夏樹の顔を最初に紙に描いたのは、月の絵が完成した夜だった。
「さあて、今から夏樹を描き始めるかな」と口にした時、本当にそうするつもりだった。月の絵を描き終えた達成感と疲労感が同居している中で、新しいスケッチブックを開いた。夏樹が「少し休んだら」と言ってくれたけれど、休んでいる時間が惜しかった。私には時間がない。そのことを夏樹に言うと、夏樹の表情が少し曇った。現実に引き戻された、という顔だった。ごめんね、と思いながら、でも言わなかった。
デッサンの段階では、輪郭から入る。髪の生え際、顎の線、眉の角度。それだけ取り出すと、夏樹はどこにでもいそうな十八歳の男の子だった。目元が少し垂れていて、唇が薄くて、全体に力を抜いたような顔をしている。でもそれは骨格の話であって、夏樹が夏樹である理由はそこにはない。
私が本当に描きたいのは表情だった。
鉛筆を持ちながら、しばらく夏樹の顔を見ていた。正面から見たり、少し横から見たり、光の当たり方を変えながら確認していると、夏樹が「そんな見るなよ」と言った。
「見ないと描けない」
「わかってるけど」
「緊張してる?」
「してない」
している顔だった。でも指摘しなかった。緊張している夏樹の顔も私が知っている夏樹の一部ではあったけれど、それを描くつもりはなかった。笑顔を描くというのは最初から決めていた。問題は構図だった。夏樹の笑顔は一種類じゃない。私の話を聞いてふっと力が抜けたような笑い方と、何かを言い返すときの口元だけで笑う感じと、照れているときに視線をそらしながら笑う顔と、全部違う。どれも本物で、どれも夏樹だった。どの笑顔を、どの角度から、どんな光の中で切り取るか。それを決めるために、まず夏樹を見ることが必要だった。紙に鉛筆を走らせながら、ずっと夏樹を見ていた。夏樹は時々居心地が悪そうにしながら、でも逃げなかった。その律儀さも、夏樹らしかった。
その夜は輪郭の下書きだけで終わりにした。鉛筆の線は薄く、夏樹に見せてもほとんど何も描いていないように見えただろうと思う。
帰り際、夏樹が「今日、全然進んでないじゃん」と言った。
「進んでるよ」と答えると、「どこが」と聞くので「ここに」と言って自分の頭を指した。夏樹が「意味わかんない」と笑った。その顔だ、と思ったが、口には出さなかった。夏樹が笑うとき、目が少し細くなって、口角が右の方が少しだけ高く上がる。その非対称さが、作り物じゃない証拠だと思う。愛想笑いは左右対称になる。本当に可笑しいときだけ、人の顔は少し歪む。夏樹の笑顔は、いつも少し歪んでいて、だからいつも本物だった。
翌日の夜、目を描いた。
夏樹の目は、最初に会ったときから気になっていた。普段は伏し目がちで、感情がそこに出てくるまでに少し時間がかかる。でもいったん出てきたら、素直すぎるくらい全部が表れる。怒っているときも、泣きそうなときも、嬉しいときも、夏樹の目は隠し方を知らなかった。施設で育って、感情を外に出す機会がなかったと言っていたのに、目だけはずっと正直だった。感情を殺す練習をしてきたはずなのに、目だけはその練習を拒否し続けてきたみたいだった。そのことが、私にはどうしようもなく愛おしかった。
描きながら、そのことを考えていた。
夏樹は私と話すとき、時々視線が月に逃げる。照れたとき、言い返せないとき、感情が溢れそうになったとき。月を見ることで、少し間を置く。その癖が好きだった。月に頼っていいんだ、と思えた。私も同じだったから。この場所に通い始めたのは、月を描くためだった。でも月を描きながら、いつの間にか月に助けてもらっていた。感情が溢れそうなとき、月を見ると少し落ち着く。夏樹も同じことをしている。二人して月に甘えながら、お互いの隣にいる。そういう夜が、ここには続いていた。
「また月見てる」
声をかけると、夏樹が「綺麗だから」と答えた。
「そうだね」
私も月を見た。二人で並んで同じものを見ている時間が好きだった。絵を描いているときは私が夏樹を見て、夏樹が月を見ている。追いかけっこみたいだと思う。でも不思議と、それでちょうどよかった。どちらかが追いついてしまったら、この距離感は壊れてしまう気がした。今のままでいい。追いかけっこのまま、この夜が続けばいいと思っていた。
三日目の夜、構図が決まった。
どの角度から切り取るかが、ようやく定まった。月は月の絵の中にある。夏樹を描く絵では、夏樹だけを浮かび上がらせる。背景を深い闇にして、光源は左斜め上から差し込む柔らかい白。夏樹が自分の笑顔に気づいていない瞬間を、正面よりわずかに右から捉える。それが答えだった。決まった瞬間、胸の中で何かがはっきりした感じがあった。迷いが消えると、筆が先に動き始める。絵を描いているとときどきそういうことがある。頭より先に手が知っている。
「なんか今日、ずっとじっと見てるね」
夏樹が少し落ち着かない様子で言った。
「構図、決まったから」
「どんな構図」
「秘密。完成してからのお楽しみ」
夏樹が少し膨れた顔をした。その顔も描けそうだな、と思いながら、笑った。膨れた顔の夏樹は、少し子どもみたいで、でもそれも夏樹の本当の顔だった。気を張っていないときの夏樹の顔は、施設でずっと感情を殺してきた人間の顔じゃない。ただの十八歳の顔だ。それを引き出せているなら、この夜々は私にとっても夏樹にとっても、悪くないものだったと思う。
鉛筆を走らせながら、ある感覚を意識するようになっていた。描けば描くほど夏樹という人間が紙の中に定着していくと同時に、何か締め切りのようなものが近づいてくる気がした。描き終えたら、何かが終わる。終わらせたくないような、早く終わらせたいような、矛盾した気持ちが同居していた。
絵を描くことが「残すこと」だと、ずっと思ってきた。景色を残す、記憶を残す、自分が見たものを残す。でも夏樹を描きながら、それだけじゃないかもしれないと感じ始めていた。残すことは、同時に終わらせることでもある。描き終えた瞬間に、その時間は過去になる。月の絵を描き終えたとき、あの夜々が過去になった。夏樹を描き終えたとき、この夜々が過去になる。夏樹を描いている間だけは、まだ今だった。今であり続けるために、私は描いている。そう気づいたとき、鉛筆を持つ手に、いつもより少し力が入った。
四日目の夜、夏樹が「体調悪くない?」と聞いてきた。
「なんで」
「何か今日、顔色が」
「いつもこんな感じだよ」
「そうかな」
そうじゃないかもしれない、と私自身も思っていた。この数日、昼間は横になって過ごすことが多くなっていた。夜になっても完全には回復しないまま出かけることが続いていた。抜け道を歩いている途中で一度立ち止まって、呼吸を整えた。夏樹には見せなかった。見せても何もできないし、心配した夏樹の顔を見ると、手を止めたくなってしまう。手を止めるわけにはいかなかった。夏樹を描き終えるまでは、止まれない。それだけが今の私を動かしていた。
「大丈夫だって」
そう言うと、夏樹はしばらく黙っていた。信じていないのはわかったが、それ以上は聞いてこなかった。その加減が、夏樹らしかった。聞きたいのに聞かない。踏み込みたいのに踏み込まない。それは遠慮ではなくて、相手の領域を尊重しているということだと思う。自分の領域を荒らされてきたから、他人のそれを大切にする。そういう人間だと思った。
五日目の夜、夏樹を描いている途中で手が止まった。
目と口元は決まっていたが、全体としてまだ何かが足りない気がした。紙の上の夏樹は夏樹の形をしていたが、夏樹の重さがなかった。絵にはときどきそういうことがある。パーツは全部揃っているのに、息をしていない絵。技術の問題ではなくて、何かが抜け落ちている。その何かを探すように、しばらく筆を止めて夏樹を見た。夏樹は月を見ていた。横顔に月の光が当たっていて、輪郭がぼんやりと滲んでいた。川のせせらぎが聞こえる。虫の声が聞こえる。夏樹が月を見ながら、何を考えているのかわからないまま、ただそこにいる。
