向こうの君の余白


テレビから、聞き覚えのある声が流れてきた。

ぼんやりしていた意識が、その声に引き寄せられる。

ふと視線をテレビへ向けると、そこには橋本くんの姿が映っていた。

スタジオの明るい照明の中で、橋本くんは楽しそうに笑っている。

隣には、綺麗な女優さんが座っていた。

画面越しでもわかるくらい整った顔立ちで、笑うたびに空気が華やかになるような人だった。

司会者が何かを話すと、二人は顔を見合わせて笑う。

その様子はとても自然で、仲が良さそうに見えた。

橋本くんも、学校で見せる表情とは少し違う笑顔を浮かべている。

テレビの中の橋本くんは、やっぱり遠い存在だ。

その光景を見ているうちに、胸の奥が少しだけ苦しくなった。

どうしてだろう。

ただテレビを見ているだけなのに。

隣にいるのは、仕事で一緒になった女優さん。仕事だからしょうがない。

そう分かっているのに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

リモコンを握ったまま、私は画面を見つめ続けていた。

橋本くんは楽しそうに話している。

スタジオの人たちも笑っていて、明るい空気が画面越しに伝わってくる。

だけど、その光景を見れば見るほど、自分との距離を思い知らされる気がした。

昼休みの階段での会話が、ふと頭に浮かぶ。

「黒川さんと話すの、楽しいので」

あの言葉。

あの優しい声。

あのときの距離。

思い出すたびに胸が温かくなるのに、今は少しだけ痛かった。

やっぱり住む世界が違う。

テレビに出て、たくさんの人に囲まれて。

隣には、あんなに可愛い女優さんがいて。

そんな人が、どうして私なんかと話すのが楽しいと思えるのだろう。

勝手に期待して。

勝手に浮かれて。

もし全部ただの勘違いだったら、きっとすごく恥ずかしい。

私はリモコンを持ち直した。

そして、そっとテレビの電源を切る。

画面が暗くなり、部屋の中が急に静かになった。

さっきまで賑やかだった空気が、嘘みたいに消えていく。

ソファにもたれながら、ぼんやり天井を見上げる。


机の上に置いていたスマホが、小さく震えた。

なんだろう。

私はゆっくりスマホを手に取った。

通知欄を見てみると、一件のニュースが届いていた。

ただの芸能ニュースのはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく。

嫌な予感のようなものが、静かに広がっていく。

一瞬開くのをためらった。

けれど、そのままにしておくことも嫌で、恐る恐るニュースを開く。

画面が切り替わる。

そして次の瞬間、大きな見出しが目に飛び込んできた。

【熱愛、大人気高校生モデル『橋本蒼大』、女優『井上華』3歳差の恋】

大きく表示された見出し。

その文字を見た瞬間、思考が止まった。

一瞬、意味が理解できない。

ただ画面の文字をじっと見つめる。

もう一度、ゆっくりと読み直す。

【熱愛】

【橋本蒼大】

胸の奥が、どくんと大きく鳴った。

指先が少し震える。

記事の下には写真が載っていた。

そこには、橋本くんとさっきテレビで見た女優さん――井上華さんが並んで写っている。

二人はカフェの前らしい場所で立っていて、自然に会話をしているところを撮られていた。

橋本くんは少し笑っていて、井上華さんも楽しそうに話している。

二人の距離は思っていたより近かった。

まるで、本当に恋人みたいだった。

さっきテレビで見た光景が頭の中に浮かぶ。

楽しそうに笑いながら話していた二人。

あの時感じた、少しの息苦しさ。

その理由が、今わかった気がした。

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

やっぱり住む世界が違う。

テレビに出て、芸能人と並んで。

隣には、あんなに綺麗な女優さんがいて。

そんな人が、どうして私なんかと。

「……バカみたい」

小さくつぶやいた声は、思っていたよりかすれていた。

勝手に期待して。

勝手に浮かれて。

勝手に落ち込んでいる。

橋本くんと私は、ただのクラスメイト。

それ以上でも、それ以下でもない。

スマホの画面が少しぼやけた。

私は慌ててまばたきをする。

泣く理由なんてない。

そう思いながら、ゆっくり息を吐いた。

そのときだった。

握っていたスマホが、また小さく震えた。

もう一度スマホに視線を移す。

画面が光っている。

そこに表示されていた名前を見て、胸がまた強く鳴った。

――橋本くん。

さっき見たニュースの見出しが、頭の中によみがえる。

私はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。

橋本くんからのメッセージ。

開くべきなのか。

けれど今見たら余計に辛くなるだけ。

指が画面の上で止まったまま、動かなかった。


次の日、登校すると学校中は橋本くんのニュースの話題で溢れていた。

あのニュースを見るまでは足取りが軽かったのに今は重くて仕方がない。

「あっ橋本くんじゃない?」

振り返るとそこには橋本くんの姿があった。

今は話したくない。

そう思って教室へ急いだ。



「黒川さん」

私の名前を呼びながら、誰かがこちらへ走ってくる足音が聞こえる。

振り返らなくてもわかる。

その声は、橋本くんだった。

今、顔を合わせて話してしまったら——
きっと泣いてしまう。

昨日見たニュースの見出しが、頭の中から離れない。

早くこの場から離れたほうがいい。

そう思うのに、足が動かない。

胸の奥がぎゅっと締めつけられて、呼吸まで浅くなる。

足音がだんだん近づいてきてすぐ後ろで止まった。

「黒川さん」

もう一度、優しく名前を呼ばれる。

ゆっくり振り返ると、橋本くんが心配そうな表情で立っていた。

「おはようございます」

橋本くんがいつも通りの声で言う。

その自然な様子が、逆に胸に刺さった。

「おはようございます」

できるだけ普通に聞こえるように返す。

ちゃんと笑えているか、自分でもわからない。

橋本くんは少しだけ安心したように息を吐いた。

「昨日、メッセージ送ったんですけど」

その言葉に、胸がどきっと鳴る。

私は視線を少しだけ逸らす。

「ごめんなさい。昨日は早く寝たので」

できるだけ軽く言ったつもりだった。

だけど、自分でもわかるくらい声が少し硬かった。

橋本くんは一瞬だけ黙る。

そして、少しだけ首をかしげた。

「そうだったんですね」

その声は穏やかだったけれど、どこか様子をうかがうようにも聞こえた。

沈黙が落ちる。


周りには登校してくる生徒たちの声が聞こえているのに、私たちの間だけ静かだった。

橋本くんが、少しだけ私の顔をのぞき込む。

「黒川さん」

「はい?」

「なんか……」

言いかけて、橋本くんは少し言葉を探すように視線を落とした。

そしてもう一度、私を見る。

「今日、元気ないですよね」

その一言で、胸の奥が大きく揺れた。

気づかないでほしかった。

優しくしないでほしかった。

そんなことされたら、余計につらい。

私は慌てて小さく首を振る。

「そんなことないですよ」

「そうですか?」

橋本くんはまだ少し心配そうな顔をしている。

私は無理やり口元を上げた。

「大丈夫です」

そう言いながら、胸の奥で何かが崩れそうになるのを必死に押さえていた。


「今日、昼休み時間ありますか?」

橋本くんが少しだけ遠慮するように言った。

その声はいつもより少し静かだった。

私は一瞬、答えるのを迷う。

昼休みなら、本当は時間はある。

だけど——。

あのニュースを見たあとで、橋本くんと二人きりで話すなんて、きっと耐えられない。

「ごめんなさい。先生に頼まれていることがあって」

できるだけ自然に聞こえるように答える。

橋本くんは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

それでもすぐに頷く。

「じゃあ放課後は?」

続けて聞かれた言葉に、胸がきゅっと痛む。

橋本くんの声は真剣だった。

逃げ場をなくされている気がして、私は一度視線を下げる。

「今日は予定があって」

短く答える。

橋本くんは一瞬だけ黙った。

けれどすぐに、また口を開く。

「授業の間の空き時間でも良いです。少し話したいです」

その言い方は、どこか必死だった。

普段の余裕のある橋本くんとは少し違う。

胸の奥が揺れる。

どうしてそんな顔をするの。

どうしてそんなふうに言うの。

期待してしまうじゃないか。

私はぎゅっと指先を握る。

期待してはいけない。

もう、わかっているはずだ。

「ごめんなさい、予定があります」

自分でも驚くくらい、はっきりとした声だった。

橋本くんは、少しだけ目を見開く。

そしてすぐに小さく笑った。

「それはしょうがないですね」

その笑顔はいつもと同じように見えたけれど、どこか少しだけ寂しそうだった。

一瞬、胸が強く痛む。

橋本くんはそれ以上何も言わなかった。

ただ「じゃあ、また」と小さく言って、廊下の向こうへ歩き出す。

私はその背中を見送ることもできず、その場に立ったままだった。

胸の奥が、ずっと苦しい。

だけどこれで良かったんだ。

そう自分に言い聞かせながらも、どうしてか涙が出そうになるのを必死にこらえていた。