二十二時四十五分頃、僕はあの場所に着いた。夏希に会いたい気持ちと絵の完成が待ちきれない気持ちとが抑えきれず、いつもより随分と早く来てしまった。夏希はいつも二十二時五十分頃に来ているとのことだったから、少し早すぎたとは分かっていた。
でも、たまには夏希が来るのを待つのも悪くないと思っていた。久しぶりにじっくりと月を見上げた気がする。夏希と並んでいるときは、いつの間にか月より夏希の横顔を見ていることの方が多くなっていたから、月に対して少し申し訳ない気持ちになった。
しばらく待っても夏希は来なかった。時計を見ると二十二時五十五分を指している。遅刻というわけではないが、夏希にしては珍しかった。たまにはこんなこともあるか、と思い直して再び月を見上げていたが、二十三時を回っても夏希は姿を現さなかった。
嫌な予感が頭を過ぎった。
まさか、夏希に何か——。
悪いイメージを振り払うように、その場で首を横に振った。その時だった。抜け道の方から足音が聞こえてきた。安堵して視線を向けると、足音の正体は夏希ではなく、中年の男性だった。こんな時間にここへ来るような人物に心当たりはなく、何者だろうと考えていると、男性が僕に向かって声をかけてきた。
「君が夏樹くんか?」
誰だ、この人は。なぜ僕の名前を知っている。
頭の中で様々な考えが交錯していると、男性が続けた。
「夏希の父です。夏樹くん、ちょっと付いて来てくれないか」
その瞬間、夏希の身に何かあったことを察した。答え合わせが怖くて、何も聞かずにただ後を付いていった。抜け道を進み、十分足らずで夏希の自宅に着いた。和室に布団が敷かれ、そこに夏希が横たわっていた。
「夏希!」
思わず大きな声が出た。最悪のことが頭の中を駆け巡る中、小さな声が耳に届いた。
「……夏樹?」
夏希が微かに目を開けて、か細い声で僕を呼んでいる。
「そうだよ、夏樹だよ。夏希、大丈夫か」
大丈夫でないことは分かりきっていた。それでも夏希の口から大丈夫という言葉を聞きたかった。
「だいじょう……ぶ。ねえ夏樹、あの場所に行こう。二人のあの場所」
どう見ても無理な状態だった。それでも僕は夏希の言葉を否定できなかった。いや、否定したくなかった。和室の隅で女性がすすり泣いている。夏希のお父さんも気丈に振る舞っているが、涙を必死に堪えているのが分かった。
「うん。行こう夏希、二人のあの場所へ」
そう言うと、夏希は精一杯微笑んでくれた。
「夏樹、あの絵ね、完成したよ。月の絵もあるから夏樹にあげる」
夏希が指す方に目を向けると、二枚の絵が額に飾られていた。月の絵と僕の絵が横に並んで、あの夜々を思い起こさせる。それを見た瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。これを受け取ってしまうと、夏希との永遠の別れになってしまう気がして、躊躇した。
「泣かなくて大丈夫! 私は生まれ変わる。生まれ変わってもう一度君に会いに来る」
泣いている僕を見て、夏希があの日と同じ言葉を言ってくれた。消え入りそうなほどか細い声だったが、僕の鼓膜にはっきりとこびりつくほど聞こえた。
「夏樹……ありがとう」
「俺の方こそ……ありがとう」
今までの想いを全部凝縮して返した。僕の言葉を聞くと、満足したような笑顔で夏希は目を閉じた。月の下で出逢った僕たちは、月の下でお別れすることもなく、簡素な蛍光灯の下でお別れをした。
夏希のお父さんとお母さんがいるにもかかわらず、僕は大声で泣き喚きながら夏希の顔を抱き締めた。泣いている僕をいつも優しく包んでくれていた夏希は、そのときただ目を閉じてじっとしていた。いくらしがみついても、夏希が目を開けることはなかった。
しばらくして、和室の隅で泣いていた女性が声をかけてきた。
「夏希の母です。夏希ね、余命宣告をされて少しした頃に、好きな人ができたって言うの。それも自分と同じ名前の男の子だって、嬉しそうに言っててね」
夏希が僕そのものを直接好きと言ってくれたことはなかった。それでも、夏希も同じタイミングで同じ気持ちでいてくれていた。僕が何も答えられないでいると、夏希のお母さんが続けた。
「あの子ね、一旦は自分の死を受け入れてた。だけど最近は毎日、死にたくないって言って泣いてた。せっかく好きな人ができたから生きたいって」
僕の前では常に気丈に振る舞っていた夏希が、家では毎日泣いていた。その話を聞いて、ますます涙が溢れた。胸の奥で何かが砕けるような感触があって、しばらく言葉が出なかった。
「これを君に渡してって言われた。中身は見てないけど、多分君への気持ちを書いてると思う」
手紙を渡してきた。表には「Dear夏樹」と書かれていた。受け取りながら、手が震えた。二枚の絵と一緒に鞄に詰め込む間、夏希のお母さんがずっと傍に立っていてくれた。絵と手紙を鞄に入れた瞬間、夏希との永遠の別れがより鮮明に実感されて、息ができないほどの絶望に襲われた。鞄の口を閉じることができなくて、しばらくその場にしゃがみ込んでいた。
夏希の両親から夏希が寂しがるから今夜は泊まっていってと言われ、夏希の実家に泊まることになった。
夏希と同じ和室に布団を並べて横になった。隣に夏希がいる。昨日まで毎晩並んで月を見上げていた夏希が、手の届く距離にいる。唯一の違いは、夏希が目を閉じたまま動かないことだけだった。その僅かな違いが、世界のすべてだった。
翌朝、窓から薄白い朝の光が差し込んでいた。目が覚めて横を見ると、夏希がいた。いるのに、いなかった。その感覚が胸の奥に静かに広がって、起き上がる気力をすっかり奪っていった。それでも体を起こして、横たわる夏希の顔を長い時間眺めた。
「眠っているみたい」だと思った。そんな陳腐な感想しか出てこない自分が悔しかった。夏希にふさわしい言葉が何かあるはずなのに、その八文字以外に何も出てこなかった。
夏希にそっと二度目のキスをした。不謹慎かもしれないと思った。ご両親が気づいたらどう思うかとも思った。それでも、そうせずにはいられなかった。夏希の唇は冷たかった。昨夜まであの場所で隣に座り、笑っていた夏希の温度が、もうどこにもなかった。それを確かめた瞬間に涙が出てきて、布団に顔を埋めたまま、声を殺して泣いた。
帰宅したのは昼過ぎだった。空は曇っていて、駅を出たところで雨が降り始めた。都市部に戻るにつれて人の数が増え、車の音が増え、排気ガスの臭いが増えた。向こうから傘を差した若いカップルが肩を寄せ合いながら笑って歩いてきて、ただそれだけで視界が滲み、足が止まった。二人は不思議そうに僕を見てそのまま通り過ぎていった。雨は次第に激しさを増した。傘も差さずにずぶ濡れで、僕は屍のように家路を歩いた。
家に着いてからは、何もできなかった。眠れないし、食べる気もしない。夏希からもらった二枚の絵を部屋の壁に立て掛け、ただ眺め続けた。