この人を、私は置いていく。
その言葉が、不意に頭の中に浮かんだ。感傷的になるつもりはなかったのに、そう思ったら急に胸が重くなった。夏樹は施設を出て一人になったとき、世界に放り出された気持ちになったと言っていた。誰もいない部屋で、街に出ても誰ともつながれなくて、だから死ぬつもりでここに来た。あの夜の夏樹の声を思い出す。「俺がいてもいなくても世界って変わらないんだろうなって何か悟った」と言った声を。あの言葉を聞いたとき、私は怒りに近い何かを感じた。そんなことはない、と思った。あなたがいなくなったら変わるものがある、と思った。でもその時点では、私自身がその「変わるもの」の一部になるとは思っていなかった。
私が死んだら、また同じことになる。
それが嫌だった。心配とか申し訳ないとか、そういう言葉では少し足りなくて、ただ純粋に、嫌だった。この人が一人で夜を過ごすことが、私には耐えられなかった。絵を描くことで景色を残してきた。でも今、私が残したいのは夏樹に関わる何かだ。夏樹がここにいたという記録ではなくて、夏樹がここで笑っていたという事実を、形にしたかった。それが誰かに届かなくてもいい。夏樹が一人の夜に、この絵を見て、あの夜を思い出せればいい。それだけで十分だと思った。
筆を取り直した。私が描きたいのは、夏樹が自分でも気づかないうちに笑っている、あの顔だ。月を見ていたり、言い返せなくて照れていたり、おにぎりを食べながら「美味しい」と言ったときの、あの顔。自分が笑っていることを知らないまま笑っている顔を、描きたかった。それを描くことが、この絵に息を吹き込むことになる、という確信があった。筆を動かしながら、ようやくわかった気がした。足りなかったのは技術じゃない。私がこの絵に込めようとしているものの正体を、私自身が掴めていなかっただけだった。
六日目の夜、デッサンがほぼ終わった。
夏樹が完成した輪郭を見て「これ俺?」と言った。
「そう」と答えると、しばらく黙って絵を見ていた。自分の顔を絵の中に見つけた人間の、不思議そうな顔をしていた。鏡で見る自分と、他人から見られる自分は違う。絵に描かれた自分は、他人から見た自分に近い。夏樹は今、私が見ている夏樹を見ている。
「俺……こんな顔してる?」
「してるよ」
「してる自覚が全然ない」
「だからいいんだよ」
夏樹が「意味わかんない」とまた言ったが、否定はしなかった。絵の中の自分をしばらく見て、それから月を見て、また絵を見た。その横顔を、目に焼きつけた。夏樹は自分の顔を見ながら、何を思っているのだろうと考えた。施設で育って、自分という存在を誰かの目を通して確認する機会がなかった人間が、初めて他人の目に映る自分を見ている。その顔が、どこか戸惑いながらも、悪くなさそうだと思っているように見えた。それで十分だった。
七日目の夜から色を塗り始めた。
色塗りはデッサンより好きだ。鉛筆の線は迷いを残すが、色は決断だ。一度塗ったら戻れない。その緊張感が、絵を生きているものにしていく気がする。失敗できないということが、集中を研ぎ澄ます。余命宣告を受けてから、毎日がそういう感じになった。失敗できない、やり直せない、だから一度で全力を尽くす。絵を描くことと、生きることが、同じ緊張感を持つようになった。
夏樹の肌の色から始めた。月の光の中で見る夏樹の肌は、少し青みがかった白さがあって、でも温度は冷たくない。その矛盾をどう紙に乗せるか、何度か試し塗りをしてから本番の筆を走らせた。最初の一刷けが紙に乗った瞬間、これだ、と思った。こういう瞬間が好きだ。迷っていたものが、筆の先でひとつの答えになる瞬間。
「集中してるね」
「そりゃそうだよ」
「邪魔してごめん」
「邪魔じゃないけど、喋りかけてくるなら返事はゆっくりになるよ」
夏樹が「了解」と言って黙った。その素直さが、好きだった。邪魔だと言ったわけでも、黙れと言ったわけでもないのに、夏樹はちゃんと意図を汲んで黙る。言葉の表面だけじゃなくて、その奥にあるものを読もうとする。それは施設で身につけたものなのかもしれないけれど、今の私にはありがたかった。
夏樹が黙ってから、この場所は静かになった。川のせせらぎと虫の声だけが続いている。私は筆を動かしながら、この静けさを体の中に入れるように息をした。今夜の空気が、絵の中に入っていく気がした。夏樹の肌に色が乗り、その色の中に今夜の月の光が宿っていく。絵を描くということは、その瞬間の空気を紙に塗り込めることだ、とずっと思ってきた。だとすれば、この絵には夏樹と過ごしたこの夜々の空気が、全部入っているはずだった。
八日目の夜、夏樹が「筆って細いところから塗るの、それとも広いところから?」と聞いてきた。筆を止めずに「人による」と答えると、「夏希は?」と続けるので「広いところから。細かいところは後から足せるけど、広い面で失敗すると全部やり直しになるから」と言った。夏樹がしばらく黙ってから「そういうもんなんだ」と呟いた。何かを考えているような声だったが、何を考えているかは聞かなかった。
夜が深くなるにつれて、二人の間に静けさが増していく。黙っていても、夏樹がそこにいることがわかる。気配というよりも体温に近い何かが、隣から伝わってくる。その感覚に、いつの間にか慣れてしまっていた。慣れてはいけないのに、と思いながら、どうしても慣れた。慣れることは依存することで、依存することは離れたときに壊れることだ。それはわかっていた。でも慣れずにいることができなかった。夏樹が隣にいることが、もう当たり前になっていた。当たり前になってしまったものを失うことが、どれほど痛いかも、わかっていた。それでも、慣れることをやめられなかった。
九日目の夜、少し早くこの場所を離れた。
筆を動かしながら、視界が少し滲む感覚があった。疲れているのか、体調が崩れているのか、自分でも正確にはわからなかった。ただ、今夜は早めに切り上げた方がいいという判断だけは、はっきりとあった。
「もう帰るの?」と夏樹が言うので「今日は体が重くて」と答えると、夏樹はすぐに立ち上がって手を差し伸べてくれた。断る言葉が出てこなかった。夏樹に支えてもらいながら梯子を降りた。骨張っていて、少し固い手だった。施設で育って、一人で何でもやってきたんだろうな、と思った。この手で、ずっと一人でいろんなものを掴んで離してきたんだろうと思うと、胸の奥が少し締まった。
抜け道に入ったところで夏樹が「ちゃんと眠れてる?」と聞いてきた。
「眠れてる」
「本当に?」
「疑うの?」
「疑う」
笑えてきた。夏樹はそういうふうに、さらっと本音を出す。こちらが「眠れてる」と言えば普通は「そうか」と引くのに、夏樹は「疑う」と言う。信じないという選択肢を、迷わず選ぶ。それは相手を信用していないということじゃなくて、相手の言葉より相手そのものを見ているということだと思った。言葉より顔を信じる。そういう人間だった。
「眠れてるよ。ただ、朝起きると体が重いことが増えてきた」
「病院には行ってる?」
「定期的に行ってる」
「何か言われた?」
「特には」
それは本当だった。先週の診察で、主治医は数値の話をして、次の予約を入れて、それだけだった。三年前の宣告からよく持っている、とは言われた。でも何もよくなってもいない。緩やかに消耗し続けているという感覚は、日に日に確かになっていた。
「言いたくないなら言わなくていいけど」と夏樹が言うので、「聞きたいの?」と聞き返すと、「聞きたい。でも無理には聞きたくない」と返ってきた。また笑えてきた。この人は本当に正直だ。聞きたいとも言う、でも強制はしないとも言う。その両方を同時に口にする。どちらかだけを言う方がずっと楽なのに、両方を言うから、こちらは選べる。それが夏樹の優しさの形だった。
「また今度話す」
「わかった」
家の前まで来たところで夏樹と別れた。
