向こうの君の余白

嫌がらせをするみたいに、日差しがじりじりと照りつけてくる。
肌に触れる空気はぬるく、というより熱くて、外に出ているだけで体力を削られていくようだった。

少し歩いただけで熱中症になりそうな暑さ。
こんな日にわざわざ学校へ忘れ物を取りに来るなんて、どうしてそうしようと思ったのだろう。

時刻は午後二時。
一日の中で一番、太陽が容赦なく照りつける時間だ。

今このまま学校を出たら、間違いなく体調を崩す。
それだけは避けたくて、どこか涼しい場所で暑さが和らぐのを待つことにした。

涼しい場所――そう考えた瞬間、ひとつ思い当たる場所があった。

三階の倉庫。

倉庫と呼ばれてはいるけれど、一応は教室だ。
クーラーも扇風機もないけれど、日差しが入ってこないぶん外よりはずっと涼しい。
それに、普段はほとんど誰も立ち入らない場所。

私だけが知っている、静かな避難場所のはずだった。

扉を開けた瞬間、思わず足が止まる。

床に体を預けるようにして、ひとりの男の子が眠っていた。

よく見ると、同じ一年生の橋本蒼大くん。
モデルをしていると噂の、あの人だった。

近づいてみると、規則正しい寝息が静かな教室に溶けている。
どうやら本当に眠っているらしい。

起こしてしまうのも悪いし、このまま出て行くべきだろうか。
そう思ったけれど、ここ以外に涼しく過ごせる場所は思いつかなかった。

少し迷った末、
「もう少しだけ」と自分に言い訳をして、その場に腰を下ろす。

静かな教室。
窓の外では蝉が鳴いている。

気持ちよさそうに眠る橋本くんを見ているうちに、急にまぶたが重くなってきた。

きっと、夏休みの夜更かしのせいだ。

睡魔に抗う間もなく、視界がゆっくりと閉じていった。

――次に目を開けた時、目の前にあったのは橋本くんの顔だった。

驚いて一瞬、思考が止まる。

そこでようやく、自分も眠ってしまっていたことに気がついた。

体を起こそうとした瞬間、左手に違和感が走る。

視線を落とすと――
橋本くんが、私の手を握っていた。

驚いて思わず手を引っ込める。
慌てて体を起こすと、橋本くんもゆっくりと目を開けた。

「……えっ」

橋本くんは体を起こし、まるでありえないものを見たような表情で固まっている。

「あっ、ごめんなさい」

慌てて言葉がこぼれる。

「少し涼ませてもらっただけで……何もしてませんから」

何か言おうとしていた橋本くんを残したまま、
私は逃げるように倉庫を後にし、焼けるような日差しへ飛び込んだ。

学校を出たものの、家までの道がいつもより長く感じて前に進むにつれて体が少しづつ体が重くなっていった。
頭がボーッとしてふわふわした感覚に落ちる。後先考えずに学校を出たことを後悔した。
目の前が真っ暗になって全身の力が抜け意識が飛んだ。
意識が飛ぶ直前誰かの声がした気がした。



