出す。
悠真が慌てて言う。
「凛!」
凛は止まらない。
暗い道へ歩いていく。
悠真は少し大きな声で言った。
「ありがとう!」
凛の背中はそのままだった。
返事はない。
けれど歩く速さが、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
やがて凛の姿は闇に消える。
悠真は犬を抱え直した。
「よし」
小さく言う。
そのまま急ぎ足で家へ向かった。
村の道はもう暗い。
家々から灯りが漏れている。
悠真の家は村の端だった。
戸を開ける。
「ただいま」
台所から母の声がする。
「おかえり」
だが悠真の腕の中を見ると、少し驚いた。
「まあ…犬?」
「神社で倒れてた」
悠真は急いで言う。
「ちょっと助けたい」
母は少しだけ困った顔をしたが、すぐにうなずいた。
「毛布持ってくるね」
父も座敷から顔を出す。
「どうした」
「弱ってるみたい」
悠真はそう言いながら、犬を座敷の隅に寝かせた。
母が毛布を持ってくる。
悠真は犬をそっと包む。
体はまだ冷たい。
「待ってて」
悠真は台所へ行く。
鍋にお湯を入れる。
少しだけごはんを入れ、柔らかくなるまで待つ。
それから皿に移す。
少し冷ます。
凛の言葉を思い出す。
――お湯でふやかして、冷ました柔らかいごはん。
悠真はそのまま皿を持って戻った。
犬は毛布の中で横になっている。
呼吸はまだ弱い。
悠真はそっと皿を近づける。
「食べられるか」
犬の鼻が少し動いた。
ゆっくり顔を上げる。
弱々しい。
悠真は指で少しだけごはんをすくう。
口元へ持っていく。
犬は少しだけ舐めた。
ほんの少し。
それでも飲み込む。
悠真は安心したように息を吐く。
「よかった」
それから、凛にもらった粒を取り出す。
小さな丸い薬。
ごはんに混ぜる。
犬の口元へもう一度持っていく。
犬はゆっくり食べた。
ほんの少しずつ。
そのあと、力が抜けたように毛布の上に顔を置く。
「くぅ〜ん…」
小さく鳴いた。
とても弱い声だった。
悠真は犬の頭をそっとなでる。
「大丈夫」
静かに言う。
「もう少し頑張れ」
犬の体はまだ温かくはない。
けれど、さっきより呼吸が少しだけ深くなっている気がした。
悠真は毛布を整える。
ふと、凛の顔が頭に浮かぶ。
暗い参道。
短い言葉。
そして、迷いのない手つき。
悠真は小さくつぶやいた。
「……あいつ、なんで分かるんだろうな」
その夜。
犬はまだ毛布の中で横になっていた。
息はある。けれど弱い。
悠真は布団を敷いたあと、しばらく犬を見ていた。
「……どうするかな」
小さく言う。
座敷の灯りはもう落ちていて、家の中は静かだった。
台所から、母が片付けをする小さな音だけが聞こえる。
犬は動かない。
ただ、ときどき胸が小さく上下する。
悠真は犬の体を触った。
まだ体が冷たい。
凛の言葉を思い出す。
――体を温めて。
悠真は少し考え、それから犬をそっと抱き上げた。
軽い。
骨ばっている体だった。
「……仕方ない」
そう言って、布団の中に入る。
犬を自分の胸の横に寝かせ、毛布をかぶせる。
体温が伝わるように、腕を少し寄せた。
犬は弱く動く。
「くぅ…」
小さな声。
悠真は頭をなでた。
「怖くないから」
静かに言う。
「寝ていい」
犬は目を少し開けて、また閉じた。
外では風が杉の枝を揺らしている。
遠くで虫の声も聞こえる。
村の夜は静かだった。
悠真は天井を見ながら、ゆっくり息を吐く。
体はまだ訓練の疲れで重い。