「おやすみ」と言い合って、振り返ると、夏樹がまだそこに立っていた。私が家に入るまで見ていた。それが毎晩の習慣になっていた。振り返れば夏樹がいる。その当たり前が、どれほど重いものかを、私は知っていた。知っていたから、振り返るたびに少し胸が痛かった。でも振り返ることをやめられなかった。
部屋に戻って布団に入ると、天井を見ながらしばらく考えた。
この人を一人にしたくない。
それだけが、くっきりとした輪郭を持って、胸の中にあった。どうすることもできないのに、その気持ちだけはくっきりとある。どうにもできないことをくっきりと感じることが、一番しんどいのかもしれない。でも感じることをやめようとは思わなかった。感じなくなったら、それはもう終わりだと思ったから。
十日目の夜、色塗りが大きく進んだ。
調子のいい夜だった。筆が迷わない。色が素直に乗る。こういう夜は、描いていて体が軽くなる気がする。実際には軽くなんてなっていないのに、絵の中に力が流れ込んでいくような感覚がある。体の重さが絵の方に吸い取られていくような感じで、描けば描くほど筆が滑らかになる。こういう夜が来ることを、私はいつも待っている。来るかどうかはわからない。でも来たとき、その夜を全力で使う。
夏樹の輪郭に光が宿り始めていた。背景の闇も、ちょうどいい深さになってきた。絵の中の夏樹が、少しずつ立体になっていく。紙の上の平面が、奥行きを持ち始める瞬間が好きだ。その瞬間に、絵が絵じゃなくなる。ただの色の集まりが、そこに誰かがいるという事実になる。
「結構進んでるね」
夏樹が横から覗き込んで言った。いつもより近い距離で絵を見ていた。夏樹の顔が絵の中の夏樹の顔の横に並んで、私はその両方を交互に見ていた。似ている、と思った。でも本物の方が、少し温かかった。当たり前のことだけれど、絵の中の夏樹には温度がない。あるのは温度の記憶だけだ。
「今日は調子いい。もしかしたら明日、完成するかも」
そう言うと、夏樹の表情が少し動いた。嬉しいような、寂しいような、どちらとも言えない顔だった。私はその顔を見て、夏樹も気づいているのだと思った。絵が完成したら、夜々が終わる。ここに通う理由がなくなる。そのことを、夏樹はちゃんとわかっていた。わかっていて、でも何も言わなかった。ただその顔をして、また月の方を見た。
「……完成したら見せて」
「当たり前じゃん」
夏樹が頷いて、また月の方を向いた。私も絵に戻った。調子のいい夜が続いていたが、あと一工程だけ残すところで筆を置いた。急ぎたくなかった。最後の色を、もう一夜だけ待ちたかった。夏樹が「今日で終わりじゃないの?」と聞いてきたので、「最後だけ明日にする」と答えた。「なんで」と聞くので、「気分」とだけ言った。夏樹は「そっか」と言って、それ以上は聞かなかった。
帰り道、夏樹と並んで抜け道を歩きながら、明日この絵が完成するということを考えていた。完成したら、夏樹に渡す。夏樹が持って帰る。私がいなくなった後も、その絵は夏樹の部屋にある。夏樹が月を見たいとき、ここに来られないとき、この絵を見れば今夜の月がそこにある。この夜が、形として残る。それで十分だと思った。十分だと思いながら、でも胸の奥に、まだ足りないという感覚があった。何が足りないのかは、言葉にできなかった。ただ、足りなかった。
翌日の午後、体を起こそうとして、うまくいかなかった。
昨夜の帰り道から、足が重かった。それを夏樹には言わなかった。今夜完成する。夏樹に見せる。それだけを考えていた。でも今日は、布団から出ることができなかった。起き上がろうとするたびに、体の芯から力が抜ける感じがして、そのまま横になり続けた。窓の外は明るく、風が木の葉を揺らす音が聞こえていた。それだけが普通で、自分の体だけが普通じゃなかった。
天井を見ていると、お母さんが昼食を持って入ってきた。お盆にお粥と梅干しと、薄く切った漬物。最近は私の体調に合わせた献立を、黙って用意してくれていた。いつから気がついていたのだろう、と思う。お母さんはいつも、言葉より先に動く。気がついたら用意されていて、気がついたらそばにいる。そういう人だった。
「食べられそう?」
「食べる」
起き上がろうとすると、お母さんが背中を支えてくれた。壁に背をもたれて、お盆を膝に乗せた。お粥を一口食べると、胃に沁みるような温かさがあった。梅干しの酸っぱさが、意識をはっきりさせる気がした。食べながら、今夜行けるだろうかということを考えていた。行けなければ、夏樹は今夜あの場所に来て、私がいないことに気づく。そのことが、お粥の温かさより先に胸に来た。
お母さんが部屋の隅に座って、縫い物をし始めた。昔からそうだった。そばにいたいけれど、見張っているとは思われたくないとき、お母さんはいつも手を動かしていた。針と糸の小さな音が静かに続く。私はお粥を少しずつ食べながら、その音を聞いていた。この音を聞きながら育ってきた、と思った。子どもの頃、熱を出して寝ていると、お母さんがいつも部屋の隅で縫い物をしていた。気がつくといる。声をかければ来る。それが当たり前だったから、当たり前じゃなくなるまで気づかなかった。
「お母さん」
「何?」
「昔みたいに、一緒に寝てもいい?」
口から出てから、自分でも驚いた。そんなことを言うつもりはなかった。お母さんが縫い物を置いて、布団の横に来た。横になった私の隣に、静かに体を横たえた。お母さんの重さが布団を少し沈める。その沈み方が、子どもの頃と変わらなかった。
天井を並んで見ていた。しばらくして、お母さんの手が私の手に重なった。それだけだった。何も言わなかった。私も何も言わなかった。手の温かさだけが伝わってくる。お母さんの手は、昔より少し骨張っていた。私が病気になってから、お母さんも少し痩せた。そのことに、今更気がついた。
病気がわかった夜のことを思い出した。病院から帰って、夕飯を食べて、お父さんが「早く寝ろ」とだけ言って自分の部屋に入った。お母さんは片付けをしていたが、私が部屋に戻ろうとしたとき、後ろから名前を呼んだ。振り返ると、お母さんが流しの前に立ったまま、こちらを見ていた。何も言わなかった。ただ見ていた。その目が、今日見てきた中で一番怖いものを見ている目だったから、私はそのまま自分の部屋に入った。廊下に出て扉を閉めてから、台所の方でお母さんが泣く声がした。声を殺して泣いていた。私はその声が消えるまで、扉の前で立っていた。
あの夜から、お母さんは私の前で一度も泣かなかった。いつも笑っていて、いつも「大丈夫」と言っていた。その「大丈夫」が本当じゃないことは、私にもわかっていた。わかっていて、私も「大丈夫」と言い続けた。お互いが「大丈夫」を言い合って、お互いが「大丈夫じゃない」ことを知っていた。それが、この三年間の私たちの会話だった。
「お母さん」
「何」
「病気になってから、一度も泣かなかったね」
しばらく間があった。お母さんの手が、私の手をわずかに強く握った。
「泣いてるよ」
静かな声だった。
「夏希が寝てから」
私は何も言えなかった。お母さんも何も言わなかった。天井を並んで見ていた。手の温かさだけが続いていた。知っていた。ずっと知っていた。知っていて、声に出して確かめることから逃げてきた。確かめてしまったら、この人の前で気丈でいられなくなる気がしていたから。でも今は、声に出してよかったと思った。
しばらくして、お母さんが小さく「夏希」と呼んだ。
「何」
「今、幸せ?」
少し考えた。怖いし、悔しいし、惜しいと思うことはたくさんある。でも今、幸せかどうかと聞かれれば。
「うん」
嘘じゃなかった。お母さんの手が温かくて、夜になれば夏樹に会える。絵がもうすぐ完成する。それで十分だった。
「よかった」
お母さんが静かに言った。その声が少しかすれていたが、私は気づかないふりをした。