絵の中の僕は笑っていた。心の底から弾けるような笑顔で笑っていて、今の自分と同一人物だとは信じられないくらい輝いていた。あの笑顔は夏希が引き出してくれたものだった。夏希が隣にいたから、僕はあんな顔ができたのだと、絵を見るたびに思い知らされた。月の絵もそうだった。夏希が十一夜かけて丁寧に仕上げたその月は、あの夜の空気をまるごと閉じ込めているようだった。絵の中の月は今夜の月と同じはずなのに、夏希が描いた月は窓の外の月より遥かに近く、遥かに明るく見えた。
以前、夏希が言っていた。見た景色を残したいから描くのだと。私が死んでもその景色が残るように、と。そのとき僕は言ったのだ、じゃあ夏希の絵の中では時間が止まるんだ、と。
だとしたら、この絵の中に夏希はいる。
夏希が描いた月の中に、夏希が描いた僕の笑顔の中に、あの夜々がまるごと生きている。夏希はここにいる。そう思うと、涙が止まらなくなった。泣いても楽にはならなかったが、泣くことをやめることもできなかった。
夏希が死んでから二日後の夜、幻影を追いかけてあの場所へ向かった。
きっとあそこにいる、という確信があった。同時に、いるはずがないという冷静な自分もいた。その二つが胸の中で押し合いながら、それでも足は駅へ向かっていた。駅を降りると、田舎特有の自然の匂いが鼻腔を満たした。雨上がりの湿った土の匂いと草の青い匂い、あの夜と同じだった。抜け道を使わず、初めてあの場所を訪れたときの道を歩いた。遠回りになると分かっていてもそうした。そうした方が夏希に会えそうな気がした。
川辺に着いた。月が出ていた。静かで神々しく、辺りを白く照らしていた。右往左往しながら歩いていれば、夏希が声をかけてくるはずだった。「多分、ここだと思うよ」という声が聞こえてくるはずだった。
でも聞こえてくるのは、川のせせらぎと虫の声だけだった。
あの場所に着いた。コンクリートの置物だけがある。万が一、上に夏希がいるかもしれないと思って梯子を上った。
夏希はいなかった。
いつも二人だったあの場所に、僕は一人だった。殺風景だ、と思った。夏希がいるときはそんなふうに思ったことなど一度もなかったのに、いないというだけでこのコンクリートの台は何の意味もない真っ黒の物体になっていた。月も遠かった。あれほど近く感じていた月が、夏希がいないだけでこんなにも遠い。
僕は狂ったように泣き叫んだ。声が静寂を切り裂き、川面に響き渡った。何時間そうしていたか分からない。月の光は、滑稽な僕一人だけを淡々と照らし続けた。
奇跡なんて起きやしない。あるのはいつだってリアルな現実だ。月に照らされながら、僕はそのことをようやく腑に落とした。
夜が白み始める頃にようやく梯子を降り、来た道を引き返した。電車に乗る気になれなくて、そのまま歩いた。足が棒のようで、何度も立ち止まりながら、それでも歩き続けた。家に着いたのは昼近くになってからで、玄関の鍵を開ける手が震えていた。
部屋に入るとすぐ、二枚の絵を眺めた。ぼんやりと眺めていると涙で視界が滲んで、絵の月がキラキラと輝いて見えた。涙が止まらない。止めようとすればするほど流れてくる。泣いても心が落ち着くことも浄化することもなかった。
ひとしきり泣き尽くした後、ある物の存在を思い出した。二枚の絵と一緒に夏希のお母さんに渡された手紙だ。
見るのが怖かった。でもそこに夏希を感じられるなら、そこに夏希の意思があるなら、向き合わなければならない。鞄から手紙を取り出すと、表面に書かれた「Dear夏樹」の文字が小刻みに波を打っていた。文字を書くのも辛い状態で書いてくれたのだろうと思うと、再び涙が溢れてきた。しばらくそのまま手紙を持ったまま泣いていた。それでも、覚悟を決めて封を切った。
一夏樹へー
今、夏樹がこれを読んでいるということは、私はもうこの世にいないってことだよね? 夏樹、ありがとうね。私さ、本当に毎日楽しかった。余命宣告されてからさ、周りの友達も気を遣って私と関わらなくなっちゃってさ、本当は寂しかったんだ。だけど、夏樹が毎日私の隣にいてくれて、私に色々な表情を見せてくれたよね? 泣いたり怒ったり笑ったり喜んだり悲しんだりさ。夏樹といると本当に飽きなくてさ、ずっとこの時間が続けばいいなあって思ってた。初めて夏樹と出逢った日のこと、今でも鮮明に覚えているよ。夏樹から言われた言葉もハッキリと覚えててさ、死のうとしてた夏樹を責めて、私自身が死ぬことを告げた時、夏樹怒ってたよね? 人の死を否定して、自分の死を肯定するなんて身勝手にもほどがあるって言葉、ズシッて来たね。その通りだなって思った。でもね、何でだろう? 私、夏樹に死んでほしくなかったんだ。身勝手な女で本当にごめん。こんな女のために死なないでいてくれて、本当にありがとうね。
その後さ、夏樹が私の胸で泣きながら、夏希、死なないでよって言った時、私ね、心の底から死にたくなくなった。一旦は自分の死を受け入れたはずだったのに、生きたいって思った。それと同時に、こんなに手の掛かる男を置いていけないなって思った。一人にしちゃダメだって思った。だから私ね、その時に決めたの。生まれ変わるって。夏樹はもしかしたら、私が咄嗟に君を慰めるために口からでまかせを言ったって思っているかもしれない。だけど私、本気だから。絶対に生まれ変わって夏樹にもう一回会いに行く。そうじゃないと私の気が済まないの。一ヵ月じゃ全然足りないし、私って欲張りだからさ、もっと夏樹を一人占めしたいんだよね。そんなこと、無理だって思ってるでしょ? でもね、考えてごらん。私達はもう既に奇跡を起こしているんだよ。日本だけでも一億人以上人がいる中でたまたま出逢ってさ、お互いが月に魅了されてあの場所に引き寄せられて、性別も違うのにお互い同じ名前でさ、そんな二人が恋に落ちてって中々の奇跡だと思うよ。
しかもさ、お互いが死に近い位置にいたからこそ出逢えたんだよ私達。私は余命宣告されていなかったら、あそこの絵を描こうとは思わなかっただろうし、夏樹も死のうとしなければ、あそこを訪れることはなかったと思う。そう考えたらさ、私達は凄く奇跡的な運命に導かれて、人生が重なったんだよ。何かそんな奇跡に比べたらさ、生まれ変わりぐらい大したことないように思えるんだよね。
だからね夏樹、私のことを待ってて。よくさ、ドラマとか映画でこういう時って、私のことは忘れて幸せになってって言ったりするじゃん? 私、そんな綺麗事を言う気は毛頭ないから。夏樹が私以外の女といるの許せないし、私以外の女と幸せになんてなってほしくない。誰にも譲りたくないんだよね、夏樹のこと。だから意地でも絶対に夏樹に会いに行く。何年掛かっても絶対に。
だから本当に夏樹に申し訳ないんだけど、生きていて下さい。何年かして私が生まれ変わった時、その世界に夏樹がいないなんて私耐えられない。夏樹がいない世界なんかいらないし、夏樹がいない人生なんて考えられないんだよね。
