施設を出る前の夜、田中静江が僕の部屋を訪ねてきた。
「何か食べたいものある?」
静江は扉の前に立ったまま、部屋の中を覗くようにして言った。僕は荷物の整理をしていた手を止めて、少しだけ振り返る。
「特にないです」
「そっか」
それだけ言って、静江はプリンを一個、棚の上に置いて出ていった。扉の閉まる音が廊下に吸い込まれて、部屋の中はまた静かになった。
僕はしばらくそのプリンを見ていた。蓋の端にセロファンがくっついていて、値引きシールが貼ってある。静江が買ってきたのか、それとも施設のどこかにあったものを持ってきたのかは分からなかったが、どちらでもよかった。問題は別のところにあった。この人は今、仕事として僕の部屋を訪ねてきたのか、それとも本当に僕のことを心配して来たのか、どうしても判断がつかなかった。
施設で育った人間は大抵そうだと思うが、僕は大人の優しさの裏側を読もうとする癖がついていた。善意と義務の区別が、僕にはうまくつけられない。あの人はなぜそうするのか、僕のためなのか、それとも役割だからなのか、いつも考えてしまって答えが出ないまま終わる。静江のことだって、十八年間ずっとそうだった。気にかけてもらっているのは感じる。でも、それが仕事だから生まれる気遣いなのか、僕という人間に向けられた感情なのか、最後まで分からなかった。
プリンを食べた。甘さが口の中に広がって、それだけだった。
翌朝、施設を出た。
駅前のアパートの四畳半の部屋に、段ボール箱二つと布団一枚を持ち込んで、僕の一人暮らしは始まった。最初にしたのは荷物を置くことで、次にしたのは何もしないことだった。窓の外に夕方の空が広がっていくのを、壁に背中を預けながらぼんやり見ていた。腹が減ったことに気づいて、近くのスーパーまで歩いた。
惣菜コーナーで唐揚げと白米のパックを取って、レジで精算した。アパートに戻って食卓のテーブルに並べて、箸を持った。
食べようとした瞬間、手が止まった。なぜ止まったのか、自分でもよくわからなかった。腹は減っている。食べ物も目の前にある。なのに箸が動かなかった。ただ、部屋の中が静かすぎた。施設の食堂は常に誰かの声があった。椅子を引く音、食器の触れ合う音、他愛のない話し声、時には笑い声。僕はその騒がしさの中でずっと食事をしてきたのに、今ここには何もない。自分が咀嚼する音しか聞こえない場所で、初めて飯を食おうとしていた。
施設にいた頃でさえ、誰かと食べたいという気持ちから食事をしたことは一度もなかった、と今更ながら気がついた。同じ空間に人間がいて、同じ時間に同じものを口に入れていた。それだけのことだった。そもそも僕は、誰かと食べたいという感情を持ったことがなかった。いや、正確には、そういう感情を持たないようにしていた、というべきかもしれない。誰かと食べたいと思えば、それが叶わないときの空洞が生まれる。だから最初から思わないことにしていた。そうやって感情を削いでいくことで、何も期待せず、何も失わない生き方を覚えた。今この静かな部屋で一人、惣菜のパックを前にして、その削ぎ落としがいかに深く自分に染み込んでいるかを、初めてまともに感じていた。誰かと食べることを望む資格が自分にはないと、本気で信じていたのだと思う。
唐揚げを一個口に入れた。味がしないわけではなかったが、美味しいとは思わなかった。
それから数日、街に出てみた。特に目的はなかった。ただ部屋にいると息が詰まりそうで、外を歩く方がまだましだと思った。駅前の商店街を端から端まで歩いて、また戻って、特に何も買わずに帰ることを何度か繰り返した。人はたくさんいた。すれ違う人たちは皆、どこかへ向かっている。買い物袋を下げた主婦、イヤホンをつけたまま早足で歩く若いサラリーマン、友人同士で何かを話しながら笑い合う女の子たち。僕はその人の流れの中を歩いていたが、自分だけが違う場所を歩いているような感覚がどうしても拭えなかった。誰もこちらを見ない。見知らぬ他人の顔をわざわざ見ながら歩く人間などいないし、それは当然のことだとわかっていたが、その当然が重く感じられた。
商店街のベンチに座って、行き交う人を眺めていた日があった。向かいのカフェのテラス席に、二人の女の子が座って何かを話しながら笑っていた。どちらかが何かを言うたびに、もう一方が笑い返す。その繰り返しを、僕はしばらく見ていた。あの二人は今、お互いがいることを当たり前だと思っている。当たり前すぎて、それがどれだけ特別なことかも気づいていないのかもしれない。僕にはあれがなかった。生まれてから一度も、誰かと笑い合いながら時間を過ごしたことがなかった。正確には、そういうことができる人間に自分がなれると思ったことが、一度もなかった。笑い声を聞きながら、その声が自分には全く関係のない場所から届いていることを、改めて確かめていた。人の海の中にいるのに、自分だけが透明人間のようで、僕がここにいてもいなくても、この街は何も変わらないという感覚がじわじわと広がっていって、ある夜、コンビニへ立ち寄った帰りに足が止まった。
雑誌コーナーの棚の一番手前に立てかけられた観光雑誌の表紙に、月の写真があった。
真っ暗な空の中に、丸い月が浮かんでいた。川辺から撮影されたらしく、水面に光が反射して、木々のシルエットが柔らかく縁取られていた。それだけの写真なのに、動けなくなった。どこか遠い場所にある、自分には関係のない景色を見ているような気がしたのに、同時に、ここに行かなければならないという気持ちが沸き上がってきた。
どうせ死ぬなら、最後に綺麗なものを見てからにしよう、と思った。
その考えは唐突ではなかった。施設を出てからずっと、死という選択肢は頭の中に静かにあった。誰かと繋がることを諦めてきた結果として、そこに至っていた。ただ、いつどこでという具体的な絵が描けなかったが、この表紙を見て、ようやく絵が描けた気がした。死ぬ前に綺麗なものを見たいというのは、単なる衝動ではなかった。遺書を書く気にはなれなかったし、言葉を残すべき相手もいなかった。それでも、何かを残したかった。誰にも必要とされないまま消えていくとしても、自分がこの世界の美しさを確かに見たという事実だけは、死ぬ瞬間まで自分の中に残しておきたかった。自分が生きた証として、美しいものの記憶を持っていたかった。それが、切実な願いだった。