足の筋肉が少し痛む。
腕もだるい。
それでも、さっきより気持ちは落ち着いていた。
腕の横の犬から、かすかな温もりが伝わってくる。
悠真は目を閉じる。
そのとき、ふと凛の顔を思い出した。
神社の石段の下。
暗い参道。
犬を触っていたときの、あの落ち着いた手。
「……不思議なやつだな」
小さくつぶやく。
昼間の光戦。
迷いのない指。
そしてさっきの犬。
悠真は少し笑った。
「武は、知らないんだろうな」
小さな声だった。
犬がまた、かすかに鳴く。
「くぅ…」
悠真は毛布を少し寄せた。
「大丈夫」
静かに言う。
「ここにいろ」
犬の呼吸は、ゆっくりだった。
悠真の体温に包まれるように、
その小さな体は少しずつ温かさを取り戻していった。
やがて、悠真も眠りに落ちる。
その夜、犬はずっと
悠真のそばで眠っていた。
犬は、少しずつ元気になっていった。
最初の数日は、まだ動きもゆっくりだった。
毛布の上で丸くなり、眠っている時間が長い。
悠真は毎日、ごはんを柔らかくして与えた。
水も少しずつ飲ませる。
三日目には、自分で立てるようになった。
五日目には、部屋の中をよろよろ歩き回る。
そして――
一週間もすると、すっかり様子が変わっていた。
朝。
悠真がごはんの皿を置くと、犬は尻尾を振りながら走ってくる。
「おいおい、元気じゃないか」
悠真は笑う。
犬は夢中で食べる。
小さな体なのに、食欲はなかなかのものだった。
体重は五キロくらいだろうか。
大きくはない。
茶色い毛。
丸い体。
目はくりくりしていて、やたら人懐っこい。
悠真が立つと、すぐ後ろについてくる。
廊下でも、庭でも。
「そんなに来なくていいって」
そう言っても、犬は嬉しそうに尻尾を振るだけだった。
元いた場所へ戻してみようと思い、神社にも連れていった。
石段を上り、境内へ行く。
「ここ、お前が倒れてたところだぞ」
悠真はしゃがみ、犬を地面に下ろした。
犬は少し辺りを見回す。
それから――
悠真の足元に戻ってきた。
「……帰らないのか」
もう一度、少し離してみる。
犬はまた戻ってくる。
尻尾をぶんぶん振りながら。
悠真は頭をかいた。
「仕方ないな」
小さく笑う。
「うち来るか」
それからというもの、犬は悠真の家で暮らすことになった。
母も最初は少し驚いたが、
「ちゃんと世話するならいいよ」
と言ってくれた。
父は犬を見て言った。
「小さいな」
犬は父の足元でも尻尾を振る。
「雄だな」
父がそう言う。
悠真は犬を抱き上げた。
「名前つけないとな」
犬は悠真の顔を見ている。
くりくりした目だった。
「うーん」
しばらく考える。
茶色いし。
小さいし。
元気だし。
「何がいいかな…」
そのときだった。
机の上のスマホが震える。
ぶー、と短い着信音。
悠真は少し驚いた。
スマホを見る。
画面に表示された名前を見て、目を瞬く。
凛
思わずつぶやく。
「……なんで?」
犬はその声に反応して、首をかしげた。
この村は小さい。
だから昔から、回覧という仕組みがあった。
村の連絡事項を回すための帳面だ。
その帳面には、ほとんどの家の名前と連絡先が書かれている。
何かあればすぐ連絡できるようにだ。
悠真も、凛の番号をそこから知っていた。
けれど自分からかけたことはない。
だから――
スマホに表示された名前を見たとき、
少し驚いた。
凛
悠真は通話を取る。
「もしもし」
少しの沈黙。
それから凛の声が聞こえた。
「犬」
短い。
悠真は少し笑う。
「ああ」
足元を見る。