しばらくして、お母さんが静かに起き上がった。縫い物を持って部屋を出ていく前に、布団をそっと直してくれた。扉が閉まる音がして、部屋がまた静かになった。まだ体が重いまま、クローゼットの奥からスケッチブックを引っ張り出した。
一番古いのは中学一年のときに買ったものだった。表紙が日焼けして、角が擦り切れている。最初のページを開くと、川べりのスケッチがあった。小学生のころ、夏になるとお父さんとよくここで泳いだ。足がつかない深さになると抱き上げてもらった、あの川べりだ。十二歳のときに初めて絵に描いた。うまくはなかった。水の流れが硬くて、木の葉が記号みたいだったけれど、お父さんが「本物みたいだ」と言ってくれた。
病気がわかってから描いた絵を、順番に見ていった。川べりの景色、路地、台所の窓から見える空、両親の後ろ姿、夕焼け、雨粒のついた窓ガラス。そして月。最後の一枚だけ、まだ完成していない。今夜、完成させる。
スケッチブックをめくりながら、三年間のことを思い返していた。
最初に異変を感じたのは、制服のスカートがゆるくなったときだった。食欲はあった。食べているつもりだった。でも体重は確実に減っていき、疲れやすくなっても、受験勉強のせいだと思うことにした。少し休めば戻る、そう思いながら半年が経った。病院に行ったのは、階段を上るだけで息が切れるようになったからだ。大したことはないだろうと思っていたのに、精密検査になった。結果が出るまでの一週間、私はほとんど普通に過ごした。勉強して、ご飯を食べて、絵を描いた。大したことはない、と信じていた。
診断を受けた日のことは、今でも細かく覚えている。医師が話し始めたとき、最初は言葉の意味がわからなかった。末期、という言葉が出てきて、それから余命、という言葉が出てきて、そこで初めて自分の話をされているのだと気がついた。お母さんが隣で泣いていた。お父さんは「そうか」と一言だけ言った。余命一年、と言われた。
帰り道、夕焼けがきれいだった。バスの窓から空を見ていた。橙と紫が混ざり合っていて、雲の輪郭が金色に光っていた。きれいだな、と思った。死ぬとわかったら、世界がこんなにきれいに見えるんだ、と思った。それから、今まで見過ごしてきたものがどれだけあっただろう、と思って、少し惜しい気持ちになった。
学校には病気のことを伝えた。友人たちは最初、頻繁に連絡をくれた。でも三ヶ月ほど経つと連絡の頻度が落ち、半年経つと、ほとんど来なくなった。責めるつもりはなかった。余命宣告を受けた同級生に、十代の子どもが寄り添い続けるのは難しい。それはわかっていた。ただ、一人になっていく感覚は本物だった。そのとき頼ったのは、絵だった。描いていれば、何かを残せる。自分がここにいたことを、何かに刻みつけられる。余命宣告を受けてから、私は毎日絵を描いた。目に入るものを手当たり次第に描いた。描き終えた絵を眺めながら、これは残る、と思った。私がいなくなっても、この景色は残る。それで十分だと思っていた。
余命一年と言われたのに、三年が経った。主治医には「よく持っている」と言われた。自分でも不思議だったが、描きたいものがまだたくさんあったから、と思うことにしていた。そして三年目の終わり、夏樹と出会う少し前の診察で、改めて余命一ヶ月と告げられた。三年前と同じ部屋で、同じ医師に、今度はより短い数字を告げられた。あのとき隣で泣いていたお母さんは、今回は泣かなかった。かわりに、帰り道ずっと私の手を握っていた。
あの月の写真を観光雑誌で見つけたのは、その診察から間もない頃だった。見開きページいっぱいに広がる月を見た瞬間、描きたい、と思った。理屈ではなく、体の内側から来る感覚だった。だからスケッチブックと画材を持って、毎夜この場所に通い始めた。そして四日目の夜に、夏樹と出逢った。
スケッチブックの最後のページに、走り書きで何かを書いたことを思い出した。いつ書いたか、正確には覚えていない。深夜に目が覚めて、眠れなくて、手が動いていた。見返すと、こう書いてあった。
まだ描きたいものがたくさんある。
それだけだった。その言葉を読みながら、今もそれは変わっていないと思った。描きたいものがたくさんある。でも、時間がない。この矛盾を、三年間ずっと抱えて生きてきた。夏樹を描き終えたら、この矛盾はどこに行くのだろう、と思った。答えは出なかった。
日が傾ききる前に、机に向かった。
引き出しから便箋を出した。「Dear 夏樹」と書いて、長い時間止まった。
何を書くべきかは頭の中にあった。伝えたいことも、言っておかなければならないことも、わかっていた。でも書き始めると、本当に終わりになる気がした。手紙を書き終えたら、夏樹に渡すことになる。渡すということは、私がいなくなることを前提にしている。わかっていたことのはずなのに、ペンを持つと手が固まった。
書き始めた。最初の一行を書いたら、後は続いた。夏樹と過ごした日々のことを書いた。怒ったこと、笑ったこと、泣かせてしまったこと。生まれ変わるという約束のこと。夏樹に生きていてほしいということ。書いていくうちに、手紙が長くなった。書き直したいと思う部分もあったが、書き直す時間が惜しくてそのまま続けた。ペンを持つ手が小刻みに揺れているのが見えた。でも書くことをやめなかった。書き終えるまでは、やめるわけにはいかなかった。
書き終えた。封をして、表に「Dear 夏樹」と書いた。その文字が、小刻みに波を打っていた。
夜になって、スケッチブックを開いた。
昨夜残した最後の一工程だけ、今夜で終わらせる。体は重かったが、筆は動いた。最後の色を乗せながら、この絵に込めてきたものを思い返していた。夏樹を描いた十一日間の夜々。月の光の中で見ていた夏樹の顔。自分が笑っていることを知らないまま笑っていた、あの顔。それが今、紙の上にある。
最後の筆を置いた。
完成した、と思った。声に出さなかった。月の絵が完成したときは思わず声が出たけれど、今夜は静かだった。完成したという達成感と、終わったという感覚が、同時にあった。二枚を並べた。月と、夏樹。私が最後に描いた二枚が、並んでいる。
これを夏樹に渡す。今夜、渡す。
立ち上がろうとして、足元が消えた。
気がついたとき、頬に冷たい床の感触があった。廊下からお母さんの足音が来て、名前を呼ぶ声が近づいてくる。立ち上がろうとしたが、腕に力が入らなかった。夏樹に会いに行かなきゃ、絵を渡さなきゃ、と思いながら、体がまったく言うことを聞かなかった。
和室に寝かされて、天井を見上げた。完成した絵が、部屋の壁に立てかけてある。夏樹にまだ渡せていない。でも完成はした。形にはなった。
お父さんが立ち上がる気配がした。廊下を歩く足音、玄関の扉が開く音。閉まる音が聞こえた後、その意味を理解した。お父さんが夏樹を呼びに行った。行ってくれた。行ってくれたなら、夏樹は来る。その確信だけが、今の私の中にはっきりとあった。
お母さんが何か言っている。声は聞こえるのに、言葉として届かない。意識の端が少しずつ滲んでいくような感覚がある。目を閉じると、完成した絵の中の夏樹が笑っていた。夏樹が一人の夜に、あの顔を見る。それで十分だと思っていた。でも今は、それだけじゃ足りない気がした。絵じゃなくて、声で伝えたかった。夏樹の声が聞きたかった。
そのとき、玄関の扉が激しく開いた。
廊下を走る足音が近づいてきて、和室の引き戸が勢いよく開く。冷たい夜の空気が一気に流れ込んでくる。川のせせらぎと虫の声を含んだその空気が、滲みかけた意識の縁を少し押し戻してくる気がした。
「夏希!」
夏樹の声だった。低くて、真っ直ぐで、余計なものを何も含んでいない声が、和室いっぱいに広がった。その声が耳から体の奥まで届いてきて、糸が引かれるように意識が戻ってくる。滲んでいたものが、輪郭を取り戻していく。喉から声を押し出すと、思っていたより細かったけれど、ちゃんと届いた。
「夏樹?」
重たい瞼を持ち上げると、和室の入口に夏樹が立っていた。息を切らして、こちらを見ていた。隠し方を知らない目が、今夜も全部を映していた。
