引き戸を開けた瞬間、少しだけ空気が変わる。
紙の匂い。
本棚の木の匂い。
窓を打つ雨音。
司書の先生が不在らしく、カウンターの奥は暗い。
「失礼しまーす……」
誰に向けたわけでもなく小声で言ってから、結月は本を返却台に置いた。貸し出し端末の画面はスリープしていて、青いランプだけがついている。
人の気配は、ほとんどない。
図書室の奥には、背の高い本棚が何列も並んでいる。古い本のコーナーは窓際で、雨の日はそこだけ少し薄暗くなる。結月はその一角が好きだった。新刊コーナーのにぎやかさより、少し埃っぽくて、忘れられたみたいに静かな棚のほうが落ち着く。
今日は何を借りようかな、と考えながら奥へ進みかけた、そのときだった。
ぱたん、と小さな音がした。
誰かが本を閉じた音。
結月は足を止める。
たしかに無人だと思ったのに、本棚の向こう側に人がいる。
しかも、その人は立っていた。窓際の棚にもたれて、分厚い文庫本を手にして。
男子生徒だった。
三年生だろうか。自分より背が高くて、肩の線が細い。制服の上着をきちんと着ているのに、どこか今っぽくない。ネクタイの結び方も少し堅くて、シャツの襟元もきっちりしている。最近の男子はもっと無造作な着方をする気がするのに、その人だけ校則の見本みたいに整っていた。
窓から差し込む曇った光が横顔を淡く照らしている。
静かな人だ、と思った。
その人も、結月に気づいたらしい。
視線が合う。
一瞬だけ、妙に息が詰まった。
知らない顔。
でも、なぜか図書室には似合う顔だった。
そういう感想が先に来てしまった自分に、結月は少しだけ戸惑う。
先に目を逸らしたのは、相手の方だった。
失礼にならない程度に、そっと本へ視線を戻す。
あ、と思った。
この感じ、なんとなくわかる。
話しかけてほしくない人じゃない。でも、話しかけられるのには慣れていない人。
結月は少し迷ってから、棚に目を移した。
そこには海外児童文学や古いミステリーが並んでいる。自分が好きな棚だった。
何気なく一冊抜き取ろうとして、同時に伸びてきた別の手とぶつかった。
「あ」
「……すみません」
ほとんど同時だった。
結月は慌てて手を引っ込めた。
相手も一歩だけ引く。
「ごめんなさい。先にどうぞ」
「いえ、君が」
君、という呼び方に、結月は少しだけ瞬いた。
今どきの中学生男子で、そんなふうに言う人はあまりいない。先生か、昔の小説の登場人物みたいだ。
「じゃあ、えっと……ありがとうございます」
結月はその本を手に取った。表紙には、古い装画で星空が描かれている。
すると相手が、ほんの少しだけ目を見開いた。
「その本、読むんだ」
「え?」
「……僕も好きな本だから」
声は低くて、静かだった。無愛想というより、必要な言葉だけ丁寧に選ぶ感じ。
結月は首をかしげた。こんな生徒、見たことあっただろうか。目立つタイプではないけれど、逆に印象に残る雰囲気だと思う。
「……あの、図書室にはよく来るんですか?」
「雨の日は」
雨の日は。
その言い方が少しだけ不思議で、結月は思わず聞き返しそうになった。でも、なんとなくやめた。そこを掘り下げるのは、初対面ではない気がしたから。
代わりに、手の中の本を少し持ち上げる。
「これ、あなたも好きなんですよね?」
相手は少し間を置いてから頷いた。
「……好きだよ。終わり方がきれいだから」
「わかります。途中は寂しいのに、最後はちゃんとあったかいんですよね」
その瞬間、相手の表情がほんの少し変わった。
笑った、というほどはっきりではない。けれど、目元の固さがわずかにほどけたのがわかった。
「同じことを思う人、初めて会った」
「え、ほんとに?」
「たいていは、地味とか、古いとか言われる」
「そんなことないのに」
「うん。……そうだね」
うん、のあとに小さく付け足すみたいな言い方も、少しだけ古風だった。
結月は、その人の顔をもう一度きちんと見た。
整っている、と思う。派手ではないのに目が離れにくい顔。睫毛が長くて、目元がどこか眠たげなのに、見つめられると不思議と逃げたくなる。
けれどそれ以上に印象に残ったのは、纏っている空気だった。
静かで、やわらかい。
でも、ひどく遠い。
今ここに立っているのに、少しだけ昔の写真の中の人みたいだ、と、そんな変なことを思う。
「あの、三年生ですか?」
聞くと、相手は頷いた。
「三年」
「見たことないから、転校生かなって思ったんですけど?」
「……そう見える?」
「少し」
「それは、たぶん」
そこで言葉を切って、先輩は窓の外に目をやった。
雨がガラスを流れ落ちる。
「ここにいる時間が、短いからかもしれない」