犬は尻尾を振りながら、悠真を見上げていた。
「おかげで助かった」
悠真は言う。
「元気になったよ」
少し間を置く。
「うちで飼うことにした」
電話の向こうは静かだった。
悠真は続ける。
「でもさ」
犬の頭を軽くなでる。
「名前が決まらなくて」
犬は嬉しそうに尻尾を振る。
その様子を見ながら言った。
「何かいいのある?」
電話の向こうで、少し風の音がした。
凛が言う。
「今から」
悠真は聞き返す。
「ん?」
凛は続けた。
「神社」
少しの間。
「来て」
悠真は目を瞬いた。
「今?」
「うん」
凛の声はいつも通り静かだった。
「待ってる」
それだけ言うと、
通話はぷつりと切れた。
悠真はスマホを少し見つめる。
「……早いな」
小さく言う。
足元で犬が尻尾を振っている。
悠真はしゃがみこんで犬を見る。
「行くか」
犬の首を軽くなでる。
「神社」
犬は意味は分からないはずなのに、
嬉しそうに小さく鳴いた。
「わん」
悠真は立ち上がる。
上着をつかみ、外へ出る。
夕方の空気は少し冷たい。
村の道にはもう灯りがつき始めていた。
犬はすぐ後ろをついてくる。
小さな足音。
「急ぐぞ」
悠真は歩く速さを上げる。
犬も慌ててついてくる。
村の道を抜け、
坂を上る。
神社へ続く石段が見えてきた。
杉の木の影が揺れている。
悠真は石段を上りながら思う。
(なんだろう)
凛が自分から呼ぶなんて、
ほとんどない。
犬はその横で、小さく息を弾ませながら
必死に石段を上っていた。
神社に着くころには、空はもう藍色に変わりかけていた。
石段の上、境内の入り口のあたり。
凛が階段に腰を下ろしていた。
静かに座っている。
悠真は少し息を整えてから声をかけた。
「お待たせ」
凛が顔を上げる。
その瞬間だった。
犬が勢いよく走り出す。
「おい」
悠真が言うより早く、犬は凛のところへ駆け寄った。
小さな体で、尻尾を大きく振る。
凛の前でくるくる回る。
「わん!」
凛の表情がふっと変わった。
「元気になったね」
声が柔らかい。
凛はしゃがみ、犬の頭をなでる。
犬は嬉しそうに体を寄せる。
凛はそのまま犬の首のあたりをくすぐる。
「よかった」
そう言って、くすっと笑った。
満面の笑みだった。
悠真はその様子を見て、少し驚く。
(凛って…)
心の中で思う。
(こんなに笑うんだ)
普段の凛は、どちらかといえば無表情だ。
言葉も少ない。
だから、その笑顔が少し意外だった。
悠真はしばらく黙って見ていた。
気づけば、少し見惚れていた。
神社の灯篭に灯りが入る。
淡い橙色の光。
暗くなりかけた境内を静かに照らす。
その光が凛の横顔に落ちる。
白い肌が、やわらかく光っていた。
黒い髪が風で少し揺れる。
犬をなでる手。
その全部が、なぜか静かな絵のように見えた。
凛がふと顔を上げる。
悠真を見る。
「名前」
短く言う。
「決まったの」
急に視線が合って、悠真は少しだけ戸惑う。
胸の奥が妙に落ち着かない。
悠真は慌てて凛とは反対の方向を見る。
杉の木の方を見ながら、ぼそっと言う。
「まだなんだ」
自分でも少し照れくさい声だった。
しばらく沈黙が続く。
返事がない。
悠真は気になって凛の方を見る。
凛は悠真ではなく、犬の顔を見ていた。
犬も凛を見上げている。
そのまま少しの時間が流れる。
杉の葉が風で揺れる音。
遠くの虫の声。
やがて凛が口を開いた。
「光」
静かな声だった。
悠真は首をかしげる。
「光?」
凛はうなずく。
犬の頭を軽くなでながら言う。
