十一月にもなると、中目黒の朝は少しずつ冷たくなっていて、目黒川沿いの木々が色づき始めていた。
柚子がそれに気づいたのが十一月の半ばで、ああもうそんな季節か、と思った。
季節の変わり目は、いつも後から知る。
それが社畜というものだと思っている。
九条とは、気づけば毎日顔を合わせるようになっていた。
毎日、といっても、昼間に会うわけじゃない。
マンションの通路で、エレベーターで、カフェで。
ほぼ深夜、それから時々朝の話だ。
たとえ昼間の顔を知らなくても、深夜の時間だけで自分以外の誰かの本音が分かる気がする。
LAMPに通い始めて二ヶ月で、柚子はそれを学んだ。
九条は相変わらず、何をしているのか詳しく言わなかった。
「部屋にいました」
「散歩してました」
「考えごとをしてました」
それだけ。
柚子もそれ以上は聞かなかった。
それは、LAMPの暗黙のルールでもある。
原則的に、昼の顔を持ち込まない。
自分から言わない以上、こちらからは聞かない。
しかし九条との会話は、他の誰かと話す時よりも、ずっとずっと短い。
避けられているのかもしれない。
カフェで顔見知りになった相手が隣に偶々住んでいたなんて偶然は、確かに気まずい偶然だと思う。
日常を置いてくる非日常の場所で、知り合った相手と、日常的に顔を合わす。
例えば、製作委員会の会議室の一席にトシさんがいてお互いに『仕事相手』として真面目に話をしなければいけない場面に遭遇したとしたら、やはり柚子もトシさんも、多少の気まずさから会話がぎこちなくなるような気がする。
ある夜、駅前にある整体の帰りに九条と鉢合わせた。
仕事帰り深夜前位。駅前の整体院を出たら、入口の脇に九条が立っていた。
フードを被って、壁にもたれて、スマートフォンも見ずに。
「あれ、九条さん?」
声をかけると、彼は顔を上げた。
「こんなとこで何してるんですか」
「散歩の帰りに、ここで休んでました」
「寒いのに」
「まあ、どこかお店に入るほど長時間居たわけではないですし。こんな時間でも結構皆歩いていますね」
申し合わせた訳では無いにも関わらず、二人で並んでマンションの方向へと歩き始めた。
深夜の中目黒は表通りはさておき、住宅地にも入ると静かだ。
たまにタクシーが通るくらい。
目黒川沿いに出ると風が冷たくて、柚子はコートの前を合わせた。
「体、どこか悪いんですか」
相変わらずの無表情だが、九条の声に労りが滲んでいる。
「あー、酷くなる前に整えに行ってます。ほっとくと肩と腰がやばいので」
「仕事忙しそうですよね」
「週末はライブ入ってるし、平日はスタジオでの立ち仕事が多くて。気づいたら体が死んでます」
真顔で答えた柚子に九条は笑う。
「体が死んでる、か」
「笑いごとじゃないですよ。一回ぎっくり腰になってから怖くて」
「いつ?」
「んー、九条さんと知り合う少し前かな……自動販売機でお水買って取り出そうとした瞬間に。若いのにって整体師さんに笑われました」
川沿いの街灯が水面に映っている。
音楽の話はしなかった。
見知らぬ他人同士が会話する、ありふれた内容。
健康とか、天気とか、殊更無難な話題だ。
沈黙の時間の方が多いにも関わらず、苦じゃなかった。
それに気づいたのは、マンションが見えてきた頃だった。
同僚やクライアントと歩くときは、沈黙が続くと何か話さなきゃと思う。
友達とでも、たまに気まずい間がある。
九条と歩いていると、黙っていてるこの瞬間でさえ、呼吸みたいに自然だった。
なんでだろう、とは思ったけど、理由を考える前にマンションに着いてしまった。
「整体、効きますか」
「効きます。行った日は体が軽くて、よく眠れます」
「それはよかった」
五階で降りて、廊下を歩く。
「九条さんも行ったらどうですか。24時間営業なので、いつでも行けますよ」
「野口さんが通ってる店なら腕も確かそうですね」
そこらへんに有り触れているであろう会話なのにもかかわらず、心拍が上がる。
「ふふ、私の推しの先生紹介しますよ」
「推し、ですか」
九条は片眉を僅かにあげ、こちらを伺うように見る。
その表情は、柚子の知る、無表情に近い九条とは違う――そう、まるで射抜くような視線。
「とっても上手な先生なので」
