向こうの君の余白

髪を整えて、薄くメイクをした。

クローゼットの前で少し迷って、ちゃんとした服に着替える。

鏡の前に立つと、心臓がまだ落ち着いていないのがわかる。

深く息を吸って、それから家を出た。

夏の空気が熱くて、息が少し苦しい。

それでも足は止まらない。

彼が熱愛を出したことも、頭の中から消えていた。

ただ、橋本くんの言葉だけが残っている。

――黒川さんに、会いたいです。

その一言だけが、私を前に進ませていた。

気づけば、橋本くんの家の前に立っていた。

呼吸を整えながら、ゆっくり顔を上げる。

ここに来たのはいいものの、インターホンの前で手が止まる。

本当に押していいのだろうか。

もし迷惑だったら。

そもそも、家にいないかもしれない。

急に来るなんて、変だと思われるかもしれない。

いろんな考えが頭の中をぐるぐる回る。

胸の奥が、また強く鳴り始める。

帰ったほうがいいのかもしれない。

そう思って一歩下がろうとした。

だけど、そのとき。

橋本くんのメッセージが頭に浮かぶ。

――会いたいです。

そう言ってくれたのは、橋本くんのほうだ。

私は小さく息を吸う。

震える指を、ゆっくりインターホンへ伸ばした。

そして、そっとボタンを押す。

「……」

静かな電子音が鳴る。

心臓の音がうるさいくらい大きく響いている。

数秒。

とても長く感じた。

そのときだった。

カチ、と鍵の開く音がして、玄関のドアがゆっくり開いた。

「会いたかったです」

ドアが開いた瞬間、橋本くんはそう言った。

次の瞬間、彼の腕が私の背中に回る。

抱きしめられるような体勢になっていた。

一瞬、何が起きたのかわからなかった。

近い。

すぐ目の前に、橋本くんの肩があって、彼の体温が伝わってくる。

心臓の音が、さっきまでよりもずっと大きくなった。

「えっと、橋本くん……?」

戸惑った声が、自然と口からこぼれる。

すると橋本くんは、はっとしたように腕を離した。

「あっ、ごめんなさい」

少しだけ慌てた様子で後ろに下がる。

「中、入ってください」

そう言って、玄関の横に体をずらした。

私は少し迷ったあと、ゆっくり家の中に足を踏み入れる。

あの日、一度来た場所。

見覚えのある玄関。

けれど、あのときとは全然違う空気が流れている気がした。

ドアが静かに閉まる。

数秒、沈黙が落ちた。

私は靴を脱ぎながら、小さく口を開く。

「急に来て、ごめんなさい」

橋本くんはすぐに首を振った。

「いえ。来てくれて嬉しいです」

その言葉に、胸がまた少し揺れる。

私はゆっくり顔を上げる。

橋本くんは、さっきまでとは違って、少し真剣な表情をしていた。

まっすぐ、私を見ている。

その視線に、少しだけ緊張する。

「ここ座ってください」

言われた場所に座る。

真横に橋本くんが座った。

「黒川さん」

静かな声で、名前を呼ばれる。

「はい」

「ずっと、聞きたかったことがあるんです」

橋本くんはそう言って、少しだけ間を空けた。

それから、静かに続ける。

「どうして、僕のこと避けてたんですか」

静かな声だった。

責めているわけでもなくて、ただ本当に理由を知りたい、そんな声。

私はすぐに答えることができなかった。

視線を少しだけ下げる。

玄関の床をぼんやり見つめながら、言葉を探す。

どう言えばいいんだろう。

正直に言っていいのか。

言ったら、きっと変に思われる。

それでも、ここまで来て黙っているのもおかしい。

私は小さく息を吸った。

「……ニュースを見ました」

橋本くんが少しだけ眉を動かす。

「ニュース?」

「橋本くんの……熱愛の」

言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛くなる。

橋本くんは一瞬きょとんとした顔をした。

それから、少しだけ困ったように笑う。

「ああ……それ」

まるで大したことじゃないみたいに言う。

私は思わず顔を上げた。

「落ち込みました」

自分でも驚くくらい、少し強い声になっていた。

「橋本くんは人気だし、女優さんと噂になってて……」

言いながら、だんだん声が小さくなる。