だから私さ、不謹慎かも知れないけれど、病気になって良かったなあって思うんだよね。それまでの人生もそれなりに楽しかったつもりだったけれど、今になって考えると、私の人生の中に夏樹がいないことを想像するとゾッとするんだよね。それだけあなたの存在は、私を幸せで満たしてくれていました。私、まだまだ夏樹に恩返ししなきゃいけないんだよ。だから大人しく死んだままでいられないんだよね。
だからね夏樹、泣かなくて大丈夫だよ。私は絶対に生まれ変わる。生まれ変わってもう一度君に会いに行く。だからちょっとの間だけ、私がいない世界で頑張って生きていて下さい。浮気はするなよ。ありがとう夏樹、本当に大好き。またね。
一夏希よりー
何度も読み返した。夏希の言葉には力があった。手紙に記されていてもそれは同じで、文字の一行一行から夏希の声が聞こえてくるようだった。こんなに手の掛かる男を置いていけない、という言葉が胸に刺さった。最後の、本当に大好き、という六文字のところで、涙で文字が滲んで読めなくなった。
夏希が待ってて、と言っている。だから僕は生き続ける。夏希の言葉を裏切ることは、僕にはできない。世界がどんなに残酷で色褪せて見えていたとしても、その世界に僕がいなければ夏希は僕を見つけることができない。だから生き続ける。夏希が僕を見失わないように。
その夜、ようやくちゃんと眠れた。
夏希の葬儀は、死の三日後に営まれた。
祭壇に飾られた遺影の夏希は、笑っていた。あの場所で月を見ながら笑っていたときとまったく同じ顔で、まっすぐこちらを見て笑っていた。
棺の中の夏希の顔を見た。
「眠っているみたい」だと思った。やはりその感想しか出てこなかった。夏希にふさわしい言葉が何かあるはずなのに、その八文字以外に何も出てこなかった。
葬儀が進む中で、司会の方が喪主の名前を読み上げた。月城啓一、という名前をそのとき初めて知った。続いて喪主の妻として月城澄江という名前も読み上げられた。夏希のお父さんとお母さんの名前を、あの場所で初めて会った夜にも、実家に泊まった夜にも聞いていなかった。月城という苗字を聞いて、夏希らしいな、と思った。月の城とは、夏希にこそふさわしい。
啓一さんが隣に来て、一緒に見送ってやってくれ、と言った。喉の奥が詰まった。夏希の両親も、夏希を失った悲しみの中にいる。当たり前のことなのに、そのときの僕にはひどく大切なことに思えた。誰かと同じ悲しみの中にいる、という感覚を、それまでの僕はほとんど知らなかったから。施設にいた頃も、退所してからも、誰かと何かを共有しているという感覚を持ったことがほとんどなかった。夏希が初めて教えてくれたことの、一つだった。
施設の伝手を頼って清掃会社に就職したのは、夏希が死んでから三ヶ月後だった。
仕事は単純だった。決まった時間に決まった場所へ行き、決まった手順で清掃をする。誰かと言葉を交わす必要が最小限で済み、ただ体を動かし続けることができた。最初の数年は、それが有難かった。頭を使わずに体を使っていれば、夏希のことを考え続けるよりはいくらか楽だった。
ただ、仕事が終わって部屋に帰るたびに、夏希がいないことを思い知らされた。一人で総菜を買って帰り、一人で食卓に座り、誰も来ない夜をやり過ごすだけだった。食事をしながら夏希のことを考えた。夏希がいたら、今日あったことをどんなふうに話しただろう、と思った。答えは返ってこない。その静けさが、毎晩少しずつ体に積もっていった。
夏希の絵は部屋に飾った。最初は正面の壁に掛けたが、夜中に目が覚めると絵の中の笑顔と目が合って、眠れなくなった。だから横の壁に向きを変えた。直接目には入らなくなったが、部屋の空気は変わった。横になって天井を見ていると、その空気がひりひりと皮膚に触れてくる感じがした。それが辛いときも、有難いときもあった。
夏希が死んでから一年が経った頃、月城家を訪ねた。
玄関に出てきた澄江さんは少し驚いた顔をしてから、すぐに「来てくれたの」と言った。和室に通されると、あの夜と似た空気がそこにあって、胸がきつくなった。お茶を出しながら、澄江さんが「遺品の中から出てきたの」と言って一冊のスケッチブックを渡してくれた。夏希があなたに渡してほしいって言ってたわけじゃないんだけど、誰かに持っていてほしくて、と続けた。
スケッチブックを開いた。川辺のスケッチ、友人の顔、景色の数々が、丁寧に一枚一枚描かれていた。最後のページに、走り書きで一行だけあった。
まだ描きたいものがたくさんある。
その文字を見た瞬間、息が止まった。最後まで前を向いたまま逝った夏希らしかった。スケッチブックを閉じて鞄に入れ、ありがとうございます、とだけ言うのが精一杯だった。澄江さんがお茶を飲みながら、夏希のことをぽつぽつと話してくれた。子供の頃から絵が好きで、美術大学へ行きたがっていたこと。病気が分かってからも、絵だけはやめなかったこと。僕と会うようになってから、表情が変わったこと。話を聞きながら、涙が止まらなかった。夏希のことをこんなに丁寧に話してくれる人がいる、という事実が、そのときの僕には有難くて仕方なかった。
毎年、夏希の命日に近い満月の夜にあの場所を訪れた。
五年目の夜、梯子を上りながら今年こそ夏希がいるかもしれないと本気で思っていた。コンクリートの上に腰を下ろして月を見上げ、夏希の声を待った。川のせせらぎと虫の声だけが聞こえる中で、それでも耳を澄まし続けた。帰り際に梯子を降りながら、来年は来るだろうかとぼんやり考えた。根拠はなかった。それでも根拠がないことを、まだ認める気にはなれなかった。
十年目の夜、夏希はやはりいなかった。梯子を上る前に一度立ち止まり、空を見上げた。もう来ないかもしれない、という考えが初めて頭をよぎって、すぐに打ち消した。打ち消しながら、自分がそう思い始めていることには気づいていた。月がいつもより遠く見えた。夏希がいないせいなのか、自分の心のせいなのか、判断がつかないまま、コンクリートの上に一人で座っていた。
三十代に入った頃、職場で年下の後輩の面倒を見るようになった。
後輩は仕事の覚えが早く、明るい性格で職場でも人気があった。誰とでもすぐに打ち解けるその後輩を見ていると、若い頃の自分がいかに不器用だったかを改めて感じた。ある晩、仕事終わりにその後輩が僕のところへ来て、「少し相談してもいいですか」と言った。顔を見ると目が赤かった。失恋したのだという。相手には好きな人が別にいたとのことで、話しながらだんだん声が震えてきた。僕は気の利いた言葉も慰めの言葉も何も出てこなくて、少し考えてから「泣いていいよ」と言った。
それだけで後輩は号泣した。肩を震わせて、声を上げて泣いた。その様子を見ながら、夏希の胸で泣いたときのことを思い出していた。泣いていいよ、と言ってくれる人がそばにいる。それだけのことが、こんなに人を楽にするのか、と思い、夏希に泣かせてもらった自分は贅沢だったんだな、とも思った。
