雨脚は、さっきより細いのに、世界の輪郭を消すには十分だった。
旧校舎と現校舎をつなぐ短い廊下は、夕方の色を失くしている。窓の向こうの白い雨だけが、頼りなく揺れていた。
「結月」
真帆が、不安そうに呼んだ。
結月は、視線を逸らせないまま、小さく言う。
「……先、行ってて」
「また、見えてるの?」
その声が、少しだけ震えていた。
結月は頷いた。
真帆には、きっと何も見えていない。
結月の視線の先に立つ、細い肩も、まっすぐなネクタイも、雨の光の中で少しだけ淡く見える横顔も。
それでも真帆は、結月を置いて逃げなかった。
「五分だけ」
真帆は強がるみたいに言った。
「五分待って、戻ってこなかったら、先生呼ぶから」
「……うん」
「無理しないで」
それだけ言って、真帆は階段のほうへ下りていった。
靴音が遠ざかる。
廊下には、雨の音と、結月の鼓動だけが残った。
先輩は、結月を見ていた。
その目は、いつもの図書室よりずっと静かで、ずっと痛そうだった。
「……見つけたんだね」
低い声が、雨に溶ける。
結月は唇を震わせながら、一歩だけ近づいた。
「見つけました」
声にすると、喉が熱くなる。
「出席簿、ありました。……朝倉陽介。三年E組。天体観測部」
先輩の睫毛が、ほんの少し揺れた。
「……うん」
「ほんとうに、いたんですね」
自分でもおかしな言い方だと思った。
図書室で何度も話して、名前を呼ばれて、栞までもらって。
そんな相手に向かって、「いたんですね」なんて。
でも、言わずにいられなかった。
先輩は、少しだけ目を伏せた。
「いたよ」
短い言葉だった。
それなのに、結月の胸の奥に、ずしんと落ちた。
いた。
先輩はほんとうに、この学校にいた。
四十年前に。
名前を持った一人の生徒として。
結月は、もう一歩近づく。
「どうして……」
喉が痛い。
でも、止まれない。
「どうして、言ってくれなかったんですか?」
先輩はすぐには答えなかった。
窓の向こうの雨を一度だけ見て、それから静かに言う。
「君が、怖がると思った」
「怖がりません」
結月はすぐに否定した。
先輩が少しだけ困ったみたいに目を細める。
「……そう言うと思った」
「じゃあ、なんで」
先輩は、小さく息を吐いた。
「少しだけ」
それは、言い訳みたいな声だった。
「少しだけ、普通の先輩でいたかった」
結月は、息を呑んだ。
先輩は視線を逸らしたまま続ける。
「雨の日に図書室で会って、本の話をして、君に名前を呼ばれて。……それが、思っていたよりずっと、きれいだったから」
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
きれいだった。
その言葉は嬉しいのに、どうしようもなく悲しい。
「壊したくなかった」
先輩が言う。
「君が見ていたものが、四十年前に死んだ生徒だと知ったら、君はもうあんなふうに笑わないかもしれないと思った」
「笑います」
結月は、泣きそうになりながら言った。
「先輩が四十年前でも、死んでても、空白でも、……そんなので、私の気持ちは変わりません」
言ってから、自分で息を止めた。
今、気持ちと言った。
でも、先輩はそこには触れなかった。
触れられないみたいに、少しだけ目を伏せる。
結月は、怖かった。
このまままた、先輩が謝って終わってしまう気がして。
だから、考えるより先に、手を伸ばした。
先輩の袖を、そっと掴む。
指先に触れた生地は、思ったよりちゃんとしていた。
結月の胸が痛む。
それでも手を離せなかった。
「私が怖いのは」
結月は、震える声で言った。
「先輩が最初からいなかったって言われることです」
先輩が、ゆっくり顔を上げる。
「先輩がいたのに、いなかったことにされるのが嫌です。……私、もう、それが一番嫌です」
先輩の瞳が、ひどく静かに揺れた。
「結月」
呼ばれた。
名前を呼ばれるだけで、まだ胸が苦しい。
「……あなたと一緒にいたい」
雨の音だけが、部屋を満たす。
言ってしまった。
言った瞬間、自分が何を意味しているのか、結月にもわかった。
「だめだ」
先輩の声は、驚くほどはっきりしていた。
結月が何か言う前に、先輩は一歩近づく。
「君には生きていてほしい」
結月の呼吸が止まる。
先輩は、結月をまっすぐ見ていた。
