夏希と別れてから、時間の流れ方が変わった。
施設を出て一人暮らしを始めた日から、時間というのは消費するものだと思っていた。起きて、食べて、眠る。その繰り返しをいくつ重ねれば人生が終わるのかを漠然と数えながら過ごしてきた。でも昨夜から今朝にかけて、僕は時間が過ぎることを惜しんでいた。そして今は早く夜にならないかと思っている。この感覚が何なのか、言葉にする語彙を持っていないが、知っていることが一つある。夏希に会いたい。その一点だけが、今日の僕を動かしていた。
帰宅してしばらく眠り、目が覚めると夕方だった。窓の外の空が橙色に染まっているのを見て、僕は初めて夕焼けを綺麗だと思った。昨日までは夕焼けなど見ていなかった。存在していたはずなのに、僕の目には映っていなかった。夏希のせいだ。昨夜から、僕の目は外側に向くようになってしまった。自分の内側に向き続けてきた目が、急に方向を変えた。世界がこんなに色を持っていたことを、十八年かけてようやく知った。
適当なものを食べて、映画を観て時間を潰した。高校生の純愛を描いた今話題の作品だったが、やたらとチープに感じられた。それなりによく作られていたし、男女の機微をリアルに描こうとしていることはわかる。でも本当にリアルなのは、今の僕たちの方だ。死のうとした男と、死を告げられた女が月の下で出逢う。そんな話、どんな脚本家も書けない。少し誇らしい気持ちで、僕は部屋を出た。
電車に乗り、あの場所の最寄り駅に辿り着くと、夏希が教えてくれた抜け道に向かって歩いた。記憶を頼りに十分ほど進むと、昨夜と同じ月が出ていて、昨夜と同じ川のせせらぎが聞こえ、コンクリートの置物だけが変わらずそこにあった。梯子を上ると、夏希は既にスケッチブックにペンを走らせていた。デッサンの続きだろう。集中している横顔は真剣で、僕が来たことに気づいていない。
しばらく夏希の横顔を眺めながら、昨夜の自分が死を目的にここに来たということを、少し遠い出来事のように思い始めていた。一晩でこんなに変わるものか。いや、変わったのではなく、変わらされたのだ。夏希に。自分の意志で変わったのならまだわかるが、夏希はただそこにいて、ただ話しかけてきただけだ。それだけで、僕の中の何かが動いた。どれだけ分厚い壁を作っても、夏希にはそれが最初から見えていないみたいだった。壁があることを知らない人間は、壁を気にせずに踏み込んでくる。そういうことなのかもしれない。
ひとしきりペンを動かしたところで夏希が手を止めた。声をかけると、少しむくれた顔が返ってきた。
「遅い」
「十分前には来てたよ。夏希が集中してたから手が止まるの待ってた」
「そんなの気にしなくていいのに」
それでもまだむくれているので、昨夜夏希にされたことをそのままやり返した。頭に手を伸ばして、撫でる。夏希が「はあ? 何してんの?」と顔を上げた。
「拗ねてたから」
「拗ねてないし」
口調とは裏腹に、怒った様子ではなかった。むしろ少し可笑しそうな気配がある。
「昨夜は私の胸でわんわん泣いてたくせに、えらくなったもんだね」と夏希が意地悪な顔で言った。
途端に恥ずかしくなって、視線を空に逃がした。今日も月が綺麗だ。昨夜と同じ月のはずなのに、今夜はより大きく見える気がした。それとも、僕の目が変わったのかもしれない。
「また月で誤魔化す」
「誤魔化してない。本当に綺麗だから」
「確かに綺麗だけどね」
夏希も空を見上げた。二人して月を見上げた後、お互いの顔を見て笑う。夕方に観た映画の男女よりも、僕たちの方がずっとリアルだという確信が改めて湧いてくる。
「ねえ、ちゃんとご飯食べてる?」
夏希が不意に聞いた。月から僕に視線を移して、少し真剣な顔をしている。
「食べてるよ」
「嘘っぽい顔してる」
顔のどこを見てそう思ったのかわからないが、否定するのも変なので話すことにした。
「施設では毎食みんなで食べていたけれど、今は一人だから慣れない」と言うと、夏希は頷いてから少し間を置いた。
「じゃあ明日おにぎり持ってきてあげる」と言った夏希に「え、いいよ」と返すと、「よくない、食べなさい」と有無を言わせない口調が返ってきた。
「わかった」と答えると、その言葉が自分の口から出るのがやけに自然で、少し驚いた。施設にいた頃、誰かに何かを言われて素直にわかった、と答えたことがあったかどうか、思い出せない。夏希の前だと、いつの間にかそれができるようになっている。壁を作る前に言葉が出てしまう。そのことが不思議で、でも不快ではなかった。
翌日、夏希は本当におにぎりを二個持ってきた。
コンクリートの置物の上に二人並んで座り、月の下でおにぎりを食べた。夏希が握ってくれた塩むすびで、海苔の香りが夜の空気と混ざるような気がした。手のひらにのる重さが、誰かに作ってもらったものだということを伝えてくる。それだけのことが、胸に響いた。
「美味しかったでしょ」
食べ終わった後に夏希が言った。
「うん」
「素直でよろしい」
少し得意そうな顔をした夏希を見ながら、施設でも毎食誰かと一緒に食卓を囲んでいたのに、あれとこれは全然違うものだ、と思っていた。施設の食事は「みんながいる食卓」で、夏希と過ごすこの時間は「夏希と囲みたい食卓」だ。そこにいるから意味が生まれる、という感覚を、十八年生きてきて初めて知った気がした。これから毎日夏希と月の下でおにぎりを食べて生きていくのも悪くないな、と思った。そんなことを本気で考えている自分が、二日前の自分とは別人のようだった。あの夜、リュックにロープを入れてここに来た男が、翌々日に月の下でおにぎりを食べながら明日のことを考えている。
二個目のおにぎりを食べ終えたところで、夏希が「ねえ」と声をかけてきた。
「昨日さ、一人でご飯食べるの慣れないって言ってたじゃん。施設では毎日みんなで食べてたわけでしょ。それって孤独じゃなかったの?」
少し考えた。みんなで食べることと、孤独でないことは、同じではない気がした。
「みんなで食べてたけど、誰かと食べてたわけじゃなかったから。場所が一緒なだけで」
「うん」
「夏希と食べるのは違う。場所が同じじゃなくて、一緒に食べてる感じがする」
言ってから照れて、おにぎりの包みに視線を落とした。夏希がしばらく黙っていたので顔を上げると、夏希は笑ってもいなければ揶揄ってもいなくて、ただ静かな顔で月を見ていた。
「よかった」
夏希が小さく言った。それだけだった。でもその一言が、さっき食べたおにぎりより温かかった。空に向けられた夏希の横顔を見ながら、この人はどうしてこんなに真っ直ぐに言葉を届けてくれるのだろう、と思った。装飾がない。計算がない。思ったことがそのまま声になる。施設の大人たちがくれた言葉とは、根本的に質が違う。あの人たちの言葉は、いつも自分のために整えられていた。傷つけないように、角が立たないように、後で面倒にならないように。そういう配慮の跡が透けて見える言葉だった。夏希の言葉にはそれがない。ただそこにある。
