深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 翌週、LAMPで顔あわせた九条は、開口一番「整体、行きました」と、柚子に声をかけてきた。

「わ、どうでした?」

「確かに効きました。担当の人に肩が岩みたいだって言われました」

 トシさんが「岩!」と笑い、マスターが「長年蓄積したものがあるんじゃないですか」とのんびり続ける。
 結城さんが「職業病というやつですね」とワインを飲みながら言って、九条は「まあそうですね」と答えた。

 職業病。

 どんな仕事をしているのかは、まだ誰も知らないはずなのに。
 一瞬だけ、疎外感が過ぎる。
 マスターは、それぞれの客の事情を知っているかもしれないけれど。
 この日感じた違和感の正体に、気が付くのには、もう少し時間がかかった。

 
 年末進行の絶頂期に、柚子は仕事でひとつ壁にぶつかっていた。

 今年度柚子が担当している三人のアーティストのうち、一人のアルバム制作が難航しているのだ。
 本人は良いものを作ろうとしているのに、レーベルの意向と噛み合わない。
 ついでにいうとジャケットデザイン制作も、暗礁に乗り上げている。
 柚子は彼らの間に挟まれて、毎日誰かと電話していた。

 いつもよりかなり遅い時間にLAMPに滑り込むと、カフェの客はは九条しかいなかった。
 マスターが「今日は早めにみんな帰っちゃって」と言った。

「いつもので」と言って隣に座ると、九条が「野口さん、物凄く疲れた顔してますよ」と頬杖を付いたまま視線を寄こす。

「してますか」

「はい」

 柚子はカモミールティーが来るまでの間、深夜を問わず飛んでくるSMSの通知をじっと見つめていた。

「うまくいかないことがあって」

「仕事の?」

「そうです。誰かを傷つけないようにしながら全員が納得できるゴールを探すのが、A&Rの仕事の半分なんですけど」

「残りの半分は?」

「好きな音楽を世の中に出すことです」

 九条はコーヒーカップを持ったまま、柚子の話を一通り聞きながら、自分の手元に視線を落とした。

「アーティストさんって、自分の音楽が正しいと思っているから、周りと衝突するのかなあ」

 柚子の呟きを、九条の静かな声が受け止める。

「そうじゃないと思います。自分の音楽に一番疑問を持ってるのはアーティスト自身だと思うので」

「どういう意味ですか」

「一番、自分の音楽を聴いてるのはアーティスト自身じゃないですか。だから一番よく聴かせたいし、一番ちゃんと届けたい。でもそれがうまくいかないと、もっと追いかけたくなる。それが周りには頑固に見えることがある」

「九条さん、詳しいですよね。やっぱり」

「少し」

「少しってことはないと思いますけど」

 九条はマスターに目を向けた。
 マスターは涼しい顔でグラスを磨いていた。

「まあ、好きですから。モノヅクリ」と九条は言った。

 それ以上、仕事の話が続けられる事はなかった。

 柚子は、さっきよりだいぶ気持ちが楽になっていることに気づいた。
 問題が解決したわけじゃない。
 誰かに、話したら少し軽くなっただけのこと。
 それが、この深夜カフェの役割でもある。

「ありがとうございます」

「何もしてないですよ」

「聞いてもらっただけで十分なので」

 九条は何も答えなかったけれど、柚子の視線を受け止め、口の端をやや持ち上げた。