雑誌を買って帰り、中のページを開いた。観光案内の特集で、表紙の撮影地は電車で四十分ほどの場所にあるらしかった。深夜まで人がいる場所ではなさそうで、むしろ時間帯を選べば一人になれそうだと思った。この光景を誰にも邪魔されずに見て、それから静かに終わりにする。それだけの計画を立てた。
ロープをホームセンターで買ってきて、リュックに入れた。帰りの電車のことは考えなかった。必要がないから。
決行する日を決めて、最終便に乗り込んだ。
車内は空いていた。平日の深夜に近い時間帯の下り電車は、乗客がまばらだった。僕は窓側の席に座って、通路の向こうを見た。老夫婦が二人並んで座っていて、妻の方が夫の肩に頭を預けて眠っていた。夫は本を開いていたが、時折本から目を上げて妻の顔を見て、また本に戻った。それだけのことを、僕はしばらく眺めていた。明日も生きるつもりでいる人間の顔というのは、こういうものか、と思った。
数席先には高校生くらいの男女が四人いて、小声で話しながら笑い合っていた。笑い声を抑えようとして、でも抑えきれずに漏れる声が、深夜の車内には少し大きく響いた。僕はその声を聞きながら、リュックの中の重さを意識した。ロープはそれほど重くはないが、存在感があった。この車両の中で、僕だけが違う方向を向いている。それが妙に落ち着いた感覚をもたらした。もう決めたことだから、何も迷わなくていい。そういう静けさだった。
最寄り駅で降りると、改札を抜けた瞬間、空気が変わった。土と草と、水の匂いが混ざったような、柔らかい匂いが鼻の奥まで入ってきた。都会では嗅いだことのない匂いだった。僕がここに来たことを、この土地が歓迎しているような気がして、その感覚が少しだけ可笑しかった。歓迎されるような来方をしていない。
雑誌の地図を確認して歩き始めた。二十分ほど歩くと書いてあって、途中から山の谷に向かって下っていく道になる。街灯は少なく、進むにつれて暗くなったが、月が出ていたのでそれほど困らなかった。月明かりというのは不思議なもので、光源としては弱いはずなのに、足元を確かめるには充分で、道なき道のような場所も何か所かあったが気にならなかった。怪我をしても関係ない、今日が最後だから、という考えが頭の中を静かに流れていた。
そう思いながら歩いていると、下の方に木々が開けて、川が流れているのが見えた。川辺まで降りて、雑誌のページを広げ、目の前の風景と重ねようとした。月の位置、川の角度、木々の輪郭、全体の構図。九十九パーセントは一致していたが、何かが微妙に違う。撮影地点を探すように、川沿いを行ったり来たりしながら百パーセントの一致を探した。
探しながら歩いていると、川のせせらぎと虫の声の隙間に、別の音が聞こえてきた。
「多分、ここだと思うよ」
静寂を切り裂くような、鋭い声だった。大きな声ではなかったのに、夜の空気に紛れることなく、まっすぐ届いた。今まで内側へ内側へと向き続けていた意識が、その声に引っ張られるようにして一斉に外側へ開いていく感じがした。死を前にして研ぎ澄まされていたはずの感覚が、自分の外にある何かを捉えようとして初めて前を向いた。世界の中にいるのに世界から切り離されているような感覚がずっと続いていたのに、その声が届いた瞬間だけ、切り離しが解けたような気がした。声のした方向を向いたが、誰もいない。あたりを見回しても、人の姿が見えなかった。
「こっちだってば」
上から声がした。見上げると、コンクリートの置物が川辺に立っていた。黒いペンキで塗り潰されていて、周囲の暗さに溶け込んでいたから気がつかなかった。展望台の一部分だけを切り取ったような形をしていて、その上に、人が座っていた。
女の子だった。スケッチブックを膝に置いてペンを握り、こちらを見下ろしていた。
側面に簡易的な梯子が取り付けてあって、それを上りきって隣に立った瞬間、息を呑んだ。数メートル高さが変わっただけで、見える景色がまるで違った。月が近かった。物理的な距離が縮まったはずはないのに、そう感じた。川面に映る光が広がって、木々の輪郭がより鮮明に浮かび上がり、空の深さが違った。月に向かって手を伸ばせば届きそうなほど、空が近くにあった。先客がいたことへの落胆は、その景色の前でどこかに消えていた。
「ねっ! 全然違うでしょ?」
彼女はそう言いながら、月の方へ視線を戻してスケッチブックにペンを走らせていた。僕の心を読んだかのように。表情は真剣で、僕に話しかけているというよりも、思ったことを声に出したという感じだった。
「何してんの?」
僕が聞くと、彼女は手を止めずに答えた。
「どこからどう見ても絵を描いているでしょ? 目、ついてないの?」
語気は強かったが、怒っているようには聞こえなかった。僕も彼女を責める気持ちがいつの間にか消えていて、月と彼女の絵を交互に眺めた。白く透き通った肌が青みがかって見えて、スッと通った鼻筋と月の光を受けた大きな目、じっと月を見据えているときの横顔に、視線が留まった。
「何? 私に見惚れてるの?」
「うん」
彼女がこちらを向いた。素直に答えた。どうせ死ぬつもりでここに来た。恥も外聞もない。嘘をつく必要性が毛頭なかった。
「そこ、恥らいを持って否定するとこでしょ? 何を百パーセントの肯定をしてるの?」
彼女は笑いながら言った。可笑しそうに、でも呆れたように。
「別に。嘘ついても仕方ないから。俺もう死ぬからさ」
その言葉を口にした瞬間、彼女の笑顔が消えた。スケッチブックの上のペンが止まって、怒りとも困惑とも取れる表情で僕をまっすぐに見た。僕は月の方を向いた。死ぬと口に出すのは初めてだった。声に出してみると、思ったより軽い言葉だった。
「贅沢な奴だね」
しばらくして彼女が言った。口調は静かで、声を荒げる気配がなかった。僕が何も答えずに月を眺めていると、彼女は続けた。
「生きたくても生きられない人が沢山いる中、自ら命を捨てようとするなんて無責任だと思わないの?」
「責任か。考えたこともなかったな」