「さあて、今から夏樹を描き始めるかな」と口にした時、本当にそうするつもりだった。月の絵を描き終えた達成感と疲労感が同居している中で、新しいスケッチブックを開いた。夏樹が「少し休んだら」と言ってくれたけれど、休んでいる時間が惜しかった。私には時間がない。そのことを夏樹に言うと、夏樹の表情が少し曇った。現実に引き戻された、という顔だった。ごめんね、と思いながら、でも言わなかった。
デッサンの段階では、輪郭から入る。髪の生え際、顎の線、眉の角度。それだけ取り出すと、夏樹はどこにでもいそうな十八歳の男の子だった。目元が少し垂れていて、唇が薄くて、全体に力を抜いたような顔をしている。でもそれは骨格の話であって、夏樹が夏樹である理由はそこにはない。
私が本当に描きたいのは表情だった。
鉛筆を持ちながら、しばらく夏樹の顔を見ていた。正面から見たり、少し横から見たり、光の当たり方を変えながら確認していると、夏樹が「そんな見るなよ」と言った。
「見ないと描けない」
「わかってるけど」
「緊張してる?」
「してない」
している顔だった。でも指摘しなかった。緊張している夏樹の顔も私が知っている夏樹の一部ではあったけれど、それを描くつもりはなかった。笑顔を描くというのは最初から決めていた。問題は構図だった。夏樹の笑顔は一種類じゃない。私の話を聞いてふっと力が抜けたような笑い方と、何かを言い返すときの口元だけで笑う感じと、照れているときに視線をそらしながら笑う顔と、全部違う。どれも本物で、どれも夏樹だった。どの笑顔を、どの角度から、どんな光の中で切り取るか。それを決めるために、まず夏樹を見ることが必要だった。紙に鉛筆を走らせながら、ずっと夏樹を見ていた。夏樹は時々居心地が悪そうにしながら、でも逃げなかった。その律儀さも、夏樹らしかった。
その夜は輪郭の下書きだけで終わりにした。鉛筆の線は薄く、夏樹に見せてもほとんど何も描いていないように見えただろうと思う。
帰り際、夏樹が「今日、全然進んでないじゃん」と言った。
「進んでるよ」と答えると、「どこが」と聞くので「ここに」と言って自分の頭を指した。夏樹が「意味わかんない」と笑った。その顔だ、と思ったが、口には出さなかった。夏樹が笑うとき、目が少し細くなって、口角が右の方が少しだけ高く上がる。その非対称さが、作り物じゃない証拠だと思う。愛想笑いは左右対称になる。本当に可笑しいときだけ、人の顔は少し歪む。夏樹の笑顔は、いつも少し歪んでいて、だからいつも本物だった。
翌日の夜、目を描いた。
夏樹の目は、最初に会ったときから気になっていた。普段は伏し目がちで、感情がそこに出てくるまでに少し時間がかかる。でもいったん出てきたら、素直すぎるくらい全部が表れる。怒っているときも、泣きそうなときも、嬉しいときも、夏樹の目は隠し方を知らなかった。施設で育って、感情を外に出す機会がなかったと言っていたのに、目だけはずっと正直だった。感情を殺す練習をしてきたはずなのに、目だけはその練習を拒否し続けてきたみたいだった。そのことが、私にはどうしようもなく愛おしかった。
描きながら、そのことを考えていた。
夏樹は私と話すとき、時々視線が月に逃げる。照れたとき、言い返せないとき、感情が溢れそうになったとき。月を見ることで、少し間を置く。その癖が好きだった。月に頼っていいんだ、と思えた。私も同じだったから。この場所に通い始めたのは、月を描くためだった。でも月を描きながら、いつの間にか月に助けてもらっていた。感情が溢れそうなとき、月を見ると少し落ち着く。夏樹も同じことをしている。二人して月に甘えながら、お互いの隣にいる。そういう夜が、ここには続いていた。
「また月見てる」
声をかけると、夏樹が「綺麗だから」と答えた。
「そうだね」
私も月を見た。二人で並んで同じものを見ている時間が好きだった。絵を描いているときは私が夏樹を見て、夏樹が月を見ている。追いかけっこみたいだと思う。でも不思議と、それでちょうどよかった。どちらかが追いついてしまったら、この距離感は壊れてしまう気がした。今のままでいい。追いかけっこのまま、この夜が続けばいいと思っていた。
三日目の夜、構図が決まった。
どの角度から切り取るかが、ようやく定まった。月は月の絵の中にある。夏樹を描く絵では、夏樹だけを浮かび上がらせる。背景を深い闇にして、光源は左斜め上から差し込む柔らかい白。夏樹が自分の笑顔に気づいていない瞬間を、正面よりわずかに右から捉える。それが答えだった。決まった瞬間、胸の中で何かがはっきりした感じがあった。迷いが消えると、筆が先に動き始める。絵を描いているとときどきそういうことがある。頭より先に手が知っている。
「なんか今日、ずっとじっと見てるね」
夏樹が少し落ち着かない様子で言った。
「構図、決まったから」
「どんな構図」
「秘密。完成してからのお楽しみ」
夏樹が少し膨れた顔をした。その顔も描けそうだな、と思いながら、笑った。膨れた顔の夏樹は、少し子どもみたいで、でもそれも夏樹の本当の顔だった。気を張っていないときの夏樹の顔は、施設でずっと感情を殺してきた人間の顔じゃない。ただの十八歳の顔だ。それを引き出せているなら、この夜々は私にとっても夏樹にとっても、悪くないものだったと思う。
鉛筆を走らせながら、ある感覚を意識するようになっていた。描けば描くほど夏樹という人間が紙の中に定着していくと同時に、何か締め切りのようなものが近づいてくる気がした。描き終えたら、何かが終わる。終わらせたくないような、早く終わらせたいような、矛盾した気持ちが同居していた。
絵を描くことが「残すこと」だと、ずっと思ってきた。景色を残す、記憶を残す、自分が見たものを残す。でも夏樹を描きながら、それだけじゃないかもしれないと感じ始めていた。残すことは、同時に終わらせることでもある。描き終えた瞬間に、その時間は過去になる。月の絵を描き終えたとき、あの夜々が過去になった。夏樹を描き終えたとき、この夜々が過去になる。夏樹を描いている間だけは、まだ今だった。今であり続けるために、私は描いている。そう気づいたとき、鉛筆を持つ手に、いつもより少し力が入った。
四日目の夜、夏樹が「体調悪くない?」と聞いてきた。
「なんで」
「何か今日、顔色が」
「いつもこんな感じだよ」
「そうかな」
そうじゃないかもしれない、と私自身も思っていた。この数日、昼間は横になって過ごすことが多くなっていた。夜になっても完全には回復しないまま出かけることが続いていた。抜け道を歩いている途中で一度立ち止まって、呼吸を整えた。夏樹には見せなかった。見せても何もできないし、心配した夏樹の顔を見ると、手を止めたくなってしまう。手を止めるわけにはいかなかった。夏樹を描き終えるまでは、止まれない。それだけが今の私を動かしていた。
「大丈夫だって」
そう言うと、夏樹はしばらく黙っていた。信じていないのはわかったが、それ以上は聞いてこなかった。その加減が、夏樹らしかった。聞きたいのに聞かない。踏み込みたいのに踏み込まない。それは遠慮ではなくて、相手の領域を尊重しているということだと思う。自分の領域を荒らされてきたから、他人のそれを大切にする。そういう人間だと思った。
五日目の夜、夏樹を描いている途中で手が止まった。
目と口元は決まっていたが、全体としてまだ何かが足りない気がした。紙の上の夏樹は夏樹の形をしていたが、夏樹の重さがなかった。絵にはときどきそういうことがある。パーツは全部揃っているのに、息をしていない絵。技術の問題ではなくて、何かが抜け落ちている。その何かを探すように、しばらく筆を止めて夏樹を見た。夏樹は月を見ていた。横顔に月の光が当たっていて、輪郭がぼんやりと滲んでいた。川のせせらぎが聞こえる。虫の声が聞こえる。夏樹が月を見ながら、何を考えているのかわからないまま、ただそこにいる。