「だから僕は、あの日助けた」
その一言が、胸の真ん中に落ちた。
あの日。
渡り廊下。
崩れ落ちる天井。
結月を包んだ腕。
先輩の目が、少しだけ揺れる。
「君が死ぬために、僕は助けたんじゃない」
結月の目の奥が熱くなる。
「でも……!」
言い返したくて、声が裏返る。
「でも、このまま帰ったら、先輩は……!」
「それでもだよ」
先輩は、やわらかく、でも強く言った。
「君は、生きるほうへ行って」
結月は唇を噛んだ。
涙がこぼれそうになる。
「そんなの、ずるいです」
「うん」
「助けておいて、いなくなるなんて、ずるい」
先輩は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
でも、それは笑顔じゃなくて、痛みに近かった。
「僕のほうが、何度もずるかった」
結月は、うつむいた。
涙が落ちそうになって、慌てて目を擦る。
先輩は少し黙ってから、低い声で言った。
「……方法はある」
結月は顔を上げた。
「え」
「僕が、いなかったことにされたままじゃなくて。ちゃんと、この学校にいた生徒として戻る方法」
胸が、どくんと鳴る。
結月は、先輩の顔を見つめた。
先輩は、言葉を選ぶみたいに、少し間を置いてから続ける。
「長くこっちにいるとね」
こっち、という言い方に、結月の胸が痛んだ。
「嫌でも耳に入るんだ。同じように、名前の端を落とされたまま残ってる人たちの話が」
窓の外で、雨が少し強くなる。
「空白になった死者は、名をきちんと返されればほどける、って」
結月は瞬きをした。
「名を……返す」
「うん。なかったことにされた場所に、いたことを戻す」
先輩は、視線を窓へ向けたまま言った。
「学校に、僕の名前を受け取ってもらう。僕がいたって、ちゃんと思い出してもらう。そうしたら、僕は“空白”じゃなくて、いた生徒として戻れるらしい」
「戻れる……?」
先輩の声が、少しだけかすれる。
「ちゃんと、卒業したい」
結月の胸の奥で、何かが音を立てた。
卒業。
その言葉を、先輩は今まで一度も自分から口にしなかった。
先輩は目を伏せる。
「僕、本当は」
声が、ひどく静かになる。
「みんなと一緒に卒業したかった」
結月は、息を呑んだ。
「名前を呼ばれて、返事をして、卒業証書を受け取りたかった。そんな、当たり前のことが、ずっと心残りなんだ」
結月の頬を、涙が伝った。
みんなと一緒に卒業したかった。
たったそれだけの願いが、四十年も残っていた。
「……やります」
結月は、考えるより先に言っていた。
先輩が、はっとしたように顔を上げる。
「先輩の名前、戻します。学校に、返します」
先輩はすぐには頷かなかった。
むしろ、少しだけ苦しそうに目を細めた。
「結月」
「なんですか」
「まだ、最後まで聞いて」
結月の胸が冷たくなる。
指先に、先輩の指が重なる。
ひどく静かな温度だった。
熱いわけじゃない。
でも、たしかにそこにいるとわかる温度。
結月は、その手を見つめる。
長い指。
手の甲の、白い傷みたいな線。
忘れたくない、と思った。
すると先輩が、結月の心を読んだみたいに言う。
「僕をここまで見えるようにしたのは、君なんだ」
結月は顔を上げる。
「君が名前に触れて、何度も呼んで、僕のことを思ってくれたから。君の記憶と、君の気持ちが、僕の輪郭になってる」
結月の喉が鳴った。
「だから、僕を学校に返せば」
先輩の指が、ほんの少しだけ強くなる。
「その役目は終わる」
「……終わる?」
「君の中から、僕が零れていく」
結月は、息を止めた。
先輩は、残酷なことを残酷に聞こえない声で言った。
「顔も、声も、図書室で話したことも。たぶん……僕を好きだった気持ちも」
世界の音が、遠くなった。
忘れる。
先輩のことを。
今、目の前にいるこの人の顔を。
名前を呼ばれるたび胸が苦しくなったことを。
雨の日の図書室の匂いを。
栞をもらって嬉しかったことを。
好きになったことを。
全部。
「……いや」
気づけば、そう言っていた。
先輩の指を、今度は結月が掴む。
「そんなの、いやです」
「結月」
涙がぽろぽろ零れる。
「やっと、本当にいたってわかったのに。なのに、返したら忘れるなんて、そんなの……そんなの、ひどい」
先輩は何も言わない。