それは本当のことだった。自分が誰かに影響を与えているという感覚が、僕にはなかった。自分のことを大事にすることもできなかったし、他人の思いにまで思慮が及ぶ発想がそもそも育っていなかった。彼女はその言葉を聞いて、少し黙った。何かを言おうとして、でも言わなかった。責めるでも哀れむでもなく、ただ僕の言葉をそのまま受け取ろうとしている、そういう間だった。同情でも説教でもない沈黙を、人からもらったことがなかったから、どう受け取ればいいのか少し戸惑った。
「一応、話を聞いてあげるよ。なんで死にたいの?」
そう言いながら、また筆を動かし始めた。月を見て、絵を見て、また月を見る。その横顔を眺めながら、僕はしばらく考えてから、話した。
「天涯孤独ってやつでさ。物心付いた頃から施設で育ってね。今年から自立支援ってことで施設を出て一人暮らしすることになったんだけど、一人になったら猛烈な孤独感に襲われてさ。何だろう、誰もいない世界に放り出された気持ちになった。街に出て、どれだけ多くの人とすれ違っても、そこに誰もいないような錯覚を起こすんだ。だから、俺がいてもいなくても世界って変わらないんだろうなって、何か悟った」
こんなに熱を込めて自分の内側を人に晒したことはなかった。自分でも驚くくらい言葉が出てきた。彼女はペンを置いて、僕の話を聞いていた。月を見るのをやめて、僕の方を見ていた。綺麗な顔をしていると思った。どうせ死ぬなら最後に綺麗なものを見てからと思っていたが、こんなところに綺麗なものがあった。そのことを、自分でも不思議なほど冷静に感じていた。
「じゃあ、君が死ぬ理由なくなっちゃったね」
彼女が微笑みながら言った。
「どういうこと?」
「今、私との会話は無機質? 今、私と一緒にいて孤独を感じてる?」
どちらの答えもノーだった。今、僕は確かに目の前の誰かを認識していた。彼女の言葉が届いて、僕の言葉が彼女に届いていた。世界に一人きりではなかった。少なくとも今この瞬間は、二人いた。そのことに気づいた瞬間、彼女との距離の近さに急に気恥ずかしさを覚えた。人一人がぎりぎり入るかどうかくらいの距離しかなかった。
「ほら、私によって君の主張は全て覆された。反論できるならどうぞ」
彼女はさらに笑みを深めた。屈託のない、勝ち誇ったような顔をしていた。僕は何も言えなかった。
「……月、綺麗だね」
出てきたのはそれだけだった。形勢が悪すぎて、とっさに夜空に逃げた。
「あはは、誤魔化すの下手過ぎだろ。でも本当に綺麗だよね」
彼女の笑い声が夜の空気に溶けた。いつの間にか月の話になっていた。僕が仕掛けたわけだが、彼女も素直に乗ってきた。月に意識が向いた途端、先ほどまでの張り詰めた何かがほぐれていくような感覚があった。
「なんで月描いてんの?」
「多分、君と同じだと思うよ。君が持ってる雑誌、私も見たんだ。そのあまりにも神々しい姿に魅了されて引き寄せられた。実は三日前から毎日来て描いてるんだ。絵を描くぐらいしか能がなくてさ」
君と同じ、という言葉が胸に刺さった。ずっと一人だと思っていた。誰かと同じを求めていたのに、それが叶わないまま生きてきた。でも今、目の前の人間がそう言った。他人と何かを共有するという感覚を、生まれて初めて味わったような気がして、目の奥が熱くなった。
「泣くなよお」
彼女がからかうような声で言った。
「泣いてないよ」
内側では感動していたが、物理的には涙は出ていなかった。否定するには充分すぎる条件だった。
「そっか。感動して泣いているのかと思ったよ」
彼女の言葉が、僕の内側を柔らかくえぐった。でもそれが心地よかった。今まで人から内側を探られることなどなかったし、こんなふうにダイレクトに言葉を投げられたこともなかった。彼女以外の人間はいつも、同情という言葉を装って聞こえのいい言葉を投げてくるだけだったが、目の前の彼女は違った。言葉を選んでいない。ただ思ったことを、僕に届けようとして声に出していた。
「感動はしているよ。月の綺麗さに」
本当は彼女の言葉に感動していたのに、また月に逃げた。
「ふうん、そっか」
彼女は穏やかな笑みを浮かべながら僕を見た。川のせせらぎだけが、静かに流れていた。
「ねえ、君の名前を教えてよ」
不意に聞かれた。自分という存在を消すためにここに来たのに、自分の存在の唯一の証である名前を言わなければならない流れになっていた。断れたと思う。でも、この人に名乗りたくなった。なぜかはわからなかった。
「夏樹だよ」
「ウッソ!? マジで言ってる? 私も夏希だよ」
二人して、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。僕の夏樹と、彼女の夏希。読み方は同じで、字が違う。
しばらく二人とも黙っていた。夏希が自分の指で何かを書くように宙をなぞりながら、ぽつりと言った。
「私達二人共さ、月に導かれてここにやって来たじゃん? よくよく考えたらさ、私達の名前って『な』を取り除いたら『つき』だよね」
言われて驚いた。自分の名前の中に月があるなんて、一度も考えたことがなかった。
「月に導かれし二人か……」
口から出てきた言葉が、自分でも少しキザっぽく思えて恥ずかしくなった。夏希がこちらを見て、目を細めた。
「へえ、カッコいいこと言うじゃん」
褒められたのかからかわれたのかわからなくて、何も言えなかった。夏希は少し間を置いてから、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、月に導かれし王子と王女なんてどう?」
「……どこの国の王様の息子と娘なんだよ?」
言ってから、自分でもくだらないと思った。でも夏希は一瞬きょとんとした後、堪えきれないように笑い出した。声を上げて、お腹を抱えて、しばらく止まらなかった。
「ごめん……息できない。さっきまで死ぬって言ってた奴からそんな言葉が飛び出すとは」
僕も笑っていた。王子どころかただの自殺志願者だった自分が、月を見ながら美少女と語らって笑い合っている。その状況がおかしくて、リュックの中のロープの重さが急に滑稽に感じられた。仮に死ぬにしても、今日ではないな、と思っていた。夏希と話していると、死ぬことさえ馬鹿馬鹿しくなってくる。そんな人間に出会ったことがなかった。夏希は思ったことを素直に口にする。そのペースに引っ張られるようにして、僕もいつの間にか軽口を叩いていた。