四日目の夜から、夏希の作業がペンから筆に変わった。
「デッサン終わったの?」
「大体ね。あとは色を付けるだけ」
夏希の言う「あとは色を付けるだけ」がどれほどの工程なのか、素人の僕にはわからなかったが、筆を動かす夏希の表情はペンのときよりもさらに真剣で、近づきがたい集中の層を纏っていた。邪魔をするのが悪い気がして、しばらく黙って月を見上げていた。
誰かの隣にいる、という状態がこれほど自然に感じられたことはなかった。何かをしなくていい、気の利いたことを言わなくていい、ただそこにいるだけでいいという感覚の新鮮さを、月を見ながら静かに味わっていた。自分が透明人間のようだと思って生きてきた。誰かの隣にいても、いないも同然だった。でも夏希の隣では、ちゃんとそこにいる手応えがある。夏希が時々こちらに視線を向けて、また絵に戻る。その繰り返しが、僕がここにいることを確かめてくれているようだった。
夏希が筆を止めて、「夏樹ってさ、なんで絵を描くのって聞かないんだね」と言った。
「聞いていいの?」
「聞いてもいいよ」
「じゃあ、なんで描くの?」
夏希がほんの少し筆を置いて、空を見上げた。月明かりが夏希の横顔を柔らかく照らしていて、その輪郭が夜の景色に溶け込みそうだった。
「見た景色を残したいから。私が死んでも、その景色が残るように」
さらりと「私が死んでも」と言う夏希の声には、諦観も悲嘆も滲んでいなかった。ただ事実として口にしている。そのことに胸を突かれるような気持ちになりながらも、言葉の中身をそのまま受け取ろうとした。
「じゃあ夏希の絵の中では、時間が止まるんだ」
自分でも気づかないうちに、そう口から出ていた。夏希が筆を完全に止め、驚いたような顔でこちらを見た。
「……そういうことか。夏樹ってたまに詩人みたいなこと言うね」
夏希が笑う。揶揄うようでいて、どこか本当に驚いているようでもあった。
「そういうことか」という言葉の響きが気になって、もう少し聞きたかったが、夏希はもう筆を動かし始めていたのでそのままにした。
月明かりの中で筆を動かす夏希の横顔を、しばらく黙って眺めていた。夏希が死んでも、絵の中の景色は残る。夏希はそう言った。だとしたら夏希の絵の中では時間が止まる。夏希がいなくなった後も、絵の中の月は今夜と同じ光を放ち続ける。そのことが今夜初めて、慰めではなく恐怖として胸に触れた。絵が残るということは、夏希がいなくなることを前提にしている。わかっていたことのはずなのに、言葉にされると重さが違った。夏希の隣に座りながら、その重さをただ黙って抱えていた。川のせせらぎが聞こえる。虫の声が聞こえる。夏希の筆が動いている。それだけのことが、今夜はやけに愛おしく感じられた。
五日目の夜、夏希が「今日ね、お父さんが泣いてたよ」と言った。
絵を描きながら、独り言のように言った。何も言えなくて、ただ夏希の横顔を見ていた。
「朝ごはんの時にね、急に黙り込んで。声かけたら、ごめんなって言って。それだけ」
「……それだけ?」
「それだけ。でも泣いてた。お父さんが泣くの、初めて見たんだよね」
夏希の筆は止まらなかった。落ち着いた声で話し続けているが、その落ち着きは感情がないということではないと思った。感情を持ちながら、それと向き合い続けてきた人間の落ち着きだ。
「夏希はそれ見て、どう思った?」
「まだ生きていたいって思った。でも同時に、もう泣かせたくないとも思った」
相反する二つが同時にある、と夏希は言った。どちらかを選べるものではなくて、両方を抱えたまま毎日を生きているのだと、その声から伝わってきた。僕は自分の孤独と夏希の孤独が、全然違うものだということを改めて思った。誰にも必要とされていないと思って死のうとした僕と、必要とされているからこそ死ぬことの重さを背負っている夏希。どちらが辛いかなんて比べられないし、比べることに意味もない。ただ、夏希の抱えているものの重さが、少しだけ輪郭を持って伝わってきた。
「夏希、毎日ここに来るのしんどくない?」
「しんどくない。ここに来ると、お父さんのことも考えなくていいから」
夏希が少し笑った。諦めでも開き直りでもなく、ただ正直に言っているだけの顔だった。
「俺も、ここに来ると何も考えなくていい気がする」
「でしょ。この場所、そういう場所なんだよ」
月が川面に映っている。川のせせらぎが聞こえる。夏希の言う通りだと思った。この場所は、二人にとって何かから切り離された場所だ。夏希にとっては病気と家族の悲しみから、僕にとっては孤独と死への傾きから。ここにいる間だけ、そういうものが薄くなる。薄くなるだけで消えるわけではないが、それで十分だと思った。消えなくていい。ただ薄くなってくれれば、今夜をここにいられる。
六日目の夜は雨だった。
部屋の窓から外を眺めて、夏希のことを考えていた。今夜は行けない。それだけで、部屋がいつもよりずっと狭く感じた。夏希と会えない夜の長さは、会える夜の長さとは全然違う。同じ二十四時間のはずなのに、消費するだけの時間に逆戻りしたみたいだった。壁を見て、天井を見て、また窓を見た。雨が窓ガラスを叩いている。
そう思っていたところに、携帯が鳴った。夏希からだった。
「今日、雨だね」
開口一番にそう言った夏希の声は、電話越しでも変わらず鋭く、でも穏やかだった。
「うん。行けなくてごめん」
「謝ることじゃないでしょ。私も行けてないんだから」
それもそうだと思いながら、何か言いたくて言葉を探していると、夏希が先に口を開いた。
「今どこにいるの?」
「部屋」
「窓から外、見える? 空、見てみて」
言われた通りに空を見上げた。雨雲が分厚く広がっていて、月はどこにも見えない。見えないと伝えると、夏希が「私も見えない。でも絶対にそこにあるんだよね」と言った。
夏希の言い方は確信に満ちていて、でも押しつけがましくはなかった。見えなくても、そこにある。その事実を、夏希はただ穏やかに述べているだけだった。
「そうだね」と返しながら、夏希自身のことを言っているのかもしれないとぼんやり思ったが、言葉にはしなかった。
しばらく他愛のない話をして、電話が終わった。四方を壁に囲まれた部屋が、さっきまでとは少し違って感じられた。夏希の声があれば、部屋が部屋じゃなくなる。ただの四角い空間ではなくなって、夏希のいる夜と地続きになる。そんな感じがした。雨音が同じように続いているのに、その音の聞こえ方まで変わっていた。夏希の声一つで世界の質が変わる。そのことに、今更ながら驚いていた。電話を切った後もしばらく、携帯を手に持ったまま窓の外の雨を見ていた。月は見えない。でも絶対にそこにある、と夏希は言った。夏希も今、同じ空の下で同じ雨を聞いている。そう思うと、部屋の狭さが少しだけ変わった。
