雨の日の学校は、少しだけ別の場所になる。
朝から降り続いている雨のせいで、校庭は薄い灰色の膜を張ったみたいに煙っていた。グラウンドのラインはほとんど消え、体育館へ走る生徒たちの靴裏が、昇降口の床をきゅっきゅっと鳴らしている。
二年二組の教室では、朝からあの話題で持ちきりだった。
「ねえ、聞いた?また出たんだって」
一時間目が始まる前、前の席の真帆が椅子ごと振り返ってきた。声はひそひそしているくせに、目だけは妙にきらきらしている。こういう話が好きなのだ、真帆は。
「またって、なにが?」
結月が教科書を机に出しながら聞き返すと、真帆は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「忘れられた生徒」
「……なにそれ」
「知らないの?今、学校で一番流行ってる怪談じゃん」
「それ、流行るものなんだ」
「流行るよ。テスト範囲よりみんな覚えてる」
「それは先生が泣くやつ」
結月が半分呆れながら言うと、真帆は「まあね」と笑ってから、わざと声を落とした。
「雨の日の放課後、図書室とか旧校舎のあたりで、見たことない男子生徒を見かけるんだって。でもその人のこと、あとで誰に聞いても、そんな生徒いないってなるの」
「それ、ただの不審者じゃない?」
「夢がない」
「現実的って言って」
怪談は嫌いじゃない。でも、本気で信じるタイプでもなかった。雨の日の学校はたしかに薄暗くて、廊下の先が少しだけ遠く見えるし、使われなくなった旧校舎なんて怪談の舞台としては満点だ。だから噂も広がるのだろう。
現に今だって、窓の外は梅雨らしいどんよりとした空で、教室の蛍光灯までどこか青白く見える。こういう日は、なんでも少し不気味に見えるのだ。
「結月は、そういうの信じない派?」
「うーん……半々?」
「どっち?」
「幽霊はいるかもしれないけど、会ったことがないんだもん」
真帆はぶぅと吹き出した。
「でもさ、もし本当にいたらどうする?その忘れられた生徒」
「どうもしないよ。たぶん普通に挨拶する」
「強いなあ」
「向こうだって、いきなり騒がれたら嫌かもじゃん」
真帆は一瞬ぽかんとして、それから妙に納得した顔をした。
「たしかに。忘れられてる側にも事情があるか」
「あるでしょ、きっと」
そこでチャイムが鳴り、真帆は「放課後、続きね」と前を向いた。
結月は窓の外に目をやる。校舎のガラスを伝う雨粒は、ひとつになって、またいくつにも分かれていく。
忘れられた生徒。
変な言葉だな、と思った。
忘れられるって、誰かが最初は覚えていたってことだ。
最初からいないものとは、少し違う。
その違いが、なぜか胸の奥に小さく引っかかった。
昼休みになっても雨は止まなかった。放課後になっても、もっとひどくなっただけだった。
結月は文芸部の部室の前で、ため息をついた。
「今日は活動なし、かあ」
壁の掲示には、部長の丸っこい字で『本日は参加者少数のため自由解散!各自、読書に励むこと!』と書かれている。雨の日はみんな早く帰りたいためか、出席率が露骨に下がる。しかも今日は先生も会議で来られないらしい。
傘を取りに教室へ戻るのも面倒で、結月はしばらく廊下に立っていた。
窓の外では雨が斜めに降っている。グラウンドどころか中庭の植え込みまで白く霞んで見えた。
このまま帰るには、少しだけ早い。
けれど、誰かと話す予定もない。
そう思ったとき、ふと頭に浮かんだのは、図書室だった。
返却期限ぎりぎりの本が鞄に入っている。せっかくだし返して、新しい本を借りて帰ろう。雨の日の図書室は静かで好きだ。音が少ないぶん、ページをめくる音がよく響く。
結月は階段を上がり、特別棟の端にある図書室へ向かった。
朝から降り続いている雨のせいで、校庭は薄い灰色の膜を張ったみたいに煙っていた。グラウンドのラインはほとんど消え、体育館へ走る生徒たちの靴裏が、昇降口の床をきゅっきゅっと鳴らしている。
二年二組の教室では、朝からあの話題で持ちきりだった。
「ねえ、聞いた?また出たんだって」
一時間目が始まる前、前の席の真帆が椅子ごと振り返ってきた。声はひそひそしているくせに、目だけは妙にきらきらしている。こういう話が好きなのだ、真帆は。
「またって、なにが?」
結月が教科書を机に出しながら聞き返すと、真帆は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「忘れられた生徒」
「……なにそれ」
「知らないの?今、学校で一番流行ってる怪談じゃん」
「それ、流行るものなんだ」
「流行るよ。テスト範囲よりみんな覚えてる」
「それは先生が泣くやつ」
結月が半分呆れながら言うと、真帆は「まあね」と笑ってから、わざと声を落とした。
「雨の日の放課後、図書室とか旧校舎のあたりで、見たことない男子生徒を見かけるんだって。でもその人のこと、あとで誰に聞いても、そんな生徒いないってなるの」
「それ、ただの不審者じゃない?」
「夢がない」
「現実的って言って」
怪談は嫌いじゃない。でも、本気で信じるタイプでもなかった。雨の日の学校はたしかに薄暗くて、廊下の先が少しだけ遠く見えるし、使われなくなった旧校舎なんて怪談の舞台としては満点だ。だから噂も広がるのだろう。
現に今だって、窓の外は梅雨らしいどんよりとした空で、教室の蛍光灯までどこか青白く見える。こういう日は、なんでも少し不気味に見えるのだ。
「結月は、そういうの信じない派?」
「うーん……半々?」
「どっち?」
「幽霊はいるかもしれないけど、会ったことがないんだもん」
真帆はぶぅと吹き出した。
「でもさ、もし本当にいたらどうする?その忘れられた生徒」
「どうもしないよ。たぶん普通に挨拶する」
「強いなあ」
「向こうだって、いきなり騒がれたら嫌かもじゃん」
真帆は一瞬ぽかんとして、それから妙に納得した顔をした。
「たしかに。忘れられてる側にも事情があるか」
「あるでしょ、きっと」
そこでチャイムが鳴り、真帆は「放課後、続きね」と前を向いた。
結月は窓の外に目をやる。校舎のガラスを伝う雨粒は、ひとつになって、またいくつにも分かれていく。
忘れられた生徒。
変な言葉だな、と思った。
忘れられるって、誰かが最初は覚えていたってことだ。
最初からいないものとは、少し違う。
その違いが、なぜか胸の奥に小さく引っかかった。
昼休みになっても雨は止まなかった。放課後になっても、もっとひどくなっただけだった。
結月は文芸部の部室の前で、ため息をついた。
「今日は活動なし、かあ」
壁の掲示には、部長の丸っこい字で『本日は参加者少数のため自由解散!各自、読書に励むこと!』と書かれている。雨の日はみんな早く帰りたいためか、出席率が露骨に下がる。しかも今日は先生も会議で来られないらしい。
傘を取りに教室へ戻るのも面倒で、結月はしばらく廊下に立っていた。
窓の外では雨が斜めに降っている。グラウンドどころか中庭の植え込みまで白く霞んで見えた。
このまま帰るには、少しだけ早い。
けれど、誰かと話す予定もない。
そう思ったとき、ふと頭に浮かんだのは、図書室だった。
返却期限ぎりぎりの本が鞄に入っている。せっかくだし返して、新しい本を借りて帰ろう。雨の日の図書室は静かで好きだ。音が少ないぶん、ページをめくる音がよく響く。
結月は階段を上がり、特別棟の端にある図書室へ向かった。