後輩が落ち着いてから、二人で缶コーヒーを飲んだ。後輩はすっきりした顔で「辻村さんって、なんか話しやすいですね」と言った。
そんなことを言われたのは初めてで、どう返していいか分からず黙っていると、後輩が「ありがとうございました」と頭を下げた。帰り道、今日のことを話したい相手が一人しかいないことに気づいた。その一人は、もういなかった。
それから少し経って、職場の同僚から食事に誘われた。断り続けていたが、ある日ふと、夏希がいたら行けって言うだろうな、と思い、初めてOKした。楽しいと思う瞬間があった。笑っている自分がいた。でも帰り道はやはり、今日のことを話したい相手のことを考えていた。どれだけ時間が経っても、その一人だけは変わらなかった。
三十代後半のある日、スーパーで偶然に静江さんと再会した。
向こうから歩いてきた静江さんは、最初は気づかなかったようだった。こちらから声をかけると、しばらく僕の顔を見てから、「夏樹くん?」と言った。「随分立派になって」とも言った。白髪が増えて、少し小さくなった気がしたが、声は施設にいた頃のままだった。少し話した。相変わらずお元気ですか、今はどちらに、という他愛のない話をしながら、ずっと言おうと思っていた言葉を口にした。
「あの時、プリンありがとうございました」
静江さんが目を丸くした。
「覚えてたの?」
「今になってやっと、あれが本心だったんだってわかりました」
静江さんが少し泣いた。涙を手の甲で拭いながら、「よかった」とだけ言った。それからしばらく黙って、「あなたのこと、ずっと気になってたのよ」と続けた。退所してからどうしているだろうと思っていたこと、元気でいるといいなと思っていたこと、静江さんはぽつりぽつりと話した。僕はそれをただ聞いていた。
帰り道、長い時間そのことを考えた。誰かに思われていた、ということに気づくのに、こんなにも時間がかかってしまった。施設を退所した十八歳の夜に部屋へプリンを置いていった静江さんのことを、あのときの僕は仕事だからそうしているだけだと片付けていた。でも違った。ただそれに気づくまでに、二十年近くかかってしまった。夏希がいなければ、この気づきも生まれなかっただろう。夏希と出逢って、誰かの気持ちを受け取ることを、僕は少しずつ覚えてきたのかもしれない。
夏希が死んでから二十年が経った頃には、来ないとわかっていてもあの場所に来ることが、もう習慣になっていた。梯子を上り、コンクリートの上に座り、月を見上げる。なぜ来るのかはもうとっくにわからなくなっていたが、それでも来てしまう。足が覚えているのか、それとも来ずにはいられない何かが自分の中にあるのか、考えても答えは出なかった。世界はずいぶんと変わったが、この場所だけは何も変わっていなかった。月も、川のせせらぎも、虫の声も、あの夜のままだった。それが、ひどく救いだった。
四十代に入った頃から、体があちこち言うことを聞かなくなってきた。
膝が痛む。長時間立ち続けると腰に来る。それまで何の苦もなくこなしていた作業に時間がかかるようになった。若い後輩たちが気を遣って重い荷物を持とうとしてくる。断っても断っても手を出してくるので、ある日「ありがとう」とだけ言って素直に任せた。後輩が少し嬉しそうな顔をした。そんな些細なことが、以前よりも柔らかく胸に届くようになっていた。
それでも夜になると、じわじわと暗い考えが戻ってきた。俺は何のためにここにいるんだろう、という念が、誰に言われたわけでもないのに頭の中に浮かんでくる。三十年前の十八歳の夜を思い出した。あの頃と同じ問いが、今また戻ってきていた。
ある夜、仕事から帰って食卓に座り、いつもと同じ総菜を並べながら、ふと箸が止まった。三十年間、こうして一人で食べてきた。夏希が死んでからも、静江さんと再会した後も、後輩と缶コーヒーを飲んだ夜も、家に帰れば一人だった。夏希と月の下でおにぎりを食べたあの夜だけが、違った。誰かと食べたいと思って食べる食事を、あの夜以来一度もしていない。そのことに今さら気づいて、ひどく疲れた気持ちになった。疲れた、というより、もう十分だ、という感覚の方が近かったかもしれない。
夏希の言葉を信じて三十年生き続けてきたが、信じ続けることと、信じ続けられることは、少しずつ違ってきていた。信じようとすればするほど、その言葉が遠くなっていくような感覚が、年を重ねるにつれて強くなっていった。
しばらくして、押し入れの奥から夏希の手紙とロープを取り出した。ロープはすっかり変色して、持った感触も三十年前とどこか違った。手紙を読んだ。読むと涙が出た。夏希の文字は、三十年前と変わらず波を打ったまま、僕に語りかけてきた。でも読み終えて手紙を畳みながら、ぽつりと呟いた。
「でも、あれは三十年前の夏希の言葉だ。今の夏希は、どこにもいない」
呟いてから、その言葉の重さに自分で驚いた。夏希の言葉を信じて生き続けると決めたのは、間違いなく自分だった。でも三十年という時間は、どんな確信も少しずつ削っていく。
「夏希の嘘つき」と口の中で言ってみた。声に出したら、涙が出てきた。
三十年ぶりに、あの場所へ向かうことにした。
ロープをリュックに詰めて家を出た。最終便の電車に乗ると、車内に乗客はまばらだった。窓の外を流れる夜の街を眺めながら、三十年前の最終便を思い出した。あの夜は同じ車両に老夫婦がいて、高校生のグループがいた。この人たちはみんな明日も生きるつもりでいる、と思った。今夜も、車内にいる人たちは明日のことを考えているのだろう。リュックの中のロープの重さを意識した。あの頃と変わらない静かな断絶感が、胸の中にあった。
駅を降りた。田舎特有の柔らかな自然の匂いが鼻腔を満たした。あのときのままだった。駅からの風景もほとんど変わっていない。ただ一つ、抜け道になっていた場所が封鎖されていた。なぜ封鎖されたのかは分からなかったが、そこに三十年という時間の経過を感じた。
初めてあの場所を訪れたときの道を進んだ。道は健在で、所々の道なき道も相変わらずだった。ただ、足取りが重かった。以前は難なく歩けていた箇所で何度も立ち止まり、息を整えなければならなかった。三十年前も同じ道を、ロープをリュックに詰めて歩いた。あの夜と今夜とで違うのは、あの夜の終わりには夏希がいたことだけだった。
川辺に着いて、その場にしゃがみ込んだ。もう若くない体が疲れていたのもあるが、低い位置から一度月を見たかった。月が出ていた。三十年前と変わらず神々しく輝き、川面を幻想的に照らしていた。何も変わらない月を見て、少しだけ嬉しくなった。それと同時に、夏希への想いが溢れ出してきて、涙が止まらなくなった。少しの間そのままでいた。川のせせらぎが耳に届いて、虫の声が届いて、三十年前と何も変わらないこの場所に、自分だけが変わってしまったことを実感した。三十年前と同じ月が、三十年分だけ年を取った僕を照らしている。
