卒業式の日の朝、雨は降っていなかった。
けれど式が始まるころには、体育館の高い窓を、やわらかい雨音が叩いていた。
強い雨ではない。
でも、先輩がいた日と同じような、静かで冷たい春の雨だった。
結月は在校生席に座っていた。
胸ポケットの中には、あの栞が入っている。
指先で触れるたび、少しだけ呼吸がしやすくなった。
前のほうの席に真帆がいる。
胸元に、古い卒業アルバムを布に包んで抱えている。
あの、空白の一人分があるアルバムだ。
壇上では、今年の卒業生たちの名前が順番に呼ばれていく。
「はい」という返事。
証書を受け取る手。
頭を下げる背中。
当たり前の卒業の光景が、今日はやけに眩しく見えた。
先輩も、本当はこうして呼ばれるはずだった。
名前を読まれて、返事をして、証書を受け取って。
ただ、それだけのことを、四十年も奪われていた。
最後の一人まで証書授与が終わり、校長がマイクの前に立つ。
体育館の空気が、少しだけ揺れた。
「最後に」
校長の声が響く。
「本校が、長く呼ぶことのできなかった名前を、ここで読み上げます」
ざわめきが、すっと消える。
雨音だけが高い天井に触れて、遠くから聞こえる。
結月の指先が、膝の上で震えた。
校長が、はっきりと顔を上げる。
「朝倉陽介」
その名前が、まっすぐ体育館に落ちた。
その瞬間、結月の胸の奥で、何かが強くひらいた。
同時に、どこからともなく、もう一つの返事が重なった気がした。
結月は立ち上がる。
喉が熱い。
でも、逃げなかった。
「……はい」
自分の声が、少しだけ掠れていた。
けれど、その返事の奥に、もっと低くて、やさしい声が重なった気がした。
結月は壇上へ向かって歩く。
一歩ずつ、足が震える。
でも、不思議と怖くなかった。
校長の手の中には、新しく作られた卒業証書がある。
朝倉陽介、と書かれた、たった一枚の紙。
結月はその前に立ち、両手を差し出した。
その瞬間。
結月の手の上に、もう一組の手が重なった気がした。
長い指。
短く切られた爪。
手の甲に走る、白い細い線。
結月は息を呑む。
ここに、いる。
見えたわけじゃない。
でも、たしかに重なった。
結月の両手と、先輩の両手が。
今だけ、他の卒業生たちと同じように。
証書の重みが、掌に落ちる。
その瞬間、体育館の空気が、ふっと変わった。
誰かが息を呑む気配。
窓の外の雨が、一瞬だけ遠のく。
長いあいだ閉ざされていたどこかが、やっと開いたみたいな、そんな静かな変化だった。
そして、耳のすぐそばで、声がした。
『……ありがとう』
結月の目から、涙が落ちた。
顔を上げると、前のほうの席で真帆が立ち上がりかけていた。
布を外した古い卒業アルバムを、両手で開いている。
真帆の目が、大きく見開かれている。
結月にも、見えた。
あの白い空白だったはずの場所に、もう空白はなかった。
名前がある。
朝倉陽介
そして、その横に、静かな目をした男子生徒の写真がある。
きちんと制服を着て、少しだけ緊張したみたいに真面目な顔で写っている。
でも目元だけは、雨の日の図書室で見た先輩と同じだった。
榊原先生がすぐに真帆のもとへ行き、アルバムを閉じた。
大事なものを守るみたいに、そっと回収する。
その様子を見た瞬間。
結月の胸の奥で、何かがすうっとほどけた。
あ、と思った。
だめだ。
今、離れていく。
結月は証書を抱きしめるように持ったまま、必死で目を凝らした。
先輩の顔。
声。
図書室の窓辺。
付箋の文字。
「結月」と呼ぶ音。
忘れたくない。
忘れたくないのに。
輪郭が、水に落としたインクみたいににじんでいく。
朝倉陽介。
心の中で呼ぶ。
一度目は、まだちゃんと呼べた。
二度目は、音だけが残った。
三度目には、それが誰の名前だったのか、もう掴めなかった。
胸の奥にあったはずの熱も、するするとこぼれていく。
好きだった。
はずなのに。
その「好き」の形だけが先に消えて、涙の理由がわからなくなる。
結月は壇上に立ったまま、息を乱した。
どうして泣いているんだろう。
どうして、こんなに胸が痛いんだろう。
掌には、たしかに卒業証書の重みがある。
それなのに、その重みを誰に返せばいいのかが、もうわからない。
榊原先生が、静かに近づいてきた。
「佐伯」
その呼び声に、結月は顔を上げる。
先生の目が、ほんの少しだけやさしかった。
ひどく、痛そうでもあった。
結月は先生に証書を渡した。
そのとき、自分の胸ポケットから、古い栞が少しだけのぞいているのが見えた。
なぜか、それだけは失くしてはいけない気がした。
理由は、もう思い出せなかったけれど。