「勉強、忙しいとか?」
「そんなところ」
ふわっとした返事だった。
でも嘘っぽくもない。結月は深く追及しないことにした。
「先輩、お名前聞いてもいいですか」
本当は聞かないまま帰ってもよかった。
でも、このまま知らないままなのは、少し惜しい気がした。
相手はほんのわずかに黙った。
それから、静かに答える。
「朝倉陽介」
「朝倉先輩」
結月がそのまま口にすると、相手の睫毛が揺れた。
「……君は?」
「あ、佐伯です。二年二組の佐伯結月」
「結月」
下の名前だけをそっと繰り返されて、結月の胸がきゅっとなった。
なにこれ。
名前を呼ばれただけなのに。
慌てて本棚の背表紙に視線を逃がす。
「えっと、先輩は何組なんですか?」
「三年E組」
結月は一度、頭の中でその情報を転がした。
三年E組。
「……E組?」
「うん」
「あれ?」
結月は首をかしげた。
三年って、A組からC組までじゃなかったっけ。
今年の学年だよりで見た気がする。二年も三クラスしかなくて、たしか一年も同じだったはずだ。
「私、三年って三クラスだと思ってました」
言うと、朝倉先輩は少しだけ目を伏せた。
「……今は、そうなんだね」
「今は?」
先輩は小さく首を振った。
「君の勘違いかもしれない」
「え、私のせい?」
「そういうことにしておいて」
少しだけ口元が緩んだ。
冗談を言ったらしい。
結月は拍子抜けして、それから笑ってしまった。
「なにそれ。ずるいです」
「ずるい?」
「先輩のほうが絶対、意地悪な言い方しました」
「そうかな」
「そうです」
はじめて、ちゃんと笑った顔を見た。
派手じゃない。けれど、雨の日の窓辺でそれを見た瞬間、図書室の空気まで少しやわらいだ気がした。
結月はその日の帰り道、なぜか少しだけ機嫌がよかった。
雨は相変わらず降っていて、傘に当たる音は細かい。
でも足取りは軽い。
朝倉先輩。
本が好きで、たまたま話してみたら趣味が合っただけの先輩。
それだけだ。
それだけのはずなのに。
家に帰ってから鞄を開けたときも、借りてきた本の表紙を見た途端、窓際に立つ姿を思い出した。
結月は思わず、自分の頬を軽くつねる。
「なに考えてんの……」
まだ一回話しただけだ。
なのに、名前を呼ばれた声が妙に耳に残っている。
外ではまだ雨が降っていた。
紙の匂い。
本棚の木の匂い。
窓を打つ雨音。
司書の先生が不在らしく、カウンターの奥は暗い。
「失礼しまーす……」
誰に向けたわけでもなく小声で言ってから、結月は本を返却台に置いた。貸し出し端末の画面はスリープしていて、青いランプだけがついている。
人の気配は、ほとんどない。
図書室の奥には、背の高い本棚が何列も並んでいる。古い本のコーナーは窓際で、雨の日はそこだけ少し薄暗くなる。結月はその一角が好きだった。新刊コーナーのにぎやかさより、少し埃っぽくて、忘れられたみたいに静かな棚のほうが落ち着く。
今日は何を借りようかな、と考えながら奥へ進みかけた、そのときだった。
ぱたん、と小さな音がした。
誰かが本を閉じた音。
結月は足を止める。
たしかに無人だと思ったのに、本棚の向こう側に人がいる。
しかも、その人は立っていた。窓際の棚にもたれて、分厚い文庫本を手にして。
男子生徒だった。
三年生だろうか。自分より背が高くて、肩の線が細い。制服の上着をきちんと着ているのに、どこか今っぽくない。ネクタイの結び方も少し堅くて、シャツの襟元もきっちりしている。最近の男子はもっと無造作な着方をする気がするのに、その人だけ校則の見本みたいに整っていた。
窓から差し込む曇った光が横顔を淡く照らしている。
静かな人だ、と思った。
その人も、結月に気づいたらしい。
視線が合う。
一瞬だけ、妙に息が詰まった。
知らない顔。
でも、なぜか図書室には似合う顔だった。
そういう感想が先に来てしまった自分に、結月は少しだけ戸惑う。
先に目を逸らしたのは、相手の方だった。
失礼にならない程度に、そっと本へ視線を戻す。
あ、と思った。
この感じ、なんとなくわかる。
話しかけてほしくない人じゃない。でも、話しかけられるのには慣れていない人。
結月は少し迷ってから、棚に目を移した。
そこには海外児童文学や古いミステリーが並んでいる。自分が好きな棚だった。
何気なく一冊抜き取ろうとして、同時に伸びてきた別の手とぶつかった。
「あ」
「……すみません」
ほとんど同時だった。
結月は慌てて手を引っ込めた。
相手も一歩だけ引く。
「ごめんなさい。先にどうぞ」
「いえ、君が」
君、という呼び方に、結月は少しだけ瞬いた。
