終電を逃したのは、今月で何度目だろう。
野口柚子は駅の改札を抜けながら、スマートフォンの画面に表示された時刻を見た。
午前一時四十七分。
中目黒に引っ越してきた理由がこれだ、と思う。
会社まで電車で五分。
それでもこうなる。
以前は三軒茶屋に住んでいた。
終電を逃すたびにタクシーに乗って、翌月のカード明細を見て、少しだけ泣いた。
上司に「引っ越したら」と言われたのは一度や二度じゃない。
引っ越したら仕事が楽になると思ったのに、会社が近くなった分だけ帰りが遅くなった。
人間というのは与えられた器を満たすようにできているらしい。
目黒川沿いをとぼとぼと歩く。
春には花見客で溢れるこの道も、冬の深夜には柚子と、たまに酔っ払いくらいしかいない。
それが好きだった。
誰にも気を遣わなくていい時間。
仕事用の顔を外していい時間。
マンションの前を通り過ぎて、柚子はいつものように向かいのカフェに入った。
『LAMP』という名のカフェは、朝の四時まで営業している。
マスターの気まぐれで始めたと聞いたが、深夜に行き場のない人間にとっては命綱みたいな場所だ。
「ゆずちゃん、今日も遅かったね」
カウンターの中で磨いていたグラスをマスターが置く。
四十代、長身、いつも落ち着いた顔をしている。
本業は投資家で、カフェは趣味だと言っていた。
最初にそれを聞いたとき、世界は不公平だと思った。
「マスターおなかすいた……それから」
「ホットのカモミール、ね」
柚子はカウンター席の端に座った。
奥のソファ席にはお笑い芸人のトシさんが台本らしきものを広げていて、その向かいに弁護士の結城さんが赤ワインを飲みながら目を閉じている。
いつもの深夜二時だった。
——そこに、見慣れない顔があった。
カウンターの、柚子から二席分空けた場所。
黒いパーカーのフードを少し深めに被って、コーヒーカップの取っ手を人差し指でくるくると回している。
横顔しか見えないけれど、なんとなく、ここの空気に馴染んでいる気がした。
初めて来た人間は大抵、この店の深夜の密度に少し戸惑う。
でもその人は違った。
まるでずっとここにいたみたいな座り方をしている。
「新しい常連さん?」
小声でマスターに聞くと、彼は少しだけ笑って答えた。
「かもね」
なんだその返事、と思ったけれど、カモミールティーが来たのでそれ以上追及しなかった。
柚子はカップを両手で包んで、目を閉じた。
今日のプレゼン、来週の締め切り、返せていないメール。
全部を一旦ここに置いていく。
それがこの店のルールだった。
誰も決めたわけじゃないけど、みんなそうしていた。
ふと気づくと、二席分の空白が、一席分になっていた。
「隣、いいですか」という声を聞いたのか、それとも気づいたら隣にいたのか。
黒いパーカーの人が隣に座っていて、新しいコーヒーを頼んでいる。
「どうぞ」と言った自分の声が、思ったより自然だったことに後から気づいた。
会話もなく、名前も知らず、ただ同じカウンターで並んでいるという現状。
カフェからの帰り際、二人そろって同じ方向へ流れる。
エントランスのエレベーターホールで、初めて顔を見た。
三十代前半くらい。静かな目をした人だ。
「同じマンションですね」
「あ、はい。何階ですか」
「五階です」
柚子は少し間を置いた。
「えっと、私も五階です」
エレベーターの扉が開く。
廊下に出て、それぞれの部屋に向かって歩き始めたとき、柚子は気づいた。
彼が止まったのは、501号室の前。
自分の部屋の、真隣。
野口柚子は駅の改札を抜けながら、スマートフォンの画面に表示された時刻を見た。
午前一時四十七分。
中目黒に引っ越してきた理由がこれだ、と思う。
会社まで電車で五分。
それでもこうなる。
以前は三軒茶屋に住んでいた。
終電を逃すたびにタクシーに乗って、翌月のカード明細を見て、少しだけ泣いた。
上司に「引っ越したら」と言われたのは一度や二度じゃない。
引っ越したら仕事が楽になると思ったのに、会社が近くなった分だけ帰りが遅くなった。
人間というのは与えられた器を満たすようにできているらしい。
目黒川沿いをとぼとぼと歩く。
春には花見客で溢れるこの道も、冬の深夜には柚子と、たまに酔っ払いくらいしかいない。
それが好きだった。
誰にも気を遣わなくていい時間。
仕事用の顔を外していい時間。
マンションの前を通り過ぎて、柚子はいつものように向かいのカフェに入った。
『LAMP』という名のカフェは、朝の四時まで営業している。
マスターの気まぐれで始めたと聞いたが、深夜に行き場のない人間にとっては命綱みたいな場所だ。
「ゆずちゃん、今日も遅かったね」
カウンターの中で磨いていたグラスをマスターが置く。
四十代、長身、いつも落ち着いた顔をしている。
本業は投資家で、カフェは趣味だと言っていた。
最初にそれを聞いたとき、世界は不公平だと思った。
「マスターおなかすいた……それから」
「ホットのカモミール、ね」
柚子はカウンター席の端に座った。
奥のソファ席にはお笑い芸人のトシさんが台本らしきものを広げていて、その向かいに弁護士の結城さんが赤ワインを飲みながら目を閉じている。
いつもの深夜二時だった。
——そこに、見慣れない顔があった。
カウンターの、柚子から二席分空けた場所。
黒いパーカーのフードを少し深めに被って、コーヒーカップの取っ手を人差し指でくるくると回している。
横顔しか見えないけれど、なんとなく、ここの空気に馴染んでいる気がした。
初めて来た人間は大抵、この店の深夜の密度に少し戸惑う。
でもその人は違った。
まるでずっとここにいたみたいな座り方をしている。
「新しい常連さん?」
小声でマスターに聞くと、彼は少しだけ笑って答えた。
「かもね」
なんだその返事、と思ったけれど、カモミールティーが来たのでそれ以上追及しなかった。
柚子はカップを両手で包んで、目を閉じた。
今日のプレゼン、来週の締め切り、返せていないメール。
全部を一旦ここに置いていく。
それがこの店のルールだった。
誰も決めたわけじゃないけど、みんなそうしていた。
ふと気づくと、二席分の空白が、一席分になっていた。
「隣、いいですか」という声を聞いたのか、それとも気づいたら隣にいたのか。
黒いパーカーの人が隣に座っていて、新しいコーヒーを頼んでいる。
「どうぞ」と言った自分の声が、思ったより自然だったことに後から気づいた。
会話もなく、名前も知らず、ただ同じカウンターで並んでいるという現状。
カフェからの帰り際、二人そろって同じ方向へ流れる。
エントランスのエレベーターホールで、初めて顔を見た。
三十代前半くらい。静かな目をした人だ。
「同じマンションですね」
「あ、はい。何階ですか」
「五階です」
柚子は少し間を置いた。
「えっと、私も五階です」
エレベーターの扉が開く。
廊下に出て、それぞれの部屋に向かって歩き始めたとき、柚子は気づいた。
彼が止まったのは、501号室の前。
自分の部屋の、真隣。
