その次に朝倉先輩を見たのは、一週間後の木曜日だった。
やっぱり、雨の日だった。
その日は六時間目の途中から空が暗くなり、帰りのホームルームが終わる頃には、窓に大粒の雨が叩きつけられていた。部活はまた自由参加になって、結月は半分くらい期待しながら図書室へ向かった。
別に会えると思ったわけじゃない。
でも、会えるかも、とは思っていた。
その「かも」を認めるのは少し悔しかった。
引き戸を開けると、やはり図書室は静かだった。
そして、窓際の一番奥。
先週と同じ棚の前で、朝倉先輩は本を読んでいた。
見つけた瞬間、胸のどこかがぱっと明るくなる。
自分でもわかるくらい、わかりやすく。
先輩もすぐに気づいたらしい。
本を閉じて、こちらを見る。
「また来たんだ」
「先輩こそ」
「僕は、雨の日は来るから」
この前も聞いた台詞を、今度は少しだけ自然に受け取れた。
結月は鞄を抱えたまま、彼の近くまで歩いていく。
「じゃあ、雨の日に来れば会えるんですね」
口にしてから、少しだけ恥ずかしくなる。
それじゃまるで、会いに来たみたいだ。
でも、朝倉先輩はからかうこともせず、静かに答えた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「雨でも、来られない日があるかもしれないから」
「部活とか?」
「うん。そんな感じ」
また少し曖昧だ。
結月は棚から一冊抜き取った。
今度は国内作家の短編集だった。
すると先輩が、横から題名を見て言う。
「佐伯さんは、余韻の残る話が好きなんだね」
「え?」
「前に借りていたのも、そういう本だった」
「覚えてるんですか」
「覚えてるよ」
その返事があまりに自然で、結月のほうが面食らった。
「すごいですね」
「そうでもない」
「私、クラスの宿題はわりと忘れるのに」
「それは胸を張って言うことじゃない」
「ですよね」
今度は結月が笑う番だった。
それから二人は、並んで本棚を眺めた。
図書室で大きな声は出せないから、会話はどれもひそやかだ。けれど、それが逆によかった。秘密を分け合っているみたいで、少しだけ特別だった。
「先輩は何読むんですか?」
「いろいろ。推理小説も読むし、歴史物も読む」
「歴史物?」
「昔のことが書いてある本は、落ち着く」
「へえ。私、苦手です。人物が多くて」
「わかる。名前が似ていると、誰が誰かわからなくなる」
「そう、それです」
「でも、ひとりだけ覚えてしまう名前があると、急に読めるようになる」
結月はその言葉に、なんとなく引っかかった。
ひとりだけ覚えてしまう名前。
なんだかそれは、本の話以上の意味があるように聞こえたのだ。
けれど、先輩はもう別の背表紙へ視線を移していて、その続きを言う気はなさそうだった。
「先輩って、図書委員なんですか?」
「違う」
「じゃあ、ほんとにただ本が好きなんだ」
「それもあるけど」
「それも?」
朝倉先輩は、窓の外を見た。
「ここは、静かだから」
「図書室が?」
「うん。雨の音が一番きれいに聞こえる」
結月もつられて窓を見る。
ガラスを伝う雨粒。
遠くで部活帰りの生徒たちが走っていく気配。
図書室の中は、ページをめくる音すら遠い。
「……たしかに」
「ね」
短い返事なのに、なぜか嬉しくなる。
それから結月は思い出したように聞いた。
「先輩、部活って何なんですか?」
「部活?」
「そんなところ、って言ってたから」
先輩は少し黙った。
考えているというより、どこから説明しようか迷っている感じだ。
「天体観測部」
「え」
「……変?」
「いや、変っていうか」
結月は目を丸くした。
「天体観測部って、うちにありましたっけ?」
「あるよ」
「え、でも数年前になくなったって聞いたような……」
朝倉先輩は一拍遅れて、視線を伏せた。
「もしかして、また冗談ですか?」
「……そんなところ」
「ふうん」
結月はそれ以上追及しなかった。
本当は、少しだけ気になった。
でも、この人はたぶん、無理に聞かれるのがあまり得意じゃない。
それに、わざわざ今ここでこじ開ける必要もない。
沈黙が落ちる。
けれど気まずくはなかった。
しばらくして、閉館を知らせる校内放送が流れた。
今日は司書の先生が戻らないらしく、貸し出しも返却箱対応になるらしい。
「もう帰る?」
先輩が聞く。
「そうですね。先輩は?」
「もう少ししたら」
「雨、ひどいですよ」
「慣れてる」
その答えもまた少し変だった。
雨に慣れてる、なんて、そんな言い方あるだろうか。
けれど結月は「風邪ひかないでくださいね」とだけ言って、返却台へ向かった。
図書室を出る前、なんとなく振り返る。
朝倉先輩はもうこちらを見ていなかった。
本を開き、窓辺の薄暗がりの中に静かに溶け込んでいる。
