次の日の朝。
いつもと同じように制服に着替えて、家を出る。
だけど、今日は少しだけ足取りが軽かった。
理由はわかっている。
昨日の夜のメッセージ。
『じゃあ、明日』
『学校で』
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
駅までの道を歩きながら、ふとスマホを取り出す。
橋本くんとのトーク画面。
最後のメッセージは、昨日の「学校で」。
それを見ただけで、胸が少しだけ高鳴る。
スマホをしまって、電車に乗る。
窓の外をぼんやり見ながら、学校へ向かった。
学校に着くと、いつも通りの朝の景色が広がっていた。
昇降口には生徒がたくさんいて、友達同士で話している声が聞こえる。
靴を履き替えて、廊下を歩く。
だけど今日は、いつもより少しだけ周りが気になった。
橋本くんはもう来ているだろうか。
そんなことを考えてしまう。
階段を上って、教室へ向かう。
そのときだった。
廊下の向こうから、少しだけ騒がしい声が聞こえてきた。
「橋本くんじゃない?」
「ほんとだ!」
女子たちの声。
思わず足を止める。
視線の先に、人だかりができていた。
その中心にいるのは――
帽子もマスクもしていない、橋本くんだった。
やっぱり目立つ。
周りの女子たちが、少し離れたところからちらちら見ている。
私はその光景を見て、なぜか少しだけ胸がざわついた。
やっぱり橋本くんは、みんなの憧れの人なんだ。
昨日みたいに普通に話すなんて、やっぱり特別なことだったのかもしれない。
そう思って、静かにその場を通り過ぎようとした。
「黒川さん」
名前を呼ばれて、足が止まる。
ゆっくり振り向く。
人だかりの中から、橋本くんがこちらを見ていた。
周りの女子たちも、一斉にこちらを見る。
一瞬で、廊下の視線が全部集まった気がした。
橋本くんは少しだけ笑う。
「おはようございます」
まるで昨日の続きみたいに、自然な声だった。
心臓が、また大きく鳴る。
「……おはようございます」
私がそう返すと、橋本くんは少しだけ安心したように笑った。
その様子を見ていた周りの女子たちが、小さくざわつく。
「え、黒川さん?」
「知り合いなの?」
そんな声が聞こえてきた。
私はどうすればいいのかわからなくて、ただ立ち尽くしていた。
すると橋本くんが、少しだけ近づいてくる。
そして、小さな声で言った。
「昨日、ちゃんと帰れました?」
その一言で、昨日の帰り道が一気によみがえった。
「はい」
小さくうなずく。
すると橋本くんは、また優しく笑った。
「ならよかった」
橋本くんはそう言って、少しだけ目を細めた。
その瞬間、周りの女子たちのざわめきが一段と大きくなる。
「え、なに?」
「普通に話してる…」
「黒川さんって橋本くんと知り合いなの?」
ひそひそ声が聞こえてきて、私は急に恥ずかしくなった。
どうしていいかわからなくて、視線を下に落とす。
すると橋本くんが、少しだけ周りを見渡してから私のほうに顔を近づけた。
「ここで話すと目立ちますね」
小さな声でそう言う。
「……そうですね」
私も同じことを思っていた。
橋本くんは少し考えるように視線を上げる。
そしてまた、私を見る。
「昼休み、少し時間あります?」
突然の言葉に、思わず顔を上げた。
「えっ」
「昨日のこともあるので」
橋本くんは少しだけ笑う。
「ちゃんと元気か確認したいです」
その言葉に、胸がまたドキンと鳴る。
そんな理由で、人気モデルの橋本くんが私と会うなんて。
「……あります」
気づいたら、そう答えていた。
橋本くんは安心したようにうなずく。
「じゃあ昼休み、屋上の階段のところで」
「屋上?」
「人あまり来ないので」
その言い方が、どこか昨日の倉庫のことを思い出させた。
私がうなずくと、橋本くんは少しだけ満足そうに笑う。
「じゃあまたあとで」
そう言って、橋本くんは人だかりの中へ戻っていった。
周りの女子たちが一斉に橋本くんのほうを見る。
だけどその中で、何人かの視線が私にも向いているのがわかった。
私は少しだけ居心地が悪くなって、急いで教室へ向かった。
教室の席に座る。
だけど、授業の内容なんて全然頭に入ってこない。
昼休み。
屋上の階段で。
橋本くんと二人。
