付箋は、いつもの教科書の間に挟んだ。
『雨の日に、また図書室で』
淡い水色の紙片は、閉じたページの中でひっそり息をしていて、開くたびに胸の奥をきゅっと掴んでくる。
結月はそれを、誰にも見つからない場所に隠すみたいに、大事にしてしまう。
なのに――次の日から雨が降らなかった。
晴れた空は、素直に青い。校庭は明るくて、生徒たちの声も軽い。傘を持つ必要がないだけで、世界はこんなに普通になるのだと、結月は変なところで感心した。
普通、雨が嫌いになるはずなのに。
結月は、天気予報を何度も見た。
「……雨、降らないかな」
自分で口にして、すぐに苦笑した。
雨の日の図書室でしか会えない先輩に会いたくて、雨を待っているなんて、どうかしてる。
でも、心は理屈で止まってくれない。
教室で真帆が「今日も晴れかあ」と伸びをするたび、結月は内心でだけ「残念」と思ってしまった。
そんな自分が少し怖い。
そして、七日目の放課後。
空は、ようやく曇った。
窓の外が薄い灰色に染まりはじめ、風が湿り気を帯びてくる。廊下を歩く生徒の足音が、少しだけ急ぎ足になる。
結月は、帰りのホームルームが終わった瞬間、鞄の中の付箋の位置を指先で確かめた。
ある。
自分の鼓動が、ばくん、と鳴る。
――降る。たぶん、降る。
願うように窓を見上げたそのとき、空が答えるみたいに、ぽつりとガラスを叩く音がした。
次の瞬間、雨はあっという間に本気になった。
屋根を打つ音が強くなり、校舎の外が霞む。さっきまで乾いていた窓が、透明な膜で覆われていく。
結月は、気づけば走っていた。
図書室へ向かう廊下は、いつもより暗い。雨の日は、校舎の色が少しだけ濃くなるからだ。
それなのに、胸の中だけが妙に明るかった。
引き戸の前で、深呼吸を一回。
「……失礼します」
小さく言って、そっと開ける。
紙の匂い。
木の匂い。
雨音。
世界が切り替わる。
そして――いた。
閲覧席の端、窓際に近い場所。机に肘をつき、分厚い本に視線を落としている横顔。
朝倉先輩。
その姿を見つけた途端、胸の奥がほどけるみたいにあたたかくなって、結月は自分の気持ちのわかりやすさに呆れた。
先輩もすぐ気づいたらしく、本のページから目を上げた。
目が合う。
結月は、息が詰まる。
なのに先輩は、いつもの静かな声で言った。
「……来たんだ」
たったそれだけなのに、胸がきゅんと鳴る。
「……来ました」
結月は近づきながら、小声で返した。
走ってきたせいで頬が熱い。雨の湿り気じゃない熱さが、顔の内側から上がってくる。
机の向かいに座っていいのか迷っていると、先輩が視線で、そっとそこを示した。
座っていい、という合図みたいに。
結月は「失礼します」と小声で言って、向かいに腰を下ろした。
椅子が、きし、と小さく鳴る。
雨音に溶けて、誰にも聞こえない。
結月は鞄を膝に乗せ、しばらく言葉の出し方を探した。
言いたいことがあるのに、いざ目の前にいると、どれから口にすればいいかわからなくなる。
――付箋のこと。
――おすすめの本のこと。
――先輩の字が、ちゃんと先輩の字だったこと。
結月が迷っていると、先輩のほうが先に口を開いた。
「その本……読んだ?」
鞄から取り出して机の上に置いたのは、この前結月が借りた短編集――先輩の付箋が挟まっていた、おすすめの一冊だ。
結月はこくんと頷く。
「読みました」
「どうだった」
先輩の声は平坦なのに、目だけが少しだけ真剣だった。
感想が気になるときの顔だ、と結月は思う。
結月は本の表紙をそっと撫でた。
「……好きでした。なんか、読み終わったあと、雨が少しだけやさしく感じました」
自分でも何を言っているんだろうと思った。
でも、嘘じゃない。
先輩は少しだけ目を細めた。
笑った、というより――安心したみたいに。
「うん。君は、そう言うと思った」
「……え?」
「最後の二行が、君の好み」
結月は目を瞬いた。
「わ、わかるんですか、そんなの」
「わかるよ」
あまりにも自然に言うから、結月のほうが戸惑う。
「だって私、自分でも好みって言われると、うまく説明できないのに」
先輩は少しだけ首を傾けた。
