深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 その日、柚子はレコーディングスタジオに朝から入っていた。
 
 場所は代官山にある。
 会社から歩いて十五分の、地下にあるスタジオだ。
 防音扉を開けると、完全に空気が変わる。
 外の音が全て遮断され、代わりに機材の低い音と、コーヒーの匂いが迎える。
 
 担当アーティストの和泉サクラは、ブースの中でヘッドフォンをつけて目を閉じていた。
 二十三歳。
 去年の春にデモ音源を送ってきて、柚子がすぐに連絡を入れた子だ。
 声質が、良かった。
 それだけじゃなくて、歌い方に、欲しがらない誠実さ……みたいなものがあって、それが柚子には刺さった。
 
 レコーディングディレクターの新田さんは四十代、業界歴二十年弱。
 仕事は本物だけど、とにかく妥協しない人で、今日が何テイク目か柚子はもう数えるのをやめていた。
 
「もう一回」
 
 新田さんがマイクに向かって言う。
 ブースの中でサクラが小さく頷いた。
 
 イントロが流れる。
 
 柚子はガラス越しにサクラの顔を祈るような気持ちで見つめていた。
 サクラは少し伏目がちのまま、唇が動きだす。
 
 今日一番いいテイクだ、と思った瞬間、新田さんが手を上げた。
 
「サビ前の息の処理が雑、もう一回、その意味を考えて」
 
 ブースの中でサクラが頷く。
 表情は変えない。
 彼女はえらい、と柚子はいつも思う。
 何度やり直しを言われても、顔に出さない。
 
 新田さんがPA卓に向かいながら、柚子に小声で言った。
 
「レーベルはいつまでに欲しいって言ってる?」
 
「来月頭にはマスター上げたいと聞いてます」
 
「無理だな」
 
「……そこをなんとか」
 
「無理なものは無理だ」
 
 柚子は内心ため息をついた。
 新田さん言う『無理』は現実的に完全に『難しい』場合と、交渉の余地がある場合の二種類がある。
 今回はどっちだろう。
 
「サクラちゃんの声、今日調子いいですよね」
 
「いい。だからこそ妥協したくないんだよ俺は」
 
 これはきっと、後者だ。