七日目の夜も雨だった。でも六日目の夜より、明らかに長さが違った。
八日目、雨が上がってあの場所に戻ると、夏希は既に定位置にいて月の絵に集中していた。絵全体を見ると、色がかなり入っていて、おおよその完成図が想像できるくらいの状態になっている。
「結構進んだね」
「今日は調子いいんだよ。絵にもスポーツみたいに好不調の波があってさ、特に色塗りはそれが顕著なんだよね」
絵の話だとわかって、安堵している自分に気づいた。その安堵が恥ずかしくて、夏希に悟られないように月の方を見た。
夏希が絵に集中している時間に、「誰かの隣にいる」という状態を改めて意識していた。何もしなくていい、ただそこにいるだけでいいという感覚は四日目から変わっていないが、その感覚への驚きは日ごとに薄れ、代わりに当たり前になりつつある。当たり前になることが嬉しいのか怖いのか、うまく判断できなかった。嬉しいと思えば夏希への依存を認めることになる気がして、怖いと思えば夏希を遠ざけることになる気がする。どちらも正直じゃないと思いながら、結局何も決めないまま月を見ていた。
しばらくして夏希が「ふう」と息を吐いて手を止めた。
「ねえ夏樹、暇じゃない? 毎日来て、私が絵描いてるの眺めてるだけじゃん」
暇かどうかと聞かれれば確かに暇かもしれない。でも「暇じゃない」と答えると、夏希が少し首を傾けた。
「本当に?」
「誰かの隣にいるのが暇かどうかって話なら、暇じゃない。初めてだから、まだ飽きない」
言ってから少し言い過ぎたかと思ったが、夏希は笑っただけだった。揶揄うでもなく、困るでもなく、ただ穏やかに笑った。
「夏樹ってやっぱり素直だよね」
「悪い?」
「全然。好きだよ、そういうところ」
好きという言葉が夏希の口から出た瞬間、うまく反応できなかった。好きという言葉をこんなに素直に受け取ったのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。僕そのものを好きと言ったわけじゃない。でも、そういうところが好き、という言葉はその人間の一部を好きと言っているわけで、一部を好きと言われた時に全部を好きと言われた時より動揺が少ないかといえば、全くそんなことはなかった。むしろ、一部を切り取って好きと言い切れる夏希の真っ直ぐさに、胸が締まる。人に好きと言われることに慣れていないから、どう反応すればいいかわからなかった。ただ受け取るしかなくて、その言葉は胸の中でしばらくの間、熱を持ち続けていた。
九日目の夜、夏希が絵を描きながら「美大に行くつもりだったんだよ」と言った。
「どこ受けたの?」
「東京の美大。推薦入試の合格発表を待ってる時期に余命宣告されたんだよね」
淡々とした口調だった。夏希はこういう話をする時、必ず淡々としている。感情を消しているのではなくて、もう何度も自分の中で向き合ってきたから、声に出す頃には落ち着いているのだと思う。
「……タイミング悪いね」
「うん。タイミング悪いよね」
夏希が苦笑した。苦笑の中に、ちゃんと悔しさが滲んでいた。何も言えなくて、ただ夏希の横顔を見ていた。しばらくして、「絵、ずっと描き続けてたの?」と聞いた。
「発病してからの方が、むしろちゃんと描くようになった。時間がないってわかったら、一枚一枚が全部遺作みたいな気持ちになって」
遺作、という言葉が夏希の口から出ると、胸のどこかが締まった。夏希はその言葉を自分のこととして当たり前に使う。その当たり前に、まだついていけないところがあって、でもそれを夏希の前で出すのは違う気がして、ただ黙って月を見ていた。
「夏希が今描いてるやつも、遺作になるの?」
「なるね。でも、遺作の中で一番いいやつにするつもり」
夏希が笑った。その笑顔が眩しかった。死というものをこれほど正面から見ながら、なお笑える人間を、僕は知らなかった。選んでいない死に向かいながら、今日も筆を持っている。この人は強い、と思った。強いという言葉が正確かどうかはわからないが、他に当てはまる言葉を持っていなかった。
十日目の夜、夏希が激しく咳き込んだ。
突然のことで、反射的に夏希の背に手を当てていた。しばらく続いた後、夏希が顔を上げて「ごめん、大丈夫」と言った。月明かりの下で見る夏希の顔は、出逢った夜よりも白さが増して、青みがかっているように見えた。
「大丈夫?」
「大丈夫だって」
夏希はすぐに筆を持ち直した。その速さが、大丈夫ではないことの証明のような気がした。大丈夫と言い慣れている人の動作だ。心配させないために先手を打っている。
それ以来、夏希が咳き込むたびに同じやりとりが繰り返された。大丈夫?と聞く。大丈夫、と返ってくる。でも「大丈夫」の声が、日を重ねるごとに薄くなっていく。発音は変わらないのに、言葉の密度が変わっていく。夏希の「大丈夫」は強がりであって、本当に大丈夫ということではないのだと、そのうち悟っていた。だからといって何もできなかった。休んだ方がいいとは言えた。でも夏希が手を止めることはなかった。絵に向かっている夏希を見ていると、止めることが正しいのかどうかもわからなくなってくる。夏希がどれだけ時間を持っていないかを知っているのに、その時間の使い方に口を出すことが、できなかった。ただ隣にいることしかできない自分の無力を、じっと抱えながら夏希の横顔を見ていた。
十一日目の夜、夏希が月の絵を完成させた。
最後の仕上げに差し掛かる少し前、夏希が一度筆を止めて絵全体を見渡した。それから月を見て、また絵を見た。その目の動きを横から見ていた。何かを確かめている目だと思った。絵の中の月と、空の月が、きちんと繋がっているかを確認している。夏希が小さく「よし」と呟いてから、最後の一筆を入れた。
「できたあ!」
夏希の声が夜に溶けた。完成した絵を僕の前に差し出してくれて、その完成度に言葉を失った。色彩豊かで柔らかな自然の風景に、雄大で立体的な月が描かれていて、夏希の繊細さと力強さが一枚の絵の中で同居している。絵の中で輝く月は、今空にある月と寸分違わぬ神々しさで、こちらに迫ってくるような錯覚さえ感じさせた。まるで絵の中から飛び出してきて、僕を飲み込んでしまいそうな迫力だ。初めて観光案内雑誌のあの月を見た時以上の衝撃かもしれない。
「夏希、本当にお疲れ様。素晴らしい絵だよ」
「よかった、ありがとう。……ねえ、褒めて。もっと褒めて」