まるで、最初からそこにいた影みたいに。
やっぱり、雨の日だった。
その日は六時間目の途中から空が暗くなり、帰りのホームルームが終わる頃には、窓に大粒の雨が叩きつけられていた。部活はまた自由参加になって、結月は半分くらい期待しながら図書室へ向かった。
別に会えると思ったわけじゃない。
でも、会えるかも、とは思っていた。
その「かも」を認めるのは少し悔しかった。
引き戸を開けると、やはり図書室は静かだった。
そして、窓際の一番奥。
先週と同じ棚の前で、朝倉先輩は本を読んでいた。
見つけた瞬間、胸のどこかがぱっと明るくなる。
自分でもわかるくらい、わかりやすく。
先輩もすぐに気づいたらしい。
本を閉じて、こちらを見る。
「また来たんだ」
「先輩こそ」
「僕は、雨の日は来るから」
この前も聞いた台詞を、今度は少しだけ自然に受け取れた。
結月は鞄を抱えたまま、彼の近くまで歩いていく。
「じゃあ、雨の日に来れば会えるんですね」
口にしてから、少しだけ恥ずかしくなる。
それじゃまるで、会いに来たみたいだ。
でも、朝倉先輩はからかうこともせず、静かに答えた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「雨でも、来られない日があるかもしれないから」
「部活とか?」
「うん。そんな感じ」
また少し曖昧だ。
結月は棚から一冊抜き取った。
今度は国内作家の短編集だった。
すると先輩が、横から題名を見て言う。
「佐伯さんは、余韻の残る話が好きなんだね」
「え?」
「前に借りていたのも、そういう本だった」
「覚えてるんですか」
「覚えてるよ」
その返事があまりに自然で、結月のほうが面食らった。
「すごいですね」
「そうでもない」
「私、クラスの宿題はわりと忘れるのに」
「それは胸を張って言うことじゃない」
「ですよね」
今度は結月が笑う番だった。
それから二人は、並んで本棚を眺めた。
図書室で大きな声は出せないから、会話はどれもひそやかだ。けれど、それが逆によかった。秘密を分け合っているみたいで、少しだけ特別だった。
「先輩は何読むんですか?」
「いろいろ。推理小説も読むし、歴史物も読む」
「歴史物?」
「昔のことが書いてある本は、落ち着く」
「へえ。私、苦手です。人物が多くて」
「わかる。名前が似ていると、誰が誰かわからなくなる」
「そう、それです」
「でも、ひとりだけ覚えてしまう名前があると、急に読めるようになる」
結月はその言葉に、なんとなく引っかかった。
ひとりだけ覚えてしまう名前。
なんだかそれは、本の話以上の意味があるように聞こえたのだ。
けれど、先輩はもう別の背表紙へ視線を移していて、その続きを言う気はなさそうだった。
「先輩って、図書委員なんですか?」
「違う」
「じゃあ、ほんとにただ本が好きなんだ」
「それもあるけど」
「それも?」
朝倉先輩は、窓の外を見た。
「ここは、静かだから」
「図書室が?」
「うん。雨の音が一番きれいに聞こえる」
結月もつられて窓を見る。
ガラスを伝う雨粒。
遠くで部活帰りの生徒たちが走っていく気配。
図書室の中は、ページをめくる音すら遠い。
「……たしかに」
「ね」
短い返事なのに、なぜか嬉しくなる。
それから結月は思い出したように聞いた。
「先輩、部活って何なんですか?」
「部活?」
「そんなところ、って言ってたから」
先輩は少し黙った。
考えているというより、どこから説明しようか迷っている感じだ。
「天体観測部」
「え」
「……変?」
「いや、変っていうか」
結月は目を丸くした。
「天体観測部って、うちにありましたっけ?」
「あるよ」
「え、でも数年前になくなったって聞いたような……」
朝倉先輩は一拍遅れて、視線を伏せた。
「もしかして、また冗談ですか?」
「……そんなところ」
「ふうん」
結月はそれ以上追及しなかった。
本当は、少しだけ気になった。
でも、この人はたぶん、無理に聞かれるのがあまり得意じゃない。
それに、わざわざ今ここでこじ開ける必要もない。
沈黙が落ちる。
けれど気まずくはなかった。
しばらくして、閉館を知らせる校内放送が流れた。
今日は司書の先生が戻らないらしく、貸し出しも返却箱対応になるらしい。
「もう帰る?」
先輩が聞く。
「そうですね。先輩は?」
「もう少ししたら」
「雨、ひどいですよ」
「慣れてる」
その答えもまた少し変だった。
雨に慣れてる、なんて、そんな言い方あるだろうか。
けれど結月は「風邪ひかないでくださいね」とだけ言って、返却台へ向かった。
図書室を出る前、なんとなく振り返る。
朝倉先輩はもうこちらを見ていなかった。
本を開き、窓辺の薄暗がりの中に静かに溶け込んでいる。
まるで、最初からそこにいた影みたいに。