この人がいるなら僕は死ぬ必要なんかないのではないか、と思いかけたとき、夏希が言った。
「私ね、もうすぐ死ぬんだ」
僕は一瞬、言葉の意味が取れなかった。
「……えっ? 何で?」
「病気だよ。末期癌ってやつ。もう何をしても助からない状況だから宣告後の余生ってものを楽しんでるの。だからこんな時間に出歩いても両親は何も言わないんだよ。私の好きなことをさせてあげようってね」
夏希は淡々と言った。それは諦めた人間の静けさで、抗えない運命にすでに身を任せている顔をしていた。夏希のせいで死への憧れが遠ざかりかけていたのに、夏希の死が明確になった瞬間、全く別の種類の感情が膨れ上がってきた。この人がいなくなることへの怒りだった。月の魔力も及ばないような、理屈のない怒りだった。
「ふざけるなよ! 人が死ぬことを否定して、自分が死ぬことを肯定するなんて自分勝手だ。勝手に人に希望を持たせておいて自分は死ぬなんて、身勝手にも程がある」
自分の感情をそのままぶつけた。夏希は鋭い目つきで僕を見た。そのあまりの眼力に少し怯んだが、夏希は静かに、けれど真剣に口を開いた。
「私だって死にたくないよ。まだまだ見てみたい風景があった。目に見える綺麗なもの全てを絵に描きたかった。それだけしか望んでいなかったのに、それさえも運命は奪っていった。せっかく今日、君という新しい風景を見つけたのに。君のことも描きたかったのに……」
夏希の声が、言葉の終わりにかけてかすかに揺れた。死にたいと思っている自分と、死にたくないのに死んでいく夏希。どちらも死に向かっているのに、その向きがまるで違う。その非対称さが胸に刺さって、彼女の生は僕の生で、彼女の死は僕の死だと感じた。
「ちなみにいつまで生きられるの?」
「四日前に余命一ヵ月って言われた」
「一ヵ月か。その月はあと何日ぐらいで描き終わりそう?」
「えっとデッサンはほとんど終わったから後は色を付けるだけだけど、色には拘りたいから二週間は欲しい」
二週間。残り十二日か十三日の猶予がある。
「夏希さ、俺のこと描きたいって言ったよね? 描きなよ。その月が描き終わったらさ。それまでは生きててやるよ」
なぜそう言ったのかは、うまく説明できない。ただ、彼女の力になりたかった。それだけだった。
「夏樹はそれでいいの?」
お互いが名前で呼び合った。自分の名前と同じなのに、夏希が口にすると全く違う音に聞こえた。
「勿論いいよ。どうせ死ぬつもりだったんだし、何をしたからといって後悔することなんて何もないよ」
そう答えた瞬間、夏希がこちらの目を見た。
「夏樹、何で泣いてるの?」
「えっ? 俺……何で」
僕が泣いていた。自分でも気づいていなかった。この涙がどこから来たのかわからなかった。人のために涙を流したことがなかったから。一番泣きたいのは夏希のはずなのに、僕の方が先に泣いていた。
「ヨシヨシ」
夏希が僕の頭を優しく撫でながら、涙を拭いてくれた。体温があった。こんな当たり前のことが、こんなに新鮮に感じられるとは思わなかった。こんな人が、あと一ヵ月足らずで消えてなくなってしまうということが、信じられなかった。
「夏希、死なないでよ。せっかく知り合えたのに。せっかく生きる意味も理由も見つかったのに」
夏希の胸で泣いた。生まれて初めて、人の体温を感じながら泣いた。
「大丈夫! 私は生まれ変わる。生まれ変わって君にもう一度会いに来る。だから泣かなくて大丈夫!」
馬鹿げた言葉だとわかった。でも縋りたかった。その言葉を信じていいなら、僕はまだ生きていける。
「本当にもう一度会いに来てくれるの?」
「うん」
夏希の声が夜空に弾けた。月がその言葉を聞いていた。この月夜の下なら、どんな非現実的なことでも、願えば叶いそうな気がした。
夜が明けるまで夏希と話した。感動したり怒ったり笑ったり泣いたり、忙しい夜だった。夏希は一度帰って夜にまた来ると言った。毎日通うつもりだったらしく、僕に気を遣ったわけではないと言う。
「夏希さ、体調悪いのにあんな足場が悪い所、毎日歩いてきて大変じゃない?」
「優しいじゃん。でもね、実は抜け道があるんだよ。私の家この近くなんだけど、実はここ子供の頃はよく家族と泳ぎに来たりしてたんだよね。でもまさか、こんなに月が綺麗に見える場所だとは知らなかった。灯台下暗しってやつだよね」
夏希の言う抜け道を一緒に歩いた。少し森の中に入るが、行きの道に比べればよほど平坦で足場もよかった。森を抜けると、行きに通った大きな道に出た。
「これなら夏樹も今日から来るの楽でしょ?」
一度も毎日通うとは言っていなかったが、最初からそのつもりでいたので触れなかった。
「何時ぐらいにあそこに来るの?」
「大体二十三時ぐらいだね。あの雑誌の影響もあってさ、二十二時ぐらいまでは案外人がいたりするんだよね。だから一人になれる時間を狙って来てたんだけど、まさかの私より遅い時間に来訪者が現れた」
夏希が少し意地悪な笑みを浮かべた。
「わかった。じゃあ俺もそれぐらいの時間に来るよ。現地集合でいい?」
「オッケーだよ。じゃあ二十三時にまたあそこでね」
手を振って別れた。
別れた瞬間に、また会いたいと思った。その感情に自分が戸惑った。誰かに会いたいと思ったのは、これが初めてのことだった。いや、正確には、そういう感情を持たないようにしていた、というべきかもしれない。会いたいと思えば、会えないことへの痛みが生まれる。期待すれば、裏切られることへの怖さが生まれる。だから最初から思わないことにしていた。でも今、気づけばそうしていた。
帰り道、リュックを背負いながら歩いていると、ロープのことを思い出した。ゴミ箱に捨てようかと思って、でも手が動かなかった。夏希に会えなくなる可能性に備えて、という理由を自分につけたが、本当はそうじゃないと歩きながら気づいていた。明日もあの場所に行くつもりでいた。行って、夏希に会って、また話す。そのために今夜の続きがあってほしかった。それは、生きることを選んだのとほとんど同じことだった。
今日、僕は死ぬはずだった。でも今、僕は明日を待っている。