言いながら夏希がこちらに身を寄せてきた。出逢った頃の、口が達者で一歩も引かない夏希とは少し違う。心を許した人間の前でだけ見せる甘え方だ、と思った。そしてその相手が今、僕だということに、胸の奥で何かが静かに弾けた。
「夏希は本当に頑張り屋さんだよ。それと可愛い」
慣れないながらも言葉を絞り出すと、夏希が「それからそれから?」とさらにねだってくる。吹き出しながら言うので、こちらも笑えてきた。
「……好きだよ」
恥ずかしくて仕方がなかったが、夏希のためなら何だって言う。僕の言葉を聞いた夏希は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「さあて、今から夏樹を描き始めるかな」
息つく間もなくそう言う夏希に、少し待ってと言いたくなった。
「少し休んだら? 夏希、頑張り過ぎだよ」
「ありがとう夏樹。でも私には時間がないから」
夏希は気丈にそう言った。その言葉を聞いた瞬間、一気に現実に引き戻された気がした。夏希はずっと現実と向き合いながら今を生きている。僕だけがどこか夢心地で、この夜が永遠に続くのではないかと思っていた。でも夏希の中では、一日一日の重みが最初から違う。夏希にとって、明日は当たり前にあるものではない。
夏希はすぐに僕を描き始めた。
月の絵に替わって、新しいスケッチブックが開かれた。夏希の目が、絵ではなく僕に向いている。その視線が照れくさくて、どこに顔を向けていいかわからなかった。
「どこ見てればいい?」
「どこでも。いつも通りにしてて」
いつも通りと言われても、誰かに描かれているという状況がいつも通りではない。結局、月を見ることにした。月を見ていれば自然に顔の力が抜ける気がした。
「夏樹ってさ、表情豊かで喜怒哀楽が激しいから、どの表情を描くか迷うんだよね」
夏希が言った。自分が表情豊かだと言われて、驚いた。施設では無表情、無口と思われていた。感情を外に出すことを、ずっとしてこなかった。夏希といる時だけ、人間らしくいられる。そのことに気づいてはいたが、夏希の口から言われると、また少し違う重みがあった。
「私の胸で泣きじゃくってた夏樹を描いてもいい?」
悪意に満ちた笑顔で夏希が言う。
「それが夏希の最高傑作になるなら喜んで承諾するよ」
「ごめんって。冗談だって。あの時の夏樹、可愛かったからさ」
可愛いと言われて照れている自分がいる。以前だったら何とも思わなかっただろうが、今は素直に照れる。それも夏希のせいだ。
「うーん、でもやっぱり笑顔かな。私、夏樹の笑顔が好きなんだあ」
さらに照れるようなことを夏希は言ってくる。
「そんなに笑顔を見せた記憶ないけどな」
「回数は多くないんだけどね、でもそれって夏樹が愛想笑いをしていないってことじゃん。百パーセントの笑顔だけ私に見せてくれる。それが堪らなく好きなんだ」
好きという言葉が夏希の口から出るたびに、心の中で何かが動く。夏希そのものを好きと言ったわけじゃないのに、それでも動く。こんなに切ない生き物だったのかと、自分に呆れる。
「笑顔が好きって言われたの初めてだから恥ずかしいけど、すごく嬉しい。ありがとう」
素直にそう伝えると、夏希が穏やかに微笑んだ。
「夏樹ってさ、怒るにしてもお礼を言うにしても本当に素直に伝えるよね。そういう人、今まで会ったことなかったから、出逢えてよかったって思うよ」
夏希の方こそ、いつだって思ったことを素直に届けてくれる。その言葉が、眩しかった。出逢えてよかったのは僕の方だ。夏希がいなければ、今ここにいなかった。絶望の中を生きてきて、人の温もりを知らないまま、月だけを見て死んでいただろう。夏希と時間を重ねるうちに、生きる喜びというものを知った。今、生きていてよかったと心の底から思う。夏希を知らないまま死んでいた自分の人生を想像すると、ぞっとする。
気づくと、自分でも無意識のうちに夏希を抱き締めていた。
「夏樹、どうしたの?」
夏希は驚いていたものの、抵抗する様子はなかった。この不意の行動を、そのまま受け止めてくれている。
「ごめん、自分でもわからない」
「夏樹ってさ、本当に素直だよね」
そう言って夏希が笑った。離れようとすると、夏希の方から背中に腕を回してきた。
「ダメ。離れないで。私も今、こうしていたいから」
夏希の声が、いつもよりも近い。夏希の体温が直接伝わってくる。抱き締めた腕の中の夏希が、思っていたより軽かった。その軽さに、この十一日間のことが一度に押し寄せてくるような気がした。おにぎりを食べた夜のこと。雨の夜の電話のこと。お父さんが泣いていた、と淡々と話す夏希の横顔。咳き込むたびに「大丈夫」と言い続けた夏希の声。そのすべてが、この腕の中にある。
夏希の鼓動が伝わってくる。規則正しく、でも少し速い。僕の鼓動も、きっと同じくらい速いと思った。どうすればいいのかわからなかったが、そんなことはどうでもいい気がしていた。川のせせらぎが聞こえる。虫の声が聞こえる。夏希がここにいるという事実が、今この瞬間の世界の全部だった。夏希の命がいつか終わること、その日が遠くないことを、頭の端では知っている。でも今夜だけは、そのことから目を逸らしていたかった。目を逸らすことが正しくないとわかっていても、この温かさの中にいたかった。
「ああ、幸せだなあ」
僕の腕の中で夏希が言う。
「俺も幸せだなあ」
夏希の言葉の真似をした。でもそれは物真似ではなく、紛れもない本心だった。
「素直でよろしい」
そう言いながら夏希が頭を撫でてくれた。夏希に頭を撫でられることが堪らなく好きだった。自分を肯定してくれているような気がして、心が落ち着く。生まれて初めて、人生で幸せという言葉を口にした。こんなに心の底から幸せだと思える日が来るなんて、以前は想像もできなかった。
月が一瞬、雲に入って光が陰った。僕はその夜、生まれて初めてキスをした。
帰り道、抜け道を歩きながら、今夜のことを順番に思い出していた。
月の絵が完成した瞬間の「よかった」という夏希の声。「褒めて褒めて」と身を寄せてきた夏希の重さ。「笑顔が好き」という言葉。抱き締めた時に感じた体温と、思っていたより軽かったその重さ。月が陰った瞬間のこと。どれも、今夜が終わる前に色褪せてほしくない記憶だった。いつかは薄れていくとわかっていても、今だけは、このままでいたかった。
好きという言葉を、こんなに素直に受け取ったのは初めてだ、と気づいた。好きと言われるたびに何かが自分の内側に積もっていて、その積もったものが今夜になってようやく輪郭を持ち始めた気がした。
夏希のことが好きだ。
そう自分の中で言葉にしてみると、何かが解けるような感覚があった。当たり前のことを言葉にするのに、これだけ時間がかかった。でも、そうでなければ気づけなかったのかもしれない。夏希がいなければ、好きという感情が何であるかを、知らないままだったから。
