深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった


 珍しく定時に近い時間に会社を出られた週末。
 といっても夜の九時は、一般的には全然定時じゃないだろう。

 柚子にとっては奇跡的に早い退社で、スーパーで食材を買って、家で夕飯を作った。
 一人暮らしの社会人にとっては、当たり前すぎる行動にも関わらず、改めて人間らしさを感じてしまう。
 食べ終わって、洗い物をして、テレビをつけたら音楽番組が流れていた。

 仕事柄、こういう番組をまともに見ることが少なかった。
 そもそもこんなゴールデンタイムに家にいることも少ないし、毎月自分が担当している作品達やリリースを控えているレーベル内の作品ばかりをチェックする事に追われている。
 見たとしても、どうしても仕事目線になってしまうから、素直に楽しめない。

 画面の中で、若いバンドが演奏していた。
 サビの転調が気持ちいい。

 ふと、九条が言っていた言葉を思い出した。

「境界線のない音楽」

 仮に、九条が作るとしたら、どんな音楽を作るんだろう、と思った。
 何故、そんなことを考えたのか自分でも不思議だった。


 十二月の中頃、カフェで少し変わったことがあった。

 その夜はいつもの常連が全員いて、マスターが「今夜は鍋にしましょう」と言い出した。
 カフェで鍋、という謎の展開だ。
 材料を皆で買いに行って、カウンターの端に卓上コンロが置かれる。

「なんですかこれ」と豆腐を切り分ける係を担当させられていた柚子が首を傾げると「少し早めの忘年会!」とトシさんが言った。

「いつの間に決まったんですか」

「さっき」

 結城さんが「毎年こうなんですよ」と肩を竦め、深夜帯にいるのが珍しいモデルの香菜さんが「でも楽しいんだよね毎回。どうせ皆特定のパートナーいないし」と続ける。

 深夜二時に、地下のカフェで、鍋を囲む。
 どう考えても普通じゃない光景だったけど、全員が楽しそうだった。

 九条は最初、少し遠慮がちな様子に見えたのだが、トシさんに「九条さん、ネギ入れて」と雑に頼まれているうちに、自然と輪に溶け込んでいた。

 柚子はその横顔を、ちらりと盗み見た。

 笑っている。

 これは素の笑顔だ。
 いつも浮かべている静かな微笑みじゃなくて、もう少し崩れた、素の顔。



 年の瀬が近くなった頃、柚子はようやく担当アーティストの問題を一つ解決した。
 もちろん、全員が完全に、問題解決策に納得したわけじゃない。
 けれど、前に進むという、確実なみちゆきが見えた。

 その夜、LAMPに行くと九条が先にいた。
 マスターと二人で何か話しこんでいたが、柚子が入ってくると会話が不自然に止まる。

 なんとなく、仲間外れにされたような空気感に、柚子は少しだけ口を尖らせた。

「何の話してたんですか」

 LAMPでは、詮索は禁物。
 公然とルール違反を犯した柚子は、慌てて「なんでもないです」と言いながら、いつもの席に座る。
 九条が珍しく、苦笑するように「音楽の話ですよ」と言葉を紡ぐ。

「野口さん、今日は顔色がいいですね」

「少し仕事が片づいたので」

「よかった」

 九条の声が震わせる「よかった」の言葉は、本当にそう思っているように聞こえる。
 安心感のする音程でつむがれる言葉。
 柚子はカモミールティーを受け取りながら、不思議だと思った。

 実際には彼のことを、ほとんど何も知らない。
 苗字しか知らない。
 昼間に、何をしているのかも知らない。
 どこから来たのかも、なんで今隣の席に座っていて、隣の部屋に住んでいるのかも。

 今日一日で、何人にも「お疲れ様でした」「頑張りましたね」と言われた。
 でもそのどれより、九条の飾らない「よかった」という言葉の方が、ずっと胸に響いた。
 柚子は答えの出ない問いを抱え、持て余してしまう。
 思考を放棄するのは悪い癖だと思いながら、LAMPは行き場のない思考を置いて行ける場所だった。