否定できないのだとわかって、余計につらい。
結月は、震える声で続ける。
「……私」
声が震える。
「先輩のことが好きです」
言った瞬間、胸の奥で、ずっと絡まっていた何かがほどけた。
「最初に図書室で会ったときから、たぶん、もう。本の終わり方の話をする先輩も、雨の日だけ少し笑う先輩も、私の名前を大事に呼ぶ先輩も、全部好きです」
先輩の瞳が、少し大きくなる。
結月は止まらなかった。
「今の三年生じゃなくてもいい。四十年前でも、空白でも、なんでもいい。先輩が先輩だから、好き」
涙で滲んだ視界の向こうで、先輩の睫毛が震えた。
「だから、忘れたくない」
結月は、正直に言った。
「顔も、声も、図書室の雨も、全部失くしたくない。ずっと覚えていたい。ずっと、好きでいたい」
先輩が、何かを言いかける。
でも結月は、首を振って続けた。
「でも、それでも」
喉の奥が熱い。
痛い。
なのに、言わなきゃと思った。
「私だけの幻として、先輩を抱え続けるのは違いますよね?」
先輩の目が、揺れる。
結月は、指先にある温度を確かめるみたいに、そっと先輩の手を包んだ。
「先輩を、学校に返します。名前も、存在も、卒業も、ちゃんと先輩のもとに戻したい。たとえ私が忘れても。それでも、先輩が“いた生徒”として戻れるなら、私はそれを選びます」
雨の音が、少し遠くなった気がした。
先輩は、しばらく何も言わなかった。
ただ結月を見つめている。
そして、ほんの少しだけ、困ったみたいに笑った。
「……ずるいな」
結月は、泣きながら笑う。
「先輩のほうが、ずるいです」
先輩の喉が、小さく動いた。
何かを堪えるみたいに。
それから、やっと言う。
「僕も、好きだ」
結月の息が止まる。
先輩は視線を逸らさずに続けた。
「好きになってはいけないと思ってた。君には明日があるから。僕は、君の時間に混ざってはいけないものだから」
声が、少しだけ掠れる。
「それでも、雨の日に図書室の戸が開く音を聞くたび、君かもしれないと思った。君が本棚の前で迷う顔を見てるのが好きだった。名前を呼ばれるたび、救われるみたいだった」
結月の頬を、また涙が流れた。
先輩は、結月の指をゆっくり握る。
「君と話している時間だけ、僕はほんとうに“今”にいられた」
結月はもう、泣きながら笑うしかなかった。
先輩が、少しだけ身を屈める。
距離が近くなる。
古い紙の匂いと、雨の匂いがする。
「……愛してる、結月」
その言葉は、あまりにもまっすぐで、静かで。
だからこそ、胸のいちばん深いところに落ちた。
結月は、涙でぐしゃぐしゃのまま、頷く。
「私も……」
声が途切れる。
それでも、ちゃんと言いたかった。
「私も、愛してる」
先輩の目が、わずかに見開かれた。
それから、雨の日の図書室で見たどんな笑顔より、やさしい顔をした。
先輩の手が、そっと結月の髪に触れる。
ひどく慎重な触れ方だった。
壊れものにするみたいに。
窓の外の雨が少しだけ晴れてくる。
空が明るくなるにつれ、先輩の輪郭も、ほんの少しだけ淡くなっていた。
結月は、息を呑む。
「……もう、行くんですか」
「うん」
「やだ」
反射みたいに言っていた。
わかっている。
ここでしがみついたら、先輩はまた困った顔をする。
でも、言わずにいられなかった。
先輩は、やわらかく首を振る。
「行って、結月」
その声が、やさしすぎて泣けた。
結月は、唇を震わせる。
「忘れたくない」
「うん」
「忘れたくないです」
「うん」
「だから……忘れる前に、ちゃんと返します」
先輩が、少しだけ目を細める。
結月は涙を拭って、もう一度、はっきり言った。
「朝倉陽介」
名前を呼ぶ。
「絶対に、いなかったことにしない」
先輩の睫毛が揺れた。
その顔を、結月は必死に目に焼きつける。
目元。
鼻筋。
やわらかい口元。
手の甲の白い線。
忘れたくない。
忘れると決めても、今だけは全部覚えていたかった。
先輩は、雨より小さな声で言った。
「栞、失くすなよ」
結月は、泣きながら笑う。
「はい」
先輩も、少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、世界が光に呑まれる。
「先輩!」
結月が手を伸ばす。
その指先に、最後にもう一度だけ、確かな温度が触れた気がした。