「何か食べたいものある?」
静江は扉の前に立ったまま、部屋の中を覗くようにして言った。僕は荷物の整理をしていた手を止めて、少しだけ振り返る。
「特にないです」
「そっか」
それだけ言って、静江はプリンを一個、棚の上に置いて出ていった。扉の閉まる音が廊下に吸い込まれて、部屋の中はまた静かになった。
僕はしばらくそのプリンを見ていた。蓋の端にセロファンがくっついていて、値引きシールが貼ってある。静江が買ってきたのか、それとも施設のどこかにあったものを持ってきたのかは分からなかったが、どちらでもよかった。問題は別のところにあった。この人は今、仕事として僕の部屋を訪ねてきたのか、それとも本当に僕のことを心配して来たのか、どうしても判断がつかなかった。
施設で育った人間は大抵そうだと思うが、僕は大人の優しさの裏側を読もうとする癖がついていた。善意と義務の区別が、僕にはうまくつけられない。あの人はなぜそうするのか、僕のためなのか、それとも役割だからなのか、いつも考えてしまって答えが出ないまま終わる。静江のことだって、十八年間ずっとそうだった。気にかけてもらっているのは感じる。でも、それが仕事だから生まれる気遣いなのか、僕という人間に向けられた感情なのか、最後まで分からなかった。
プリンを食べた。甘さが口の中に広がって、それだけだった。
翌朝、施設を出た。
駅前のアパートの四畳半の部屋に、段ボール箱二つと布団一枚を持ち込んで、僕の一人暮らしは始まった。最初にしたのは荷物を置くことで、次にしたのは何もしないことだった。窓の外に夕方の空が広がっていくのを、壁に背中を預けながらぼんやり見ていた。腹が減ったことに気づいて、近くのスーパーまで歩いた。
惣菜コーナーで唐揚げと白米のパックを取って、レジで精算した。アパートに戻って食卓のテーブルに並べて、箸を持った。
食べようとした瞬間、手が止まった。なぜ止まったのか、自分でもよくわからなかった。腹は減っている。食べ物も目の前にある。なのに箸が動かなかった。ただ、部屋の中が静かすぎた。施設の食堂は常に誰かの声があった。椅子を引く音、食器の触れ合う音、他愛のない話し声、時には笑い声。僕はその騒がしさの中でずっと食事をしてきたのに、今ここには何もない。自分が咀嚼する音しか聞こえない場所で、初めて飯を食おうとしていた。
施設にいた頃でさえ、誰かと食べたいという気持ちから食事をしたことは一度もなかった、と今更ながら気がついた。同じ空間に人間がいて、同じ時間に同じものを口に入れていた。それだけのことだった。そもそも僕は、誰かと食べたいという感情を持ったことがなかった。いや、正確には、そういう感情を持たないようにしていた、というべきかもしれない。誰かと食べたいと思えば、それが叶わないときの空洞が生まれる。だから最初から思わないことにしていた。そうやって感情を削いでいくことで、何も期待せず、何も失わない生き方を覚えた。今この静かな部屋で一人、惣菜のパックを前にして、その削ぎ落としがいかに深く自分に染み込んでいるかを、初めてまともに感じていた。誰かと食べることを望む資格が自分にはないと、本気で信じていたのだと思う。
唐揚げを一個口に入れた。味がしないわけではなかったが、美味しいとは思わなかった。
それから数日、街に出てみた。特に目的はなかった。ただ部屋にいると息が詰まりそうで、外を歩く方がまだましだと思った。駅前の商店街を端から端まで歩いて、また戻って、特に何も買わずに帰ることを何度か繰り返した。人はたくさんいた。すれ違う人たちは皆、どこかへ向かっている。買い物袋を下げた主婦、イヤホンをつけたまま早足で歩く若いサラリーマン、友人同士で何かを話しながら笑い合う女の子たち。僕はその人の流れの中を歩いていたが、自分だけが違う場所を歩いているような感覚がどうしても拭えなかった。誰もこちらを見ない。見知らぬ他人の顔をわざわざ見ながら歩く人間などいないし、それは当然のことだとわかっていたが、その当然が重く感じられた。
商店街のベンチに座って、行き交う人を眺めていた日があった。向かいのカフェのテラス席に、二人の女の子が座って何かを話しながら笑っていた。どちらかが何かを言うたびに、もう一方が笑い返す。その繰り返しを、僕はしばらく見ていた。あの二人は今、お互いがいることを当たり前だと思っている。当たり前すぎて、それがどれだけ特別なことかも気づいていないのかもしれない。僕にはあれがなかった。生まれてから一度も、誰かと笑い合いながら時間を過ごしたことがなかった。正確には、そういうことができる人間に自分がなれると思ったことが、一度もなかった。笑い声を聞きながら、その声が自分には全く関係のない場所から届いていることを、改めて確かめていた。人の海の中にいるのに、自分だけが透明人間のようで、僕がここにいてもいなくても、この街は何も変わらないという感覚がじわじわと広がっていって、ある夜、コンビニへ立ち寄った帰りに足が止まった。
雑誌コーナーの棚の一番手前に立てかけられた観光雑誌の表紙に、月の写真があった。
真っ暗な空の中に、丸い月が浮かんでいた。川辺から撮影されたらしく、水面に光が反射して、木々のシルエットが柔らかく縁取られていた。それだけの写真なのに、動けなくなった。どこか遠い場所にある、自分には関係のない景色を見ているような気がしたのに、同時に、ここに行かなければならないという気持ちが沸き上がってきた。
どうせ死ぬなら、最後に綺麗なものを見てからにしよう、と思った。
その考えは唐突ではなかった。施設を出てからずっと、死という選択肢は頭の中に静かにあった。誰かと繋がることを諦めてきた結果として、そこに至っていた。ただ、いつどこでという具体的な絵が描けなかったが、この表紙を見て、ようやく絵が描けた気がした。死ぬ前に綺麗なものを見たいというのは、単なる衝動ではなかった。遺書を書く気にはなれなかったし、言葉を残すべき相手もいなかった。それでも、何かを残したかった。誰にも必要とされないまま消えていくとしても、自分がこの世界の美しさを確かに見たという事実だけは、死ぬ瞬間まで自分の中に残しておきたかった。自分が生きた証として、美しいものの記憶を持っていたかった。それが、切実な願いだった。