考えれば考えるほど、胸が落ち着かなくなる。
窓の外を見る。
青い空に、夏の強い日差し。
昨日の暑さを思い出す。
あの日から、まだ一日も経っていないのに。
なんだか、ずっと前の出来事みたいに感じた。
チャイムが鳴る。
昼休みだ。
クラスメイトたちが一斉に立ち上がって、教室がにぎやかになる。
私は少しだけ深呼吸をした。
そして、ゆっくり席を立つ。
屋上へ続く階段へ向かうために。
胸の鼓動が、また少し早くなっていた。
屋上へ続く階段の前まで来ると、廊下のにぎやかな声が少し遠くなった。
ゆっくり階段を上る。
上に行くほど、人の気配がなくなっていく。
やっぱりここはあまり人が来ない場所なんだ。
最後の段を上りきると、踊り場に人影があった。
窓の横の壁に背を預けて、スマホを見ている。
橋本くんだった。
光が横から差し込んでいて、髪が少しだけ明るく見える。
私が近づくと、橋本くんが顔を上げた。
そして、すぐに少しだけ笑う。
「来てくれたんですね」
その声を聞いた瞬間、また胸が高鳴る。
「はい」
私が答えると、橋本くんはスマホをポケットにしまった。
そして少しだけ姿勢を直す。
「体調、本当に大丈夫ですか?」
昨日と同じ質問。
だけど、なぜか少し安心する。
「大丈夫です」
「ほんとに?」
橋本くんは少しだけ距離を詰めてきた。
階段の踊り場は思っていたより狭くて、すぐ近くに橋本くんがいる。
「顔、まだちょっと赤い気がします」
「それは…」
言葉が出てこない。
暑いから。
そう言おうとしたけど、ここは日陰でそこまで暑くない。
橋本くんが、じっと私を見る。
その視線が近すぎて、心臓がうるさい。
「昨日も思ったんですけど」
橋本くんが小さく言う。
「黒川さん、すぐ無理しますよね」
「え?」
「倉庫から急に走って出ていって暑い場所に飛び込むし」
昨日のことを思い出して、恥ずかしくなる。
「あれは、その…」
理由を説明しようとして、言葉が止まる。
すると橋本くんが少しだけ困ったように笑った。
「僕、そんなに怖かったですか?」
「違います!」
思わず大きい声が出た。
橋本くんが少し驚いた顔をする。
私は慌てて続けた。
「怖いとかじゃなくて…その…」
言葉が見つからない。
うつむいてしまう。
すると、少しだけ間が空いた。
そのあと、橋本くんが静かに言う。
「よかった」
顔を上げる。
橋本くんは、少し安心したみたいに笑っていた。
「倉庫から飛び出していった時思ったんです」
「え?」
「黒川さん、僕のこと避けてるのかなって」
胸が一瞬止まったみたいになる。
「避けてないです」
小さく答える。
橋本くんは私の顔を見つめる。
その距離が、また少しだけ近くなる。
「じゃあ」
橋本くんは、少しだけ首を傾けて言った。
「これからは、逃げないでください」
その言葉が、まっすぐ胸に落ちてくる。
「せっかく仲良くなれそうだから」
優しい声だった。
だけど、どこか少しだけ真剣で。
私は何も言えなくなる。
ただ、うなずくことしかできなかった。
それを見て、橋本くんはまた笑う。
「嬉しい」
そして少しだけ、楽しそうに言った。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
静かだった階段の踊り場に、その音だけが大きく響いた。
私ははっとして顔を上げる。
「もう昼休み終わりですね」
少し名残惜しい気持ちのままそう言うと、橋本くんも同じように天井のほうを見上げた。
「ですね」
短く返事をする声が、どこか残念そうに聞こえる。
階段の下のほうから、廊下を走る足音や話し声が聞こえてきた。
みんな教室へ戻り始めているんだろう。
「戻りましょうか」
私がそう言うと、橋本くんは少しだけ間を置いてからうなずいた。
「そうですね」
二人で階段を下り始める。
さっきより少しだけ距離が近い気がして、変に意識してしまう。
階段を下りきる直前、橋本くんがふいに口を開いた。
「黒川さん」
「はい?」
振り向くと、橋本くんは少しだけ真面目な顔をしていた。
「また話しかけてもいいですか」
予想していなかった言葉に、一瞬言葉が出なくなる。
「え?」
「その…」
橋本くんは少しだけ視線をそらす。
「黒川さんと話すの、楽しいので」
