意地っ張りな私たちが、神様に許された最後の100日間

屋上での「最後のデート」から三日。陽茉梨は深い眠りから目を覚まさなかった。主治医からは「覚悟を」と何度も言われ、蒼汰はただ、彼女の手を握り続けていた。
そして四日目の朝。陽茉梨の指先が、微かに動いた。
「……陽茉梨? 陽茉梨、わかるか! 俺だ、蒼汰だ!」
蒼汰が叫ぶように呼びかける。ゆっくりと開いた彼女の瞳には、かつての聡明な光も、切ない恋心も、何も宿っていなかった。ただ、生まれたての赤ん坊のような、無垢で、空っぽな視線。
「……あ、……うぅ……」
陽茉梨は、動く左手を力なく伸ばし、蒼汰の頬に触れた。蒼汰の胸が高鳴る。でも、彼女の口から漏れた言葉は、彼の心臓を粉々に打ち砕いた。
「……お、……とー、……さん……?」
「……え?」
蒼汰の手が、止まった。
「……陽茉梨、何言って……。俺だよ、蒼汰だよ。……一緒にひまわり折っただろ? プリクラ撮っただろ? お前の、彼氏の……」
「……おとーさん。……にこ、……にこ……」
陽茉梨は、歪んだ口元で無邪気に笑った。
彼女の脳は、過酷な現実から逃れるように、一番幸せで、守られていた幼い頃の記憶まで退行してしまったのだ。
目の前にいる「最愛の人」を、彼女は「守ってくれる大人」としてしか認識できなくなっていた。
「……っ、……ふざけんなよ……!」
蒼汰は、その場に崩れ落ちた。
名前を忘れられるよりも、知らない人だと思われるよりも、残酷な拒絶。
彼が捧げてきた全ての愛も、嫉妬も、キスも、抱擁も。今の陽茉梨にとっては、存在しない異世界の出来事になってしまった。
「……陽茉梨。俺、お前の……お父さんじゃないんだよ。……お前のこと、世界で一番愛してる、男なんだよ……!」
蒼汰は彼女の膝に顔を埋めて、獣のような声を上げて泣いた。
陽茉梨は、不思議そうに首を傾げながら、左手で蒼汰の頭を優しく撫でた。
「……よし、……よし。……ない、……ない……」
あやされる。
かつて「意地っ張り」だった彼女。私を捨ててと泣いた彼女。
そんな彼女はもう、どこにもいない。
目の前にいるのは、ただ「蒼汰」という概念を失くした、知らない女の子。
「……神様。……あんた、どこまで意地悪なんだよ……」
窓の外では、春を待つ蕾が膨らみ始めていた。
でも、二人の時間は、逆回転を始めた時計のように、幸せな過去へと、虚しく戻っていく。
蒼汰は、涙を拭った。
たとえ彼女が自分を「お父さん」と呼ぼうとも。
自分を忘れた彼女の「新しいヒーロー」に、もう一度なるために。