けれど式が始まるころには、体育館の高い窓を、やわらかい雨音が叩いていた。
強い雨ではない。
でも、先輩がいた日と同じような、静かで冷たい春の雨だった。
結月は在校生席に座っていた。
胸ポケットの中には、あの栞が入っている。
指先で触れるたび、少しだけ呼吸がしやすくなった。
前のほうの席に真帆がいる。
胸元に、古い卒業アルバムを布に包んで抱えている。
あの、空白の一人分があるアルバムだ。
壇上では、今年の卒業生たちの名前が順番に呼ばれていく。
「はい」という返事。
証書を受け取る手。
頭を下げる背中。
当たり前の卒業の光景が、今日はやけに眩しく見えた。
先輩も、本当はこうして呼ばれるはずだった。
名前を読まれて、返事をして、証書を受け取って。
ただ、それだけのことを、四十年も奪われていた。
最後の一人まで証書授与が終わり、校長がマイクの前に立つ。
体育館の空気が、少しだけ揺れた。
「最後に」
校長の声が響く。
「本校が、長く呼ぶことのできなかった名前を、ここで読み上げます」
ざわめきが、すっと消える。
雨音だけが高い天井に触れて、遠くから聞こえる。
結月の指先が、膝の上で震えた。
校長が、はっきりと顔を上げる。
「朝倉陽介」
その名前が、まっすぐ体育館に落ちた。
その瞬間、結月の胸の奥で、何かが強くひらいた。
同時に、どこからともなく、もう一つの返事が重なった気がした。
結月は立ち上がる。
喉が熱い。
でも、逃げなかった。
「……はい」
自分の声が、少しだけ掠れていた。
けれど、その返事の奥に、もっと低くて、やさしい声が重なった気がした。
結月は壇上へ向かって歩く。
一歩ずつ、足が震える。
でも、不思議と怖くなかった。
校長の手の中には、新しく作られた卒業証書がある。
朝倉陽介、と書かれた、たった一枚の紙。
結月はその前に立ち、両手を差し出した。
その瞬間。
結月の手の上に、もう一組の手が重なった気がした。
長い指。
短く切られた爪。
手の甲に走る、白い細い線。
結月は息を呑む。
ここに、いる。
見えたわけじゃない。
でも、たしかに重なった。
結月の両手と、先輩の両手が。
今だけ、他の卒業生たちと同じように。
証書の重みが、掌に落ちる。
その瞬間、体育館の空気が、ふっと変わった。
誰かが息を呑む気配。
窓の外の雨が、一瞬だけ遠のく。
長いあいだ閉ざされていたどこかが、やっと開いたみたいな、そんな静かな変化だった。
そして、耳のすぐそばで、声がした。
『……ありがとう』
結月の目から、涙が落ちた。
顔を上げると、前のほうの席で真帆が立ち上がりかけていた。
布を外した古い卒業アルバムを、両手で開いている。
真帆の目が、大きく見開かれている。
結月にも、見えた。
あの白い空白だったはずの場所に、もう空白はなかった。
名前がある。
朝倉陽介
そして、その横に、静かな目をした男子生徒の写真がある。
きちんと制服を着て、少しだけ緊張したみたいに真面目な顔で写っている。
でも目元だけは、雨の日の図書室で見た先輩と同じだった。
榊原先生がすぐに真帆のもとへ行き、アルバムを閉じた。
大事なものを守るみたいに、そっと回収する。
その様子を見た瞬間。
結月の胸の奥で、何かがすうっとほどけた。
あ、と思った。
だめだ。
今、離れていく。
結月は証書を抱きしめるように持ったまま、必死で目を凝らした。
先輩の顔。
声。
図書室の窓辺。
付箋の文字。
「結月」と呼ぶ音。
忘れたくない。
忘れたくないのに。
輪郭が、水に落としたインクみたいににじんでいく。
朝倉陽介。
心の中で呼ぶ。
一度目は、まだちゃんと呼べた。
二度目は、音だけが残った。
三度目には、それが誰の名前だったのか、もう掴めなかった。
胸の奥にあったはずの熱も、するするとこぼれていく。
好きだった。
はずなのに。
その「好き」の形だけが先に消えて、涙の理由がわからなくなる。
結月は壇上に立ったまま、息を乱した。
どうして泣いているんだろう。
どうして、こんなに胸が痛いんだろう。
掌には、たしかに卒業証書の重みがある。
それなのに、その重みを誰に返せばいいのかが、もうわからない。
榊原先生が、静かに近づいてきた。
「佐伯」
その呼び声に、結月は顔を上げる。
先生の目が、ほんの少しだけやさしかった。
ひどく、痛そうでもあった。
結月は先生に証書を渡した。
そのとき、自分の胸ポケットから、古い栞が少しだけのぞいているのが見えた。
なぜか、それだけは失くしてはいけない気がした。
理由は、もう思い出せなかったけれど。