この人を、私は置いていく。
その言葉が、不意に頭の中に浮かんだ。感傷的になるつもりはなかったのに、そう思ったら急に胸が重くなった。夏樹は施設を出て一人になったとき、世界に放り出された気持ちになったと言っていた。誰もいない部屋で、街に出ても誰ともつながれなくて、だから死ぬつもりでここに来た。あの夜の夏樹の声を思い出す。「俺がいてもいなくても世界って変わらないんだろうなって何か悟った」と言った声を。あの言葉を聞いたとき、私は怒りに近い何かを感じた。そんなことはない、と思った。あなたがいなくなったら変わるものがある、と思った。でもその時点では、私自身がその「変わるもの」の一部になるとは思っていなかった。
私が死んだら、また同じことになる。
それが嫌だった。心配とか申し訳ないとか、そういう言葉では少し足りなくて、ただ純粋に、嫌だった。この人が一人で夜を過ごすことが、私には耐えられなかった。絵を描くことで景色を残してきた。でも今、私が残したいのは夏樹に関わる何かだ。夏樹がここにいたという記録ではなくて、夏樹がここで笑っていたという事実を、形にしたかった。それが誰かに届かなくてもいい。夏樹が一人の夜に、この絵を見て、あの夜を思い出せればいい。それだけで十分だと思った。
筆を取り直した。私が描きたいのは、夏樹が自分でも気づかないうちに笑っている、あの顔だ。月を見ていたり、言い返せなくて照れていたり、おにぎりを食べながら「美味しい」と言ったときの、あの顔。自分が笑っていることを知らないまま笑っている顔を、描きたかった。それを描くことが、この絵に息を吹き込むことになる、という確信があった。筆を動かしながら、ようやくわかった気がした。足りなかったのは技術じゃない。私がこの絵に込めようとしているものの正体を、私自身が掴めていなかっただけだった。
六日目の夜、デッサンがほぼ終わった。
夏樹が完成した輪郭を見て「これ俺?」と言った。
「そう」と答えると、しばらく黙って絵を見ていた。自分の顔を絵の中に見つけた人間の、不思議そうな顔をしていた。鏡で見る自分と、他人から見られる自分は違う。絵に描かれた自分は、他人から見た自分に近い。夏樹は今、私が見ている夏樹を見ている。
「俺……こんな顔してる?」
「してるよ」
「してる自覚が全然ない」
「だからいいんだよ」
夏樹が「意味わかんない」とまた言ったが、否定はしなかった。絵の中の自分をしばらく見て、それから月を見て、また絵を見た。その横顔を、目に焼きつけた。夏樹は自分の顔を見ながら、何を思っているのだろうと考えた。施設で育って、自分という存在を誰かの目を通して確認する機会がなかった人間が、初めて他人の目に映る自分を見ている。その顔が、どこか戸惑いながらも、悪くなさそうだと思っているように見えた。それで十分だった。
七日目の夜から色を塗り始めた。
色塗りはデッサンより好きだ。鉛筆の線は迷いを残すが、色は決断だ。一度塗ったら戻れない。その緊張感が、絵を生きているものにしていく気がする。失敗できないということが、集中を研ぎ澄ます。余命宣告を受けてから、毎日がそういう感じになった。失敗できない、やり直せない、だから一度で全力を尽くす。絵を描くことと、生きることが、同じ緊張感を持つようになった。
夏樹の肌の色から始めた。月の光の中で見る夏樹の肌は、少し青みがかった白さがあって、でも温度は冷たくない。その矛盾をどう紙に乗せるか、何度か試し塗りをしてから本番の筆を走らせた。最初の一刷けが紙に乗った瞬間、これだ、と思った。こういう瞬間が好きだ。迷っていたものが、筆の先でひとつの答えになる瞬間。
「集中してるね」
「そりゃそうだよ」
「邪魔してごめん」
「邪魔じゃないけど、喋りかけてくるなら返事はゆっくりになるよ」
夏樹が「了解」と言って黙った。その素直さが、好きだった。邪魔だと言ったわけでも、黙れと言ったわけでもないのに、夏樹はちゃんと意図を汲んで黙る。言葉の表面だけじゃなくて、その奥にあるものを読もうとする。それは施設で身につけたものなのかもしれないけれど、今の私にはありがたかった。
夏樹が黙ってから、この場所は静かになった。川のせせらぎと虫の声だけが続いている。私は筆を動かしながら、この静けさを体の中に入れるように息をした。今夜の空気が、絵の中に入っていく気がした。夏樹の肌に色が乗り、その色の中に今夜の月の光が宿っていく。絵を描くということは、その瞬間の空気を紙に塗り込めることだ、とずっと思ってきた。だとすれば、この絵には夏樹と過ごしたこの夜々の空気が、全部入っているはずだった。
八日目の夜、夏樹が「筆って細いところから塗るの、それとも広いところから?」と聞いてきた。筆を止めずに「人による」と答えると、「夏希は?」と続けるので「広いところから。細かいところは後から足せるけど、広い面で失敗すると全部やり直しになるから」と言った。夏樹がしばらく黙ってから「そういうもんなんだ」と呟いた。何かを考えているような声だったが、何を考えているかは聞かなかった。
夜が深くなるにつれて、二人の間に静けさが増していく。黙っていても、夏樹がそこにいることがわかる。気配というよりも体温に近い何かが、隣から伝わってくる。その感覚に、いつの間にか慣れてしまっていた。慣れてはいけないのに、と思いながら、どうしても慣れた。慣れることは依存することで、依存することは離れたときに壊れることだ。それはわかっていた。でも慣れずにいることができなかった。夏樹が隣にいることが、もう当たり前になっていた。当たり前になってしまったものを失うことが、どれほど痛いかも、わかっていた。それでも、慣れることをやめられなかった。
九日目の夜、少し早くこの場所を離れた。
筆を動かしながら、視界が少し滲む感覚があった。疲れているのか、体調が崩れているのか、自分でも正確にはわからなかった。ただ、今夜は早めに切り上げた方がいいという判断だけは、はっきりとあった。
「もう帰るの?」と夏樹が言うので「今日は体が重くて」と答えると、夏樹はすぐに立ち上がって手を差し伸べてくれた。断る言葉が出てこなかった。夏樹に支えてもらいながら梯子を降りた。骨張っていて、少し固い手だった。施設で育って、一人で何でもやってきたんだろうな、と思った。この手で、ずっと一人でいろんなものを掴んで離してきたんだろうと思うと、胸の奥が少し締まった。
抜け道に入ったところで夏樹が「ちゃんと眠れてる?」と聞いてきた。
「眠れてる」
「本当に?」
「疑うの?」
「疑う」
笑えてきた。夏樹はそういうふうに、さらっと本音を出す。こちらが「眠れてる」と言えば普通は「そうか」と引くのに、夏樹は「疑う」と言う。信じないという選択肢を、迷わず選ぶ。それは相手を信用していないということじゃなくて、相手の言葉より相手そのものを見ているということだと思った。言葉より顔を信じる。そういう人間だった。
「眠れてるよ。ただ、朝起きると体が重いことが増えてきた」
「病院には行ってる?」
「定期的に行ってる」
「何か言われた?」
「特には」
それは本当だった。先週の診察で、主治医は数値の話をして、次の予約を入れて、それだけだった。三年前の宣告からよく持っている、とは言われた。でも何もよくなってもいない。緩やかに消耗し続けているという感覚は、日に日に確かになっていた。
「言いたくないなら言わなくていいけど」と夏樹が言うので、「聞きたいの?」と聞き返すと、「聞きたい。でも無理には聞きたくない」と返ってきた。また笑えてきた。この人は本当に正直だ。聞きたいとも言う、でも強制はしないとも言う。その両方を同時に口にする。どちらかだけを言う方がずっと楽なのに、両方を言うから、こちらは選べる。それが夏樹の優しさの形だった。
「また今度話す」
「わかった」
家の前まで来たところで夏樹と別れた。
