空白の卒業アルバム

次の雨は、三日後に降った。

結月は我ながら呆れるくらい素直に、放課後の図書室へ向かった。

いた。

その事実だけで、少し嬉しい。

朝倉先輩は、今日は窓際ではなく、閲覧席の端に座っていた。机に肘をつき、分厚いハードカバーを読んでいる。横顔は相変わらず静かで、声をかけるのがもったいない気さえする。

でも、こちらに気づくと、先輩は本を伏せた。

「こんにちは」

結月が小声で言う。

「こんにちは」

「先輩、今日もいるんですね」

「佐伯さんも」

「私は……その……返す本があって」

言い訳みたいになって、少しだけ恥ずかしい。

先輩は気づいているのかいないのか、穏やかに頷いた。

結月は先輩の向かいの席に座った。
許可を取る前に座ってしまったけれど、追い払われる気配はない。

「なに読んでるんですか」

「旧い天文の本」

「天文が好きなんですか?」

「好きだよ。星は、変わらないから」

結月はその言葉を頭の中で反芻した。

星は、変わらない。
たしかにそうかもしれない。でも、中学生が普段の会話でそんな言い方をするだろうか。
いや、しないわけじゃない。でも、朝倉先輩が言うと、不思議なくらいしっくりきた。

「私は、変わるものの話のほうが好きかもです」

「どうして」

「人の気持ちとか、関係とか。ずっと同じじゃないから」

「それは、こわくない?」

「こわいです。でも、変わるから面白いです」

先輩は少し考えてから、頷いた。

「……なるほど」

「先輩は、変わらないものが好きなんですね」

「変わらないでいてほしいものが、あるからかもしれない」

その答えに、結月は不意に言葉を失った。

雨音だけが、机の上に落ちるみたいに聞こえる。

先輩は視線を本に落としたまま、それ以上は何も言わなかった。
結月も、聞けなかった。

「そうだ、先輩」

「なに」

「今度、写真撮らせてくれませんか」

言った瞬間、空気が変わった気がした。

先輩の指が、本の端で止まる。

「……写真?」

「えっと、卒アル委員の友達が、三年生の写真集めてて。図書室で読んでるところとか、すごく雰囲気あるかなって」

自分で言ってから、あまりにもそのまますぎて恥ずかしくなる。
雰囲気あるって、面と向かって言うことじゃない。

でも、それ以上に。

朝倉先輩の顔色が、ほんの少しだけ変わった。

さっきまで静かだった目が、一瞬だけ硬くなる。

「……だめだ」

声は低かった。
はっきりしていて、迷いがない。

結月は目を瞬く。

「え」

「写真は、だめ」

「ご、ごめんなさい。嫌なら全然――」

「嫌とかじゃない」

先輩は途中で言葉を切った。
何かを飲み込むみたいに、ほんの少し喉が動く。

「……撮らないでほしい」

その言い方が、ただの照れや気恥ずかしさじゃないと、すぐにわかった。

拒絶というより、怯えに近い。
レンズを向けられることそのものを避けているみたいな、そんな緊張が、一瞬だけ顔に浮かんだのだ。

結月は慌てて首を振った。

「わかりました。ほんとにごめんなさい」

「いや……佐伯さんが悪いわけじゃない」

「でも」

「ごめん」

先に謝られて、結月のほうが困ってしまう。

「先輩が謝ることじゃないです。私、勝手に頼んだだけだから」

先輩は何か言いかけて、やめた。
その横顔は、少しだけ青白く見えた。

もうこの話題には触れないほうがいい。
結月は本能的にそう判断した。

だから、無理やりでも話題を変える。

「じゃあ、その代わり」

「……代わり?」

「おすすめの本、教えてください」

先輩はゆっくりとこちらを見た。

数秒の沈黙。
それから、ようやく頷く。

「……それなら」

「ほんとですか」

「ああ」

やっと空気が戻る。

結月は心の中で、先輩を好きになりかけているのかもしれない、と思った。

それを認めた瞬間、胸の奥が熱くなる。
雨の日の図書室でしか会わない先輩に。
クラスも、部活も、少し変で。
ときどき古い言い回しをして。
写真を嫌がる、秘密の多い人に。

自分でも、ちょっとどうかしてると思う。
でも、心は理屈では止まってくれない。

その日は先輩のほうが先に席を立った。

「僕、もう行く」

「はい。気をつけてください」

「佐伯さんも」

先輩はそれだけ言って、本を一冊手に取ると貸し出しカウンターの方へ向かった。返却かと思ったが、どうやら別の本と入れ替えるらしい。

結月も自分の借りる本を決めて、少し遅れてカウンターに行く。

けれど、そこに朝倉先輩の姿はなかった。

「あれ?」

図書室の出入口を見る。
開いた音は聞こえなかった気がするのに、もういない。

足音も、気配も、まるで最初からなかったみたいに消えている。

妙だな、と思いながらも、結月は自分が座っていた席に戻って鞄を取りに行こうとした。

そのときだった。

「あ……」

結月が座っていた席に一冊の本が置かれていた。
こんなの、さっきあったかな。

「もしかして、早速先輩がおすすめの本を出してくれたとか?」

本に近づくと、上端から淡い水色の付箋が少しだけのぞいていた。
結月は本を開き、そっとその付箋を抜き取る。

小さく、丁寧な字で、ひとことだけ書いてあった。

『雨の日に、また図書室で』

結月の心臓が、どくんと鳴る。

顔が熱くなる。
図書室なのに、声が出そうになって慌てて唇を押さえる。

なに、これ。
ずるい。
ずるすぎる。

付箋の紙は、ほんの少しだけ湿っていた。
窓の外では、まだ雨が降っている。

結月はそっと振り返る。
でも、やっぱりどこにもいない。

本棚の影にも、窓際の席にも、入口の向こうにも、朝倉先輩の姿はなかった。

いるときは静かなのに、いなくなるときは、もっと静かだ。

結月は付箋を胸元に引き寄せた。

雨の日に、また図書室で。

たったそれだけの言葉なのに、ひどく特別な約束みたいに見えた。