雨は、強くなっていた。
ガラスを流れる雨粒が、一本の線になって、また分かれる。
校庭の向こうは白く霞み、遠くの建物がぼんやり溶けている。
「すごい雨ですね……」
結月が言うと、先輩も窓を見た。
「うん」
「こういう日、先輩がここにいるの、なんかわかります」
「……わかる?」
「雨って、音があるのに、うるさくないから」
先輩は一度だけ、ゆっくり頷いた。
「君、雨の音が好きなんだ」
断言されて、結月は少し困った。
「好きっていうか……前は、どっちでもなかったんですけど」
「今は?」
結月は言葉に詰まる。
今は――好き、かもしれない。
先輩に会えるから。
でもそんな理由、言えるはずがない。
結月が黙っていると、先輩は少しだけ口元を緩めた。
「……君、わかりやすい」
「うっ……」
結月は思わず机に額をつけたくなった。
「恥ずかしいです」
「恥ずかしがらなくていい」
先輩の声が、少しだけ低くなる。
「君が、雨の日を待つのは……悪いことじゃない」
結月は顔を上げた。
先輩は結月を見ていた。
雨の光の中で、先輩の瞳が少しだけ淡く見える。
その視線が、結月の胸をゆっくり焦がす。
「……先輩も、雨の日を待ってるんですか」
結月がそっと言うと、先輩はほんのわずかに目を伏せた。
「……僕は、雨の日しか来られないから」
「……来られないって、どういう……」
言いかけたところで、館内放送が流れた。
『本日の図書室は間もなく閉館いたします。利用している生徒は、貸し出し・返却を済ませ、速やかに退室してください』
結月は時計を見る。
いつの間にか、思ったより時間が過ぎていた。
雨の音の中にいると、時間の流れが曖昧になる。
結月は慌てて立ち上がりかけた。
「やば……帰らないと」
けれど、窓の外の雨はますます強い。
傘を差しても、制服がびしょ濡れになりそうな勢いだ。
結月が窓を見ていると、先輩が立ち上がった。
「……少し、待つ?」
結月は先輩を見た。
「え」
「この雨、すぐは弱くならない」
先輩は淡々と言う。
まるで、雨のことをよく知っている人みたいに。
結月は頷きかけて、ふと気づく。
「でも、図書室……閉まりますよね」
「端の閲覧席なら、先生が戻るまで、少しは」
「え、いいんですか」
「たぶん」
曖昧なのに、不思議と安心する。
結月が迷っていると、先輩はさっとカウンターの方へ行き、返却箱の横にある小さな紙袋を指差した。
そこには『閉館後返却はこちらへ』と書かれている。
「……ここに返せば、今日中扱いになる」
先輩はそれだけ言って、また席へ戻った。
「詳しいですね」
結月は返却する本を袋に入れ、借りる本を一冊だけ選んだ。
選んだのは、雨の匂いがしそうなタイトルの文庫。
本を抱えて席に戻ると、先輩が結月の表紙をちらりと見た。
「……それ、君っぽい」
「また言う……!」
結月は笑いながら、椅子に座った。
笑ってしまうのが悔しいのに、止まらない。
それが、きゅんとする。
雨宿りは、思ったより長くなった。
図書室の中に残っているのは、結月と先輩だけ。
遠くで廊下を歩く先生の足音が一度聞こえたけれど、すぐに消えた。
雨音が、世界のふちをぼかしていく。
結月は本を開きながら、ふと先輩の手元を見た。
先輩の手は、きれいだ。
指が長くて、爪は短い。
――手の甲に、白い線がある。
それは古い傷みたいに細く、少しだけ目立つ。
なぜか、その傷が気になった。
でも、聞くのはやめた。
聞いたら、先輩が遠くへ行ってしまいそうな気がしたから。
結月は、自分の本を読み始めた。
先輩も、自分の本に戻った。
二人で同じ空間にいるのに、言葉はほとんどない。
それが、不思議なくらい心地いい。
ときどき、結月がページをめくる音と、先輩が紙を押さえる音が重なる。
その瞬間だけ、二人の呼吸まで揃うみたいで、結月はこっそり胸がくすぐったくなった。
しばらくして、結月がふと顔を上げると、先輩が結月の本を見ていた。
目が合う。
結月は慌てて視線を落とす。
「……読みづらい?」
「はい……。ごめんなさい」
「謝らなくていい」
先輩はほんの少しだけ笑った。
「君が読む姿、静かでいい」
結月の心臓が、また勝手に鳴る。
読む姿がいい。
そんな褒め方、初めて聞いた。
結月はページの文字が急に読めなくなるのを感じた。
「……先輩、さっきからそういうの、さらっと言う」
「そういうの?」
「……きゅんとするやつ」
言ってしまった。
