深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった

「さっき、タイアップの話をしてたじゃないですか。野口さんだったら——そのドラマの劇伴(サントラ)は、どんな曲が合うと思いますか」
 
「うーん、派手じゃない曲、だと思います。主人公の日常に寄り添う感じの。お腹が空いたとか、疲れたとか、でも明日も頑張ろうとか——そういう当たり前の感情を肯定してくれるような曲」
 
「この前話していたアーティストの曲みたいな」
 
「そうですね。でも主題歌は別の方に依頼済みなんです」
 
「どんな曲がいいですか」
 
「静かなのに体に残る曲、がいいな、と個人的には思っています。ふとした瞬間にドラマの場面が浮かんでくるような。気が付いたらメロディライン口ずさんでる、みたいな」
 
 九条はお茶を一口飲むと、腕を組んでソファに背を沈ませた。
 
「聴いてみてほしいものがあるんですが」
 
「え?」
 
「今、僕が作っているものの途中なので、完成じゃないですけど」
 
 九条が自分から何かを見せようとしたのは初めてだった。 
 スマートフォンを操作しながら、イヤホンの片側を渡される。
 
「聴いてみてください」
 
 ピアノの静かな音が忍び込んでくる。
 最初の数音で、一度、音が止まった。
 それから、ゆったりと紡がれるような旋律。
 ピアノの音に合わせて、九条の声なのだろうか。
 ハーモニーが重なる。 

 歌詞は無い。テナーの深みとピアノだけ。ゆっくりと音が重なっていく。
 一分くらいで、音声データは再生を止めた。

「えっと……さっきの、話みたいな曲ですね」
 
「さっきの話?」
 
「派手じゃなくて、日常に寄り添う感じで、聴き終わった後も、何かが残る」
 
 九条は何も言わなかった。
 
「タイトル、あるんですか」
 
「まだ仮ですが『Chamomile』」
 
 柚子は少しの間、その言葉を頭の中で数回転がした。 
 カモミール。
 
 毎夜といっていいほど帰宅前に夜カフェ、LAMPで柚子に「いつもの」と出されるあのお茶の名前。
 疲れた深夜に、両手で包んでいるあの温かさ。
 
「すごく……良いですね」
 
 声が少し、掠れた気がした。 
 九条は、僅かに目を細めた。
  
「ごちそうさまでした」
 
「こちらこそ、ビールありがとうございました」

 501号室の前から502号室の前まで、数歩の距離。 
 柚子は鍵を出しながら、振り返る。
 
「あの、さっきの曲、形になったら聴かせてもらえますか」
  
「――聴かせたい人がいるので、その後で良ければ」
 
「もちろん完パケしてからで大丈夫です楽しみにしてます」
 
 部屋に入って、扉を閉めた後、靴も脱がずに、玄関に立っていた。
 
 さっきの音が、まだ耳の中で鳴り続けている。
 九条の声で紡がれたカモミール、という言葉が、頭の中で温かく響いていた。
 
 これは、いよいよ本格的に、まずい。
 
 一月の最初にそう思ったのに、今日でだいぶ状況が悪化した気がした。
 悪化した、という言葉が正しいのかも、もうよく分からない。

 まともな恋なんて、久しくしていなかったから。