こんなこと言う資格、ないのに。

私はぎゅっと手を握った。

「だから、距離置いたんです」

橋本くんは黙って私の話を聞いている。

私は続ける。

「だって、橋本くんと私じゃ全然違うし」

言葉が少し詰まる。

「一緒にいるの見られたら迷惑かけるかもしれないし」

胸の奥が苦しくなる。

それでも最後まで言った。

「だから、会わないほうが良いかなって」

玄関の空気が静かになる。

しばらく誰も話さなかった。

私は視線を落としたまま、小さく息を吐く。

やっぱり変だと思われたかもしれない。

そう思った、そのとき。

橋本くんが、小さく笑った。

「黒川さん」

優しく名前を呼ばれる。

私はゆっくり顔を上げた。

橋本くんは、少し呆れたような、それでいて優しい表情をしていた。

「そのニュース、デマですよ」

橋本くんはあっさりと言った。

私は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

「……え?」

間の抜けた声が出る。

橋本くんは少し肩をすくめる。

「映画で共演しただけです。撮影終わりにスタッフ含めてご飯行ったところを撮られて」

少し困ったように笑った。

「それがいつの間にか“熱愛”になってました」

頭の中が一瞬、真っ白になる。

じゃあ、あの記事は。

あのニュースは。

「……付き合ってないんですか?」

思わず聞いてしまう。

橋本くんはきっぱり言った。

「付き合ってないです」

それから少しだけ首を傾ける。

「というか、付き合えないです」

胸がどくっと鳴る。

「え……?」

橋本くんは少しだけ視線を逸らして、また私を見る。

さっきまでより、少し真剣な顔だった。

「好きな人、いますし」

その言葉に、心臓が強く跳ねる。

部屋の空気が急に静かになった気がした。

私は何も言えない。

橋本くんは一歩だけ近づく。

さっき玄関で抱きしめられたときと同じくらいの距離。

「だから黒川さん」

静かな声で言う。

「急に避けられて、めちゃくちゃ焦りました」

少し苦笑する。

「嫌われたのかと思って」

その言葉に、胸がぎゅっとなる。

私は慌てて首を振った。

「嫌ってないです!」

思わず声が大きくなる。

橋本くんの目が少し丸くなる。

「安心しました」

橋本くんは、いつもの優しい笑顔を見せた。

さっきまでの真剣な空気が、少しだけ柔らぐ。

「それより」

そう言って、彼は一歩近づいた。

顔が、ゆっくりと近づく。

思わず息を止める。

こんなに近くで見たのは、初めてかもしれない。

心臓の音が、自分でもわかるくらい大きい。

橋本くんは私の目をまっすぐ見つめたまま言う。

「落ち込んだって、どうしてですか?」

その言葉に、一瞬思考が止まる。

「……え?」

橋本くんは少しだけ首を傾けた。

「さっき言ってましたよね。ニュース見て落ち込んだって」

私は慌てて視線を逸らす。

そんなこと、さっき確かに言った。

けど改めて聞かれると、どう答えればいいのかわからない。

胸の奥がまたざわつく。

しばらく黙っていると、橋本くんが小さく笑った。

少しだけ声を落とす。

「僕のこと好きなんですか?」

図星すぎて、言葉が出ない。

顔がどんどん熱くなるのがわかる。

橋本くんはその様子を見て、ふっと笑った。

「そんな顔されたら」

橋本くんは一瞬だけ言葉を止めた。

それから、小さく息を吐く。

「もう、隠せないです」

私の目をまっすぐ見つめる。

逃げ場なんて、どこにもない。

そして、ゆっくり言った。

「僕は、黒川さんのことが好きです」

頭の中が真っ白になる。

心臓の音だけが、やけに大きく響いている。

橋本くんは少しだけ照れたように笑った。

「ずっと好きでした」

その一言で、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

「だから」

彼は少しだけ顔を近づける。

声が、すぐそばで聞こえた。

「避けられてた一ヶ月、正直めちゃくちゃしんどかったです」

それでも、優しく笑う。

「でも今日、来てくれてよかった」

そして、少しだけ真剣な顔になる。