何か、言葉を続けようとしていた九条に、柚子は早口で、おやすみなさいを言って部屋に入った。
柚子がそれに気づいたのが十一月の半ばで、ああもうそんな季節か、と思った。
季節の変わり目は、いつも後から知る。
それが社畜というものだと思っている。
九条とは、気づけば毎日顔を合わせるようになっていた。
毎日、といっても、昼間に会うわけじゃない。
マンションの通路で、エレベーターで、カフェで。
ほぼ深夜、それから時々朝の話だ。
たとえ昼間の顔を知らなくても、深夜の時間だけで自分以外の誰かの本音が分かる気がする。
LAMPに通い始めて二ヶ月で、柚子はそれを学んだ。
九条は相変わらず、何をしているのか詳しく言わなかった。
「部屋にいました」
「散歩してました」
「考えごとをしてました」
それだけ。
柚子もそれ以上は聞かなかった。
それは、LAMPの暗黙のルールでもある。
原則的に、昼の顔を持ち込まない。
自分から言わない以上、こちらからは聞かない。
しかし九条との会話は、他の誰かと話す時よりも、ずっとずっと短い。
避けられているのかもしれない。
カフェで顔見知りになった相手が隣に偶々住んでいたなんて偶然は、確かに気まずい偶然だと思う。
日常を置いてくる非日常の場所で、知り合った相手と、日常的に顔を合わす。
例えば、製作委員会の会議室の一席にトシさんがいてお互いに『仕事相手』として真面目に話をしなければいけない場面に遭遇したとしたら、やはり柚子もトシさんも、多少の気まずさから会話がぎこちなくなるような気がする。
ある夜、駅前にある整体の帰りに九条と鉢合わせた。
仕事帰り深夜前位。駅前の整体院を出たら、入口の脇に九条が立っていた。
フードを被って、壁にもたれて、スマートフォンも見ずに。
「あれ、九条さん?」
声をかけると、彼は顔を上げた。
「こんなとこで何してるんですか」
「散歩の帰りに、ここで休んでました」
「寒いのに」
「まあ、どこかお店に入るほど長時間居たわけではないですし。こんな時間でも結構皆歩いていますね」
申し合わせた訳では無いにも関わらず、二人で並んでマンションの方向へと歩き始めた。
深夜の中目黒は表通りはさておき、住宅地にも入ると静かだ。
たまにタクシーが通るくらい。
目黒川沿いに出ると風が冷たくて、柚子はコートの前を合わせた。
「体、どこか悪いんですか」
相変わらずの無表情だが、九条の声に労りが滲んでいる。
「あー、酷くなる前に整えに行ってます。ほっとくと肩と腰がやばいので」
「仕事忙しそうですよね」
「週末はライブ入ってるし、平日はスタジオでの立ち仕事が多くて。気づいたら体が死んでます」
真顔で答えた柚子に九条は笑う。
「体が死んでる、か」
「笑いごとじゃないですよ。一回ぎっくり腰になってから怖くて」
「いつ?」
「んー、九条さんと知り合う少し前かな……自動販売機でお水買って取り出そうとした瞬間に。若いのにって整体師さんに笑われました」
川沿いの街灯が水面に映っている。
音楽の話はしなかった。
見知らぬ他人同士が会話する、ありふれた内容。
健康とか、天気とか、殊更無難な話題だ。
沈黙の時間の方が多いにも関わらず、苦じゃなかった。
それに気づいたのは、マンションが見えてきた頃だった。
同僚やクライアントと歩くときは、沈黙が続くと何か話さなきゃと思う。
友達とでも、たまに気まずい間がある。
九条と歩いていると、黙っていてるこの瞬間でさえ、呼吸みたいに自然だった。
なんでだろう、とは思ったけど、理由を考える前にマンションに着いてしまった。
「整体、効きますか」
「効きます。行った日は体が軽くて、よく眠れます」
「それはよかった」
五階で降りて、廊下を歩く。
「九条さんも行ったらどうですか。24時間営業なので、いつでも行けますよ」
「野口さんが通ってる店なら腕も確かそうですね」
そこらへんに有り触れているであろう会話なのにもかかわらず、心拍が上がる。
「ふふ、私の推しの先生紹介しますよ」
「推し、ですか」
九条は片眉を僅かにあげ、こちらを伺うように見る。
その表情は、柚子の知る、無表情に近い九条とは違う――そう、まるで射抜くような視線。
「とっても上手な先生なので」
何か、言葉を続けようとしていた九条に、柚子は早口で、おやすみなさいを言って部屋に入った。