ゆっくりと立ち上がり、あの場所へ向けて歩き始めた。
「夏希、ごめん」
でも、たまには夏希が来るのを待つのも悪くないと思っていた。久しぶりにじっくりと月を見上げた気がする。夏希と並んでいるときは、いつの間にか月より夏希の横顔を見ていることの方が多くなっていたから、月に対して少し申し訳ない気持ちになった。
しばらく待っても夏希は来なかった。時計を見ると二十二時五十五分を指している。遅刻というわけではないが、夏希にしては珍しかった。たまにはこんなこともあるか、と思い直して再び月を見上げていたが、二十三時を回っても夏希は姿を現さなかった。
嫌な予感が頭を過ぎった。
まさか、夏希に何か——。
悪いイメージを振り払うように、その場で首を横に振った。その時だった。抜け道の方から足音が聞こえてきた。安堵して視線を向けると、足音の正体は夏希ではなく、中年の男性だった。こんな時間にここへ来るような人物に心当たりはなく、何者だろうと考えていると、男性が僕に向かって声をかけてきた。
「君が夏樹くんか?」
誰だ、この人は。なぜ僕の名前を知っている。
頭の中で様々な考えが交錯していると、男性が続けた。
「夏希の父です。夏樹くん、ちょっと付いて来てくれないか」
その瞬間、夏希の身に何かあったことを察した。答え合わせが怖くて、何も聞かずにただ後を付いていった。抜け道を進み、十分足らずで夏希の自宅に着いた。和室に布団が敷かれ、そこに夏希が横たわっていた。
「夏希!」
思わず大きな声が出た。最悪のことが頭の中を駆け巡る中、小さな声が耳に届いた。
「……夏樹?」
夏希が微かに目を開けて、か細い声で僕を呼んでいる。
「そうだよ、夏樹だよ。夏希、大丈夫か」
大丈夫でないことは分かりきっていた。それでも夏希の口から大丈夫という言葉を聞きたかった。
「だいじょう……ぶ。ねえ夏樹、あの場所に行こう。二人のあの場所」
どう見ても無理な状態だった。それでも僕は夏希の言葉を否定できなかった。いや、否定したくなかった。和室の隅で女性がすすり泣いている。夏希のお父さんも気丈に振る舞っているが、涙を必死に堪えているのが分かった。
「うん。行こう夏希、二人のあの場所へ」
そう言うと、夏希は精一杯微笑んでくれた。
「夏樹、あの絵ね、完成したよ。月の絵もあるから夏樹にあげる」
夏希が指す方に目を向けると、二枚の絵が額に飾られていた。月の絵と僕の絵が横に並んで、あの夜々を思い起こさせる。それを見た瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。これを受け取ってしまうと、夏希との永遠の別れになってしまう気がして、躊躇した。
「泣かなくて大丈夫! 私は生まれ変わる。生まれ変わってもう一度君に会いに来る」
泣いている僕を見て、夏希があの日と同じ言葉を言ってくれた。消え入りそうなほどか細い声だったが、僕の鼓膜にはっきりとこびりつくほど聞こえた。
「夏樹……ありがとう」
「俺の方こそ……ありがとう」
今までの想いを全部凝縮して返した。僕の言葉を聞くと、満足したような笑顔で夏希は目を閉じた。月の下で出逢った僕たちは、月の下でお別れすることもなく、簡素な蛍光灯の下でお別れをした。
夏希のお父さんとお母さんがいるにもかかわらず、僕は大声で泣き喚きながら夏希の顔を抱き締めた。泣いている僕をいつも優しく包んでくれていた夏希は、そのときただ目を閉じてじっとしていた。いくらしがみついても、夏希が目を開けることはなかった。
しばらくして、和室の隅で泣いていた女性が声をかけてきた。
「夏希の母です。夏希ね、余命宣告をされて少しした頃に、好きな人ができたって言うの。それも自分と同じ名前の男の子だって、嬉しそうに言っててね」
夏希が僕そのものを直接好きと言ってくれたことはなかった。それでも、夏希も同じタイミングで同じ気持ちでいてくれていた。僕が何も答えられないでいると、夏希のお母さんが続けた。
「あの子ね、一旦は自分の死を受け入れてた。だけど最近は毎日、死にたくないって言って泣いてた。せっかく好きな人ができたから生きたいって」
僕の前では常に気丈に振る舞っていた夏希が、家では毎日泣いていた。その話を聞いて、ますます涙が溢れた。胸の奥で何かが砕けるような感触があって、しばらく言葉が出なかった。
「これを君に渡してって言われた。中身は見てないけど、多分君への気持ちを書いてると思う」
手紙を渡してきた。表には「Dear夏樹」と書かれていた。受け取りながら、手が震えた。二枚の絵と一緒に鞄に詰め込む間、夏希のお母さんがずっと傍に立っていてくれた。絵と手紙を鞄に入れた瞬間、夏希との永遠の別れがより鮮明に実感されて、息ができないほどの絶望に襲われた。鞄の口を閉じることができなくて、しばらくその場にしゃがみ込んでいた。
夏希の両親から夏希が寂しがるから今夜は泊まっていってと言われ、夏希の実家に泊まることになった。
夏希と同じ和室に布団を並べて横になった。隣に夏希がいる。昨日まで毎晩並んで月を見上げていた夏希が、手の届く距離にいる。唯一の違いは、夏希が目を閉じたまま動かないことだけだった。その僅かな違いが、世界のすべてだった。
翌朝、窓から薄白い朝の光が差し込んでいた。目が覚めて横を見ると、夏希がいた。いるのに、いなかった。その感覚が胸の奥に静かに広がって、起き上がる気力をすっかり奪っていった。それでも体を起こして、横たわる夏希の顔を長い時間眺めた。
「眠っているみたい」だと思った。そんな陳腐な感想しか出てこない自分が悔しかった。夏希にふさわしい言葉が何かあるはずなのに、その八文字以外に何も出てこなかった。
夏希にそっと二度目のキスをした。不謹慎かもしれないと思った。ご両親が気づいたらどう思うかとも思った。それでも、そうせずにはいられなかった。夏希の唇は冷たかった。昨夜まであの場所で隣に座り、笑っていた夏希の温度が、もうどこにもなかった。それを確かめた瞬間に涙が出てきて、布団に顔を埋めたまま、声を殺して泣いた。
帰宅したのは昼過ぎだった。空は曇っていて、駅を出たところで雨が降り始めた。都市部に戻るにつれて人の数が増え、車の音が増え、排気ガスの臭いが増えた。向こうから傘を差した若いカップルが肩を寄せ合いながら笑って歩いてきて、ただそれだけで視界が滲み、足が止まった。二人は不思議そうに僕を見てそのまま通り過ぎていった。雨は次第に激しさを増した。傘も差さずにずぶ濡れで、僕は屍のように家路を歩いた。
家に着いてからは、何もできなかった。眠れないし、食べる気もしない。夏希からもらった二枚の絵を部屋の壁に立て掛け、ただ眺め続けた。