雑誌を買って帰り、中のページを開いた。観光案内の特集で、表紙の撮影地は電車で四十分ほどの場所にあるらしかった。深夜まで人がいる場所ではなさそうで、むしろ時間帯を選べば一人になれそうだと思った。この光景を誰にも邪魔されずに見て、それから静かに終わりにする。それだけの計画を立てた。
ロープをホームセンターで買ってきて、リュックに入れた。帰りの電車のことは考えなかった。必要がないから。
決行する日を決めて、最終便に乗り込んだ。
車内は空いていた。平日の深夜に近い時間帯の下り電車は、乗客がまばらだった。僕は窓側の席に座って、通路の向こうを見た。老夫婦が二人並んで座っていて、妻の方が夫の肩に頭を預けて眠っていた。夫は本を開いていたが、時折本から目を上げて妻の顔を見て、また本に戻った。それだけのことを、僕はしばらく眺めていた。明日も生きるつもりでいる人間の顔というのは、こういうものか、と思った。
数席先には高校生くらいの男女が四人いて、小声で話しながら笑い合っていた。笑い声を抑えようとして、でも抑えきれずに漏れる声が、深夜の車内には少し大きく響いた。僕はその声を聞きながら、リュックの中の重さを意識した。ロープはそれほど重くはないが、存在感があった。この車両の中で、僕だけが違う方向を向いている。それが妙に落ち着いた感覚をもたらした。もう決めたことだから、何も迷わなくていい。そういう静けさだった。
最寄り駅で降りると、改札を抜けた瞬間、空気が変わった。土と草と、水の匂いが混ざったような、柔らかい匂いが鼻の奥まで入ってきた。都会では嗅いだことのない匂いだった。僕がここに来たことを、この土地が歓迎しているような気がして、その感覚が少しだけ可笑しかった。歓迎されるような来方をしていない。
雑誌の地図を確認して歩き始めた。二十分ほど歩くと書いてあって、途中から山の谷に向かって下っていく道になる。街灯は少なく、進むにつれて暗くなったが、月が出ていたのでそれほど困らなかった。月明かりというのは不思議なもので、光源としては弱いはずなのに、足元を確かめるには充分で、道なき道のような場所も何か所かあったが気にならなかった。怪我をしても関係ない、今日が最後だから、という考えが頭の中を静かに流れていた。
そう思いながら歩いていると、下の方に木々が開けて、川が流れているのが見えた。川辺まで降りて、雑誌のページを広げ、目の前の風景と重ねようとした。月の位置、川の角度、木々の輪郭、全体の構図。九十九パーセントは一致していたが、何かが微妙に違う。撮影地点を探すように、川沿いを行ったり来たりしながら百パーセントの一致を探した。
探しながら歩いていると、川のせせらぎと虫の声の隙間に、別の音が聞こえてきた。
「多分、ここだと思うよ」
静寂を切り裂くような、鋭い声だった。大きな声ではなかったのに、夜の空気に紛れることなく、まっすぐ届いた。今まで内側へ内側へと向き続けていた意識が、その声に引っ張られるようにして一斉に外側へ開いていく感じがした。死を前にして研ぎ澄まされていたはずの感覚が、自分の外にある何かを捉えようとして初めて前を向いた。世界の中にいるのに世界から切り離されているような感覚がずっと続いていたのに、その声が届いた瞬間だけ、切り離しが解けたような気がした。声のした方向を向いたが、誰もいない。あたりを見回しても、人の姿が見えなかった。
「こっちだってば」
上から声がした。見上げると、コンクリートの置物が川辺に立っていた。黒いペンキで塗り潰されていて、周囲の暗さに溶け込んでいたから気がつかなかった。展望台の一部分だけを切り取ったような形をしていて、その上に、人が座っていた。
女の子だった。スケッチブックを膝に置いてペンを握り、こちらを見下ろしていた。
側面に簡易的な梯子が取り付けてあって、それを上りきって隣に立った瞬間、息を呑んだ。数メートル高さが変わっただけで、見える景色がまるで違った。月が近かった。物理的な距離が縮まったはずはないのに、そう感じた。川面に映る光が広がって、木々の輪郭がより鮮明に浮かび上がり、空の深さが違った。月に向かって手を伸ばせば届きそうなほど、空が近くにあった。先客がいたことへの落胆は、その景色の前でどこかに消えていた。
「ねっ! 全然違うでしょ?」
彼女はそう言いながら、月の方へ視線を戻してスケッチブックにペンを走らせていた。僕の心を読んだかのように。表情は真剣で、僕に話しかけているというよりも、思ったことを声に出したという感じだった。
「何してんの?」
僕が聞くと、彼女は手を止めずに答えた。
「どこからどう見ても絵を描いているでしょ? 目、ついてないの?」
語気は強かったが、怒っているようには聞こえなかった。僕も彼女を責める気持ちがいつの間にか消えていて、月と彼女の絵を交互に眺めた。白く透き通った肌が青みがかって見えて、スッと通った鼻筋と月の光を受けた大きな目、じっと月を見据えているときの横顔に、視線が留まった。
「何? 私に見惚れてるの?」
「うん」
彼女がこちらを向いた。素直に答えた。どうせ死ぬつもりでここに来た。恥も外聞もない。嘘をつく必要性が毛頭なかった。
「そこ、恥らいを持って否定するとこでしょ? 何を百パーセントの肯定をしてるの?」
彼女は笑いながら言った。可笑しそうに、でも呆れたように。
「別に。嘘ついても仕方ないから。俺もう死ぬからさ」
その言葉を口にした瞬間、彼女の笑顔が消えた。スケッチブックの上のペンが止まって、怒りとも困惑とも取れる表情で僕をまっすぐに見た。僕は月の方を向いた。死ぬと口に出すのは初めてだった。声に出してみると、思ったより軽い言葉だった。
「贅沢な奴だね」
しばらくして彼女が言った。口調は静かで、声を荒げる気配がなかった。僕が何も答えずに月を眺めていると、彼女は続けた。
「生きたくても生きられない人が沢山いる中、自ら命を捨てようとするなんて無責任だと思わないの?」
「責任か。考えたこともなかったな」
