向こうの君の余白

それからというもの、毎朝のように橋本くんは私を見つけて声をかけてきた。

「黒川さん、今日少し時間ありますか?」

同じ言葉。

同じ声。

そのたびに、胸が少しだけ痛くなる。

「ないです」

私はその一言を繰り返した。

本当は時間なんて、いくらでもある。

昼休みも、放課後も。

だけど、話してしまったらきっと全部こぼれてしまう気がした。

ニュースを見たあの日から、橋本くんの顔をまっすぐ見ることができない。

だから私は、嘘をついた。

そのたびに胸がぎゅっと締めつけられる。

こんな嘘をつき続けるくらいなら、最初から距離を置いたほうがいい。

そう思って、朝は遅刻ギリギリで登校するようになった。

橋本くんに会わないようにするために。

校門を通る時間を、ぎりぎりまで遅らせる。

階段も、なるべく人の多い時間を避ける。

メッセージも、あの日からずっと未読のままだ。

スマホを開くたびに、画面の上に橋本くんの名前が表示されている。

それを見るたび、胸がざわつく。

だけど、開くことはできなかった。

もし読んでしまったら、きっとまた期待してしまう。

そんな生活が2週間ほど続いた。

学校ですれ違うことはあっても、言葉を交わすことはない。

橋本くんはもう、私に声をかけてこなくなった。

それが少しだけ寂しくて、でもどこかでほっとしている自分もいる。

きっとこれでよかったんだと思う。

橋本くんと私は、もともと交わるはずのない世界の人間だから。

窓の外を見る。

夏の暖かい風が、校庭の木を静かに揺らしていた。

橋本くんと一緒に笑って話せていたのは、ほんの数日だけ。

短い、夢みたいな時間だった。

彼とは曖昧な関係なまま、夏休みに入った。


夏休みに入ってから、家で過ごす時間が増えた。

特にすることもなく、なんとなくテレビをつける。

すると、また聞き覚えのある声が流れてきた。

視線を画面へ向ける。

そこには、橋本くんが映っていた。

最近は、テレビをつけるたびに彼の姿を見る気がする。

バラエティ番組でも、インタビューでも、CMでも。

どの番組でも、橋本くんは変わらず楽しそうに笑っていた。

先週公開された橋本くんの主演映画が、大ヒットしたらしい。

ニュースでも、ネットでも、その話題ばかり流れている。

「今最も勢いのある若手俳優」

そんな言葉までつけられていた。

スタジオの人たちが口々に彼の名前を出している。

画面の中の橋本くんは、相変わらず整った顔で、少し照れたように笑っていた。

学校で見ていた姿と同じなのに、どこか別人のようにも感じる。

テレビの中の人。

そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。

あの頃は、同じ学校で。

同じ廊下を歩いて。

ほんの少しだけ、近くにいたはずなのに。

今はもう、完全に遠い場所にいる人みたいだ。

届かない存在。

きっと最初から、そうだったのだと思う。

ただ、ほんの少しだけ。

夢を見てしまっただけだ。

私はリモコンを持ったまま、画面をぼんやりと見つめる。

橋本くんはインタビューで何か質問されていた。

アナウンサーの人が笑顔で聞く。

「映画も大ヒットしてますし、すごく忙しいと思うんですけど、学校生活との両立ってどうですか?」

橋本くんは一瞬だけ考えるように目線を下げた。

それから少しだけ笑う。

「正直、忙しいですね」

スタジオから軽く笑いが起こる。

橋本くんは続けて言った。

「でも学校は普通に通えています。友達もいるので」

その言葉を聞いた瞬間、胸が少しだけざわついた。

友達。

その友達の中に、私も含まれていたらいいな。

ふと、そんなことを思ってしまう。

……なんて図々しい。

すぐに自分で自分に呆れる。

距離を置いたのは、私のほうなのに。

橋本くんが声をかけてくれていたのに、私はずっと逃げ続けてきた。

今さら、そんなこと思うなんて。

それでも、胸の奥に小さな気持ちが残っていた。

橋本くんに会って話したい。

ちゃんと顔を見て、言葉を交わしたい。

どうしてあんなふうに避けてしまったのか。

どうして何も言わなかったのか。

そんなことを考えていると、胸がぎゅっと締めつけられる。

私はゆっくりスマホを手に取った。

画面を開く。

メッセージの一覧の一番上。

そこに、ずっと表示されたままの名前。

――橋本くん。

指先が少し震える。

あの日から、一度も開いていないメッセージ。

しばらく画面を見つめたあと、私はそっとトークを開いた。

そこに残っていたのは、橋本くんからのメッセージ。

『よかったら今度一緒にお出かけしませんか』

たった一行。

それだけの言葉なのに、胸が強く揺れる。

一ヶ月前のメッセージ。

今さら返したところで、もう遅いかもしれない。

もしかしたら、もう忘れているかもしれない。

それでも。

画面の文字を見つめていると、胸の奥がじんわり熱くなった。

私はキーボードを開く。

指を動かそうとして、止まる。

なんて返せばいいんだろう。

「ごめんなさい」

それとも、

「今からでもいいですか」

色んな言葉が頭に浮かんでは消えていく。

画面の上には、まだあの一行が残っている。

『よかったら今度一緒にお出かけしませんか』

私は小さく息を吐いた。

そして、ゆっくりと指を動かす。

――そのときだった。

スマホの画面に、新しいメッセージが表示された。


一瞬、呼吸が止まる。

『急に送ってごめんなさい』

その一行を見ただけで、胸がざわつく。

すぐに次のメッセージが届いた。

『黒川さん、元気ですか』

たったそれだけの言葉なのに、指先が震えた。

一ヶ月。

私はずっと避けてきた。

メッセージも開かず、話すこともなくて。

それなのに橋本くんは、またこうして連絡をくれた。

どうして。

画面を見つめながら、私はゆっくり息を吐く。

胸の奥に押し込めていた気持ちが、少しずつ浮かび上がってくる。

会いたい。

話したい。

でも——。

そのとき、また新しいメッセージが届いた。

『急にこんなこと言うの変かもしれないんですけど』

数秒の間。

画面の向こうで、橋本くんが文字を打っているのがわかる。

そして、次の言葉が送られてきた。

『黒川さんに、会いたいです』

その一行を見た瞬間、胸の奥が強く揺れた。