結月は内心で叫ぶ。
なに言ってるの私。
恥ずかしい。
でも、言葉は戻らない。
先輩は一瞬固まったあと、視線を落とした。
そして、耳のあたりがほんの少しだけ赤くなる。
それに気づいた瞬間、結月の胸が跳ねた。
――先輩も、照れるんだ。
その事実が、嬉しい。
結月は心の中で、小さくガッツポーズをした。
「……君も、そういうこと言うんだ」
先輩がぽつりと言った。
「言いますよ。だって……本当だから」
結月はぎりぎりの小声で返した。
先輩は何か言いかけて、やめた。
代わりに、机の端に置いてあった栞をそっと結月のほうへ滑らせる。
それは、古い紙で作られたみたいな、細い栞だった。
角が少し丸くなっていて、触ると柔らかい。
「……これ」
結月が触れると、先輩は少しだけ目を細めた。
「君、栞、すぐ失くすだろ」
「え、なんでわかるの……」
「前の本、ページの間にレシート挟んでた」
結月は思わず顔を覆った。
「見ないでください!」
「見えた」
「最悪……」
先輩は、くす、と小さく笑った。
その笑い声は、雨音の中で消えてしまいそうなくらい小さくて、だからこそ結月の胸の奥に残った。
「それ、あげる」
先輩が言った。
「え?」
「失くすなよ」
結月は栞を握りしめた。
紙はひんやりしているのに、手のひらが熱い。
「……もらっていいんですか」
「うん」
「大事にします」
結月がそう言うと、先輩はほんの少しだけ、目を伏せた。
「……大事にされるの、慣れてない」
その声は、雨音よりも小さかった。
結月の胸が、ぎゅっとなる。
慣れてないって、どういうことだろう。
誰にも大事にされたことがないみたいな言い方をする。
それが冗談じゃなく聞こえるのが、少しだけ怖かった。
結月は栞を胸元に引き寄せて、言った。
「じゃあ、慣れてください」
先輩は目を上げた。
結月は、笑ってみせた。
「私、しつこいですよ」
先輩はしばらく結月を見つめてから、静かに言った。
「……望むところだ」
また、きゅんとする。
結月は自分の気持ちが、もう後戻りできないところまで来ているのを感じた。
雨宿りをしているだけなのに。
本の話をしているだけなのに。
先輩の言葉ひとつで、胸が簡単に揺れる。
ガラスを流れる雨粒が、一本の線になって、また分かれる。
校庭の向こうは白く霞み、遠くの建物がぼんやり溶けている。
「すごい雨ですね……」
結月が言うと、先輩も窓を見た。
「うん」
「こういう日、先輩がここにいるの、なんかわかります」
「……わかる?」
「雨って、音があるのに、うるさくないから」
先輩は一度だけ、ゆっくり頷いた。
「君、雨の音が好きなんだ」
断言されて、結月は少し困った。
「好きっていうか……前は、どっちでもなかったんですけど」
「今は?」
結月は言葉に詰まる。
今は――好き、かもしれない。
先輩に会えるから。
でもそんな理由、言えるはずがない。
結月が黙っていると、先輩は少しだけ口元を緩めた。
「……君、わかりやすい」
「うっ……」
結月は思わず机に額をつけたくなった。
「恥ずかしいです」
「恥ずかしがらなくていい」
先輩の声が、少しだけ低くなる。
「君が、雨の日を待つのは……悪いことじゃない」
結月は顔を上げた。
先輩は結月を見ていた。
雨の光の中で、先輩の瞳が少しだけ淡く見える。
その視線が、結月の胸をゆっくり焦がす。
「……先輩も、雨の日を待ってるんですか」
結月がそっと言うと、先輩はほんのわずかに目を伏せた。
「……僕は、雨の日しか来られないから」
「……来られないって、どういう……」
言いかけたところで、館内放送が流れた。
『本日の図書室は間もなく閉館いたします。利用している生徒は、貸し出し・返却を済ませ、速やかに退室してください』
結月は時計を見る。
いつの間にか、思ったより時間が過ぎていた。
雨の音の中にいると、時間の流れが曖昧になる。
結月は慌てて立ち上がりかけた。
「やば……帰らないと」
けれど、窓の外の雨はますます強い。
傘を差しても、制服がびしょ濡れになりそうな勢いだ。
結月が窓を見ていると、先輩が立ち上がった。
「……少し、待つ?」
結月は先輩を見た。
「え」
「この雨、すぐは弱くならない」
先輩は淡々と言う。
まるで、雨のことをよく知っている人みたいに。
結月は頷きかけて、ふと気づく。
「でも、図書室……閉まりますよね」
「端の閲覧席なら、先生が戻るまで、少しは」