それは本当のことだった。自分が誰かに影響を与えているという感覚が、僕にはなかった。自分のことを大事にすることもできなかったし、他人の思いにまで思慮が及ぶ発想がそもそも育っていなかった。彼女はその言葉を聞いて、少し黙った。何かを言おうとして、でも言わなかった。責めるでも哀れむでもなく、ただ僕の言葉をそのまま受け取ろうとしている、そういう間だった。同情でも説教でもない沈黙を、人からもらったことがなかったから、どう受け取ればいいのか少し戸惑った。
「一応、話を聞いてあげるよ。なんで死にたいの?」
そう言いながら、また筆を動かし始めた。月を見て、絵を見て、また月を見る。その横顔を眺めながら、僕はしばらく考えてから、話した。
「天涯孤独ってやつでさ。物心付いた頃から施設で育ってね。今年から自立支援ってことで施設を出て一人暮らしすることになったんだけど、一人になったら猛烈な孤独感に襲われてさ。何だろう、誰もいない世界に放り出された気持ちになった。街に出て、どれだけ多くの人とすれ違っても、そこに誰もいないような錯覚を起こすんだ。だから、俺がいてもいなくても世界って変わらないんだろうなって、何か悟った」
こんなに熱を込めて自分の内側を人に晒したことはなかった。自分でも驚くくらい言葉が出てきた。彼女はペンを置いて、僕の話を聞いていた。月を見るのをやめて、僕の方を見ていた。綺麗な顔をしていると思った。どうせ死ぬなら最後に綺麗なものを見てからと思っていたが、こんなところに綺麗なものがあった。そのことを、自分でも不思議なほど冷静に感じていた。
「じゃあ、君が死ぬ理由なくなっちゃったね」
彼女が微笑みながら言った。
「どういうこと?」
「今、私との会話は無機質? 今、私と一緒にいて孤独を感じてる?」
どちらの答えもノーだった。今、僕は確かに目の前の誰かを認識していた。彼女の言葉が届いて、僕の言葉が彼女に届いていた。世界に一人きりではなかった。少なくとも今この瞬間は、二人いた。そのことに気づいた瞬間、彼女との距離の近さに急に気恥ずかしさを覚えた。人一人がぎりぎり入るかどうかくらいの距離しかなかった。
「ほら、私によって君の主張は全て覆された。反論できるならどうぞ」
彼女はさらに笑みを深めた。屈託のない、勝ち誇ったような顔をしていた。僕は何も言えなかった。
「……月、綺麗だね」
出てきたのはそれだけだった。形勢が悪すぎて、とっさに夜空に逃げた。
「あはは、誤魔化すの下手過ぎだろ。でも本当に綺麗だよね」
彼女の笑い声が夜の空気に溶けた。いつの間にか月の話になっていた。僕が仕掛けたわけだが、彼女も素直に乗ってきた。月に意識が向いた途端、先ほどまでの張り詰めた何かがほぐれていくような感覚があった。
「なんで月描いてんの?」
「多分、君と同じだと思うよ。君が持ってる雑誌、私も見たんだ。そのあまりにも神々しい姿に魅了されて引き寄せられた。実は三日前から毎日来て描いてるんだ。絵を描くぐらいしか能がなくてさ」
君と同じ、という言葉が胸に刺さった。ずっと一人だと思っていた。誰かと同じを求めていたのに、それが叶わないまま生きてきた。でも今、目の前の人間がそう言った。他人と何かを共有するという感覚を、生まれて初めて味わったような気がして、目の奥が熱くなった。
「泣くなよお」
彼女がからかうような声で言った。
「泣いてないよ」
内側では感動していたが、物理的には涙は出ていなかった。否定するには充分すぎる条件だった。
「そっか。感動して泣いているのかと思ったよ」
彼女の言葉が、僕の内側を柔らかくえぐった。でもそれが心地よかった。今まで人から内側を探られることなどなかったし、こんなふうにダイレクトに言葉を投げられたこともなかった。彼女以外の人間はいつも、同情という言葉を装って聞こえのいい言葉を投げてくるだけだったが、目の前の彼女は違った。言葉を選んでいない。ただ思ったことを、僕に届けようとして声に出していた。
「感動はしているよ。月の綺麗さに」
本当は彼女の言葉に感動していたのに、また月に逃げた。
「ふうん、そっか」
彼女は穏やかな笑みを浮かべながら僕を見た。川のせせらぎだけが、静かに流れていた。
「ねえ、君の名前を教えてよ」
不意に聞かれた。自分という存在を消すためにここに来たのに、自分の存在の唯一の証である名前を言わなければならない流れになっていた。断れたと思う。でも、この人に名乗りたくなった。なぜかはわからなかった。
「夏樹だよ」
「ウッソ!? マジで言ってる? 私も夏希だよ」
二人して、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。僕の夏樹と、彼女の夏希。読み方は同じで、字が違う。
しばらく二人とも黙っていた。夏希が自分の指で何かを書くように宙をなぞりながら、ぽつりと言った。
「私達二人共さ、月に導かれてここにやって来たじゃん? よくよく考えたらさ、私達の名前って『な』を取り除いたら『つき』だよね」
言われて驚いた。自分の名前の中に月があるなんて、一度も考えたことがなかった。
「月に導かれし二人か……」
口から出てきた言葉が、自分でも少しキザっぽく思えて恥ずかしくなった。夏希がこちらを見て、目を細めた。
「へえ、カッコいいこと言うじゃん」
褒められたのかからかわれたのかわからなくて、何も言えなかった。夏希は少し間を置いてから、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、月に導かれし王子と王女なんてどう?」
「……どこの国の王様の息子と娘なんだよ?」
言ってから、自分でもくだらないと思った。でも夏希は一瞬きょとんとした後、堪えきれないように笑い出した。声を上げて、お腹を抱えて、しばらく止まらなかった。
「ごめん……息できない。さっきまで死ぬって言ってた奴からそんな言葉が飛び出すとは」
僕も笑っていた。王子どころかただの自殺志願者だった自分が、月を見ながら美少女と語らって笑い合っている。その状況がおかしくて、リュックの中のロープの重さが急に滑稽に感じられた。仮に死ぬにしても、今日ではないな、と思っていた。夏希と話していると、死ぬことさえ馬鹿馬鹿しくなってくる。そんな人間に出会ったことがなかった。夏希は思ったことを素直に口にする。そのペースに引っ張られるようにして、僕もいつの間にか軽口を叩いていた。
