空白の卒業アルバム

資料室を出ると、廊下の空気が少しだけ生ぬるく感じた。

真帆が扉の前で深呼吸する。

「……情報量、多すぎ」

結月は、うまく笑えなかった。
頭の中で、さっきの言葉が何度も反芻されていた。

恋をすること。
輪郭を持つ。
雨の日。
図書室。
四十年前。
死亡。

全部ほんとうで、全部、先輩に繋がる。

胸の奥が、熱いのに冷たい。
泣きたいのか、会いたいのか、自分でもわからない。

榊原先生が資料室の鍵を閉める。
金属が重く鳴る。

「今日はもう帰りなさい」

先生は言った。

「名前に触れた以上、君のほうも向こうに近づく。気をつけろ」

結月が顔を上げる。

「向こうに、近づく……?」

「会いやすくなる、ということだ」

榊原先生はあくまで静かだった。

「それが良いことかどうかは、まだわからない」

真帆が不安そうに結月を見る。
結月は小さく頷いた。
怖くないわけじゃない。
でも、その怖さの中に、どうしようもない期待が混じっていることも否定できなかった。

会いやすくなる。

その言葉だけで、胸が痛むくらい跳ねる自分がいた。

榊原先生が去ったあと、廊下には結月と真帆だけが残った。

「結月、送ってく」

真帆がすぐ言う。

「ううん、大丈夫」

「大丈夫じゃない顔してる」

「……してる?」

「してる」

真帆は即答した。
その速さに、結月は少しだけ息を漏らす。

「でも、ほんとに平気。少しだけ……考えたい」

真帆は迷ったように眉を寄せたが、最後には頷いた。

「じゃあ、昇降口まで一緒に行く」

結月も頷く。
二人で歩き出した。

旧校舎の廊下は、さっきより薄暗い。
夕方が雨に溶けて、時間の輪郭まで曖昧になっている。

一段、階段を下りる。
その途中で。

ふと、古い紙の匂いがした。

結月の足が止まる。

真帆が不思議そうに振り返る。

「どうしたの」

答える前に、耳が先に拾ってしまった。

ぱたん。

本を閉じるような、小さな音。

結月の心臓が、ひどく強く鳴る。

この音を知っている。
雨の日の図書室で、何度も聞いた。

「……真帆」

「え」

「先、行ってて」

「は?」

真帆が何か言いかける。
でも結月はもう、音のしたほうへ顔を向けていた。

旧校舎と現校舎をつなぐ短い廊下。
窓の向こうは白い雨。
その手前、薄暗い壁際に、人影が立っていた。

細い肩。
きちんと着た制服。
今っぽくない、まっすぐなネクタイ。
雨の光に、少しだけ淡く見える横顔。

朝倉先輩だった。

結月の喉が、ひく、と鳴る。

知ってしまった。
見つけてしまった。
四十年前に死んだ人だと、もうわかってしまった。

それなのに。

姿を見た瞬間、胸の奥に最初に広がったのは、恐怖じゃなかった。

会えた。

そのどうしようもなく甘い感情に、結月は自分で傷つく。

先輩は、結月を見ていた。
その目は、いつもの雨の日の図書室より、少しだけ哀しそうだった。

「……見つけたんだね」

低い声が、廊下に落ちる。

結月は唇を震わせた。
言いたいことが多すぎて、何一つまとまらない。

どうして黙ってたの?
どうして言ってくれなかったの?
四十年前って、どういうこと?
先輩は、死んでるの?
私が好きになったから、会えたの?
それとも、先輩も――

全部が喉の奥で絡まる。

最後に出たのは、たった一つだけだった。

「……朝倉先輩」

先輩の睫毛が、ほんの少し揺れた。

名前を呼ばれたからか。
それとも、結月が全部知ったとわかったからか。

先輩はすぐには笑わなかった。
けれど、その顔は拒まなかった。

雨音が、二人の間を満たす。

四十年前の事故で死んだ生徒。
学校から名前を消された、空白の人。
誰かに強く想われたときだけ輪郭を持つ存在。

全部、知ってしまったのに。

それでも結月の胸は、初めて図書室で目が合ったときと同じように、どうしようもなく彼へ傾いていた。

先輩が、静かに息を吐く。

「……ごめん」

その一言に、結月の目の奥が熱くなった。

ごめんじゃない。
そんな言葉で済ませてほしくない。
でも、先輩が謝る理由も、もうわかってしまう。

結月は、涙が零れる前に一歩踏み出した。

雨の匂いがした。
古い紙の匂いもした。

そして、結月はやっと理解する。

雨の日の図書室で自分が恋をした相手は、最初から“今の三年生の先輩”ではなかった。

四十年前の雨の中で、名前を失くしたまま立ち止まっていた人だった。

それでも。

それでも、結月はその人を、先輩と呼びたかった。