旧校舎と現校舎をつなぐ短い廊下は、夕方の色を失くしている。窓の向こうの白い雨だけが、頼りなく揺れていた。
「結月」
真帆が、不安そうに呼んだ。
結月は、視線を逸らせないまま、小さく言う。
「……先、行ってて」
「また、見えてるの?」
その声が、少しだけ震えていた。
結月は頷いた。
真帆には、きっと何も見えていない。
結月の視線の先に立つ、細い肩も、まっすぐなネクタイも、雨の光の中で少しだけ淡く見える横顔も。
それでも真帆は、結月を置いて逃げなかった。
「五分だけ」
真帆は強がるみたいに言った。
「五分待って、戻ってこなかったら、先生呼ぶから」
「……うん」
「無理しないで」
それだけ言って、真帆は階段のほうへ下りていった。
靴音が遠ざかる。
廊下には、雨の音と、結月の鼓動だけが残った。
先輩は、結月を見ていた。
その目は、いつもの図書室よりずっと静かで、ずっと痛そうだった。
「……見つけたんだね」
低い声が、雨に溶ける。
結月は唇を震わせながら、一歩だけ近づいた。
「見つけました」
声にすると、喉が熱くなる。
「出席簿、ありました。……朝倉陽介。三年E組。天体観測部」
先輩の睫毛が、ほんの少し揺れた。
「……うん」
「ほんとうに、いたんですね」
自分でもおかしな言い方だと思った。
図書室で何度も話して、名前を呼ばれて、栞までもらって。
そんな相手に向かって、「いたんですね」なんて。
でも、言わずにいられなかった。
先輩は、少しだけ目を伏せた。
「いたよ」
短い言葉だった。
それなのに、結月の胸の奥に、ずしんと落ちた。
いた。
先輩はほんとうに、この学校にいた。
四十年前に。
名前を持った一人の生徒として。
結月は、もう一歩近づく。
「どうして……」
喉が痛い。
でも、止まれない。
「どうして、言ってくれなかったんですか?」
先輩はすぐには答えなかった。
窓の向こうの雨を一度だけ見て、それから静かに言う。
「君が、怖がると思った」
「怖がりません」
結月はすぐに否定した。
先輩が少しだけ困ったみたいに目を細める。
「……そう言うと思った」
「じゃあ、なんで」
先輩は、小さく息を吐いた。
「少しだけ」
それは、言い訳みたいな声だった。
「少しだけ、普通の先輩でいたかった」
結月は、息を呑んだ。
先輩は視線を逸らしたまま続ける。
「雨の日に図書室で会って、本の話をして、君に名前を呼ばれて。……それが、思っていたよりずっと、きれいだったから」
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
きれいだった。
その言葉は嬉しいのに、どうしようもなく悲しい。
「壊したくなかった」
先輩が言う。
「君が見ていたものが、四十年前に死んだ生徒だと知ったら、君はもうあんなふうに笑わないかもしれないと思った」
「笑います」
結月は、泣きそうになりながら言った。
「先輩が四十年前でも、死んでても、空白でも、……そんなので、私の気持ちは変わりません」
言ってから、自分で息を止めた。
今、気持ちと言った。
でも、先輩はそこには触れなかった。
触れられないみたいに、少しだけ目を伏せる。
結月は、怖かった。
このまままた、先輩が謝って終わってしまう気がして。
だから、考えるより先に、手を伸ばした。
先輩の袖を、そっと掴む。
指先に触れた生地は、思ったよりちゃんとしていた。
結月の胸が痛む。
それでも手を離せなかった。
「私が怖いのは」
結月は、震える声で言った。
「先輩が最初からいなかったって言われることです」
先輩が、ゆっくり顔を上げる。
「先輩がいたのに、いなかったことにされるのが嫌です。……私、もう、それが一番嫌です」
先輩の瞳が、ひどく静かに揺れた。
「結月」
呼ばれた。
名前を呼ばれるだけで、まだ胸が苦しい。
「……あなたと一緒にいたい」
雨の音だけが、部屋を満たす。
言ってしまった。
言った瞬間、自分が何を意味しているのか、結月にもわかった。
「だめだ」
先輩の声は、驚くほどはっきりしていた。
結月が何か言う前に、先輩は一歩近づく。
「君には生きていてほしい」
結月の呼吸が止まる。
先輩は、結月をまっすぐ見ていた。
「だから僕は、あの日助けた」
