深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

 会社を出たのは日付を跨ぐ辛うじて手前。
 結局、てっぺん近くになってしまう、と思いながら終電の時刻を確認して、ぎりぎり乗れることに気づいてホームを走った。
 滑り込んだ車内は空いていて、柚子はドア横のポールに寄りかかる。

 中目黒駅に着いて、一瞬だけ考えたものの、カフェの方へ向かっている。
 帰ってもどうせすぐには眠れない。
 それが分かっているから、LAMPに寄る。

 今夜もそういう夜だった。

 地下への階段を降りて、ドアを開けると、いつもの空気が迎えた。

 カウンターにトシさん。
 奥のソファに結城さん。
 マスターが磨いていたグラスを置く。

 そして、カウンターの端に――昨夜の彼がいた。

「あ」

 思わず声をだしてしまった柚子に気が付いたのか、隣人の彼が「どうも」と返す。
 昨夜より、だいぶリラックスした顔をしていた。

「常連さんになったんですか」とマスターに聞くと、彼は肩をすくめた。

「少し前からね」

「隣の人です」

 柚子がそう説明すると、トシさんが「え、隣? どゆこと?」と身を乗り出した。

「マジで? 同じマンションなの? あ、ちなみに俺、トシ。芸人やってます」と彼に向かって手を差し出した。

 彼は少し間を置いてから「九条です」と名乗って握手した。

 九条。
 柚子は心の中で繰り返した。
 苗字だけ。

「九条さんね。俺、なんか顔どこかで見たことある気がするんですよね」

 トシさんが首を傾げた。
 柚子には分からなかったが、九条は表情を変えずに「よく言われます」と返した。

「マスター、いつもので」と柚子は言ってカウンターに座る。

 自然に、九条の隣一席分を空けた席に。

「野口です」と名乗り「朝ぶりですね」と九条に向かって、一応自己紹介をする。

「そうですね」

 マスターがカモミールティーを置いた。
 柚子は両手でカップを包んだ。

 一席離れた隣で、九条がコーヒーを飲んでいる。
 昨夜とほぼ同じ構図だったが、今夜は名前を知っている。

 それだけの事なのに、距離間が変わった気がした。

「仕事終わりですか」

「そうです。九条さんは今日、何してたんですか」

「部屋にいました」

「一日?」

「一日」

 柚子は少し驚いた。

「何してたんですか」

「考えごと」

「仕事の?」

 九条は考えるような仕草をして、間を置く。

「そうですね、仕事の」

 会話はそれきりで途絶える。
 ほぼ初対面みたいなものなだから、そんなものだ。

 そのうち、ゆるやかにお互いのひととなりを知って、顔見知り以上の関係になっていく。
 LAMPに集まる常連客は、皆、似たような空気感を持っている。

 必要以上に、詮索せず、けれど次第に関係性の境界がぼやけて、他人ではなくなっていくのだ。

 奥のソファから結城さんが口を開いた。

「野口さん、今日も終電ぎりぎりでしたか」

「うん、ぎりぎり乗れました」

「乗れたなら店に寄らなけれは睡眠時間もう少し確保できるのに」

「乗れても眠れないですもん」

 結城が小さく笑って、またワインを飲んだ。
 九条がその様子を見ていた。

「あの人、奥でいつも目を閉じてるけど、寝てるわけじゃなくて考えてるらしいです」

「よく分かりますね」

「なんとなく?」

 九条が少し微笑んだ。

「なんとなくで、そこまで分かるんですか」

「観察が仕事みたいなものなので」

「野口さんは、どんなお仕事されているんですか」

 A&Rの仕事を説明するのは少し手間がかかる。
 とはいえ、どうせ今夜も眠れないし、マスターのカモミールティーは相変わらず美味しいから、面倒くさいとは思わなかった。

「レコード会社で、アーティストを探したり育てたりする仕事です。A&Rって言います」

「アーティスト・アンド・レパートリー」

 九条がよどみなく言った。

「知ってるんですか」

「聞いたことがある程度ですけど」

 一度ですらすらと言える人間に、業界外で出会ったことが未だに無い。

「音楽に詳しいんですか」

「少し、かな」

「どんな音楽が好きなんですか」

 九条はカップを置いて、思案するように視線を空に向ける。

「境界線のない音楽、とでも言うか。ジャンルに収まりたくない感じの」

「なんか、作る側の人みたいな言い方ですね」

 そう言ってから、柚子は特に気にせず続けた。

「聴く人より作る人の方が、音楽の話し方が違う気がするんですよ。私の感覚だけど」

「A&Rをやってると分かるんですか」

「何百人と話してるので、なんとなく」

 九条は少し間を置いて「なるほど」と呟き、それ以上は何も言わなかった。

 トシさんが「ねえマスター、BGM変えてよ」と言い始めて、マスターが「嫌です」と即答する。

 いつもの流れ。
 空間の支配するゆるやかな空気に、緊張が雲散していく。

 結局、柚子が店に足を踏み入れて、一時間が経過していた。