胸の奥が、また小さく鳴った。
「私も…楽しいです」
そう答えると、橋本くんは少しだけ安心したように笑った。
階段を下りて廊下に出ると、さっきまでの静けさが嘘みたいににぎやかだった。
教室へ戻る途中、何人かの生徒とすれ違う。
そのたびに、ちらちらと視線を感じた。
やっぱり橋本くんは目立つ。
私は少しだけ下を向いて歩いた。
すると、隣から小さな声が聞こえる。
「気にしなくていいですよ」
顔を上げると、橋本くんがこちらを見ていた。
「どうせすぐ慣れます」
「慣れるんですか…」
思わず苦笑すると、橋本くんも少し笑う。
「たぶん。じゃあ、また」
橋本くんはそう言って、自分の教室のほうへ歩いていった。
私はその背中を、少しの間見送っていた。
教室に入って席に座る。
授業が始まっても考えるのは橋本くんのこと。
言葉一つ一つが頭に残って離れない。
期待して浮かれて。
これで勘違いだったらどうしよう。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
さっきまで温かかった胸の奥が、少しだけざわついた。
橋本くんは、誰にでも優しい人なのかもしれない。
人気モデルで、みんなに憧れられていて。
きっと、こういうふうに自然に人と話すのも慣れているんだろう。
私だけが特別なんて、そんな都合のいい話あるはずがない。
ノートを開く。
黒板には数学の式が並んでいる。
先生の声もちゃんと聞こえているはずなのに、頭の中に入ってこない。
気づけば、ペンを持ったままぼんやりしていた。
――黒川さんと話すの、楽しいので
その言葉が、また頭の中に浮かぶ。
「……もう」
小さくつぶやいてしまう。
こんなふうに考えてばかりじゃだめだ。
勘違いかもしれない。
期待しすぎたら、きっと後で恥ずかしくなる。
そう自分に言い聞かせる。
だけど、心は全然言うことを聞いてくれない。
窓の外を見る。
強い夏の日差しが校庭を照らしている。
昨日の暑さを思い出す。
もし昨日、倉庫に行かなかったら。
もし橋本くんに会わなかったら。
私がこの感情を知るのはもっと先になっていただろう。
いつもと同じように制服に着替えて、家を出る。
だけど、今日は少しだけ足取りが軽かった。
理由はわかっている。
昨日の夜のメッセージ。
『じゃあ、明日』
『学校で』
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
駅までの道を歩きながら、ふとスマホを取り出す。
橋本くんとのトーク画面。
最後のメッセージは、昨日の「学校で」。
それを見ただけで、胸が少しだけ高鳴る。
スマホをしまって、電車に乗る。
窓の外をぼんやり見ながら、学校へ向かった。
学校に着くと、いつも通りの朝の景色が広がっていた。
昇降口には生徒がたくさんいて、友達同士で話している声が聞こえる。
靴を履き替えて、廊下を歩く。
だけど今日は、いつもより少しだけ周りが気になった。
橋本くんはもう来ているだろうか。
そんなことを考えてしまう。
階段を上って、教室へ向かう。
そのときだった。
廊下の向こうから、少しだけ騒がしい声が聞こえてきた。
「橋本くんじゃない?」
「ほんとだ!」
女子たちの声。
思わず足を止める。
視線の先に、人だかりができていた。
その中心にいるのは――
帽子もマスクもしていない、橋本くんだった。
やっぱり目立つ。
周りの女子たちが、少し離れたところからちらちら見ている。
私はその光景を見て、なぜか少しだけ胸がざわついた。
やっぱり橋本くんは、みんなの憧れの人なんだ。
昨日みたいに普通に話すなんて、やっぱり特別なことだったのかもしれない。
そう思って、静かにその場を通り過ぎようとした。
「黒川さん」
名前を呼ばれて、足が止まる。
ゆっくり振り向く。
人だかりの中から、橋本くんがこちらを見ていた。
周りの女子たちも、一斉にこちらを見る。
一瞬で、廊下の視線が全部集まった気がした。
橋本くんは少しだけ笑う。
「おはようございます」
まるで昨日の続きみたいに、自然な声だった。
心臓が、また大きく鳴る。
「……おはようございます」
私がそう返すと、橋本くんは少しだけ安心したように笑った。
その様子を見ていた周りの女子たちが、小さくざわつく。