その一言が、胸の真ん中に落ちた。
あの日。
渡り廊下。
崩れ落ちる天井。
結月を包んだ腕。
先輩の目が、少しだけ揺れる。
「君が死ぬために、僕は助けたんじゃない」
結月の目の奥が熱くなる。
「でも……!」
言い返したくて、声が裏返る。
「でも、このまま帰ったら、先輩は……!」
「それでもだよ」
先輩は、やわらかく、でも強く言った。
「君は、生きるほうへ行って」
結月は唇を噛んだ。
涙がこぼれそうになる。
「そんなの、ずるいです」
「うん」
「助けておいて、いなくなるなんて、ずるい」
先輩は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
でも、それは笑顔じゃなくて、痛みに近かった。
「僕のほうが、何度もずるかった」
結月は、うつむいた。
涙が落ちそうになって、慌てて目を擦る。
先輩は少し黙ってから、低い声で言った。
「……方法はある」
結月は顔を上げた。
「え」
「僕が、いなかったことにされたままじゃなくて。ちゃんと、この学校にいた生徒として戻る方法」
胸が、どくんと鳴る。
結月は、先輩の顔を見つめた。
先輩は、言葉を選ぶみたいに、少し間を置いてから続ける。
「長くこっちにいるとね」
こっち、という言い方に、結月の胸が痛んだ。
「嫌でも耳に入るんだ。同じように、名前の端を落とされたまま残ってる人たちの話が」
窓の外で、雨が少し強くなる。
「空白になった死者は、名をきちんと返されればほどける、って」
結月は瞬きをした。
「名を……返す」
「うん。なかったことにされた場所に、いたことを戻す」
先輩は、視線を窓へ向けたまま言った。
「学校に、僕の名前を受け取ってもらう。僕がいたって、ちゃんと思い出してもらう。そうしたら、僕は“空白”じゃなくて、いた生徒として戻れるらしい」
「戻れる……?」
先輩の声が、少しだけかすれる。
「ちゃんと、卒業したい」
結月の胸の奥で、何かが音を立てた。
卒業。
その言葉を、先輩は今まで一度も自分から口にしなかった。
先輩は目を伏せる。
「僕、本当は」
声が、ひどく静かになる。
「みんなと一緒に卒業したかった」
結月は、息を呑んだ。
「名前を呼ばれて、返事をして、卒業証書を受け取りたかった。そんな、当たり前のことが、ずっと心残りなんだ」
結月の頬を、涙が伝った。
みんなと一緒に卒業したかった。
たったそれだけの願いが、四十年も残っていた。
「……やります」
結月は、考えるより先に言っていた。
先輩が、はっとしたように顔を上げる。
「先輩の名前、戻します。学校に、返します」
先輩はすぐには頷かなかった。
むしろ、少しだけ苦しそうに目を細めた。
「結月」
「なんですか」
「まだ、最後まで聞いて」
結月の胸が冷たくなる。
指先に、先輩の指が重なる。
ひどく静かな温度だった。
熱いわけじゃない。
でも、たしかにそこにいるとわかる温度。
結月は、その手を見つめる。
長い指。
手の甲の、白い傷みたいな線。
忘れたくない、と思った。
すると先輩が、結月の心を読んだみたいに言う。
「僕をここまで見えるようにしたのは、君なんだ」
結月は顔を上げる。
「君が名前に触れて、何度も呼んで、僕のことを思ってくれたから。君の記憶と、君の気持ちが、僕の輪郭になってる」
結月の喉が鳴った。
「だから、僕を学校に返せば」
先輩の指が、ほんの少しだけ強くなる。
「その役目は終わる」
「……終わる?」
「君の中から、僕が零れていく」
結月は、息を止めた。
先輩は、残酷なことを残酷に聞こえない声で言った。
「顔も、声も、図書室で話したことも。たぶん……僕を好きだった気持ちも」
世界の音が、遠くなった。
忘れる。
先輩のことを。
今、目の前にいるこの人の顔を。
名前を呼ばれるたび胸が苦しくなったことを。
雨の日の図書室の匂いを。
栞をもらって嬉しかったことを。
好きになったことを。
全部。
「……いや」
気づけば、そう言っていた。
先輩の指を、今度は結月が掴む。
「そんなの、いやです」
「結月」
涙がぽろぽろ零れる。
「やっと、本当にいたってわかったのに。なのに、返したら忘れるなんて、そんなの……そんなの、ひどい」
先輩は何も言わない。
否定できないのだとわかって、余計につらい。