「黒川さん」

ゆっくり、名前を呼ぶ。

「僕と、付き合ってくれませんか」

胸がいっぱいになって、うまく呼吸ができない。

何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。

すると橋本くんは、少しだけ困ったように笑った。

「黒川さん」

優しく名前を呼ぶ。

「黙ってるってことは……」

少しだけ間をあける。

その数秒がやけに長く感じた。

「断られてないって思っていいですか」

私は慌てて顔を上げた。

「あっえっと……」

声が震える。

「私も……好きです」

言った瞬間、胸がどくんと大きく鳴った。

橋本くんの目が少し大きくなる。

それから、ふっと力が抜けたように笑った。

「よかった……」

小さくつぶやく。

次の瞬間だった。

ぐっと腕を引かれる。

気づけば、橋本くんの胸に抱き寄せられていた。

「え……っ」

驚いて声が漏れる。

橋本くんの腕が、しっかり背中に回っている。

さっきの軽い抱きしめ方とは違う。

逃がさないみたいに、少し強い。

「瑞稀」

耳のすぐ近くで声がする。
初めて名前で呼ばれて心臓が鳴り止まない。

「ほんとに好きです」

その声が、少しだけ震えていた。

私はどうしていいかわからなくて、ぎこちなく彼の服をつかむ。

すると橋本くんが少しだけ体を離した。

でも距離はまだ近い。

目が合う。

ほんの少しの沈黙。

橋本くんの視線が、私の目からゆっくり下に落ちる。

また目が合う。

「……キスしてもいいですか」

心臓が跳ね上がる。

言葉が出ない。

だけど体は逃げなかった。

橋本くんはそれを見て、小さく笑った。

「逃げないんですね」

からかうような声。

次の瞬間、彼の手がそっと私の頬に触れた。

指先がやさしく触れる。

そして、ゆっくり顔が近づく。

息が触れそうな距離。

心臓が壊れそう。

そのまま、橋本くんの唇がそっと触れた。

一瞬だけの、やわらかいキス。

橋本くんの唇が離れても、距離はほとんど変わらなかった。

息が触れそうなくらい近い。

私はまだ何が起きたのか理解できなくて、ぼんやり彼を見上げる。

橋本くんはそんな私を見て、少しだけ笑った。

「……そんな顔します?」

からかうみたいな声。

顔が一気に熱くなる。

「だ、だって……」

言葉が続かない。

橋本くんは小さく息を吐いた。

それから、もう一度私の頬に手を添える。

さっきより優しく。

親指でそっと触れる。

「黒川さん」

名前を呼ばれる。

その声がやけに甘い。

「可愛い」

思わず目を見開く。

「え……」

橋本くんは少しだけ照れたように笑った。

「そんな顔で見られたら」

少しだけ顔を近づける。

「またキスしたくなるんですけど」

胸が一気に跳ね上がる。

私は慌てて視線を逸らす。

すると橋本くんが小さく笑った。

「逃げないでください」

そのまま、また腕を引かれる。

今度はさっきより自然に、彼の胸に抱き寄せられた。

背中に回る腕が温かい。

さっきよりも、少しだけ優しい抱きしめ方。

「……やっと」

橋本くんが小さくつぶやく。

「やっと捕まえたのに」

胸がどくんと鳴る。

「一ヶ月も逃げられてたんですよ」

少しだけ拗ねた声。

私は彼の服をぎゅっとつかむ。

「ご、ごめんなさい」

すると橋本くんが、くすっと笑った。

「今さら謝られても」

そう言いながら、少しだけ体を離す。

でも手は離さない。

指が私の手をそっと包む。

そして指を絡める。

恋人繋ぎ。

心臓がまた暴れ出す。

橋本くんはそのまま私の手を見て、小さく笑った。

「ちゃんと捕まえとかないと」

それから私を見る。

その目が少しだけ真剣になる。

「またどこか行きそうだから」

胸がぎゅっとなる。

私は首を振る。

「もう行きません」

小さく言う。

橋本くんの目が少しだけ柔らかくなる。

「ほんとですか?」

私はうなずく。

すると橋本くんは少しだけ嬉しそうに笑った。

そして、指を絡めたまま私の手を引く。

「これで逃げられませんね」

そう言って、もう一度だけ。

さっきより少し長く、静かなキスをした。