目を覚ますと、見慣れない天井が目に入った。

ぼんやりとした頭のまま体を起こす。
すると今度は、見覚えのない部屋が視界に広がった。

ここは……どこだろう。

記憶を辿る。
確か、駅まで歩いている途中で急に目の前が暗くなって――。

そこから先が、何も思い出せない。

「起きたんですね。よかった。 体調、大丈夫ですか?」

突然声がして、はっと顔を上げる。

目の前のドアが開き、部屋の中に入ってきたのは橋本くんだった。

驚きで言葉が出ない。
沈黙だけが、静かに流れていく。

気づけば橋本くんと視線が絡み合っていた。
なぜか目をそらすことができない。

まるで時間が止まったみたいだった。

その沈黙を破ったのは、橋本くんのほうだった。

「えっと……」

少し困ったように頭をかきながら言葉を続ける。

「急に黒川さんが倉庫から飛び出していったから、外で熱中症になってないか心配で追いかけたんです。そしたら駅の近くでふらふらしてて……」

橋本くんはそこで一度言葉を切った。

「声かけた瞬間、倒れちゃって」

思い出したように小さく息を吐く。

「家、この近くだったんで……とりあえず連れてきちゃいました」

申し訳なさそうに言いながら、橋本くんは私の様子をうかがうように見つめている。

そこでようやく状況がつながった。

つまり私は――
橋本くんの家にいるらしい。

「……あの」

やっと声を絞り出す。

「ごめんなさい。迷惑かけて」

そう言うと、橋本くんは少しだけ驚いたような顔をして、それから小さく笑った。

「いや、迷惑とかじゃないです」

そう言って、机の上に置いてあったコップを手に取る。

「水、飲みます?」

差し出されたコップの中で、氷が小さく音を立てた。


乾ききっていた喉に、水がゆっくりと染み渡っていく。

橋本くんの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

――「急に黒川さんが飛び出して」

どうして橋本くんは、私の名前を知っているんだろう。

私が橋本くんの名前を知っているのは、映画やドラマにも出ている人気モデルだからだ。
雑誌でもテレビでもよく見る、有名人。

住む世界が違う人。

そんな人が、どうして私の名前を知っているんだろう。

それに――。

さっき学校で目を覚ましたとき。
橋本くんは、私の手を握っていた。

胸の奥が、少しだけざわつく。

……いや、それより。

今、私は人気モデルの家にいる。

もしこのことが誰かに知られたら。
もし変な噂が広まったら。

私のせいで橋本くんのやりたいことができなくなったら――。

申し訳なさすぎる。

考えれば考えるほど、胸の中が落ち着かなくなった。

今は疑問を解決するより、この場から立ち去るのが一番いい。

「……あの」

コップを置き、意を決して口を開く。

「私、帰ります。ありがとうございました」

ベッドの横に置いてあった自分のカバンを引き寄せ、そのまま立ち上がる。
そして部屋のドアへ向かって歩き出した。

その瞬間。

「待って」

後ろから声がかかる。

次の瞬間、橋本くんの手が私の腕をつかんだ。

驚いて振り返る。

「また外で倒れたら、今度は助けられないので」

橋本くんは真剣な顔で続けた。

「もう少し寝ていてください」

「けど……」

思わず言葉がこぼれる。

「私が橋本くんの家にいるって、誰かに知られたら大変ですよ」

そう言うと、橋本くんは一瞬だけ考えるように視線を落とした。

それから、少し困ったように笑う。

「今出ていくところを誰かに見られても大変ですよ」

静かな声だった。

「後から出ていくのもリスクはありますけど」

そう言いながら、橋本くんは窓の外に目を向ける。

午後の光が、まだ強く差し込んでいた。

「今出ていったら、また倒れるリスクもあるので」

そして、私の方へ視線を戻す。

「リスクは少ないほうがいいですよ」

その言葉に、私は何も返せなかった。

腕をつかまれたまま、立ち尽くす。

橋本くんの手は、思っていたより少しだけ温かかった。


言われるがまま、もう一度ベッドに腰を下ろす。

橋本くんの方を見ると、さっきまでより少しだけ表情が柔らいでいた。
まるで安心したみたいに。