施設を出て一人暮らしを始めた日から、時間というのは消費するものだと思っていた。起きて、食べて、眠る。その繰り返しをいくつ重ねれば人生が終わるのかを漠然と数えながら過ごしてきた。でも昨夜から今朝にかけて、僕は時間が過ぎることを惜しんでいた。そして今は早く夜にならないかと思っている。この感覚が何なのか、言葉にする語彙を持っていないが、知っていることが一つある。夏希に会いたい。その一点だけが、今日の僕を動かしていた。
帰宅してしばらく眠り、目が覚めると夕方だった。窓の外の空が橙色に染まっているのを見て、僕は初めて夕焼けを綺麗だと思った。昨日までは夕焼けなど見ていなかった。存在していたはずなのに、僕の目には映っていなかった。夏希のせいだ。昨夜から、僕の目は外側に向くようになってしまった。自分の内側に向き続けてきた目が、急に方向を変えた。世界がこんなに色を持っていたことを、十八年かけてようやく知った。
適当なものを食べて、映画を観て時間を潰した。高校生の純愛を描いた今話題の作品だったが、やたらとチープに感じられた。それなりによく作られていたし、男女の機微をリアルに描こうとしていることはわかる。でも本当にリアルなのは、今の僕たちの方だ。死のうとした男と、死を告げられた女が月の下で出逢う。そんな話、どんな脚本家も書けない。少し誇らしい気持ちで、僕は部屋を出た。
電車に乗り、あの場所の最寄り駅に辿り着くと、夏希が教えてくれた抜け道に向かって歩いた。記憶を頼りに十分ほど進むと、昨夜と同じ月が出ていて、昨夜と同じ川のせせらぎが聞こえ、コンクリートの置物だけが変わらずそこにあった。梯子を上ると、夏希は既にスケッチブックにペンを走らせていた。デッサンの続きだろう。集中している横顔は真剣で、僕が来たことに気づいていない。
しばらく夏希の横顔を眺めながら、昨夜の自分が死を目的にここに来たということを、少し遠い出来事のように思い始めていた。一晩でこんなに変わるものか。いや、変わったのではなく、変わらされたのだ。夏希に。自分の意志で変わったのならまだわかるが、夏希はただそこにいて、ただ話しかけてきただけだ。それだけで、僕の中の何かが動いた。どれだけ分厚い壁を作っても、夏希にはそれが最初から見えていないみたいだった。壁があることを知らない人間は、壁を気にせずに踏み込んでくる。そういうことなのかもしれない。
ひとしきりペンを動かしたところで夏希が手を止めた。声をかけると、少しむくれた顔が返ってきた。
「遅い」
「十分前には来てたよ。夏希が集中してたから手が止まるの待ってた」
「そんなの気にしなくていいのに」
それでもまだむくれているので、昨夜夏希にされたことをそのままやり返した。頭に手を伸ばして、撫でる。夏希が「はあ? 何してんの?」と顔を上げた。
「拗ねてたから」
「拗ねてないし」
口調とは裏腹に、怒った様子ではなかった。むしろ少し可笑しそうな気配がある。
「昨夜は私の胸でわんわん泣いてたくせに、えらくなったもんだね」と夏希が意地悪な顔で言った。
途端に恥ずかしくなって、視線を空に逃がした。今日も月が綺麗だ。昨夜と同じ月のはずなのに、今夜はより大きく見える気がした。それとも、僕の目が変わったのかもしれない。
「また月で誤魔化す」
「誤魔化してない。本当に綺麗だから」
「確かに綺麗だけどね」
夏希も空を見上げた。二人して月を見上げた後、お互いの顔を見て笑う。夕方に観た映画の男女よりも、僕たちの方がずっとリアルだという確信が改めて湧いてくる。
「ねえ、ちゃんとご飯食べてる?」
夏希が不意に聞いた。月から僕に視線を移して、少し真剣な顔をしている。
「食べてるよ」
「嘘っぽい顔してる」
顔のどこを見てそう思ったのかわからないが、否定するのも変なので話すことにした。
「施設では毎食みんなで食べていたけれど、今は一人だから慣れない」と言うと、夏希は頷いてから少し間を置いた。
「じゃあ明日おにぎり持ってきてあげる」と言った夏希に「え、いいよ」と返すと、「よくない、食べなさい」と有無を言わせない口調が返ってきた。
「わかった」と答えると、その言葉が自分の口から出るのがやけに自然で、少し驚いた。施設にいた頃、誰かに何かを言われて素直にわかった、と答えたことがあったかどうか、思い出せない。夏希の前だと、いつの間にかそれができるようになっている。壁を作る前に言葉が出てしまう。そのことが不思議で、でも不快ではなかった。
翌日、夏希は本当におにぎりを二個持ってきた。
コンクリートの置物の上に二人並んで座り、月の下でおにぎりを食べた。夏希が握ってくれた塩むすびで、海苔の香りが夜の空気と混ざるような気がした。手のひらにのる重さが、誰かに作ってもらったものだということを伝えてくる。それだけのことが、胸に響いた。
「美味しかったでしょ」
食べ終わった後に夏希が言った。
「うん」
「素直でよろしい」
少し得意そうな顔をした夏希を見ながら、施設でも毎食誰かと一緒に食卓を囲んでいたのに、あれとこれは全然違うものだ、と思っていた。施設の食事は「みんながいる食卓」で、夏希と過ごすこの時間は「夏希と囲みたい食卓」だ。そこにいるから意味が生まれる、という感覚を、十八年生きてきて初めて知った気がした。これから毎日夏希と月の下でおにぎりを食べて生きていくのも悪くないな、と思った。そんなことを本気で考えている自分が、二日前の自分とは別人のようだった。あの夜、リュックにロープを入れてここに来た男が、翌々日に月の下でおにぎりを食べながら明日のことを考えている。
二個目のおにぎりを食べ終えたところで、夏希が「ねえ」と声をかけてきた。
「昨日さ、一人でご飯食べるの慣れないって言ってたじゃん。施設では毎日みんなで食べてたわけでしょ。それって孤独じゃなかったの?」
少し考えた。みんなで食べることと、孤独でないことは、同じではない気がした。
「みんなで食べてたけど、誰かと食べてたわけじゃなかったから。場所が一緒なだけで」
「うん」
「夏希と食べるのは違う。場所が同じじゃなくて、一緒に食べてる感じがする」
言ってから照れて、おにぎりの包みに視線を落とした。夏希がしばらく黙っていたので顔を上げると、夏希は笑ってもいなければ揶揄ってもいなくて、ただ静かな顔で月を見ていた。
「よかった」
夏希が小さく言った。それだけだった。でもその一言が、さっき食べたおにぎりより温かかった。空に向けられた夏希の横顔を見ながら、この人はどうしてこんなに真っ直ぐに言葉を届けてくれるのだろう、と思った。装飾がない。計算がない。思ったことがそのまま声になる。施設の大人たちがくれた言葉とは、根本的に質が違う。あの人たちの言葉は、いつも自分のために整えられていた。傷つけないように、角が立たないように、後で面倒にならないように。そういう配慮の跡が透けて見える言葉だった。夏希の言葉にはそれがない。ただそこにある。