「おやすみ」と言い合って、振り返ると、夏樹がまだそこに立っていた。私が家に入るまで見ていた。それが毎晩の習慣になっていた。振り返れば夏樹がいる。その当たり前が、どれほど重いものかを、私は知っていた。知っていたから、振り返るたびに少し胸が痛かった。でも振り返ることをやめられなかった。
部屋に戻って布団に入ると、天井を見ながらしばらく考えた。
この人を一人にしたくない。
それだけが、くっきりとした輪郭を持って、胸の中にあった。どうすることもできないのに、その気持ちだけはくっきりとある。どうにもできないことをくっきりと感じることが、一番しんどいのかもしれない。でも感じることをやめようとは思わなかった。感じなくなったら、それはもう終わりだと思ったから。
十日目の夜、色塗りが大きく進んだ。
調子のいい夜だった。筆が迷わない。色が素直に乗る。こういう夜は、描いていて体が軽くなる気がする。実際には軽くなんてなっていないのに、絵の中に力が流れ込んでいくような感覚がある。体の重さが絵の方に吸い取られていくような感じで、描けば描くほど筆が滑らかになる。こういう夜が来ることを、私はいつも待っている。来るかどうかはわからない。でも来たとき、その夜を全力で使う。
夏樹の輪郭に光が宿り始めていた。背景の闇も、ちょうどいい深さになってきた。絵の中の夏樹が、少しずつ立体になっていく。紙の上の平面が、奥行きを持ち始める瞬間が好きだ。その瞬間に、絵が絵じゃなくなる。ただの色の集まりが、そこに誰かがいるという事実になる。
「結構進んでるね」
夏樹が横から覗き込んで言った。いつもより近い距離で絵を見ていた。夏樹の顔が絵の中の夏樹の顔の横に並んで、私はその両方を交互に見ていた。似ている、と思った。でも本物の方が、少し温かかった。当たり前のことだけれど、絵の中の夏樹には温度がない。あるのは温度の記憶だけだ。
「今日は調子いい。もしかしたら明日、完成するかも」
そう言うと、夏樹の表情が少し動いた。嬉しいような、寂しいような、どちらとも言えない顔だった。私はその顔を見て、夏樹も気づいているのだと思った。絵が完成したら、夜々が終わる。ここに通う理由がなくなる。そのことを、夏樹はちゃんとわかっていた。わかっていて、でも何も言わなかった。ただその顔をして、また月の方を見た。
「……完成したら見せて」
「当たり前じゃん」
夏樹が頷いて、また月の方を向いた。私も絵に戻った。調子のいい夜が続いていたが、あと一工程だけ残すところで筆を置いた。急ぎたくなかった。最後の色を、もう一夜だけ待ちたかった。夏樹が「今日で終わりじゃないの?」と聞いてきたので、「最後だけ明日にする」と答えた。「なんで」と聞くので、「気分」とだけ言った。夏樹は「そっか」と言って、それ以上は聞かなかった。
帰り道、夏樹と並んで抜け道を歩きながら、明日この絵が完成するということを考えていた。完成したら、夏樹に渡す。夏樹が持って帰る。私がいなくなった後も、その絵は夏樹の部屋にある。夏樹が月を見たいとき、ここに来られないとき、この絵を見れば今夜の月がそこにある。この夜が、形として残る。それで十分だと思った。十分だと思いながら、でも胸の奥に、まだ足りないという感覚があった。何が足りないのかは、言葉にできなかった。ただ、足りなかった。
翌日の午後、体を起こそうとして、うまくいかなかった。
昨夜の帰り道から、足が重かった。それを夏樹には言わなかった。今夜完成する。夏樹に見せる。それだけを考えていた。でも今日は、布団から出ることができなかった。起き上がろうとするたびに、体の芯から力が抜ける感じがして、そのまま横になり続けた。窓の外は明るく、風が木の葉を揺らす音が聞こえていた。それだけが普通で、自分の体だけが普通じゃなかった。
天井を見ていると、お母さんが昼食を持って入ってきた。お盆にお粥と梅干しと、薄く切った漬物。最近は私の体調に合わせた献立を、黙って用意してくれていた。いつから気がついていたのだろう、と思う。お母さんはいつも、言葉より先に動く。気がついたら用意されていて、気がついたらそばにいる。そういう人だった。
「食べられそう?」
「食べる」
起き上がろうとすると、お母さんが背中を支えてくれた。壁に背をもたれて、お盆を膝に乗せた。お粥を一口食べると、胃に沁みるような温かさがあった。梅干しの酸っぱさが、意識をはっきりさせる気がした。食べながら、今夜行けるだろうかということを考えていた。行けなければ、夏樹は今夜あの場所に来て、私がいないことに気づく。そのことが、お粥の温かさより先に胸に来た。
お母さんが部屋の隅に座って、縫い物をし始めた。昔からそうだった。そばにいたいけれど、見張っているとは思われたくないとき、お母さんはいつも手を動かしていた。針と糸の小さな音が静かに続く。私はお粥を少しずつ食べながら、その音を聞いていた。この音を聞きながら育ってきた、と思った。子どもの頃、熱を出して寝ていると、お母さんがいつも部屋の隅で縫い物をしていた。気がつくといる。声をかければ来る。それが当たり前だったから、当たり前じゃなくなるまで気づかなかった。
「お母さん」
「何?」
「昔みたいに、一緒に寝てもいい?」
口から出てから、自分でも驚いた。そんなことを言うつもりはなかった。お母さんが縫い物を置いて、布団の横に来た。横になった私の隣に、静かに体を横たえた。お母さんの重さが布団を少し沈める。その沈み方が、子どもの頃と変わらなかった。
天井を並んで見ていた。しばらくして、お母さんの手が私の手に重なった。それだけだった。何も言わなかった。私も何も言わなかった。手の温かさだけが伝わってくる。お母さんの手は、昔より少し骨張っていた。私が病気になってから、お母さんも少し痩せた。そのことに、今更気がついた。
病気がわかった夜のことを思い出した。病院から帰って、夕飯を食べて、お父さんが「早く寝ろ」とだけ言って自分の部屋に入った。お母さんは片付けをしていたが、私が部屋に戻ろうとしたとき、後ろから名前を呼んだ。振り返ると、お母さんが流しの前に立ったまま、こちらを見ていた。何も言わなかった。ただ見ていた。その目が、今日見てきた中で一番怖いものを見ている目だったから、私はそのまま自分の部屋に入った。廊下に出て扉を閉めてから、台所の方でお母さんが泣く声がした。声を殺して泣いていた。私はその声が消えるまで、扉の前で立っていた。
あの夜から、お母さんは私の前で一度も泣かなかった。いつも笑っていて、いつも「大丈夫」と言っていた。その「大丈夫」が本当じゃないことは、私にもわかっていた。わかっていて、私も「大丈夫」と言い続けた。お互いが「大丈夫」を言い合って、お互いが「大丈夫じゃない」ことを知っていた。それが、この三年間の私たちの会話だった。
「お母さん」
「何」
「病気になってから、一度も泣かなかったね」
しばらく間があった。お母さんの手が、私の手をわずかに強く握った。
「泣いてるよ」
静かな声だった。
「夏希が寝てから」
私は何も言えなかった。お母さんも何も言わなかった。天井を並んで見ていた。手の温かさだけが続いていた。知っていた。ずっと知っていた。知っていて、声に出して確かめることから逃げてきた。確かめてしまったら、この人の前で気丈でいられなくなる気がしていたから。でも今は、声に出してよかったと思った。
しばらくして、お母さんが小さく「夏希」と呼んだ。
「何」
「今、幸せ?」
少し考えた。怖いし、悔しいし、惜しいと思うことはたくさんある。でも今、幸せかどうかと聞かれれば。
「うん」
嘘じゃなかった。お母さんの手が温かくて、夜になれば夏樹に会える。絵がもうすぐ完成する。それで十分だった。
「よかった」
お母さんが静かに言った。その声が少しかすれていたが、私は気づかないふりをした。
しばらくして、お母さんが静かに起き上がった。縫い物を持って部屋を出ていく前に、布団をそっと直してくれた。扉が閉まる音がして、部屋がまた静かになった。まだ体が重いまま、クローゼットの奥からスケッチブックを引っ張り出した。