ここから出なくてもいいのなら、さっきから頭の中に引っかかっている疑問を聞いてしまいたい。

「橋本くん」

名前を呼ぶと、橋本くんがこちらを見る。

「どうして私の名前知っていたんですか?」

そう聞いた瞬間、橋本くんの動きがほんの少し止まった。

「あー……えっと、その」

言葉を探すように視線をさまよわせる。

「有名だからですよ」

「有名?」

思わず聞き返す。

すると橋本くんは、少し照れくさそうに笑った。

「黒川さん、可愛いって有名だからです」

その言葉に、胸が小さく跳ねた。

橋本くんが直接「可愛い」と言ったわけじゃない。
ただ、そう聞いたと言っただけ。

それなのに、なぜか嬉しくて。
体の奥がじんわり熱くなる。

「……顔、赤いですよ」

橋本くんが少し心配そうに言った。

「やっぱりまだ体調良くなってないんじゃないですか」

そう言うと、橋本くんは体温を確かめるように私のおでこに手を当てた。

ひやりとした手のひらが触れる。

その瞬間、心臓が一気に速くなる。

ドクン、ドクン、と耳の奥で音が響く。

体が熱いのは、この暑さのせい。
きっとそう。

そう思い込もうとするのに、鼓動は全然落ち着いてくれない。

「……熱はなさそうですね」

少しして、橋本くんは手を離した。

だけどその時、ふと小さくつぶやく。

「よかった」

ほとんど独り言みたいな声だった。

「え?」

思わず聞き返すと、橋本くんは一瞬だけ驚いた顔をしてから、すぐに視線を逸らした。

「いや、なんでもないです」

窓の外では、夏の光がまだ強く輝いている。

けれどこの部屋の空気だけ、少しだけ静かで、やわらかかった。


橋本くんは少しだけ視線をそらしてから、口を開いた。

「それより、黒川さんが僕の名前知ってるの意外です」

少し不思議そうな表情でこちらを見ている。

「そうですか? 橋本くんも有名ですよ」

「どんなふうに?」

「人気モデルだって」

すると橋本くんは少しだけ笑った。

「それだけですか? 他には?」

「えっと……」

少し考える。

「生で見たほうがかっこいい、とか」

そう答えた瞬間、橋本くんの視線がわずかに変わった気がした。

「黒川さんは、それについてどう思いますか?」

橋本くんがゆっくり近づく。

思わず息が止まる。

「えっ?」

「僕のこと」

橋本くんの声が、さっきより低く聞こえた。

「かっこいいと思いますか?」

距離が近い。

目をそらそうとしても、なぜかできない。
橋本くんの瞳から視線を外せなかった。

心臓の音が、やけに大きく聞こえる。

「……その」

口がうまく動かない。

どう答えればいいのかわからなくて、言葉が詰まる。

「別に、無理に答えなくてもいいですよ」

橋本くんは少しだけ笑った。

けれどその目は、まっすぐこちらを見ている。

「ただ」

少し間をあけて続ける。

「黒川さんがどう思ってるのか、ちょっと気になっただけです」

さっきよりさらに距離が近い。

呼吸が触れそうなくらいだった。

「……思います」

気づいたら、小さな声がこぼれていた。

橋本くんが一瞬だけ目を見開く。

「かっこいいって」

そう言った瞬間、自分でも顔が熱くなるのがわかった。

恥ずかしくて、慌てて視線を落とす。

すると橋本くんは、少しだけ驚いたように息をついたあと――

小さく笑った。

「ありがとうございます」

そう言うと、橋本くんはふっと表情を引き締めた。

さっきまでの柔らかい雰囲気が消えて、いつもの落ち着いた顔に戻る。

そしてそのまま、何も言わずに部屋のドアへ向かった。

静かにドアが開く。

橋本くんは振り返ることなく、そのまま部屋を出ていった。

けれど――

ドアを閉める瞬間。
ほんの一瞬だけ、彼の口角が上がったのを私は見逃さなかった。

まるで、何かをこらえているみたいな小さな笑み。

ドアが閉まる音がして、部屋の中は一気に静かになった。

私はベッドの上で、ぼんやりと天井を見つめる。

さっきまでそこに橋本くんがいたはずなのに、急に現実感がなくなる。

それなのに。

胸の奥だけが、まだ落ち着かない。

ドキドキが止まらない。

さっきの会話が、何度も頭の中で繰り返される。

――かっこいいと思いますか?