結月は、震える声で続ける。
「……私」
声が震える。
「先輩のことが好きです」
言った瞬間、胸の奥で、ずっと絡まっていた何かがほどけた。
「最初に図書室で会ったときから、たぶん、もう。本の終わり方の話をする先輩も、雨の日だけ少し笑う先輩も、私の名前を大事に呼ぶ先輩も、全部好きです」
先輩の瞳が、少し大きくなる。
結月は止まらなかった。
「今の三年生じゃなくてもいい。四十年前でも、空白でも、なんでもいい。先輩が先輩だから、好き」
涙で滲んだ視界の向こうで、先輩の睫毛が震えた。
「だから、忘れたくない」
結月は、正直に言った。
「顔も、声も、図書室の雨も、全部失くしたくない。ずっと覚えていたい。ずっと、好きでいたい」
先輩が、何かを言いかける。
でも結月は、首を振って続けた。
「でも、それでも」
喉の奥が熱い。
痛い。
なのに、言わなきゃと思った。
「私だけの幻として、先輩を抱え続けるのは違いますよね?」
先輩の目が、揺れる。
結月は、指先にある温度を確かめるみたいに、そっと先輩の手を包んだ。
「先輩を、学校に返します。名前も、存在も、卒業も、ちゃんと先輩のもとに戻したい。たとえ私が忘れても。それでも、先輩が“いた生徒”として戻れるなら、私はそれを選びます」
雨の音が、少し遠くなった気がした。
先輩は、しばらく何も言わなかった。
ただ結月を見つめている。
そして、ほんの少しだけ、困ったみたいに笑った。
「……ずるいな」
結月は、泣きながら笑う。
「先輩のほうが、ずるいです」
先輩の喉が、小さく動いた。
何かを堪えるみたいに。
それから、やっと言う。
「僕も、好きだ」
結月の息が止まる。
先輩は視線を逸らさずに続けた。
「好きになってはいけないと思ってた。君には明日があるから。僕は、君の時間に混ざってはいけないものだから」
声が、少しだけ掠れる。
「それでも、雨の日に図書室の戸が開く音を聞くたび、君かもしれないと思った。君が本棚の前で迷う顔を見てるのが好きだった。名前を呼ばれるたび、救われるみたいだった」
結月の頬を、また涙が流れた。
先輩は、結月の指をゆっくり握る。
「君と話している時間だけ、僕はほんとうに“今”にいられた」
結月はもう、泣きながら笑うしかなかった。
先輩が、少しだけ身を屈める。
距離が近くなる。
古い紙の匂いと、雨の匂いがする。
「……愛してる、結月」
その言葉は、あまりにもまっすぐで、静かで。
だからこそ、胸のいちばん深いところに落ちた。
結月は、涙でぐしゃぐしゃのまま、頷く。
「私も……」
声が途切れる。
それでも、ちゃんと言いたかった。
「私も、愛してる」
先輩の目が、わずかに見開かれた。
それから、雨の日の図書室で見たどんな笑顔より、やさしい顔をした。
先輩の手が、そっと結月の髪に触れる。
ひどく慎重な触れ方だった。
壊れものにするみたいに。
窓の外の雨が少しだけ晴れてくる。
空が明るくなるにつれ、先輩の輪郭も、ほんの少しだけ淡くなっていた。
結月は、息を呑む。
「……もう、行くんですか」
「うん」
「やだ」
反射みたいに言っていた。
わかっている。
ここでしがみついたら、先輩はまた困った顔をする。
でも、言わずにいられなかった。
先輩は、やわらかく首を振る。
「行って、結月」
その声が、やさしすぎて泣けた。
結月は、唇を震わせる。
「忘れたくない」
「うん」
「忘れたくないです」
「うん」
「だから……忘れる前に、ちゃんと返します」
先輩が、少しだけ目を細める。
結月は涙を拭って、もう一度、はっきり言った。
「朝倉陽介」
名前を呼ぶ。
「絶対に、いなかったことにしない」
先輩の睫毛が揺れた。
その顔を、結月は必死に目に焼きつける。
目元。
鼻筋。
やわらかい口元。
手の甲の白い線。
忘れたくない。
忘れると決めても、今だけは全部覚えていたかった。
先輩は、雨より小さな声で言った。
「栞、失くすなよ」
結月は、泣きながら笑う。
「はい」
先輩も、少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、世界が光に呑まれる。
「先輩!」
結月が手を伸ばす。
その指先に、最後にもう一度だけ、確かな温度が触れた気がした。