絵の中の僕は笑っていた。心の底から弾けるような笑顔で笑っていて、今の自分と同一人物だとは信じられないくらい輝いていた。あの笑顔は夏希が引き出してくれたものだった。夏希が隣にいたから、僕はあんな顔ができたのだと、絵を見るたびに思い知らされた。月の絵もそうだった。夏希が十一夜かけて丁寧に仕上げたその月は、あの夜の空気をまるごと閉じ込めているようだった。絵の中の月は今夜の月と同じはずなのに、夏希が描いた月は窓の外の月より遥かに近く、遥かに明るく見えた。
以前、夏希が言っていた。見た景色を残したいから描くのだと。私が死んでもその景色が残るように、と。そのとき僕は言ったのだ、じゃあ夏希の絵の中では時間が止まるんだ、と。
だとしたら、この絵の中に夏希はいる。
夏希が描いた月の中に、夏希が描いた僕の笑顔の中に、あの夜々がまるごと生きている。夏希はここにいる。そう思うと、涙が止まらなくなった。泣いても楽にはならなかったが、泣くことをやめることもできなかった。
夏希が死んでから二日後の夜、幻影を追いかけてあの場所へ向かった。
きっとあそこにいる、という確信があった。同時に、いるはずがないという冷静な自分もいた。その二つが胸の中で押し合いながら、それでも足は駅へ向かっていた。駅を降りると、田舎特有の自然の匂いが鼻腔を満たした。雨上がりの湿った土の匂いと草の青い匂い、あの夜と同じだった。抜け道を使わず、初めてあの場所を訪れたときの道を歩いた。遠回りになると分かっていてもそうした。そうした方が夏希に会えそうな気がした。
川辺に着いた。月が出ていた。静かで神々しく、辺りを白く照らしていた。右往左往しながら歩いていれば、夏希が声をかけてくるはずだった。「多分、ここだと思うよ」という声が聞こえてくるはずだった。
でも聞こえてくるのは、川のせせらぎと虫の声だけだった。
あの場所に着いた。コンクリートの置物だけがある。万が一、上に夏希がいるかもしれないと思って梯子を上った。
夏希はいなかった。
いつも二人だったあの場所に、僕は一人だった。殺風景だ、と思った。夏希がいるときはそんなふうに思ったことなど一度もなかったのに、いないというだけでこのコンクリートの台は何の意味もない真っ黒の物体になっていた。月も遠かった。あれほど近く感じていた月が、夏希がいないだけでこんなにも遠い。
僕は狂ったように泣き叫んだ。声が静寂を切り裂き、川面に響き渡った。何時間そうしていたか分からない。月の光は、滑稽な僕一人だけを淡々と照らし続けた。
奇跡なんて起きやしない。あるのはいつだってリアルな現実だ。月に照らされながら、僕はそのことをようやく腑に落とした。
夜が白み始める頃にようやく梯子を降り、来た道を引き返した。電車に乗る気になれなくて、そのまま歩いた。足が棒のようで、何度も立ち止まりながら、それでも歩き続けた。家に着いたのは昼近くになってからで、玄関の鍵を開ける手が震えていた。
部屋に入るとすぐ、二枚の絵を眺めた。ぼんやりと眺めていると涙で視界が滲んで、絵の月がキラキラと輝いて見えた。涙が止まらない。止めようとすればするほど流れてくる。泣いても心が落ち着くことも浄化することもなかった。
ひとしきり泣き尽くした後、ある物の存在を思い出した。二枚の絵と一緒に夏希のお母さんに渡された手紙だ。
見るのが怖かった。でもそこに夏希を感じられるなら、そこに夏希の意思があるなら、向き合わなければならない。鞄から手紙を取り出すと、表面に書かれた「Dear夏樹」の文字が小刻みに波を打っていた。文字を書くのも辛い状態で書いてくれたのだろうと思うと、再び涙が溢れてきた。しばらくそのまま手紙を持ったまま泣いていた。それでも、覚悟を決めて封を切った。
一夏樹へー
今、夏樹がこれを読んでいるということは、私はもうこの世にいないってことだよね? 夏樹、ありがとうね。私さ、本当に毎日楽しかった。余命宣告されてからさ、周りの友達も気を遣って私と関わらなくなっちゃってさ、本当は寂しかったんだ。だけど、夏樹が毎日私の隣にいてくれて、私に色々な表情を見せてくれたよね? 泣いたり怒ったり笑ったり喜んだり悲しんだりさ。夏樹といると本当に飽きなくてさ、ずっとこの時間が続けばいいなあって思ってた。初めて夏樹と出逢った日のこと、今でも鮮明に覚えているよ。夏樹から言われた言葉もハッキリと覚えててさ、死のうとしてた夏樹を責めて、私自身が死ぬことを告げた時、夏樹怒ってたよね? 人の死を否定して、自分の死を肯定するなんて身勝手にもほどがあるって言葉、ズシッて来たね。その通りだなって思った。でもね、何でだろう? 私、夏樹に死んでほしくなかったんだ。身勝手な女で本当にごめん。こんな女のために死なないでいてくれて、本当にありがとうね。
その後さ、夏樹が私の胸で泣きながら、夏希、死なないでよって言った時、私ね、心の底から死にたくなくなった。一旦は自分の死を受け入れたはずだったのに、生きたいって思った。それと同時に、こんなに手の掛かる男を置いていけないなって思った。一人にしちゃダメだって思った。だから私ね、その時に決めたの。生まれ変わるって。夏樹はもしかしたら、私が咄嗟に君を慰めるために口からでまかせを言ったって思っているかもしれない。だけど私、本気だから。絶対に生まれ変わって夏樹にもう一回会いに行く。そうじゃないと私の気が済まないの。一ヵ月じゃ全然足りないし、私って欲張りだからさ、もっと夏樹を一人占めしたいんだよね。そんなこと、無理だって思ってるでしょ? でもね、考えてごらん。私達はもう既に奇跡を起こしているんだよ。日本だけでも一億人以上人がいる中でたまたま出逢ってさ、お互いが月に魅了されてあの場所に引き寄せられて、性別も違うのにお互い同じ名前でさ、そんな二人が恋に落ちてって中々の奇跡だと思うよ。
しかもさ、お互いが死に近い位置にいたからこそ出逢えたんだよ私達。私は余命宣告されていなかったら、あそこの絵を描こうとは思わなかっただろうし、夏樹も死のうとしなければ、あそこを訪れることはなかったと思う。そう考えたらさ、私達は凄く奇跡的な運命に導かれて、人生が重なったんだよ。何かそんな奇跡に比べたらさ、生まれ変わりぐらい大したことないように思えるんだよね。
だからね夏樹、私のことを待ってて。よくさ、ドラマとか映画でこういう時って、私のことは忘れて幸せになってって言ったりするじゃん? 私、そんな綺麗事を言う気は毛頭ないから。夏樹が私以外の女といるの許せないし、私以外の女と幸せになんてなってほしくない。誰にも譲りたくないんだよね、夏樹のこと。だから意地でも絶対に夏樹に会いに行く。何年掛かっても絶対に。
だから本当に夏樹に申し訳ないんだけど、生きていて下さい。何年かして私が生まれ変わった時、その世界に夏樹がいないなんて私耐えられない。夏樹がいない世界なんかいらないし、夏樹がいない人生なんて考えられないんだよね。