思い出した瞬間、顔が一気に熱くなった。

思わず枕に顔をうずめる。

どうしてあんなこと言ってしまったんだろう。

恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。

だけど同時に。

橋本くんが部屋を出るときに見せた、あの小さな笑顔が頭から離れない。

あれは――

どういう意味だったんだろう。

考えれば考えるほど、頭の中が彼のことでいっぱいになっていく。

余計に体が熱くなってしまう。

そのとき。

コンコン、と小さくドアを叩く音がした。

「黒川さん」

ドア越しに聞こえたのは、橋本くんの声だった。

「スポーツドリンク持ってきました」

また心臓が大きく跳ねる。

さっき部屋を出ていったばかりなのに、また彼がすぐ近くにいる。

「……入ってもいいですか?」

「は、はい」

少し声が裏返ってしまった。

ドアが開くと、橋本くんはペットボトルを手に持って部屋に入ってきた。

さっきと同じ場所に立って、少しだけ首をかしげる。

「体調どうですか」

「さっきよりは……大丈夫です」

そう答えると、橋本くんは小さくうなずいた。

それからベッドの近くまで歩いてきて、私にペットボトルを差し出す。

「念のため、これも飲んでください」

「ありがとうございます」

ペットボトルを受け取ると、冷たい感触が手のひらに広がった。

キャップを開けて一口飲む。
甘くて少し塩っぽい味が体に染みていく。

橋本くんはその様子を、少し離れた場所から静かに見ていた。

ふと視線を上げると、目が合う。

一瞬だけ沈黙が落ちた。

「……さっき」

橋本くんがぽつりと口を開く。

「僕のこと、かっこいいって言いましたよね」

思わずむせそうになる。

「えっ」

顔が一気に熱くなる。

橋本くんは少しだけ笑った。

「正直に言ってくれて嬉しかったです」

そう言ってから、少しだけ視線を逸らす。

「でも」

またこちらを見る。

「僕のことかっこいいって思ってくれてるなんて思ってませんでした。」

「どうしてですか」

「だって」

橋本くんは少し考えるように言葉を選んだ。

「黒川さん、いつも僕のこと見ないじゃないですか」

「え」

思わず声が出た。

「学校で会って、視線を送っても僕のこと見てくれないし」

少しだけ寂しそうに笑う。

「だから、僕のこと苦手なのかなって思ってました」

胸の奥が、きゅっと小さく締めつけられる。

私はただ、有名人だから関わらない方がいいと思っていただけなのに。

その沈黙を破るように、橋本くんがふっと息を吐いた。

「ずっと話してみたかったんです。」

また橋本くんと視線が絡み合う。

「……けど」

そして、少しだけいたずらっぽく笑う。

「今日、話せました」

その言葉に、また心臓が大きく鳴った。

橋本くんの言葉が、まるで私のことを好きだと言っているみたいに聞こえてしまう。

胸の奥が、少しだけ浮き上がる。

――もしかして。

そんな期待が、勝手に生まれそうになる。

だけど。

すぐにその考えを打ち消した。

橋本くんと私は、天と地ほど差がある。

映画やドラマにも出る人気モデル。
みんなが憧れる存在。

それに比べて私は、ただの普通の高校生だ。

そんな人が、私に惚れるなんて。
冷静に考えれば、無理がある気がする。

きっとこれは、期待してはいけないやつだ。

もし違ったら。
勘違いだったら。

きっとすごく恥ずかしい。

だから――。

言葉の意味はわからないけれど。
期待だけはしないようにしよう。

そう決めて、胸の奥にしまい込む。

「……あの」

気づけば橋本くんがこちらを見ていた。

「どうしました?」

「いや」

橋本くんは少しだけ首をかしげる。

「急に静かになったから」

そう言って、私の顔をのぞき込むように見る。

「また体調悪くなりました?」

「い、いえ」

慌てて首を振る。

「大丈夫です」

そう答えると、橋本くんは少しだけ安心したように息をついた。

「ならよかった」

そして、彼はベッドのそばの椅子に腰を下ろす。

「もう少し休んだほうがいいですよ」

近くに座られたせいで、また心臓が落ち着かなくなる。

沈黙が流れる。

窓の外では、蝉の鳴き声がまだ続いていた。

橋本くんは口を開く。

「そういえば」

「はい?」

「黒川さんって、普段あんまり人と話さないですよね」

「え?」

意外なことを言われて、思わず目を瞬く。

「学校で見てると、いつも静かにしてるから」

橋本くんは少し首をかしげる。

「今日こんなに話せてるの、ちょっと意外です」

そう言われて、少しだけ恥ずかしくなる。

確かに私は、あまり人と話すほうじゃない。

「……橋本くんのほうが意外です」

思わず口から出た。

「モデルなのに、普通に話すんですね」

すると橋本くんは、くすっと笑った。

「普通に話しますよ」

そして少しだけ肩をすくめる。

「学校では、ただの高校生なんで」

橋本くんはそう言って、少しだけ肩をすくめた。

その言葉が、なぜか少し嬉しく聞こえた。

モデルとか、有名人とか。
そういう遠い存在じゃなくて。

同じ学校に通う、同じ高校生なんだって。

少しだけ、距離が縮まった気がした。

部屋の中に、ゆるやかな沈黙が流れる。

さっきまであんなに緊張していたのに、今は少し落ち着いてきていた。

スポーツドリンクをもう一口飲む。

冷たい液体が体に染みていく。

そのとき、橋本くんが時計に目をやった。

「もう少ししたら、外も少し涼しくなると思います」

「……すみません」

思わず言葉が出た。

「こんなに長くお邪魔して」

橋本くんは首を横に振る。

「気にしなくていいです」

そして少し考えるように視線を上げた。

「むしろ」

「?」

「助けることができてよかったです。」

思わず目を瞬く。

「え?」

橋本くんは少し照れくさそうに笑った。

「さっきも言いましたけど」

「やっと話せたので」

その言葉を聞いた瞬間、胸がまた小さく鳴る。

私は、なんて返せばいいのかわからなくて黙り込んだ。

すると橋本くんが、ふと思い出したように言う。

「黒川さんって、家この近くなんですか?」

「いえ、駅のほうです」

そう答えると、橋本くんは少し考えるような顔をした。

「じゃあ」

そして、当たり前みたいに言う。

「帰るとき、家まで送ります」

「えっ」

思わず声が出る。

「そんなの悪いです」

慌てて首を振ると、橋本くんは少しだけ笑った。

「また倒れたら困るので」

そして少しだけ真面目な顔になる。

「それに」

一瞬だけ言葉を止めてから続けた。

「一人で帰らせるの、ちょっと心配です」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がまた少し熱くなった。