「え、黒川さん?」
「知り合いなの?」
そんな声が聞こえてきた。
私はどうすればいいのかわからなくて、ただ立ち尽くしていた。
すると橋本くんが、少しだけ近づいてくる。
そして、小さな声で言った。
「昨日、ちゃんと帰れました?」
その一言で、昨日の帰り道が一気によみがえった。
「はい」
小さくうなずく。
すると橋本くんは、また優しく笑った。
「ならよかった」
橋本くんはそう言って、少しだけ目を細めた。
その瞬間、周りの女子たちのざわめきが一段と大きくなる。
「え、なに?」
「普通に話してる…」
「黒川さんって橋本くんと知り合いなの?」
ひそひそ声が聞こえてきて、私は急に恥ずかしくなった。
どうしていいかわからなくて、視線を下に落とす。
すると橋本くんが、少しだけ周りを見渡してから私のほうに顔を近づけた。
「ここで話すと目立ちますね」
小さな声でそう言う。
「……そうですね」
私も同じことを思っていた。
橋本くんは少し考えるように視線を上げる。
そしてまた、私を見る。
「昼休み、少し時間あります?」
突然の言葉に、思わず顔を上げた。
「えっ」
「昨日のこともあるので」
橋本くんは少しだけ笑う。
「ちゃんと元気か確認したいです」
その言葉に、胸がまたドキンと鳴る。
そんな理由で、人気モデルの橋本くんが私と会うなんて。
「……あります」
気づいたら、そう答えていた。
橋本くんは安心したようにうなずく。
「じゃあ昼休み、屋上の階段のところで」
「屋上?」
「人あまり来ないので」
その言い方が、どこか昨日の倉庫のことを思い出させた。
私がうなずくと、橋本くんは少しだけ満足そうに笑う。
「じゃあまたあとで」
そう言って、橋本くんは人だかりの中へ戻っていった。
周りの女子たちが一斉に橋本くんのほうを見る。
だけどその中で、何人かの視線が私にも向いているのがわかった。
私は少しだけ居心地が悪くなって、急いで教室へ向かった。
教室の席に座る。
だけど、授業の内容なんて全然頭に入ってこない。
昼休み。
屋上の階段で。
橋本くんと二人。
考えれば考えるほど、胸が落ち着かなくなる。
窓の外を見る。
青い空に、夏の強い日差し。
昨日の暑さを思い出す。
あの日から、まだ一日も経っていないのに。
なんだか、ずっと前の出来事みたいに感じた。
チャイムが鳴る。
昼休みだ。
クラスメイトたちが一斉に立ち上がって、教室がにぎやかになる。
私は少しだけ深呼吸をした。
そして、ゆっくり席を立つ。
屋上へ続く階段へ向かうために。
胸の鼓動が、また少し早くなっていた。
屋上へ続く階段の前まで来ると、廊下のにぎやかな声が少し遠くなった。
ゆっくり階段を上る。
上に行くほど、人の気配がなくなっていく。
やっぱりここはあまり人が来ない場所なんだ。
最後の段を上りきると、踊り場に人影があった。
窓の横の壁に背を預けて、スマホを見ている。
橋本くんだった。
光が横から差し込んでいて、髪が少しだけ明るく見える。
私が近づくと、橋本くんが顔を上げた。
そして、すぐに少しだけ笑う。
「来てくれたんですね」
その声を聞いた瞬間、また胸が高鳴る。
「はい」
私が答えると、橋本くんはスマホをポケットにしまった。
そして少しだけ姿勢を直す。
「体調、本当に大丈夫ですか?」
昨日と同じ質問。
だけど、なぜか少し安心する。
「大丈夫です」
「ほんとに?」
橋本くんは少しだけ距離を詰めてきた。
階段の踊り場は思っていたより狭くて、すぐ近くに橋本くんがいる。
「顔、まだちょっと赤い気がします」
「それは…」
言葉が出てこない。
暑いから。
そう言おうとしたけど、ここは日陰でそこまで暑くない。
橋本くんが、じっと私を見る。
その視線が近すぎて、心臓がうるさい。
「昨日も思ったんですけど」
橋本くんが小さく言う。
「黒川さん、すぐ無理しますよね」
「え?」
「倉庫から急に走って出ていって暑い場所に飛び込むし」
昨日のことを思い出して、恥ずかしくなる。
「あれは、その…」
理由を説明しようとして、言葉が止まる。
すると橋本くんが少しだけ困ったように笑った。
「僕、そんなに怖かったですか?」
「違います!」
思わず大きい声が出た。
橋本くんが少し驚いた顔をする。