だから私さ、不謹慎かも知れないけれど、病気になって良かったなあって思うんだよね。それまでの人生もそれなりに楽しかったつもりだったけれど、今になって考えると、私の人生の中に夏樹がいないことを想像するとゾッとするんだよね。それだけあなたの存在は、私を幸せで満たしてくれていました。私、まだまだ夏樹に恩返ししなきゃいけないんだよ。だから大人しく死んだままでいられないんだよね。
だからね夏樹、泣かなくて大丈夫だよ。私は絶対に生まれ変わる。生まれ変わってもう一度君に会いに行く。だからちょっとの間だけ、私がいない世界で頑張って生きていて下さい。浮気はするなよ。ありがとう夏樹、本当に大好き。またね。
一夏希よりー
何度も読み返した。夏希の言葉には力があった。手紙に記されていてもそれは同じで、文字の一行一行から夏希の声が聞こえてくるようだった。こんなに手の掛かる男を置いていけない、という言葉が胸に刺さった。最後の、本当に大好き、という六文字のところで、涙で文字が滲んで読めなくなった。
夏希が待ってて、と言っている。だから僕は生き続ける。夏希の言葉を裏切ることは、僕にはできない。世界がどんなに残酷で色褪せて見えていたとしても、その世界に僕がいなければ夏希は僕を見つけることができない。だから生き続ける。夏希が僕を見失わないように。
その夜、ようやくちゃんと眠れた。
夏希の葬儀は、死の三日後に営まれた。
祭壇に飾られた遺影の夏希は、笑っていた。あの場所で月を見ながら笑っていたときとまったく同じ顔で、まっすぐこちらを見て笑っていた。
棺の中の夏希の顔を見た。
「眠っているみたい」だと思った。やはりその感想しか出てこなかった。夏希にふさわしい言葉が何かあるはずなのに、その八文字以外に何も出てこなかった。
葬儀が進む中で、司会の方が喪主の名前を読み上げた。月城啓一、という名前をそのとき初めて知った。続いて喪主の妻として月城澄江という名前も読み上げられた。夏希のお父さんとお母さんの名前を、あの場所で初めて会った夜にも、実家に泊まった夜にも聞いていなかった。月城という苗字を聞いて、夏希らしいな、と思った。月の城とは、夏希にこそふさわしい。
啓一さんが隣に来て、一緒に見送ってやってくれ、と言った。喉の奥が詰まった。夏希の両親も、夏希を失った悲しみの中にいる。当たり前のことなのに、そのときの僕にはひどく大切なことに思えた。誰かと同じ悲しみの中にいる、という感覚を、それまでの僕はほとんど知らなかったから。施設にいた頃も、退所してからも、誰かと何かを共有しているという感覚を持ったことがほとんどなかった。夏希が初めて教えてくれたことの、一つだった。
施設の伝手を頼って清掃会社に就職したのは、夏希が死んでから三ヶ月後だった。
仕事は単純だった。決まった時間に決まった場所へ行き、決まった手順で清掃をする。誰かと言葉を交わす必要が最小限で済み、ただ体を動かし続けることができた。最初の数年は、それが有難かった。頭を使わずに体を使っていれば、夏希のことを考え続けるよりはいくらか楽だった。
ただ、仕事が終わって部屋に帰るたびに、夏希がいないことを思い知らされた。一人で総菜を買って帰り、一人で食卓に座り、誰も来ない夜をやり過ごすだけだった。食事をしながら夏希のことを考えた。夏希がいたら、今日あったことをどんなふうに話しただろう、と思った。答えは返ってこない。その静けさが、毎晩少しずつ体に積もっていった。
夏希の絵は部屋に飾った。最初は正面の壁に掛けたが、夜中に目が覚めると絵の中の笑顔と目が合って、眠れなくなった。だから横の壁に向きを変えた。直接目には入らなくなったが、部屋の空気は変わった。横になって天井を見ていると、その空気がひりひりと皮膚に触れてくる感じがした。それが辛いときも、有難いときもあった。
夏希が死んでから一年が経った頃、月城家を訪ねた。
玄関に出てきた澄江さんは少し驚いた顔をしてから、すぐに「来てくれたの」と言った。和室に通されると、あの夜と似た空気がそこにあって、胸がきつくなった。お茶を出しながら、澄江さんが「遺品の中から出てきたの」と言って一冊のスケッチブックを渡してくれた。夏希があなたに渡してほしいって言ってたわけじゃないんだけど、誰かに持っていてほしくて、と続けた。
スケッチブックを開いた。川辺のスケッチ、友人の顔、景色の数々が、丁寧に一枚一枚描かれていた。最後のページに、走り書きで一行だけあった。
まだ描きたいものがたくさんある。
その文字を見た瞬間、息が止まった。最後まで前を向いたまま逝った夏希らしかった。スケッチブックを閉じて鞄に入れ、ありがとうございます、とだけ言うのが精一杯だった。澄江さんがお茶を飲みながら、夏希のことをぽつぽつと話してくれた。子供の頃から絵が好きで、美術大学へ行きたがっていたこと。病気が分かってからも、絵だけはやめなかったこと。僕と会うようになってから、表情が変わったこと。話を聞きながら、涙が止まらなかった。夏希のことをこんなに丁寧に話してくれる人がいる、という事実が、そのときの僕には有難くて仕方なかった。
毎年、夏希の命日に近い満月の夜にあの場所を訪れた。
五年目の夜、梯子を上りながら今年こそ夏希がいるかもしれないと本気で思っていた。コンクリートの上に腰を下ろして月を見上げ、夏希の声を待った。川のせせらぎと虫の声だけが聞こえる中で、それでも耳を澄まし続けた。帰り際に梯子を降りながら、来年は来るだろうかとぼんやり考えた。根拠はなかった。それでも根拠がないことを、まだ認める気にはなれなかった。
十年目の夜、夏希はやはりいなかった。梯子を上る前に一度立ち止まり、空を見上げた。もう来ないかもしれない、という考えが初めて頭をよぎって、すぐに打ち消した。打ち消しながら、自分がそう思い始めていることには気づいていた。月がいつもより遠く見えた。夏希がいないせいなのか、自分の心のせいなのか、判断がつかないまま、コンクリートの上に一人で座っていた。
三十代に入った頃、職場で年下の後輩の面倒を見るようになった。
後輩は仕事の覚えが早く、明るい性格で職場でも人気があった。誰とでもすぐに打ち解けるその後輩を見ていると、若い頃の自分がいかに不器用だったかを改めて感じた。ある晩、仕事終わりにその後輩が僕のところへ来て、「少し相談してもいいですか」と言った。顔を見ると目が赤かった。失恋したのだという。相手には好きな人が別にいたとのことで、話しながらだんだん声が震えてきた。僕は気の利いた言葉も慰めの言葉も何も出てこなくて、少し考えてから「泣いていいよ」と言った。
それだけで後輩は号泣した。肩を震わせて、声を上げて泣いた。その様子を見ながら、夏希の胸で泣いたときのことを思い出していた。泣いていいよ、と言ってくれる人がそばにいる。それだけのことが、こんなに人を楽にするのか、と思い、夏希に泣かせてもらった自分は贅沢だったんだな、とも思った。
後輩が落ち着いてから、二人で缶コーヒーを飲んだ。後輩はすっきりした顔で「辻村さんって、なんか話しやすいですね」と言った。