「橋本くんと歩いてるの、誰かに見られるリスクもありますよ?」

そう言うと、橋本くんは少し考えるように視線を上に向けた。

「帽子被って、マスクして、メガネもかけるので大丈夫です」

さらっと言う。

「けど……」

まだ言いかけた私の言葉を、橋本くんがやわらかく遮った。

「僕がしたいだけなので」

そして、少しだけ肩をすくめる。

「嫌なら無理にとは言いませんけど」

その言葉に、慌てて首を振る。

「嫌じゃないです!」

思ったより大きな声が出てしまった。

橋本くんが少し驚いた顔をする。

「あ……」

恥ずかしくなって視線を落とす。

「お願い、します」

小さくそう言うと、橋本くんは一瞬きょとんとしたあと――

ぱっと顔を明るくした。

満面の笑み。

さっきまで落ち着いていた人とは思えないくらい、嬉しそうな表情だった。

その笑顔を見て、思わず思う。

……なんだか、子犬みたい。

「じゃあ、少し休んでから行きましょう」

橋本くんはそう言って、机の上に置いてあった帽子を手に取った。

それから引き出しを開けて、黒いマスクとメガネを取り出す。

「完璧ですね」

そう言いながら、帽子をかぶる。

前髪が少し隠れて、さっきまでの雰囲気と少し変わった。

マスクをつけて、メガネをかけると――

本当に、さっきまでの「人気モデルの橋本蒼大」には見えなくなった。

ただの高校生みたいだ。

「どうですか?」

橋本くんがこちらを見る。

「……わからないと思います」

そう答えると、橋本くんは満足そうにうなずいた。

「よかった」

そして窓の外をちらっと見る。

「そろそろ行きますか」

立ち上がって、私のほうへ手を差し出した。

「まだ少しふらつくかもしれないので」

「え……」

「念のためです」

そう言って、やわらかく笑う。

差し出された手を見て、少しだけ迷う。

ゆっくりと、その手を取った。

橋本くんの手は、私のおでこに彼がでを当てたときの体温より暖かくなっていた。


一瞬だけ握ったまま立ち上がる。

すぐに手を離したけれど、さっき触れていた感覚がまだ手のひらに残っている気がした。

「行きましょうか」

橋本くんが玄関の方へ歩いていく。

私は少し遅れてその後をついていった。

玄関で靴を履くと、橋本くんが先にドアを開ける。

外に出ると、さっきよりも空気が少しだけやわらいでいた。

太陽は少し傾き始めていて、街全体がオレンジ色に染まっている。

「さっきより涼しいですね」

橋本くんが空を見上げながら言った。

「はい」

並んで歩き始める。

さっきまで部屋の中で話していたのに、外で二人きりで歩いていると急に緊張してくる。

しばらく沈黙のまま歩く。

アスファルトを踏む足音だけが静かに響いていた。

「黒川さん」

橋本くんが私の名前を呼ぶ。

「はい?」

顔を向けると、橋本くんもこちらを見ていた。

「さっき、僕のこと子犬みたいって思いました?」

「えっ!?」

思わず声が出る。

「な、なんで……」

「顔に出てました」

橋本くんは楽しそうに笑う。

「そんなにわかりやすかったですか」

「ちょっとだけ」

そう言ってから、少しだけいたずらっぽく続ける。

「でも、黒川さん、さっきから僕のことよく見てますよね」

ドキッとする。

「そ、そんなこと……」

慌てて視線を前に戻す。

すると橋本くんが小さく笑った。

「冗談です」

そう言いながらも、どこか嬉しそうだった。

夕焼けの光が、橋本くんの横顔を照らしている。

さっきまで帽子とマスクで隠れていたはずなのに。

やっぱり――

かっこいいと思ってしまう。




---

「あっ、ここが家です」

私が足を止めると、橋本くんも同時に立ち止まった。