一番古いのは中学一年のときに買ったものだった。表紙が日焼けして、角が擦り切れている。最初のページを開くと、川べりのスケッチがあった。小学生のころ、夏になるとお父さんとよくここで泳いだ。足がつかない深さになると抱き上げてもらった、あの川べりだ。十二歳のときに初めて絵に描いた。うまくはなかった。水の流れが硬くて、木の葉が記号みたいだったけれど、お父さんが「本物みたいだ」と言ってくれた。
病気がわかってから描いた絵を、順番に見ていった。川べりの景色、路地、台所の窓から見える空、両親の後ろ姿、夕焼け、雨粒のついた窓ガラス。そして月。最後の一枚だけ、まだ完成していない。今夜、完成させる。
スケッチブックをめくりながら、三年間のことを思い返していた。
最初に異変を感じたのは、制服のスカートがゆるくなったときだった。食欲はあった。食べているつもりだった。でも体重は確実に減っていき、疲れやすくなっても、受験勉強のせいだと思うことにした。少し休めば戻る、そう思いながら半年が経った。病院に行ったのは、階段を上るだけで息が切れるようになったからだ。大したことはないだろうと思っていたのに、精密検査になった。結果が出るまでの一週間、私はほとんど普通に過ごした。勉強して、ご飯を食べて、絵を描いた。大したことはない、と信じていた。
診断を受けた日のことは、今でも細かく覚えている。医師が話し始めたとき、最初は言葉の意味がわからなかった。末期、という言葉が出てきて、それから余命、という言葉が出てきて、そこで初めて自分の話をされているのだと気がついた。お母さんが隣で泣いていた。お父さんは「そうか」と一言だけ言った。余命一年、と言われた。
帰り道、夕焼けがきれいだった。バスの窓から空を見ていた。橙と紫が混ざり合っていて、雲の輪郭が金色に光っていた。きれいだな、と思った。死ぬとわかったら、世界がこんなにきれいに見えるんだ、と思った。それから、今まで見過ごしてきたものがどれだけあっただろう、と思って、少し惜しい気持ちになった。
学校には病気のことを伝えた。友人たちは最初、頻繁に連絡をくれた。でも三ヶ月ほど経つと連絡の頻度が落ち、半年経つと、ほとんど来なくなった。責めるつもりはなかった。余命宣告を受けた同級生に、十代の子どもが寄り添い続けるのは難しい。それはわかっていた。ただ、一人になっていく感覚は本物だった。そのとき頼ったのは、絵だった。描いていれば、何かを残せる。自分がここにいたことを、何かに刻みつけられる。余命宣告を受けてから、私は毎日絵を描いた。目に入るものを手当たり次第に描いた。描き終えた絵を眺めながら、これは残る、と思った。私がいなくなっても、この景色は残る。それで十分だと思っていた。
余命一年と言われたのに、三年が経った。主治医には「よく持っている」と言われた。自分でも不思議だったが、描きたいものがまだたくさんあったから、と思うことにしていた。そして三年目の終わり、夏樹と出会う少し前の診察で、改めて余命一ヶ月と告げられた。三年前と同じ部屋で、同じ医師に、今度はより短い数字を告げられた。あのとき隣で泣いていたお母さんは、今回は泣かなかった。かわりに、帰り道ずっと私の手を握っていた。
あの月の写真を観光雑誌で見つけたのは、その診察から間もない頃だった。見開きページいっぱいに広がる月を見た瞬間、描きたい、と思った。理屈ではなく、体の内側から来る感覚だった。だからスケッチブックと画材を持って、毎夜この場所に通い始めた。そして四日目の夜に、夏樹と出逢った。
スケッチブックの最後のページに、走り書きで何かを書いたことを思い出した。いつ書いたか、正確には覚えていない。深夜に目が覚めて、眠れなくて、手が動いていた。見返すと、こう書いてあった。
まだ描きたいものがたくさんある。
それだけだった。その言葉を読みながら、今もそれは変わっていないと思った。描きたいものがたくさんある。でも、時間がない。この矛盾を、三年間ずっと抱えて生きてきた。夏樹を描き終えたら、この矛盾はどこに行くのだろう、と思った。答えは出なかった。
日が傾ききる前に、机に向かった。
引き出しから便箋を出した。「Dear 夏樹」と書いて、長い時間止まった。
何を書くべきかは頭の中にあった。伝えたいことも、言っておかなければならないことも、わかっていた。でも書き始めると、本当に終わりになる気がした。手紙を書き終えたら、夏樹に渡すことになる。渡すということは、私がいなくなることを前提にしている。わかっていたことのはずなのに、ペンを持つと手が固まった。
書き始めた。最初の一行を書いたら、後は続いた。夏樹と過ごした日々のことを書いた。怒ったこと、笑ったこと、泣かせてしまったこと。生まれ変わるという約束のこと。夏樹に生きていてほしいということ。書いていくうちに、手紙が長くなった。書き直したいと思う部分もあったが、書き直す時間が惜しくてそのまま続けた。ペンを持つ手が小刻みに揺れているのが見えた。でも書くことをやめなかった。書き終えるまでは、やめるわけにはいかなかった。
書き終えた。封をして、表に「Dear 夏樹」と書いた。その文字が、小刻みに波を打っていた。
夜になって、スケッチブックを開いた。
昨夜残した最後の一工程だけ、今夜で終わらせる。体は重かったが、筆は動いた。最後の色を乗せながら、この絵に込めてきたものを思い返していた。夏樹を描いた十一日間の夜々。月の光の中で見ていた夏樹の顔。自分が笑っていることを知らないまま笑っていた、あの顔。それが今、紙の上にある。
最後の筆を置いた。
完成した、と思った。声に出さなかった。月の絵が完成したときは思わず声が出たけれど、今夜は静かだった。完成したという達成感と、終わったという感覚が、同時にあった。二枚を並べた。月と、夏樹。私が最後に描いた二枚が、並んでいる。
これを夏樹に渡す。今夜、渡す。
立ち上がろうとして、足元が消えた。
気がついたとき、頬に冷たい床の感触があった。廊下からお母さんの足音が来て、名前を呼ぶ声が近づいてくる。立ち上がろうとしたが、腕に力が入らなかった。夏樹に会いに行かなきゃ、絵を渡さなきゃ、と思いながら、体がまったく言うことを聞かなかった。
和室に寝かされて、天井を見上げた。完成した絵が、部屋の壁に立てかけてある。夏樹にまだ渡せていない。でも完成はした。形にはなった。
お父さんが立ち上がる気配がした。廊下を歩く足音、玄関の扉が開く音。閉まる音が聞こえた後、その意味を理解した。お父さんが夏樹を呼びに行った。行ってくれた。行ってくれたなら、夏樹は来る。その確信だけが、今の私の中にはっきりとあった。
お母さんが何か言っている。声は聞こえるのに、言葉として届かない。意識の端が少しずつ滲んでいくような感覚がある。目を閉じると、完成した絵の中の夏樹が笑っていた。夏樹が一人の夜に、あの顔を見る。それで十分だと思っていた。でも今は、それだけじゃ足りない気がした。絵じゃなくて、声で伝えたかった。夏樹の声が聞きたかった。
そのとき、玄関の扉が激しく開いた。
廊下を走る足音が近づいてきて、和室の引き戸が勢いよく開く。冷たい夜の空気が一気に流れ込んでくる。川のせせらぎと虫の声を含んだその空気が、滲みかけた意識の縁を少し押し戻してくる気がした。
「夏希!」
夏樹の声だった。低くて、真っ直ぐで、余計なものを何も含んでいない声が、和室いっぱいに広がった。その声が耳から体の奥まで届いてきて、糸が引かれるように意識が戻ってくる。滲んでいたものが、輪郭を取り戻していく。喉から声を押し出すと、思っていたより細かったけれど、ちゃんと届いた。
「夏樹?」
重たい瞼を持ち上げると、和室の入口に夏樹が立っていた。息を切らして、こちらを見ていた。隠し方を知らない目が、今夜も全部を映していた。