「え、いいんですか」
「たぶん」
曖昧なのに、不思議と安心する。
結月が迷っていると、先輩はさっとカウンターの方へ行き、返却箱の横にある小さな紙袋を指差した。
そこには『閉館後返却はこちらへ』と書かれている。
「……ここに返せば、今日中扱いになる」
先輩はそれだけ言って、また席へ戻った。
「詳しいですね」
結月は返却する本を袋に入れ、借りる本を一冊だけ選んだ。
選んだのは、雨の匂いがしそうなタイトルの文庫。
本を抱えて席に戻ると、先輩が結月の表紙をちらりと見た。
「……それ、君っぽい」
「また言う……!」
結月は笑いながら、椅子に座った。
笑ってしまうのが悔しいのに、止まらない。
それが、きゅんとする。
雨宿りは、思ったより長くなった。
図書室の中に残っているのは、結月と先輩だけ。
遠くで廊下を歩く先生の足音が一度聞こえたけれど、すぐに消えた。
雨音が、世界のふちをぼかしていく。
結月は本を開きながら、ふと先輩の手元を見た。
先輩の手は、きれいだ。
指が長くて、爪は短い。
――手の甲に、白い線がある。
それは古い傷みたいに細く、少しだけ目立つ。
なぜか、その傷が気になった。
でも、聞くのはやめた。
聞いたら、先輩が遠くへ行ってしまいそうな気がしたから。
結月は、自分の本を読み始めた。
先輩も、自分の本に戻った。
二人で同じ空間にいるのに、言葉はほとんどない。
それが、不思議なくらい心地いい。
ときどき、結月がページをめくる音と、先輩が紙を押さえる音が重なる。
その瞬間だけ、二人の呼吸まで揃うみたいで、結月はこっそり胸がくすぐったくなった。
しばらくして、結月がふと顔を上げると、先輩が結月の本を見ていた。
目が合う。
結月は慌てて視線を落とす。
「……読みづらい?」
「はい……。ごめんなさい」
「謝らなくていい」
先輩はほんの少しだけ笑った。
「君が読む姿、静かでいい」
結月の心臓が、また勝手に鳴る。
読む姿がいい。
そんな褒め方、初めて聞いた。
結月はページの文字が急に読めなくなるのを感じた。
「……先輩、さっきからそういうの、さらっと言う」
「そういうの?」
「……きゅんとするやつ」
言ってしまった。
結月は内心で叫ぶ。
なに言ってるの私。
恥ずかしい。
でも、言葉は戻らない。
先輩は一瞬固まったあと、視線を落とした。
そして、耳のあたりがほんの少しだけ赤くなる。
それに気づいた瞬間、結月の胸が跳ねた。
――先輩も、照れるんだ。
その事実が、嬉しい。
結月は心の中で、小さくガッツポーズをした。
「……君も、そういうこと言うんだ」
先輩がぽつりと言った。
「言いますよ。だって……本当だから」
結月はぎりぎりの小声で返した。
先輩は何か言いかけて、やめた。
代わりに、机の端に置いてあった栞をそっと結月のほうへ滑らせる。
それは、古い紙で作られたみたいな、細い栞だった。
角が少し丸くなっていて、触ると柔らかい。
「……これ」
結月が触れると、先輩は少しだけ目を細めた。
「君、栞、すぐ失くすだろ」
「え、なんでわかるの……」
「前の本、ページの間にレシート挟んでた」
結月は思わず顔を覆った。
「見ないでください!」
「見えた」
「最悪……」
先輩は、くす、と小さく笑った。
その笑い声は、雨音の中で消えてしまいそうなくらい小さくて、だからこそ結月の胸の奥に残った。
「それ、あげる」
先輩が言った。
「え?」
「失くすなよ」
結月は栞を握りしめた。
紙はひんやりしているのに、手のひらが熱い。
「……もらっていいんですか」
「うん」
「大事にします」
結月がそう言うと、先輩はほんの少しだけ、目を伏せた。
「……大事にされるの、慣れてない」
その声は、雨音よりも小さかった。
結月の胸が、ぎゅっとなる。
慣れてないって、どういうことだろう。
誰にも大事にされたことがないみたいな言い方をする。
それが冗談じゃなく聞こえるのが、少しだけ怖かった。
結月は栞を胸元に引き寄せて、言った。
「じゃあ、慣れてください」
先輩は目を上げた。
結月は、笑ってみせた。
「私、しつこいですよ」
先輩はしばらく結月を見つめてから、静かに言った。
「……望むところだ」
また、きゅんとする。
結月は自分の気持ちが、もう後戻りできないところまで来ているのを感じた。
雨宿りをしているだけなのに。
本の話をしているだけなのに。
先輩の言葉ひとつで、胸が簡単に揺れる。