「案外、家近いですね」

「そうですね」

お互い顔を見合わせて、ふふっと笑みがこぼれる。

「よかったら、連絡先交換しませんか」

その言葉を聞いた瞬間、胸が一気に高鳴った。

橋本くんから、そんなことを言ってくれるなんて思っていなかった。

嬉しくて、顔のにやけが止まらない。

「はい!」

思ったより大きな声が出てしまった。

少し恥ずかしくなって視線を落とす。

けれど橋本くんは、そんな私を見て優しく笑ってくれた。

二人でスマホを取り出す。

画面を見ながら、連絡先を交換する。

「できた」

橋本くんがそう言って、スマホをしまった。

「ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございます」

なんだろう、この気持ち。

胸の奥がふわふわして、落ち着かない。

橋本くんは少しだけ間を置いてから、やわらかく言った。

「じゃあ、また学校で」

「はい」

そう答えると、橋本くんは軽く手を振った。

そのまま歩き出す。

数歩進んだところで、ふと立ち止まった。

そして振り返る。

「黒川さん」

「はい?」

私も思わず振り返る。

橋本くんは、少しだけ照れたように笑った。

「今日はもう倒れないで帰ってくださいね」

思わず笑ってしまう。

「倒れません」

そう言うと、橋本くんは安心したようにうなずいた。

「ならよかった」

夕焼けの光の中で、橋本くんはもう一度手を振る。

私はその姿を、しばらく見つめていた。

彼の背中が小さくなっていく。

完全に見えなくなってから、私はゆっくりと家のドアを開けた。

その瞬間。

ポケットの中のスマホが、小さく震えた。

画面を見る。

そこには――

橋本くんからのメッセージが届いていた。

『今日はありがとうございました』

私がお礼を言う側なのに。

思わず小さく笑みがこぼれる。

スマホの画面を見つめながら、ゆっくり文字を打つ。

『こちらこそ、ありがとうございました』

送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。

胸が少しだけ高鳴る。

数秒もしないうちに、また画面が光った。

『体調もう大丈夫ですか?』

その一言に、胸の奥がじんわり温かくなる。

『はい。もう大丈夫です』

そう返信してから、少しだけ迷う。

本当はまだドキドキしているけれど、それはきっと体調のせいじゃない。

送信すると、またすぐに既読がついた。

『よかったです』

短い言葉なのに、なぜか嬉しくて何度も読み返してしまう。

スマホを胸の前で握りしめる。

今日の出来事が、まるで夢みたいだった。

学校の倉庫で眠っていた橋本くんに出会って。

手を握られて。

看病してもらって。

一緒に帰って。

思い出すたびに、胸がまた少しだけ騒がしくなる。

そのとき、またスマホが震えた。

画面を見る。

橋本くんからのメッセージだった。

『明日、学校来ますよね?』

その言葉を見た瞬間、思わず笑ってしまう。

『行きますよ』

すぐに返信する。

数秒後。

『よかった』

また短い言葉。

だけど、そのあとに続けてメッセージが届いた。

『じゃあ、明日』

『学校で』

その二行を見て、胸が小さく弾んだ。

明日、学校で。

ただそれだけの言葉なのに。

なぜか、少しだけ特別な約束みたいに聞こえた。

私はスマホをそっと閉じる。

そしてベッドに倒れ込んだ。

天井を見上げながら、今日のことを思い出す。

橋本くんの笑顔。

優しい声。

温かい手。

気づけば、また笑っていた。

明日、学校で会える。

それだけで、少しだけ明日が楽しみになっていた。