この人がいるなら僕は死ぬ必要なんかないのではないか、と思いかけたとき、夏希が言った。
「私ね、もうすぐ死ぬんだ」
僕は一瞬、言葉の意味が取れなかった。
「……えっ? 何で?」
「病気だよ。末期癌ってやつ。もう何をしても助からない状況だから宣告後の余生ってものを楽しんでるの。だからこんな時間に出歩いても両親は何も言わないんだよ。私の好きなことをさせてあげようってね」
夏希は淡々と言った。それは諦めた人間の静けさで、抗えない運命にすでに身を任せている顔をしていた。夏希のせいで死への憧れが遠ざかりかけていたのに、夏希の死が明確になった瞬間、全く別の種類の感情が膨れ上がってきた。この人がいなくなることへの怒りだった。月の魔力も及ばないような、理屈のない怒りだった。
「ふざけるなよ! 人が死ぬことを否定して、自分が死ぬことを肯定するなんて自分勝手だ。勝手に人に希望を持たせておいて自分は死ぬなんて、身勝手にも程がある」
自分の感情をそのままぶつけた。夏希は鋭い目つきで僕を見た。そのあまりの眼力に少し怯んだが、夏希は静かに、けれど真剣に口を開いた。
「私だって死にたくないよ。まだまだ見てみたい風景があった。目に見える綺麗なもの全てを絵に描きたかった。それだけしか望んでいなかったのに、それさえも運命は奪っていった。せっかく今日、君という新しい風景を見つけたのに。君のことも描きたかったのに……」
夏希の声が、言葉の終わりにかけてかすかに揺れた。死にたいと思っている自分と、死にたくないのに死んでいく夏希。どちらも死に向かっているのに、その向きがまるで違う。その非対称さが胸に刺さって、彼女の生は僕の生で、彼女の死は僕の死だと感じた。
「ちなみにいつまで生きられるの?」
「四日前に余命一ヵ月って言われた」
「一ヵ月か。その月はあと何日ぐらいで描き終わりそう?」
「えっとデッサンはほとんど終わったから後は色を付けるだけだけど、色には拘りたいから二週間は欲しい」
二週間。残り十二日か十三日の猶予がある。
「夏希さ、俺のこと描きたいって言ったよね? 描きなよ。その月が描き終わったらさ。それまでは生きててやるよ」
なぜそう言ったのかは、うまく説明できない。ただ、彼女の力になりたかった。それだけだった。
「夏樹はそれでいいの?」
お互いが名前で呼び合った。自分の名前と同じなのに、夏希が口にすると全く違う音に聞こえた。
「勿論いいよ。どうせ死ぬつもりだったんだし、何をしたからといって後悔することなんて何もないよ」
そう答えた瞬間、夏希がこちらの目を見た。
「夏樹、何で泣いてるの?」
「えっ? 俺……何で」
僕が泣いていた。自分でも気づいていなかった。この涙がどこから来たのかわからなかった。人のために涙を流したことがなかったから。一番泣きたいのは夏希のはずなのに、僕の方が先に泣いていた。
「ヨシヨシ」
夏希が僕の頭を優しく撫でながら、涙を拭いてくれた。体温があった。こんな当たり前のことが、こんなに新鮮に感じられるとは思わなかった。こんな人が、あと一ヵ月足らずで消えてなくなってしまうということが、信じられなかった。
「夏希、死なないでよ。せっかく知り合えたのに。せっかく生きる意味も理由も見つかったのに」
夏希の胸で泣いた。生まれて初めて、人の体温を感じながら泣いた。
「大丈夫! 私は生まれ変わる。生まれ変わって君にもう一度会いに来る。だから泣かなくて大丈夫!」
馬鹿げた言葉だとわかった。でも縋りたかった。その言葉を信じていいなら、僕はまだ生きていける。
「本当にもう一度会いに来てくれるの?」
「うん」
夏希の声が夜空に弾けた。月がその言葉を聞いていた。この月夜の下なら、どんな非現実的なことでも、願えば叶いそうな気がした。
夜が明けるまで夏希と話した。感動したり怒ったり笑ったり泣いたり、忙しい夜だった。夏希は一度帰って夜にまた来ると言った。毎日通うつもりだったらしく、僕に気を遣ったわけではないと言う。
「夏希さ、体調悪いのにあんな足場が悪い所、毎日歩いてきて大変じゃない?」
「優しいじゃん。でもね、実は抜け道があるんだよ。私の家この近くなんだけど、実はここ子供の頃はよく家族と泳ぎに来たりしてたんだよね。でもまさか、こんなに月が綺麗に見える場所だとは知らなかった。灯台下暗しってやつだよね」
夏希の言う抜け道を一緒に歩いた。少し森の中に入るが、行きの道に比べればよほど平坦で足場もよかった。森を抜けると、行きに通った大きな道に出た。
「これなら夏樹も今日から来るの楽でしょ?」
一度も毎日通うとは言っていなかったが、最初からそのつもりでいたので触れなかった。
「何時ぐらいにあそこに来るの?」
「大体二十三時ぐらいだね。あの雑誌の影響もあってさ、二十二時ぐらいまでは案外人がいたりするんだよね。だから一人になれる時間を狙って来てたんだけど、まさかの私より遅い時間に来訪者が現れた」
夏希が少し意地悪な笑みを浮かべた。
「わかった。じゃあ俺もそれぐらいの時間に来るよ。現地集合でいい?」
「オッケーだよ。じゃあ二十三時にまたあそこでね」
手を振って別れた。
別れた瞬間に、また会いたいと思った。その感情に自分が戸惑った。誰かに会いたいと思ったのは、これが初めてのことだった。いや、正確には、そういう感情を持たないようにしていた、というべきかもしれない。会いたいと思えば、会えないことへの痛みが生まれる。期待すれば、裏切られることへの怖さが生まれる。だから最初から思わないことにしていた。でも今、気づけばそうしていた。
帰り道、リュックを背負いながら歩いていると、ロープのことを思い出した。ゴミ箱に捨てようかと思って、でも手が動かなかった。夏希に会えなくなる可能性に備えて、という理由を自分につけたが、本当はそうじゃないと歩きながら気づいていた。明日もあの場所に行くつもりでいた。行って、夏希に会って、また話す。そのために今夜の続きがあってほしかった。それは、生きることを選んだのとほとんど同じことだった。
今日、僕は死ぬはずだった。でも今、僕は明日を待っている。