そんなことを言われたのは初めてで、どう返していいか分からず黙っていると、後輩が「ありがとうございました」と頭を下げた。帰り道、今日のことを話したい相手が一人しかいないことに気づいた。その一人は、もういなかった。
それから少し経って、職場の同僚から食事に誘われた。断り続けていたが、ある日ふと、夏希がいたら行けって言うだろうな、と思い、初めてOKした。楽しいと思う瞬間があった。笑っている自分がいた。でも帰り道はやはり、今日のことを話したい相手のことを考えていた。どれだけ時間が経っても、その一人だけは変わらなかった。
三十代後半のある日、スーパーで偶然に静江さんと再会した。
向こうから歩いてきた静江さんは、最初は気づかなかったようだった。こちらから声をかけると、しばらく僕の顔を見てから、「夏樹くん?」と言った。「随分立派になって」とも言った。白髪が増えて、少し小さくなった気がしたが、声は施設にいた頃のままだった。少し話した。相変わらずお元気ですか、今はどちらに、という他愛のない話をしながら、ずっと言おうと思っていた言葉を口にした。
「あの時、プリンありがとうございました」
静江さんが目を丸くした。
「覚えてたの?」
「今になってやっと、あれが本心だったんだってわかりました」
静江さんが少し泣いた。涙を手の甲で拭いながら、「よかった」とだけ言った。それからしばらく黙って、「あなたのこと、ずっと気になってたのよ」と続けた。退所してからどうしているだろうと思っていたこと、元気でいるといいなと思っていたこと、静江さんはぽつりぽつりと話した。僕はそれをただ聞いていた。
帰り道、長い時間そのことを考えた。誰かに思われていた、ということに気づくのに、こんなにも時間がかかってしまった。施設を退所した十八歳の夜に部屋へプリンを置いていった静江さんのことを、あのときの僕は仕事だからそうしているだけだと片付けていた。でも違った。ただそれに気づくまでに、二十年近くかかってしまった。夏希がいなければ、この気づきも生まれなかっただろう。夏希と出逢って、誰かの気持ちを受け取ることを、僕は少しずつ覚えてきたのかもしれない。
夏希が死んでから二十年が経った頃には、来ないとわかっていてもあの場所に来ることが、もう習慣になっていた。梯子を上り、コンクリートの上に座り、月を見上げる。なぜ来るのかはもうとっくにわからなくなっていたが、それでも来てしまう。足が覚えているのか、それとも来ずにはいられない何かが自分の中にあるのか、考えても答えは出なかった。世界はずいぶんと変わったが、この場所だけは何も変わっていなかった。月も、川のせせらぎも、虫の声も、あの夜のままだった。それが、ひどく救いだった。
四十代に入った頃から、体があちこち言うことを聞かなくなってきた。
膝が痛む。長時間立ち続けると腰に来る。それまで何の苦もなくこなしていた作業に時間がかかるようになった。若い後輩たちが気を遣って重い荷物を持とうとしてくる。断っても断っても手を出してくるので、ある日「ありがとう」とだけ言って素直に任せた。後輩が少し嬉しそうな顔をした。そんな些細なことが、以前よりも柔らかく胸に届くようになっていた。
それでも夜になると、じわじわと暗い考えが戻ってきた。俺は何のためにここにいるんだろう、という念が、誰に言われたわけでもないのに頭の中に浮かんでくる。三十年前の十八歳の夜を思い出した。あの頃と同じ問いが、今また戻ってきていた。
ある夜、仕事から帰って食卓に座り、いつもと同じ総菜を並べながら、ふと箸が止まった。三十年間、こうして一人で食べてきた。夏希が死んでからも、静江さんと再会した後も、後輩と缶コーヒーを飲んだ夜も、家に帰れば一人だった。夏希と月の下でおにぎりを食べたあの夜だけが、違った。誰かと食べたいと思って食べる食事を、あの夜以来一度もしていない。そのことに今さら気づいて、ひどく疲れた気持ちになった。疲れた、というより、もう十分だ、という感覚の方が近かったかもしれない。
夏希の言葉を信じて三十年生き続けてきたが、信じ続けることと、信じ続けられることは、少しずつ違ってきていた。信じようとすればするほど、その言葉が遠くなっていくような感覚が、年を重ねるにつれて強くなっていった。
しばらくして、押し入れの奥から夏希の手紙とロープを取り出した。ロープはすっかり変色して、持った感触も三十年前とどこか違った。手紙を読んだ。読むと涙が出た。夏希の文字は、三十年前と変わらず波を打ったまま、僕に語りかけてきた。でも読み終えて手紙を畳みながら、ぽつりと呟いた。
「でも、あれは三十年前の夏希の言葉だ。今の夏希は、どこにもいない」
呟いてから、その言葉の重さに自分で驚いた。夏希の言葉を信じて生き続けると決めたのは、間違いなく自分だった。でも三十年という時間は、どんな確信も少しずつ削っていく。
「夏希の嘘つき」と口の中で言ってみた。声に出したら、涙が出てきた。
三十年ぶりに、あの場所へ向かうことにした。
ロープをリュックに詰めて家を出た。最終便の電車に乗ると、車内に乗客はまばらだった。窓の外を流れる夜の街を眺めながら、三十年前の最終便を思い出した。あの夜は同じ車両に老夫婦がいて、高校生のグループがいた。この人たちはみんな明日も生きるつもりでいる、と思った。今夜も、車内にいる人たちは明日のことを考えているのだろう。リュックの中のロープの重さを意識した。あの頃と変わらない静かな断絶感が、胸の中にあった。
駅を降りた。田舎特有の柔らかな自然の匂いが鼻腔を満たした。あのときのままだった。駅からの風景もほとんど変わっていない。ただ一つ、抜け道になっていた場所が封鎖されていた。なぜ封鎖されたのかは分からなかったが、そこに三十年という時間の経過を感じた。
初めてあの場所を訪れたときの道を進んだ。道は健在で、所々の道なき道も相変わらずだった。ただ、足取りが重かった。以前は難なく歩けていた箇所で何度も立ち止まり、息を整えなければならなかった。三十年前も同じ道を、ロープをリュックに詰めて歩いた。あの夜と今夜とで違うのは、あの夜の終わりには夏希がいたことだけだった。
川辺に着いて、その場にしゃがみ込んだ。もう若くない体が疲れていたのもあるが、低い位置から一度月を見たかった。月が出ていた。三十年前と変わらず神々しく輝き、川面を幻想的に照らしていた。何も変わらない月を見て、少しだけ嬉しくなった。それと同時に、夏希への想いが溢れ出してきて、涙が止まらなくなった。少しの間そのままでいた。川のせせらぎが耳に届いて、虫の声が届いて、三十年前と何も変わらないこの場所に、自分だけが変わってしまったことを実感した。三十年前と同じ月が、三十年分だけ年を取った僕を照らしている。
ゆっくりと立ち上がり、あの場所へ向けて歩き始めた。
「夏希、ごめん」