私は慌てて続けた。
「怖いとかじゃなくて…その…」
言葉が見つからない。
うつむいてしまう。
すると、少しだけ間が空いた。
そのあと、橋本くんが静かに言う。
「よかった」
顔を上げる。
橋本くんは、少し安心したみたいに笑っていた。
「倉庫から飛び出していった時思ったんです」
「え?」
「黒川さん、僕のこと避けてるのかなって」
胸が一瞬止まったみたいになる。
「避けてないです」
小さく答える。
橋本くんは私の顔を見つめる。
その距離が、また少しだけ近くなる。
「じゃあ」
橋本くんは、少しだけ首を傾けて言った。
「これからは、逃げないでください」
その言葉が、まっすぐ胸に落ちてくる。
「せっかく仲良くなれそうだから」
優しい声だった。
だけど、どこか少しだけ真剣で。
私は何も言えなくなる。
ただ、うなずくことしかできなかった。
それを見て、橋本くんはまた笑う。
「嬉しい」
そして少しだけ、楽しそうに言った。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
静かだった階段の踊り場に、その音だけが大きく響いた。
私ははっとして顔を上げる。
「もう昼休み終わりですね」
少し名残惜しい気持ちのままそう言うと、橋本くんも同じように天井のほうを見上げた。
「ですね」
短く返事をする声が、どこか残念そうに聞こえる。
階段の下のほうから、廊下を走る足音や話し声が聞こえてきた。
みんな教室へ戻り始めているんだろう。
「戻りましょうか」
私がそう言うと、橋本くんは少しだけ間を置いてからうなずいた。
「そうですね」
二人で階段を下り始める。
さっきより少しだけ距離が近い気がして、変に意識してしまう。
階段を下りきる直前、橋本くんがふいに口を開いた。
「黒川さん」
「はい?」
振り向くと、橋本くんは少しだけ真面目な顔をしていた。
「また話しかけてもいいですか」
予想していなかった言葉に、一瞬言葉が出なくなる。
「え?」
「その…」
橋本くんは少しだけ視線をそらす。
「黒川さんと話すの、楽しいので」
胸の奥が、また小さく鳴った。
「私も…楽しいです」
そう答えると、橋本くんは少しだけ安心したように笑った。
階段を下りて廊下に出ると、さっきまでの静けさが嘘みたいににぎやかだった。
教室へ戻る途中、何人かの生徒とすれ違う。
そのたびに、ちらちらと視線を感じた。
やっぱり橋本くんは目立つ。
私は少しだけ下を向いて歩いた。
すると、隣から小さな声が聞こえる。
「気にしなくていいですよ」
顔を上げると、橋本くんがこちらを見ていた。
「どうせすぐ慣れます」
「慣れるんですか…」
思わず苦笑すると、橋本くんも少し笑う。
「たぶん。じゃあ、また」
橋本くんはそう言って、自分の教室のほうへ歩いていった。
私はその背中を、少しの間見送っていた。
教室に入って席に座る。
授業が始まっても考えるのは橋本くんのこと。
言葉一つ一つが頭に残って離れない。
期待して浮かれて。
これで勘違いだったらどうしよう。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
さっきまで温かかった胸の奥が、少しだけざわついた。
橋本くんは、誰にでも優しい人なのかもしれない。
人気モデルで、みんなに憧れられていて。
きっと、こういうふうに自然に人と話すのも慣れているんだろう。
私だけが特別なんて、そんな都合のいい話あるはずがない。
ノートを開く。
黒板には数学の式が並んでいる。
先生の声もちゃんと聞こえているはずなのに、頭の中に入ってこない。
気づけば、ペンを持ったままぼんやりしていた。
――黒川さんと話すの、楽しいので
その言葉が、また頭の中に浮かぶ。
「……もう」
小さくつぶやいてしまう。
こんなふうに考えてばかりじゃだめだ。
勘違いかもしれない。
期待しすぎたら、きっと後で恥ずかしくなる。
そう自分に言い聞かせる。
だけど、心は全然言うことを聞いてくれない。
窓の外を見る。
強い夏の日差しが校庭を照らしている。
昨日の暑さを思い出す。
もし昨日、倉庫に行かなかったら。
もし橋本くんに会わなかったら。
私がこの感情を知るのはもっと先になっていただろう。