「どうかな」
「お互い、知ってたけど」
少し間を置く。
「光戦で、初めて話した」
悠真は黙って聞く。
凛は犬のくりくりした目を見ながら続けた。
「だから」
短く言う。
「光」
それだけだった。
「単純だけど」
凛が付け加える。
悠真は少し考える。
夜の神社。
灯篭の橙色の光。
杉の影。
そして、足元の小さな犬。
悠真はふっと笑った。
「光か」
小さく言う。
それからうなずく。
「いいな」
凛は何も言わない。
ただ犬をなでている。
悠真はしゃがみこんだ。
犬の顔をのぞく。
丸い目でこちらを見ている。
「聞いたか」
悠真は言う。
犬は首をかしげた。
悠真は少し笑う。
「お前は今日から――」
犬の頭をぽんと軽く叩く。
「光だ」
尻尾が大きく振られる。
「相棒」
そう言うと、犬――光は嬉しそうに小さく鳴いた。
「わん」
凛がその様子を見て、また少し笑った。
その笑顔はさっきより静かだった。
神社の灯篭の光が二人と一匹を照らしている。
夜の風が杉の葉を揺らす。
悠真は立ち上がった。
「ありがとな」
凛を見る。
「犬も」
少し間を置く。
「名前も」
凛は少しだけ肩をすくめた。
「別に」
いつもの調子だった。
それから光の頭を最後にもう一度なでる。
光は嬉しそうに目を細めた。
境内には、静かな夜の空気が流れていた。
光と名前をつけてから、凛はよく光をかわいがるようになった。
最初は、たまたま神社で会うくらいだった。
けれど、いつの間にかそれが当たり前になっていった。
訓練が終わる。
体は相変わらず重い。
砂と汗にまみれた一日。
それでも悠真は、村へ帰る足を少し早める。
神社へ向かうためだった。
石段を上ると、子どもたちがもう集まっている。
「悠真兄ちゃん!」
「光戦やろう!」
スマホを向け合い、光の軌跡を追う。
紫。
白。
赤。
夕方の境内に、子どもたちの声が響く。
その時間が終わりに近づくころ、
空はゆっくり色を変えていく。
橙から、深い青へ。
子どもたちはそれぞれ帰っていく。
境内が静かになるころ――
石段の下か、杉の木のそばに、
凛が立っていることが多かった。
「来たよ」
凛はそれだけ言う。
光はすぐに凛のところへ走る。
尻尾を振りながら飛びつく。
「光」
凛の声は少し柔らかい。
しゃがんで頭をなでる。
「今日も元気だね」
光は嬉しそうに鳴く。
それから三人で歩く。
神社の裏の道。
畑の横の細い道。
川の近くの土手。
特に決まった道はない。
ただ、ゆっくり歩く。
凛はあまり話さない。
悠真も、無理に話そうとはしない。
言葉は少ない。
「今日は訓練きつかった」
「そう」
「光、また泥だらけだな」
「うん」
それくらい。
それでも不思議と、気まずくはなかった。
光は二人の間を行ったり来たりする。
草むらに顔を突っ込んだり、
急に走ったり。
そのたびに凛が笑う。
声を立てて笑うわけじゃない。
でも、口元がやわらかくなる。
目が少し細くなる。
悠真は時々それを見る。
(増えたな)
心の中で思う。
凛の笑顔。
光に出会ってから、
確実に増えた気がする。
夕暮れの村。
田んぼの水が空を映している。
遠くでカラスが鳴く。
三人はゆっくり歩く。
凛。
悠真。
そして光。
ただ歩いているだけ。
それだけなのに、
不思議と胸の奥が静かに満たされていた。
悠真はふと光を見る。
小さな体で一生懸命走っている。
それを見て、少し笑う。
(悪くないな)
夕暮れの風が、三人の横を静かに通り抜けていった。