「君は、悲しいまま終わるのが嫌いじゃない。でも――救いがないのは、もっと嫌い」
結月の心臓が、どくんと鳴った。
「……なんで、わかるんですか」
「本の選び方で」
先輩は机の端を指で軽く叩いた。
「表紙の雰囲気。背表紙の手触り。あと、君は……結末後に残る言葉を探してる」
結月は、なにも言えなくなった。
当てられた、と思った。
そうだ。
結月は、本を読むたびに、最後に残るひとことが欲しい。
明日、学校で嫌なことがあっても、その言葉を思い出して少しだけ頑張れるような。
雨の日でも、歩けるような。
それを、先輩は見抜いている。
そんなふうに見られていたことが、恥ずかしくて、嬉しくて、胸の奥が熱くなる。
「……先輩って、ほんとにすごい」
思わず口にすると、先輩が小さく眉を上げた。
「すごい?」
「私のこと、占い師みたいに言い当てるから……」
結月は視線を落とした。
机の上の木目が、雨の光で少しだけ濡れて見える。
先輩は少し考えるみたいに黙ってから、ぽつりと言った。
「占い師じゃない」
「え」
「ただ君が、そういうふうに見えるだけ」
見える、だけ。
それなのに、まるで「君のことをちゃんと見てる」って言われたみたいに聞こえて、結月は顔がさらに熱くなるのを感じた。
結月がうまく返せずにいると、先輩はそっと本を閉じた。
ぱたん、と小さな音。
それだけで、空気が少し変わる。
先輩は結月の手元――結月が無意識に鞄の口を押さえている指先を見た。
「……その紙」
結月はびくっと肩を揺らした。
「え」
「君、さっきから鞄、押さえてる」
結月は咄嗟に鞄を抱きしめた。
自分がどれだけわかりやすいのか、思い知らされる。
「な、なんでもないです」
「……そう」
先輩は追及しなかった。
けれど、その「そう」の言い方が、なぜか少しだけ優しくて、結月は余計に苦しくなる。
言いたい。
今、言ってしまいたい。
『付箋、先輩が書いたんですよね』
『嬉しかった』
『ずるいです』
でも、言葉にした瞬間、なにかが変わってしまいそうで怖かった。
結月は話題を変えるみたいに、窓の外へ視線を投げた。
『雨の日に、また図書室で』
淡い水色の紙片は、閉じたページの中でひっそり息をしていて、開くたびに胸の奥をきゅっと掴んでくる。
結月はそれを、誰にも見つからない場所に隠すみたいに、大事にしてしまう。
なのに――次の日から雨が降らなかった。
晴れた空は、素直に青い。校庭は明るくて、生徒たちの声も軽い。傘を持つ必要がないだけで、世界はこんなに普通になるのだと、結月は変なところで感心した。
普通、雨が嫌いになるはずなのに。
結月は、天気予報を何度も見た。
「……雨、降らないかな」
自分で口にして、すぐに苦笑した。
雨の日の図書室でしか会えない先輩に会いたくて、雨を待っているなんて、どうかしてる。
でも、心は理屈で止まってくれない。
教室で真帆が「今日も晴れかあ」と伸びをするたび、結月は内心でだけ「残念」と思ってしまった。
そんな自分が少し怖い。
そして、七日目の放課後。
空は、ようやく曇った。
窓の外が薄い灰色に染まりはじめ、風が湿り気を帯びてくる。廊下を歩く生徒の足音が、少しだけ急ぎ足になる。
結月は、帰りのホームルームが終わった瞬間、鞄の中の付箋の位置を指先で確かめた。
ある。
自分の鼓動が、ばくん、と鳴る。
――降る。たぶん、降る。
願うように窓を見上げたそのとき、空が答えるみたいに、ぽつりとガラスを叩く音がした。
次の瞬間、雨はあっという間に本気になった。
屋根を打つ音が強くなり、校舎の外が霞む。さっきまで乾いていた窓が、透明な膜で覆われていく。
結月は、気づけば走っていた。
図書室へ向かう廊下は、いつもより暗い。雨の日は、校舎の色が少しだけ濃くなるからだ。
それなのに、胸の中だけが妙に明るかった。
引き戸の前で、深呼吸を一回。
「……失礼します」
小さく言って、そっと開ける。
紙の匂い。
木の匂い。
雨音。
世界が切り替わる。
そして――いた。
閲覧席の端、窓際に近い場所。机に肘をつき、分厚い本に視線を落としている横顔。
朝倉先輩。
その姿を見つけた途端、胸の奥がほどけるみたいにあたたかくなって、結月は自分の気持ちのわかりやすさに呆れた。