今どきの中学生男子で、そんなふうに言う人はあまりいない。先生か、昔の小説の登場人物みたいだ。
「じゃあ、えっと……ありがとうございます」
結月はその本を手に取った。表紙には、古い装画で星空が描かれている。
すると相手が、ほんの少しだけ目を見開いた。
「その本、読むんだ」
「え?」
「……僕も好きな本だから」
声は低くて、静かだった。無愛想というより、必要な言葉だけ丁寧に選ぶ感じ。
結月は首をかしげた。こんな生徒、見たことあっただろうか。目立つタイプではないけれど、逆に印象に残る雰囲気だと思う。
「……あの、図書室にはよく来るんですか?」
「雨の日は」
雨の日は。
その言い方が少しだけ不思議で、結月は思わず聞き返しそうになった。でも、なんとなくやめた。そこを掘り下げるのは、初対面ではない気がしたから。
代わりに、手の中の本を少し持ち上げる。
「これ、あなたも好きなんですよね?」
相手は少し間を置いてから頷いた。
「……好きだよ。終わり方がきれいだから」
「わかります。途中は寂しいのに、最後はちゃんとあったかいんですよね」
その瞬間、相手の表情がほんの少し変わった。
笑った、というほどはっきりではない。けれど、目元の固さがわずかにほどけたのがわかった。
「同じことを思う人、初めて会った」
「え、ほんとに?」
「たいていは、地味とか、古いとか言われる」
「そんなことないのに」
「うん。……そうだね」
うん、のあとに小さく付け足すみたいな言い方も、少しだけ古風だった。
結月は、その人の顔をもう一度きちんと見た。
整っている、と思う。派手ではないのに目が離れにくい顔。睫毛が長くて、目元がどこか眠たげなのに、見つめられると不思議と逃げたくなる。
けれどそれ以上に印象に残ったのは、纏っている空気だった。
静かで、やわらかい。
でも、ひどく遠い。
今ここに立っているのに、少しだけ昔の写真の中の人みたいだ、と、そんな変なことを思う。
「あの、三年生ですか?」
聞くと、相手は頷いた。
「三年」
「見たことないから、転校生かなって思ったんですけど?」
「……そう見える?」
「少し」
「それは、たぶん」
そこで言葉を切って、先輩は窓の外に目をやった。
雨がガラスを流れ落ちる。
「ここにいる時間が、短いからかもしれない」
「勉強、忙しいとか?」
「そんなところ」
ふわっとした返事だった。
でも嘘っぽくもない。結月は深く追及しないことにした。
「先輩、お名前聞いてもいいですか」
本当は聞かないまま帰ってもよかった。
でも、このまま知らないままなのは、少し惜しい気がした。
相手はほんのわずかに黙った。
それから、静かに答える。
「朝倉陽介」
「朝倉先輩」
結月がそのまま口にすると、相手の睫毛が揺れた。
「……君は?」
「あ、佐伯です。二年二組の佐伯結月」
「結月」
下の名前だけをそっと繰り返されて、結月の胸がきゅっとなった。
なにこれ。
名前を呼ばれただけなのに。
慌てて本棚の背表紙に視線を逃がす。
「えっと、先輩は何組なんですか?」
「三年E組」
結月は一度、頭の中でその情報を転がした。
三年E組。
「……E組?」
「うん」
「あれ?」
結月は首をかしげた。
三年って、A組からC組までじゃなかったっけ。
今年の学年だよりで見た気がする。二年も三クラスしかなくて、たしか一年も同じだったはずだ。
「私、三年って三クラスだと思ってました」
言うと、朝倉先輩は少しだけ目を伏せた。
「……今は、そうなんだね」
「今は?」
先輩は小さく首を振った。
「君の勘違いかもしれない」
「え、私のせい?」
「そういうことにしておいて」
少しだけ口元が緩んだ。
冗談を言ったらしい。
結月は拍子抜けして、それから笑ってしまった。
「なにそれ。ずるいです」
「ずるい?」
「先輩のほうが絶対、意地悪な言い方しました」
「そうかな」
「そうです」
はじめて、ちゃんと笑った顔を見た。
派手じゃない。けれど、雨の日の窓辺でそれを見た瞬間、図書室の空気まで少しやわらいだ気がした。
結月はその日の帰り道、なぜか少しだけ機嫌がよかった。
雨は相変わらず降っていて、傘に当たる音は細かい。
でも足取りは軽い。
朝倉先輩。
本が好きで、たまたま話してみたら趣味が合っただけの先輩。
それだけだ。
それだけのはずなのに。
家に帰ってから鞄を開けたときも、借りてきた本の表紙を見た途端、窓際に立つ姿を思い出した。
結月は思わず、自分の頬を軽くつねる。
「なに考えてんの……」
まだ一回話しただけだ。
なのに、名前を呼ばれた声が妙に耳に残っている。
外ではまだ雨が降っていた。