四日目の夜から、夏希の作業がペンから筆に変わった。
「デッサン終わったの?」
「大体ね。あとは色を付けるだけ」
夏希の言う「あとは色を付けるだけ」がどれほどの工程なのか、素人の僕にはわからなかったが、筆を動かす夏希の表情はペンのときよりもさらに真剣で、近づきがたい集中の層を纏っていた。邪魔をするのが悪い気がして、しばらく黙って月を見上げていた。
誰かの隣にいる、という状態がこれほど自然に感じられたことはなかった。何かをしなくていい、気の利いたことを言わなくていい、ただそこにいるだけでいいという感覚の新鮮さを、月を見ながら静かに味わっていた。自分が透明人間のようだと思って生きてきた。誰かの隣にいても、いないも同然だった。でも夏希の隣では、ちゃんとそこにいる手応えがある。夏希が時々こちらに視線を向けて、また絵に戻る。その繰り返しが、僕がここにいることを確かめてくれているようだった。
夏希が筆を止めて、「夏樹ってさ、なんで絵を描くのって聞かないんだね」と言った。
「聞いていいの?」
「聞いてもいいよ」
「じゃあ、なんで描くの?」
夏希がほんの少し筆を置いて、空を見上げた。月明かりが夏希の横顔を柔らかく照らしていて、その輪郭が夜の景色に溶け込みそうだった。
「見た景色を残したいから。私が死んでも、その景色が残るように」
さらりと「私が死んでも」と言う夏希の声には、諦観も悲嘆も滲んでいなかった。ただ事実として口にしている。そのことに胸を突かれるような気持ちになりながらも、言葉の中身をそのまま受け取ろうとした。
「じゃあ夏希の絵の中では、時間が止まるんだ」
自分でも気づかないうちに、そう口から出ていた。夏希が筆を完全に止め、驚いたような顔でこちらを見た。
「……そういうことか。夏樹ってたまに詩人みたいなこと言うね」
夏希が笑う。揶揄うようでいて、どこか本当に驚いているようでもあった。
「そういうことか」という言葉の響きが気になって、もう少し聞きたかったが、夏希はもう筆を動かし始めていたのでそのままにした。
月明かりの中で筆を動かす夏希の横顔を、しばらく黙って眺めていた。夏希が死んでも、絵の中の景色は残る。夏希はそう言った。だとしたら夏希の絵の中では時間が止まる。夏希がいなくなった後も、絵の中の月は今夜と同じ光を放ち続ける。そのことが今夜初めて、慰めではなく恐怖として胸に触れた。絵が残るということは、夏希がいなくなることを前提にしている。わかっていたことのはずなのに、言葉にされると重さが違った。夏希の隣に座りながら、その重さをただ黙って抱えていた。川のせせらぎが聞こえる。虫の声が聞こえる。夏希の筆が動いている。それだけのことが、今夜はやけに愛おしく感じられた。
五日目の夜、夏希が「今日ね、お父さんが泣いてたよ」と言った。
絵を描きながら、独り言のように言った。何も言えなくて、ただ夏希の横顔を見ていた。
「朝ごはんの時にね、急に黙り込んで。声かけたら、ごめんなって言って。それだけ」
「……それだけ?」
「それだけ。でも泣いてた。お父さんが泣くの、初めて見たんだよね」
夏希の筆は止まらなかった。落ち着いた声で話し続けているが、その落ち着きは感情がないということではないと思った。感情を持ちながら、それと向き合い続けてきた人間の落ち着きだ。
「夏希はそれ見て、どう思った?」
「まだ生きていたいって思った。でも同時に、もう泣かせたくないとも思った」
相反する二つが同時にある、と夏希は言った。どちらかを選べるものではなくて、両方を抱えたまま毎日を生きているのだと、その声から伝わってきた。僕は自分の孤独と夏希の孤独が、全然違うものだということを改めて思った。誰にも必要とされていないと思って死のうとした僕と、必要とされているからこそ死ぬことの重さを背負っている夏希。どちらが辛いかなんて比べられないし、比べることに意味もない。ただ、夏希の抱えているものの重さが、少しだけ輪郭を持って伝わってきた。
「夏希、毎日ここに来るのしんどくない?」
「しんどくない。ここに来ると、お父さんのことも考えなくていいから」
夏希が少し笑った。諦めでも開き直りでもなく、ただ正直に言っているだけの顔だった。
「俺も、ここに来ると何も考えなくていい気がする」
「でしょ。この場所、そういう場所なんだよ」
月が川面に映っている。川のせせらぎが聞こえる。夏希の言う通りだと思った。この場所は、二人にとって何かから切り離された場所だ。夏希にとっては病気と家族の悲しみから、僕にとっては孤独と死への傾きから。ここにいる間だけ、そういうものが薄くなる。薄くなるだけで消えるわけではないが、それで十分だと思った。消えなくていい。ただ薄くなってくれれば、今夜をここにいられる。
六日目の夜は雨だった。
部屋の窓から外を眺めて、夏希のことを考えていた。今夜は行けない。それだけで、部屋がいつもよりずっと狭く感じた。夏希と会えない夜の長さは、会える夜の長さとは全然違う。同じ二十四時間のはずなのに、消費するだけの時間に逆戻りしたみたいだった。壁を見て、天井を見て、また窓を見た。雨が窓ガラスを叩いている。
そう思っていたところに、携帯が鳴った。夏希からだった。
「今日、雨だね」
開口一番にそう言った夏希の声は、電話越しでも変わらず鋭く、でも穏やかだった。
「うん。行けなくてごめん」
「謝ることじゃないでしょ。私も行けてないんだから」
それもそうだと思いながら、何か言いたくて言葉を探していると、夏希が先に口を開いた。
「今どこにいるの?」
「部屋」
「窓から外、見える? 空、見てみて」
言われた通りに空を見上げた。雨雲が分厚く広がっていて、月はどこにも見えない。見えないと伝えると、夏希が「私も見えない。でも絶対にそこにあるんだよね」と言った。
夏希の言い方は確信に満ちていて、でも押しつけがましくはなかった。見えなくても、そこにある。その事実を、夏希はただ穏やかに述べているだけだった。
「そうだね」と返しながら、夏希自身のことを言っているのかもしれないとぼんやり思ったが、言葉にはしなかった。
しばらく他愛のない話をして、電話が終わった。四方を壁に囲まれた部屋が、さっきまでとは少し違って感じられた。夏希の声があれば、部屋が部屋じゃなくなる。ただの四角い空間ではなくなって、夏希のいる夜と地続きになる。そんな感じがした。雨音が同じように続いているのに、その音の聞こえ方まで変わっていた。夏希の声一つで世界の質が変わる。そのことに、今更ながら驚いていた。電話を切った後もしばらく、携帯を手に持ったまま窓の外の雨を見ていた。月は見えない。でも絶対にそこにある、と夏希は言った。夏希も今、同じ空の下で同じ雨を聞いている。そう思うと、部屋の狭さが少しだけ変わった。