先輩もすぐ気づいたらしく、本のページから目を上げた。
目が合う。
結月は、息が詰まる。
なのに先輩は、いつもの静かな声で言った。
「……来たんだ」
たったそれだけなのに、胸がきゅんと鳴る。
「……来ました」
結月は近づきながら、小声で返した。
走ってきたせいで頬が熱い。雨の湿り気じゃない熱さが、顔の内側から上がってくる。
机の向かいに座っていいのか迷っていると、先輩が視線で、そっとそこを示した。
座っていい、という合図みたいに。
結月は「失礼します」と小声で言って、向かいに腰を下ろした。
椅子が、きし、と小さく鳴る。
雨音に溶けて、誰にも聞こえない。
結月は鞄を膝に乗せ、しばらく言葉の出し方を探した。
言いたいことがあるのに、いざ目の前にいると、どれから口にすればいいかわからなくなる。
――付箋のこと。
――おすすめの本のこと。
――先輩の字が、ちゃんと先輩の字だったこと。
結月が迷っていると、先輩のほうが先に口を開いた。
「その本……読んだ?」
鞄から取り出して机の上に置いたのは、この前結月が借りた短編集――先輩の付箋が挟まっていた、おすすめの一冊だ。
結月はこくんと頷く。
「読みました」
「どうだった」
先輩の声は平坦なのに、目だけが少しだけ真剣だった。
感想が気になるときの顔だ、と結月は思う。
結月は本の表紙をそっと撫でた。
「……好きでした。なんか、読み終わったあと、雨が少しだけやさしく感じました」
自分でも何を言っているんだろうと思った。
でも、嘘じゃない。
先輩は少しだけ目を細めた。
笑った、というより――安心したみたいに。
「うん。君は、そう言うと思った」
「……え?」
「最後の二行が、君の好み」
結月は目を瞬いた。
「わ、わかるんですか、そんなの」
「わかるよ」
あまりにも自然に言うから、結月のほうが戸惑う。
「だって私、自分でも好みって言われると、うまく説明できないのに」
先輩は少しだけ首を傾けた。
「君は、悲しいまま終わるのが嫌いじゃない。でも――救いがないのは、もっと嫌い」
結月の心臓が、どくんと鳴った。
「……なんで、わかるんですか」
「本の選び方で」
先輩は机の端を指で軽く叩いた。
「表紙の雰囲気。背表紙の手触り。あと、君は……結末後に残る言葉を探してる」
結月は、なにも言えなくなった。
当てられた、と思った。
そうだ。
結月は、本を読むたびに、最後に残るひとことが欲しい。
明日、学校で嫌なことがあっても、その言葉を思い出して少しだけ頑張れるような。
雨の日でも、歩けるような。
それを、先輩は見抜いている。
そんなふうに見られていたことが、恥ずかしくて、嬉しくて、胸の奥が熱くなる。
「……先輩って、ほんとにすごい」
思わず口にすると、先輩が小さく眉を上げた。
「すごい?」
「私のこと、占い師みたいに言い当てるから……」
結月は視線を落とした。
机の上の木目が、雨の光で少しだけ濡れて見える。
先輩は少し考えるみたいに黙ってから、ぽつりと言った。
「占い師じゃない」
「え」
「ただ君が、そういうふうに見えるだけ」
見える、だけ。
それなのに、まるで「君のことをちゃんと見てる」って言われたみたいに聞こえて、結月は顔がさらに熱くなるのを感じた。
結月がうまく返せずにいると、先輩はそっと本を閉じた。
ぱたん、と小さな音。
それだけで、空気が少し変わる。
先輩は結月の手元――結月が無意識に鞄の口を押さえている指先を見た。
「……その紙」
結月はびくっと肩を揺らした。
「え」
「君、さっきから鞄、押さえてる」
結月は咄嗟に鞄を抱きしめた。
自分がどれだけわかりやすいのか、思い知らされる。
「な、なんでもないです」
「……そう」
先輩は追及しなかった。
けれど、その「そう」の言い方が、なぜか少しだけ優しくて、結月は余計に苦しくなる。
言いたい。
今、言ってしまいたい。
『付箋、先輩が書いたんですよね』
『嬉しかった』
『ずるいです』
でも、言葉にした瞬間、なにかが変わってしまいそうで怖かった。
結月は話題を変えるみたいに、窓の外へ視線を投げた。