七日目の夜も雨だった。でも六日目の夜より、明らかに長さが違った。
八日目、雨が上がってあの場所に戻ると、夏希は既に定位置にいて月の絵に集中していた。絵全体を見ると、色がかなり入っていて、おおよその完成図が想像できるくらいの状態になっている。
「結構進んだね」
「今日は調子いいんだよ。絵にもスポーツみたいに好不調の波があってさ、特に色塗りはそれが顕著なんだよね」
絵の話だとわかって、安堵している自分に気づいた。その安堵が恥ずかしくて、夏希に悟られないように月の方を見た。
夏希が絵に集中している時間に、「誰かの隣にいる」という状態を改めて意識していた。何もしなくていい、ただそこにいるだけでいいという感覚は四日目から変わっていないが、その感覚への驚きは日ごとに薄れ、代わりに当たり前になりつつある。当たり前になることが嬉しいのか怖いのか、うまく判断できなかった。嬉しいと思えば夏希への依存を認めることになる気がして、怖いと思えば夏希を遠ざけることになる気がする。どちらも正直じゃないと思いながら、結局何も決めないまま月を見ていた。
しばらくして夏希が「ふう」と息を吐いて手を止めた。
「ねえ夏樹、暇じゃない? 毎日来て、私が絵描いてるの眺めてるだけじゃん」
暇かどうかと聞かれれば確かに暇かもしれない。でも「暇じゃない」と答えると、夏希が少し首を傾けた。
「本当に?」
「誰かの隣にいるのが暇かどうかって話なら、暇じゃない。初めてだから、まだ飽きない」
言ってから少し言い過ぎたかと思ったが、夏希は笑っただけだった。揶揄うでもなく、困るでもなく、ただ穏やかに笑った。
「夏樹ってやっぱり素直だよね」
「悪い?」
「全然。好きだよ、そういうところ」
好きという言葉が夏希の口から出た瞬間、うまく反応できなかった。好きという言葉をこんなに素直に受け取ったのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。僕そのものを好きと言ったわけじゃない。でも、そういうところが好き、という言葉はその人間の一部を好きと言っているわけで、一部を好きと言われた時に全部を好きと言われた時より動揺が少ないかといえば、全くそんなことはなかった。むしろ、一部を切り取って好きと言い切れる夏希の真っ直ぐさに、胸が締まる。人に好きと言われることに慣れていないから、どう反応すればいいかわからなかった。ただ受け取るしかなくて、その言葉は胸の中でしばらくの間、熱を持ち続けていた。
九日目の夜、夏希が絵を描きながら「美大に行くつもりだったんだよ」と言った。
「どこ受けたの?」
「東京の美大。推薦入試の合格発表を待ってる時期に余命宣告されたんだよね」
淡々とした口調だった。夏希はこういう話をする時、必ず淡々としている。感情を消しているのではなくて、もう何度も自分の中で向き合ってきたから、声に出す頃には落ち着いているのだと思う。
「……タイミング悪いね」
「うん。タイミング悪いよね」
夏希が苦笑した。苦笑の中に、ちゃんと悔しさが滲んでいた。何も言えなくて、ただ夏希の横顔を見ていた。しばらくして、「絵、ずっと描き続けてたの?」と聞いた。
「発病してからの方が、むしろちゃんと描くようになった。時間がないってわかったら、一枚一枚が全部遺作みたいな気持ちになって」
遺作、という言葉が夏希の口から出ると、胸のどこかが締まった。夏希はその言葉を自分のこととして当たり前に使う。その当たり前に、まだついていけないところがあって、でもそれを夏希の前で出すのは違う気がして、ただ黙って月を見ていた。
「夏希が今描いてるやつも、遺作になるの?」
「なるね。でも、遺作の中で一番いいやつにするつもり」
夏希が笑った。その笑顔が眩しかった。死というものをこれほど正面から見ながら、なお笑える人間を、僕は知らなかった。選んでいない死に向かいながら、今日も筆を持っている。この人は強い、と思った。強いという言葉が正確かどうかはわからないが、他に当てはまる言葉を持っていなかった。
十日目の夜、夏希が激しく咳き込んだ。
突然のことで、反射的に夏希の背に手を当てていた。しばらく続いた後、夏希が顔を上げて「ごめん、大丈夫」と言った。月明かりの下で見る夏希の顔は、出逢った夜よりも白さが増して、青みがかっているように見えた。
「大丈夫?」
「大丈夫だって」
夏希はすぐに筆を持ち直した。その速さが、大丈夫ではないことの証明のような気がした。大丈夫と言い慣れている人の動作だ。心配させないために先手を打っている。
それ以来、夏希が咳き込むたびに同じやりとりが繰り返された。大丈夫?と聞く。大丈夫、と返ってくる。でも「大丈夫」の声が、日を重ねるごとに薄くなっていく。発音は変わらないのに、言葉の密度が変わっていく。夏希の「大丈夫」は強がりであって、本当に大丈夫ということではないのだと、そのうち悟っていた。だからといって何もできなかった。休んだ方がいいとは言えた。でも夏希が手を止めることはなかった。絵に向かっている夏希を見ていると、止めることが正しいのかどうかもわからなくなってくる。夏希がどれだけ時間を持っていないかを知っているのに、その時間の使い方に口を出すことが、できなかった。ただ隣にいることしかできない自分の無力を、じっと抱えながら夏希の横顔を見ていた。
十一日目の夜、夏希が月の絵を完成させた。
最後の仕上げに差し掛かる少し前、夏希が一度筆を止めて絵全体を見渡した。それから月を見て、また絵を見た。その目の動きを横から見ていた。何かを確かめている目だと思った。絵の中の月と、空の月が、きちんと繋がっているかを確認している。夏希が小さく「よし」と呟いてから、最後の一筆を入れた。
「できたあ!」
夏希の声が夜に溶けた。完成した絵を僕の前に差し出してくれて、その完成度に言葉を失った。色彩豊かで柔らかな自然の風景に、雄大で立体的な月が描かれていて、夏希の繊細さと力強さが一枚の絵の中で同居している。絵の中で輝く月は、今空にある月と寸分違わぬ神々しさで、こちらに迫ってくるような錯覚さえ感じさせた。まるで絵の中から飛び出してきて、僕を飲み込んでしまいそうな迫力だ。初めて観光案内雑誌のあの月を見た時以上の衝撃かもしれない。
「夏希、本当にお疲れ様。素晴らしい絵だよ」
「よかった、ありがとう。……ねえ、褒めて。もっと褒めて」
言いながら夏希がこちらに身を寄せてきた。出逢った頃の、口が達者で一歩も引かない夏希とは少し違う。心を許した人間の前でだけ見せる甘え方だ、と思った。そしてその相手が今、僕だということに、胸の奥で何かが静かに弾けた。
「夏希は本当に頑張り屋さんだよ。それと可愛い」
慣れないながらも言葉を絞り出すと、夏希が「それからそれから?」とさらにねだってくる。吹き出しながら言うので、こちらも笑えてきた。
「……好きだよ」
恥ずかしくて仕方がなかったが、夏希のためなら何だって言う。僕の言葉を聞いた夏希は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「さあて、今から夏樹を描き始めるかな」
息つく間もなくそう言う夏希に、少し待ってと言いたくなった。
「少し休んだら? 夏希、頑張り過ぎだよ」
「ありがとう夏樹。でも私には時間がないから」
夏希は気丈にそう言った。その言葉を聞いた瞬間、一気に現実に引き戻された気がした。夏希はずっと現実と向き合いながら今を生きている。僕だけがどこか夢心地で、この夜が永遠に続くのではないかと思っていた。でも夏希の中では、一日一日の重みが最初から違う。夏希にとって、明日は当たり前にあるものではない。
夏希はすぐに僕を描き始めた。
月の絵に替わって、新しいスケッチブックが開かれた。夏希の目が、絵ではなく僕に向いている。その視線が照れくさくて、どこに顔を向けていいかわからなかった。
「どこ見てればいい?」
「どこでも。いつも通りにしてて」
いつも通りと言われても、誰かに描かれているという状況がいつも通りではない。結局、月を見ることにした。月を見ていれば自然に顔の力が抜ける気がした。
「夏樹ってさ、表情豊かで喜怒哀楽が激しいから、どの表情を描くか迷うんだよね」
夏希が言った。自分が表情豊かだと言われて、驚いた。施設では無表情、無口と思われていた。感情を外に出すことを、ずっとしてこなかった。夏希といる時だけ、人間らしくいられる。そのことに気づいてはいたが、夏希の口から言われると、また少し違う重みがあった。
「私の胸で泣きじゃくってた夏樹を描いてもいい?」
悪意に満ちた笑顔で夏希が言う。
「それが夏希の最高傑作になるなら喜んで承諾するよ」
「ごめんって。冗談だって。あの時の夏樹、可愛かったからさ」
可愛いと言われて照れている自分がいる。以前だったら何とも思わなかっただろうが、今は素直に照れる。それも夏希のせいだ。
「うーん、でもやっぱり笑顔かな。私、夏樹の笑顔が好きなんだあ」
さらに照れるようなことを夏希は言ってくる。
「そんなに笑顔を見せた記憶ないけどな」
「回数は多くないんだけどね、でもそれって夏樹が愛想笑いをしていないってことじゃん。百パーセントの笑顔だけ私に見せてくれる。それが堪らなく好きなんだ」
好きという言葉が夏希の口から出るたびに、心の中で何かが動く。夏希そのものを好きと言ったわけじゃないのに、それでも動く。こんなに切ない生き物だったのかと、自分に呆れる。
「笑顔が好きって言われたの初めてだから恥ずかしいけど、すごく嬉しい。ありがとう」
素直にそう伝えると、夏希が穏やかに微笑んだ。
「夏樹ってさ、怒るにしてもお礼を言うにしても本当に素直に伝えるよね。そういう人、今まで会ったことなかったから、出逢えてよかったって思うよ」
夏希の方こそ、いつだって思ったことを素直に届けてくれる。その言葉が、眩しかった。出逢えてよかったのは僕の方だ。夏希がいなければ、今ここにいなかった。絶望の中を生きてきて、人の温もりを知らないまま、月だけを見て死んでいただろう。夏希と時間を重ねるうちに、生きる喜びというものを知った。今、生きていてよかったと心の底から思う。夏希を知らないまま死んでいた自分の人生を想像すると、ぞっとする。
気づくと、自分でも無意識のうちに夏希を抱き締めていた。
「夏樹、どうしたの?」
夏希は驚いていたものの、抵抗する様子はなかった。この不意の行動を、そのまま受け止めてくれている。
「ごめん、自分でもわからない」
「夏樹ってさ、本当に素直だよね」
そう言って夏希が笑った。離れようとすると、夏希の方から背中に腕を回してきた。
「ダメ。離れないで。私も今、こうしていたいから」
夏希の声が、いつもよりも近い。夏希の体温が直接伝わってくる。抱き締めた腕の中の夏希が、思っていたより軽かった。その軽さに、この十一日間のことが一度に押し寄せてくるような気がした。おにぎりを食べた夜のこと。雨の夜の電話のこと。お父さんが泣いていた、と淡々と話す夏希の横顔。咳き込むたびに「大丈夫」と言い続けた夏希の声。そのすべてが、この腕の中にある。
夏希の鼓動が伝わってくる。規則正しく、でも少し速い。僕の鼓動も、きっと同じくらい速いと思った。どうすればいいのかわからなかったが、そんなことはどうでもいい気がしていた。川のせせらぎが聞こえる。虫の声が聞こえる。夏希がここにいるという事実が、今この瞬間の世界の全部だった。夏希の命がいつか終わること、その日が遠くないことを、頭の端では知っている。でも今夜だけは、そのことから目を逸らしていたかった。目を逸らすことが正しくないとわかっていても、この温かさの中にいたかった。
「ああ、幸せだなあ」
僕の腕の中で夏希が言う。
「俺も幸せだなあ」
夏希の言葉の真似をした。でもそれは物真似ではなく、紛れもない本心だった。
「素直でよろしい」
そう言いながら夏希が頭を撫でてくれた。夏希に頭を撫でられることが堪らなく好きだった。自分を肯定してくれているような気がして、心が落ち着く。生まれて初めて、人生で幸せという言葉を口にした。こんなに心の底から幸せだと思える日が来るなんて、以前は想像もできなかった。
月が一瞬、雲に入って光が陰った。僕はその夜、生まれて初めてキスをした。
帰り道、抜け道を歩きながら、今夜のことを順番に思い出していた。
月の絵が完成した瞬間の「よかった」という夏希の声。「褒めて褒めて」と身を寄せてきた夏希の重さ。「笑顔が好き」という言葉。抱き締めた時に感じた体温と、思っていたより軽かったその重さ。月が陰った瞬間のこと。どれも、今夜が終わる前に色褪せてほしくない記憶だった。いつかは薄れていくとわかっていても、今だけは、このままでいたかった。
好きという言葉を、こんなに素直に受け取ったのは初めてだ、と気づいた。好きと言われるたびに何かが自分の内側に積もっていて、その積もったものが今夜になってようやく輪郭を持ち始めた気がした。
夏希のことが好きだ。
そう自分の中で言葉にしてみると、何かが解けるような感覚があった。当たり前のことを言葉にするのに、これだけ時間がかかった。でも、そうでなければ気づけなかったのかもしれない。夏希がいなければ、好きという感情が何であるかを、知らないままだったから。


